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第5話

Auteur: 緋色の追憶
唯織は目が覚めたとき、喉が焼けるように乾いていた。ベッド脇の椅子では、千隼が座ったまま眠りに落ちていた。

顎には青々とした無精髭が浮き、目の下にはうっすらと隈ができている。一晩中、ここで自分を見守っていたのだろう。

頑なだった心の片隅が、わずかに揺らいだ。

だがその時、千隼が目を覚ました。彼は眉間を揉みながら、彼女へと視線を向けた。

「目が覚めたか?気分はどうだ?」

「……だいぶ、マシになったわ」

唯織の声は掠れていた。

「そうか、よかった」

千隼は立ち上がり、強張った肩を動かした。

「星奈がお前のことを心配してな。この数日、彼女もずっと一緒に付き添っていたんだ」

その瞬間、唯織の胸に灯りかけた微かな温もりは、一瞬で凍りついた。

「千隼」

自分の口からこぼれたのは、驚くほど温度のない、うつろな声だった。

「私たち、別れよう」

千隼の動きが止まった。眉間に深い皺が刻まれ、顔には見慣れた、苛立ちの混じった疲労感が浮かぶ。

「……唯織、いい加減にしろ。まだ熱があるんだ、今は大人しく休んでいろ」

「わがままを言っているわけじゃない」

唯織は必死に声を平坦に保とうとした。

「本気なの。もう、終わりにしましょう」

千隼は彼女を見つめた。その瞳には、今の唯織には読み解けない複雑な感情が渦巻いている。

「またその言葉か。八年間、何かあるたびに別れると言い出す。唯織、いい加減大人になれないのか?

星奈はまだ十八歳だ。分別のつかない子供なんだよ。その子に譲って、少しは俺の立場も考えてくれないか。俺だって、もう限界なんだ」

唯織は、思わず笑い出しそうになった。八年間愛し続け、残りの人生を託せると信じていた男を見つめる。

自分はこの男のことを何も分かっていなかったのではないか。そんな気がした。

「私は二十八歳よ、千隼」

自分の声が、驚くほど凪いでいることに唯織は気づいた。

「八年という歳月をかけて、ようやく思い知らされたわ。あなたの目には、私はずっと物分かりの悪いお荷物として映っていたのね。

『分別のつかない子供相手』に意地を張って、あなたを困らせるだけの存在に」

彼は、彼女がなぜ別れを切り出したのか、その理由すら問おうとはしない。ただ星奈への嫉妬や理不尽な八つ当たりだと、最初から決めつけている。

付き合い始めたばかりの頃、彼女が少し拗ねて別れると口にすると、彼は黙って彼女を見つめ、優しく抱きしめて「バカなことを言うな」と笑ってくれた。

両親を失い、消えない傷を負い、彼女が臆病になった頃。不安に押し潰され、「私を見捨てるの?」と縋るように問えば、彼はただ沈黙し、「考えすぎだ」と短く宥めた。

そしていつしか、彼女は「別れ」という言葉を口にすることさえ恐れるようになった。それが現実になるのが怖かったから。

けれど、ようやく覚悟を決めて口にした今、彼はそれを単なる「機嫌取りのわがまま」だと思っている。

「ただ、疲れただけよ、千隼」

彼女は目を閉じ、もう彼を見ようとはしなかった。

「あなたも、疲れているんでしょ?」

病室のドアが静かに開き、星奈が顔を覗かせた。目は赤く、泣き腫らしたようだ。

唯織が起きているのに気づくと、彼女は消え入りそうな声で言った。

「唯織さん、具合はどう? あの、入ってもいいかな……」

千隼の顔に張り付いていた苛立ちは、星奈の姿を認めた瞬間に、まるで霧が晴れるように和らいだ。

彼は腰を上げ、「入りなよ。ちょうどお湯を汲んでくるところだったんだ」と声をかけた。

彼は魔法瓶を手に取り、病室を出て行った。

病室には彼女たち二人だけが残っていた。

星奈はベッドサイドまで歩み寄ると、持ってきたフルーツの詰め合わせの箱をサイドテーブルにそっと置いた。

包帯に巻かれた唯織の手に視線を落とし、静かな声で言った。

「唯織さん、ごめんなさい。私のせいで怪我をさせてしまって」

星奈は椅子に腰を下ろした。その声は囁くように低かったが、研ぎ澄まされた刃の切っ先のように鋭く、唯織の心をえぐった。

「分かってるよ。私のこと、嫌いなんでしょ」

唯織は目を開けて、彼女を見た。

十八歳の無垢な瞳。だがその奥に、どれほどの計算が隠されているか、今の唯織には分かっていた。

「嫌ってなんていないわ」

唯織の声は、凪いでいた。

「ただ、哀れだと思っているだけ」

星奈は一瞬呆然としていた。

唯織は続けて言った。

「十八歳。人生で一番輝いているはずの時期を、彼女がいる男への打算に費やすなんて。星奈、疲れないの?」

星奈は数秒の間、唯織をじっと凝視していたが、やがてふっと、くぐもった笑い声を漏らした。彼女は果物ナイフを手に取ってリンゴを剥き始めた。

「打算?

唯織さん、信じようと信じまいと勝手だけど、私は一度も裏で汚い真似なんてしてないし、二人の仲を裂くような立ち回りもしたことはないわ」

彼女はふっと顔を上げ、その視線で唯織を突き刺した。

「自分を高く見積もりすぎだよ。私のことも見くびりすぎ。もし二人の絆が本当に揺るぎないものだったら、私が入る隙なんてどこにもなかったはずでしょ」

ナイフの先で、リンゴの皮が螺旋状に繋がったまま落ちていく。

「最初はただの卒業旅行のつもりだった。ついでに唯織さんに会って、千隼の彼女がどんな人か見てみたかっただけ」

星奈の声が少し和らいだ。

「あなたたちの仲を壊すつもりなんてなかった。でも、この一ヶ月見てきて分かったの。彼はあなたと一緒にいても全然楽しそうじゃない」

唯織の指先が、シーツを固く握りしめた。

「あなたといる時の彼は、私の家にいる時とは別人みたい。あなたと向き合っている時の彼は、ちっともリラックスしてないし、楽しそうでもない。

遊びに連れて行ってってせがんだのは、彼を少しでも解放して、笑わせてあげたかったから。それのどこがいけないの?」

リンゴを剥き終えると、星奈は手際よく実を切り分け始めた。

「結局のところ、あなたたちの仲はとっくに限界だったのよ。私の存在なんて、その綻びをあぶり出した触媒に過ぎないわ。

あなたの心の中に募った疑念や恨み……それに、いつまでも執着し続けるあの呪縛のような過去が彼を窒息させて、外の世界へと追いやったのよ。

私が今身を引いたって、あなたたちの仲はもう元には戻れない。だったら、どうして私が頑張っちゃいけないの?泣きながらこの旅を終えるなんて、絶対に嫌だもん」

彼女は身を乗り出し、さらに声を潜めた。一言一言が、残酷なほど明瞭に唯織の鼓膜を突く。

「唯織さん、私を言い訳にするのはもうやめなよ。二人の愛が破綻した責任を、たまたま居合わせただけの私に押し付けないでくれる?」

「黙って……」

怒りと虚弱さで、唯織の声は震えた。

「本当のことを聞くのが怖いの?」

星奈は畳みかける。

「自分に聞いてみなよ。この八年、あなたは幸せだった?彼のことを幸せにできた?

あなたたちの間に、あの重苦しい過去以外に何が残ってるの?あなた、彼を道連れにして泥沼に沈んでいくつもり?」

「出て行って!」

唯織は枕元のグラスを掴み、ありったけの力で投げつけた。

グラスは星奈の肩をかすめて壁に当たり、激しい音を立てて砕け散った。

ほぼ同時にドアが開き、千隼が立ち尽くしていた。床に散らばる破片と、涙を浮かべた星奈。

彼の表情が一瞬で険しくなった。

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