LOGIN「千隼、本当に唯織と結婚する気なの?なら、星奈はどうなるのよ」 その言葉を聞いた浅井唯織(あさい いおり)の手がドアノブの上で止まった。 「もう八年だ。千隼、君は唯織に対して、もう尽くすだけ尽くしただろう」 佐藤奏翔(さとう かなと)が口を挟む。 「でも、星奈は別だ。君が毎年二ヶ月もわざわざ遠出するのは、彼女に会って息を抜くためじゃないのか? 受験が終わるなり、君を追ってはるばるやってきたんだ。その想いを無下にできるのかよ」 「唯織を一生支えると約束したんだ。食言はできない」 瀬戸千隼(せと ちはや)の冷ややかな声が響く。 「これは俺が唯織に背負っている負い目だ。だが、星奈はまだ若くて世間を知らない。何も分かっていない星奈を、傷つけるわけにはいかないんだ」 唯織は全身の血が凍りつくのを感じた。 羽田星奈(はねだ せな)。一ヶ月前、大きなスーツケースを引いてふらりとゲストハウスに現れたあの女の子。 あの時、千隼は彼女のことを「友人の娘が受験を終えて、このところに遊びに来ただけだ」と説明していた。 唯織は爪を手のひらに深く食い込ませた。まるで一瞬にして魂が抜け落ちた抜け殻のように、その場に釘付けになり、身動き一つ取れなくなった。
View More千隼はその場に立ち尽くし、すぐには動こうとしなかった。華奢だが真っ直ぐに伸びた後ろ姿が保安検査場を通り抜け、視界の端へと消えていくのを、彼は長い間見つめていた。胸に込み上げてきたのは、刺すような痛みではない。それは遠い記憶を呼び覚ますような、溜息にも似た深い安堵だった。四年前、A県の微かな雨に煙る早朝。彼女はあの時も、同じように決然とした態度で去っていった。路地の角へと消えていく後ろ姿は、すべての重苦しい過去と因縁を連れ去っていくかのようだった。あの頃の自分を支配していたのは、重荷を下ろした後の空虚さと、彼女の未来を案じる微かな不安だった。けれど今日、再会した彼女の瞳に陰りは微塵もなかった。そこにあったのは、透徹した強さと揺るぎない平穏だけだ。彼女は本当に、自らの力で暗闇を抜け出したのだ。辿り着いたのは、彼の想像を遥かに超えるほど遠く、眩しい場所だった。もはや彼が案ずる必要など、何一つないほどに。彼女は自らの海を見つけ、その荒波を乗り越え、立派に航海を続けている。かつて自分を縛り付けていた、愛と罪悪感が入り混じった鉛のような責任感が今、ようやく羽のように軽い「決別」へと昇華された。心の奥底に澱のように残っていた、「彼女を救いきれなかった」という後ろめたさが、この瞬間に綺麗に消え去ったことを千隼は自覚した。これでようやく、本当に手放すことができた。アシスタントらしき若者が歩み寄り、低い声で促した。「瀬戸さん、お車が参りました」「ああ」千隼は視線を戻し、ジャケットの袖口を軽く整えた。その表情は、既にいつもの沈着冷静なものへと戻っている。「行こう」彼は背を向け、迷いのない足取りで、彼女とは別の方向へと歩き出した。唯織は搭乗口付近のカフェでホットコーヒーを買い、席に座って何気なくスマホを見ていた。そこへ、芸能ニュースのプッシュ通知が飛び込んでくる。【注目の若手実力派羽田星奈に熱愛発覚?一般人男性と数年にわたる極秘交際か】添えられた写真は、少しピントのぼけた盗撮写真だった。ラフなパーカーにデニム姿、マスクをつけた星奈が、隣を歩く背の高い男を見上げて幸せそうに目を細めている。男は後ろ姿とわずかな横顔の輪郭が写っているだけだったが、そのスッと伸びた背筋と冷徹な佇まいから、唯織はそれが誰であるか
唯織は帰国後、D市にある高級プライベート・リハビリセンターの招きに応じ、心理リハビリ部門の副主任に着任した。海外での学びを国内の臨床現場に落とし込み、彼女の仕事ぶりは目覚ましい成果を上げていた。今の彼女は、仕立ての良いビジネススーツに身を包み、洗練されたメイクを施している。その立ち居振る舞いからは、プロとしての自信と余裕が滲み出ていた。背中の傷跡は今も残っている。けれど彼女は、それさえも自分の人生の欠かせない断片として受け入れ、ひた隠しにすることはもうなかった。今回、C市を訪れたのは、業界のサミットで基調講演を行うためだった。空港のロビーは、相変わらず多くの人々が行き交っている。唯織は小ぶりなスーツケースを引き、凛とした足取りで保安検査場へと向かった。講演は成功に終わり、気分は悪くない。D市に戻ってから着手する新しいプロジェクトに、早くも思いを馳せていた。その時、ふとした拍子に、少し離れた場所に立つ一人の男の姿が瞳に飛び込んできた。男は質の良いダークカラーのカジュアルジャケットを羽織り、背筋を伸ばして、俯き加減でスマホを見ていた。記憶にあるままの、冷ややかで端正な横顔。その静かな佇まいは、喧騒に満ちた空港の中で、そこだけが別の時間を湛えているかのような凪いだ空気を纏っていた。千隼だ。唯織の足が一瞬だけ止まったが、すぐに何事もなかったかのように歩き出した。かつての友人から、風の便りに聞いたことがある。千隼はその後、ゲストハウスを手放した。今は共同経営者と共に、高原トレッキングやアウトドア体験に特化した小さな会社を立ち上げ、富裕層向けのオーダーメイドツアーなども手掛けているらしい。彼にとって馴染み深く、そして何より得意とする「自然」と「彼方」向き合う生き方を、形を変えて守り続けているのだろう。どうやら、自分にふさわしい道を見つけたようだ。それでいい、と唯織は思った。彼の揺るぎない実力や実直な性格を考えれば、どこか別の場所に身を寄せ、浮き草のように彷徨っている姿など想像もつかない。こうして自らの足でしっかりと地を踏みしめ、着実に歩んでいること。その方が、ずっと……彼らしい気がした。立ち止まるつもりも声をかけるつもりもなかった。視線を逸らして通り過ぎようとしたその時、千隼が何かに気づいたように顔
二年という歳月は、一粒の種が芽吹き、若木へと成長するには十分な時間だった。唯織のリハビリ施設における仕事ぶりは、今や周囲の誰もが認めるところとなっていた。彼女は心理カウンセリングの補助を務める傍ら、自らの経験と絶え間ない研鑽を活かし、身体的トラウマを抱える患者のための「心理再建プログラム」を独自に開発した。その成果は目覚ましく、多くの患者の支えとなった。小林先生はそんな彼女を高く評価し、より専門的な道へ進むよう、折に触れて背中を押し続けてくれた。機会は、ある日突然訪れた。施設が海外のトップクラスのリハビリ研究センターと提携を結ぶことになり、実務経験と成長のポテンシャルを兼ね備えたスタッフを、一年間の共同プロジェクトへ派遣することになったのだ。小林先生が真っ先に推薦したのは、唯織だった。「唯織さん、君の歩んできた道のりは、君だけの大きな財産です」小林先生は穏やかな口調で彼女に語りかけた。「君は自分自身を救っただけでなく、今では誰かを救う力を持っています。もっと広い世界で学びなさい。君なら、もっと多くの人の力になれるはずですよ」思いがけない機会を前に、唯織はためらった。海外へ行く。それは、ようやく手にした安穏な日常を離れ、全く未知の世界で新たな壁にぶつかることを意味していた。「私に、そんな大役が務まるだろうか?」という不安が、どうしても首をもたげる。だが、心の奥底で、小さく、けれど一度も絶えることのなかった火が囁いた。「どうして、できないなんて決めつけるの?」二年前、傷だらけの体とボロボロに砕け散った心を引きずってこの街へ辿り着いたあの日、今の自分を一体誰が想像できただろうか。どん底の、あの廃墟の中から這い上がることができたのなら、もっと遠くへだって行けるはず。唯織は、その切符を掴む決意をした。手続きは驚くほどスムーズに進んだ。離陸した飛行機が雲を突き抜け、見慣れた景色が次第に遠ざかっていく。唯織の心に、湿っぽい離別の感傷はなかった。代わりに胸を満たしていたのは、新しい世界へ飛び込む高揚感と、どこまでも静かな勇気だった。海外での研究生活は、息つく暇もないほど多忙を極めた。彼女は乾ききったスポンジが水を吸い上げるように、最先端の知識と技術を必死に吸収していった。言葉の壁、文化の
唯織の生活は、少しずつ、けれど確実に軌道に乗っていった。仕事は安定し、同僚たちとも打ち解けて、ささやかながらプライベートでの交流も増えてきた。晴奈は根っからの世話好きで、周囲の独身者のために縁結びの橋渡しをすることに情熱を燃やすようなタイプだった。唯織の穏やかで上品な佇まいと、誰に対しても誠実な人柄にすっかり惚れ込んだ彼女は、ある日、ついにその「お節介」に火がついた。「ねえ、唯織さん!私のいとこなんだけどさ、プログラマーですごくいい人なんだ。真面目で頼りになるし、稼ぎも結構いいんだよ。今度の土曜日、一緒にご飯でもどう?友達を増やすくらいの軽い気持ちでさ!」目を輝かせて熱心に勧めてくる晴奈に、唯織は不意を突かれて一瞬呆気に取られたが、すぐに穏やかな、それでいて揺るぎない態度で首を振った。「晴奈、気持ちは嬉しいよ。でも……今はまだ、そういうことを考える余裕がないんだ」「えー、どうして?」晴奈は不思議そうに眉を寄せた。「唯織さん、こんなに綺麗で優しいんだから、絶対モテるのに。もしかして、前に何か……」そこまで言って、プライバシーに踏み込みすぎたことに気づいた晴奈は、慌てて口を閉ざした。唯織はふっと表情を和らげ、気にする様子もなく言った。「あなたが心配しているような理由じゃないから大丈夫。ただ……すごく長くて、お世辞にも健全とは言えない関係から抜け出したばかりだから」彼女は言葉を慎重に選びながら続けた。「大病を患った直後みたいなものかな。体は治っても、免疫力はまだ弱くて、次のウイルスに抗う力が足りないの。今はまず自分を慈しんで、一人での生き方を自分なりに確立させたいんだ。二人のことを考えるのは、その先の話だよ」晴奈は今ひとつピンとこない様子で頷きながらも、やはり名残惜しそうに言った。「でも、せっかくのいい縁だし、逃しちゃうのはもったいないよ」「本当に縁がある相手なら、出会うのが少し遅れたくらいで切れたりしないわ」窓から差し込む明るい陽光を見つめながら、唯織の声は澄み渡っていた。「それに、あんな経験をしたからこそ、自分に何が必要で、何が不要なのかがよく分かる。焦って始めたら、自分にも相手にも失礼でしょう?」その晩、二人は残業で資料の整理をしていた。仕事の手を休めたふとした合間に、話題は