All Chapters of 昨日を脱ぎ捨て、自由の海へ: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

「だから、唯織さんはここに残って、すべてを白日の下に晒すべきよ。感情的にぶつかるんじゃなく、冷静に、この八年間の貸し借りをすべて清算するの。責任も、結婚という名の償いもいらない、欲しいのは自由と『貸し借りなし』の関係だけだって、彼に突きつけて。そして彼にも、あなたへの愛はすでに過去のもので、今の執着はただの罪悪感や義理に過ぎないんだってことを、その口ではっきり認めさせるのよ。お互いがその事実を正視して、納得してこそ、本当の意味での解放があるわ。そうすれば、あなたは後ろめたさなく新しい人生を歩めるし、私と千隼も、しこりのない状態で始められる」星奈の声には、一片の迷いもなかった。「そんな風に、悲劇のヒロインを気取ってうやむやにしたまま去るなんて、誰のためになるっていうの?あなた自身のため?それとも私たちのためのつもり?そんなの、ただ問題を先送りにしただけで、結局は三人とも泥沼に浸かったまま、苦しみ続けるだけだわ」唯織は驚いたように目の前の星奈を見つめた。星奈が聡明で、それなりに計算高いことは分かっていたつもりだった。だが、これほどまでに物事の核心を透かし見ているとは。いや、透かし見ているというより、彼女にとって感情とは、緻密な計算に基づいた「外科手術」に過ぎないのだ。彼女は今、メスを手にしている。腐りかけた関係という病巣を根こそぎ抉り出そうとする、冷徹な執刀医そのものだった。「……怖くないの?」唯織は、乾ききった声で問いかけた。「すべてを白日の下に晒した結果、千隼がやっぱり私を愛していると気づいてしまったら。あるいは……罪悪感のあまり、どうしても私を放せなくなってしまったら」星奈は笑った。今度は皮肉ではなく、十八歳の女の子特有の無垢さと鋭利な自信に満ちた、本物の笑みだった。「怖い?まさか。もしその程度の話し合いで、彼が結局あなたを選んだり、罪悪感に縛られて手を放せなかったりするなら――それは単に、彼が私の愛に値しない男だったっていうだけのことよ。私が欲しいのは、精神的に自立し、過去に決着をつけ、自分の感情に真っ向から向き合える大人の男なの。罪悪感に足元を掬われるような、優柔不断な腰抜けじゃないわ」彼女は立ち上がり、ドアのところまで行くと、ふと足を止めて振り返った。「唯織さん、別にあなたを追い詰め
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第12話

その日の夜、千隼と唯織は、再び向かい合って座っていた。部屋を支配する空気は、凝固してしまったかのように重苦しい。唯織は背中の傷のせいで座り心地が悪そうだったが、その表情にはかつてないほどの凪いだ静けさが宿っていた。先に沈黙を破ったのは、唯織だった。彼女は千隼を見つめた。その瞳にはもう惑いも、淡い期待も、積年の怨嗟さえもない。ただ、長年見知ったはずの赤の他人を眺めるような、透き通った眼差しだった。「千隼。ちゃんと話をしましょう。これが最後よ」千隼が顔を上げ、彼女を真っ向から見据える。喉仏が微かに動いたが、結局、言葉を出す代わりに重く頷くことしかできなかった。「まず、いくつか質問させて。正直に答えてほしい」唯織の声は、驚くほど安定していた。「一つ目。この八年間、私に対して、責任や罪悪感以外に――男として女を愛する気持ちが、一欠片でも残っている?過去の話じゃない。今、この瞬間のあなたの心を聞かせて」直截的で、あまりにも残酷な問いだった。千隼の呼吸が、一瞬止まった。だが、彼女のどこまでも澄んだ、静かな瞳を真正面から受け止めたとき、もう嘘はつけないと悟ったのだろう。長い沈黙の果てに、千隼はようやく、掠れた声を絞り出した。「……もう、ないんだ」その一言を絞り出すだけで、全身の力を使い果たしたかのようだった。「唯織、すまない。かつては、本当に深く愛していたんだ。でも、いつからか……消えてしまった。残ったのは、惰性と、責任と……そして、どうしても拭いきれない罪悪感だけだ。お前の姿を見ると、どうしても背中の傷を、お前の両親の死を、俺が背負った責任を思い出してしまう。俺は……もう、疲れてしまったんだ」「そう」唯織は静かに頷いた。その口元には、憑き物が落ちたような、本当に微かな微笑みさえ浮かんでいた。ついに、聞いてしまった。胸を刺すような痛みはあっても、それは真実を突きつけられた後の確かな鈍痛だった。宙吊りのまま生殺しにされるような、あの得体の知れない苦痛ではない。「二つ目の質問。私と結婚したいのは、まだ私を愛していて、生涯を共にしたいから?それとも、ただの償いとして、義務を果たそうとしているだけ?」千隼は唇を一文字に結び、膝の上で拳を握りしめた。「……俺はお前に責任を取らなきゃいけない。そう
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第13話

すべてを吐き出すと、八年ものあいだ胸の底に沈殿していた澱が、深く長い溜息と共にようやく消えていくような感覚があった。千隼は呆然と彼女を見つめていた。目の前の唯織という女性を、まるで今日初めて知ったかのように。そこには、自分に依存し、自分を仰ぎ見、その傷跡を盾にして彼を縛り付けていた、あのか弱い女の子の面影はなかった。濁りのない瞳で真っ直ぐに前を見据え、自分の人生の舵を握り直そうとする一人の意志ある女性が立っていた。「……お前」彼は乾いた声で呟き、言葉を飲み込んだ。予想していた泣き言も、激しい非難も、執念深い怨み言も、そこには何一つなかった。あるのは、ただ静かで、あまりにも徹底的な別れの告白だけだった。それは、彼が思い描いたいかなる反応よりも……重苦しいほどの安堵と、そして逃げ場のない深い罪悪感を彼に抱かせた。彼女の凛とした潔さが、図らずも、彼がこれまでの歳月で繰り返してきた逃避と諦めを残酷なまでに浮き彫りにしていた。「だから」唯織は話を締めくくった。「私たちの関係は、ここでおしまい。恋人でも、婚約者でもない。これからは、友人である必要さえないわ。ただかつて出会っただけの二人が、これからは別々の道を歩む。それだけ。これ以上、何の恩義も負債もない――貸し借りなしよ」「貸し借りなし、か……」千隼はその言葉を噛みしめるように繰り返した。その表情には、解放感と苦渋、そしてようやく現実を直視した冷静さが入り混じっていた。「本当に貸し借りなしだなんて、そんなこと……できるわけがないだろう?」彼は唯織を見つめた。その眼差しは、今はもう、淀みなく澄んでいた。「唯織、俺がお前に負い目があるのは、揺るぎない事実だ。この八年間、お前の面倒を見てきたのは、愛なんかじゃない。自分の心の穴を埋めるための免罪符だったんだ。でも、今ようやくわかった。そんなやり方じゃ何も埋まらないし、俺のやり方は、根本から間違っていたんだ」彼は背筋を伸ばし、本来の彼が持つ、問題を解決しようとする際の冷静な気質を取り戻した。「お前の言う通りだ。罪悪感と責任感だけで繋ぎ止める結婚なんて、お前への侮辱であり、俺にとっても牢獄でしかない。別れよう。それは責任を投げ出すからじゃない。間違ったやり方で責任を果たそうとすることが、どれほど互いを深く
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第14話

会話は途切れ、束の間の沈黙が降りた。唯織の態度はあまりに決然としており、それはまるで、もつれた未練を鋭い刃で一気に断ち切るかのようだった。千隼は彼女の凪いだ瞳を見つめ、もはや感情的な弁明も慰めも、何の意味も持たないことを悟った。テーブルに置かれた彼の拳が無意識に握り込まれ、そして、ゆっくりと解かれた。再び口を開いた彼の声には、すべてに決着がついた後の、透徹した響きがあった。「わかった。お前の決断を尊重する」彼は一度言葉を切り、真っ直ぐに彼女を見据えた。「では、ここからは現実的な話をしよう」唯織が顔を上げ、彼を見た。「この八年間、お前は怪我の療養で社会から離れていた。再出発には、どうしても生活の基盤が必要だ」千隼の口調は極めて実務的で、まるで重要な案件の引き継ぎでも行っているかのようだった。「ゲストハウスの開業資金には、お前の両親が遺された資産とお前個人の貯金が含まれている。この数年、経営自体は俺が主導してきたが、元々の投下資本とこれまでの資産価値の向上分を考えれば、当然お前にも受け取る権利がある」彼の語り口は淀みなく、理路整然としていた。そこには一切の感傷も迷いもなく、ただ客観的な事実と解決策だけが提示されていた。「俺の考えはこうだ。ゲストハウスの資産と俺名義の流動資産の一部を合算し、お前の取り分を算出して渡す。いいか、唯織。これは補償なんかじゃない。正当な資産の分割であり、お前が当然手にするべきものだ。一括で現金化するのが一番整理がつくだろうが、将来の備えとして一部の株式を持ち続け、毎年配当を受け取る形にしてもいい」千隼は、すでにその先の生活設計までも見越していた。「もし現金化を選ぶなら、一週間以内に手配を済ませる。専門家の査定に基づいた公平な額を算出するつもりだ。その資金があれば、C市で生活の拠点を構え、家賃や生活費を賄いながら、当面の間は進むべき道を探すことができるだろう。新しいスキルを学ぶにしても、小口の投資を試みるにしても、再出発の基盤としては十分なはずだ」言い終えると、彼は静かに唯織の反応を待った。その眼差しに施しの色はなく、押し付けがましい罪悪感も感じられない。ただ必要な手続きを淡々と遂行しようとする冷静さと、彼女がこれを受け入れてくれることを願う、微かな真剣さ
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第15話

唯織がA県を去る日、空からは細かな雨が降り注いでいた。天空はどんよりとした鉛色に塗り潰され、音もなく舞い落ちる雨糸が街路を静かに濡らしている。雨に洗われた空気には、どこか冷ややかな土の匂いが混じっていた。誰にも出発の時間を告げるつもりはなかった。前夜、千隼にだけは短いメッセージを送っておいた。【明日の午前中に発つわ。見送りは不要よ】だが、唯織がスーツケースを引いてゲストハウスの扉を出ると、そこには軒下に立つ千隼の姿があった。黒のマウンテンパーカーを羽織ったその背筋は相変わらず真っ直ぐで、彼は煙草を燻らすこともなく、ただ静かに雨幕を見つめていた。思考に沈んでいるようでもあり、あるいは誰かを待っているようでもある。足音に気づいた彼が顔を向けると、その穏やかな視線が唯織を捉えた。「車は手配したのか?」千隼の声はいつものように低く落ち着いており、そこに特別な感情の揺らぎは読み取れなかった。「ええ。もうすぐ来るはずよ」唯織もまた、凪いだ声で答えた。「そうか」千隼は低く頷くと、階段を下りて彼女の傍らに歩み寄った。だが、荷物を持とうとはせず、代わりにずっと手にしていた長柄の傘を差し出した。「高地の雨は冷える。持っていけ。常備薬や応急用品は、スーツケースのサイドポケットに入れておいた。後で説明を読んでおけ」その口調はあまりに自然で、まるで決められた引き継ぎ事項を淡々とこなしているかのようだった。細やかで周到。けれど、そこには決して踏み越えない適切な距離が保たれていた。唯織は一瞬の間を置いてから、その傘を受け取った。「……ありがとう」「C市に着いて、生活が落ち着いたら。もし……」千隼は言いかけて、ふと言葉を飲み込んだ。無意識にまた、習慣のように彼女を案じ、先回りして手配しようとしている自分に気づいたのだろう。彼は微かに首を振ると、別の言葉を紡いだ。「体を大事にしろ。何事も、自分を最優先にするんだ」「ええ、そうするわ」唯織は差し出された傘を広げた。黒い傘の面が細かな雨を遮り、二人の間に残されていた最後の視線の交わりを、静かに分断した。「さよなら」とは言わなかった。その必要がないことを、互いに分かっていたから。千隼もそれ以上は何も言わなかった。ただその場に立ち尽くし、彼女が片手でスーツ
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第16話

千隼は星奈を愛している。その想いは鮮明で、疑いようのない事実として彼の心の中にあった。彼女と過ごす時間は、彼が久しく忘れていた生気と安らぎを、渇いた心に注ぎ込んでくれる。新しく芽生えたこの慕情が、目の前にある窒息しそうな「責任」という名のしがらみと残酷なまでに対比され、彼は認めざるを得なかった。愛の消えた関係に縋りついたまま、別の本物の光へと手を伸ばすことなどできない。それは、関わる者すべてを深く傷つける、最も卑怯な選択だ。結婚という形で「最後の責任」を果たそうとした道は、結局のところ、自分を救いたいがための独りよがりな幻想に過ぎなかった。それは唯織の切実な願いを無視した慢心であり、星奈への想いに対する冒涜でもあったのだ。唯織が、あの驚くほど凛とした決絶をもって突きつけるまで、彼は気づけなかった。彼女は、そんなものは望んでいなかった。彼女は、罪悪感からくる施しも、愛のない結婚という名の牢獄も、何一つ望んでいなかった。彼女が求めていたのは、ただ一点、徹底的な自由と解放だった。そして彼女には、それを要求する権利がある。鮮やかに咲き誇った花も、いつかは無残に散り、土に還る。始まりがどれほど眩しくとも、終わりはいつもこれほどまでに冷ややかだ。それもまた、抗いようのない時の流れなのだろう。あの瞬間のときめきも、交わした誓いも、命を預け合った記憶も、すべては真実だった。この八年間、彼が尽くしてきた献身的な世話も、嘘偽りのない本物だった。けれど、歳月はあまりに残酷に、すべてを書き換えてしまったのだ。愛は摩耗し、罪悪感ばかりが降り積もる。重くのしかかる現実の陰で、新しい縁が静かに息吹き始めていた。あらゆる出来事が、この避けては通れない分岐点へと二人を導いたのだ。唯織への想いは、もはや生涯を添い遂げる男女の情愛ではない。それは「責任」という名の核に塗り固められた、複雑で重い執着へと変質していた。対して、星奈への想いは、鮮烈で、確かな熱を持ち、未来の日常へと自分を突き動かす強い引力だった。今、唯織の手によって、歪にねじれ切っていた最後の絆が断ち切られた。彼女は鮮やかに去っていった。最後に見送ることさえ拒み、最も明確な形で突きつけたのだ――「これからの道は、私ひとりで歩いていく」と。誰もいない路地の入り口を、
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第17話

C市の春は、A県よりも訪れが早く、その陽光はずっと穏やかだった。唯織は、小林先生に教えられた住所を頼りに、旧市街にあるリハビリ施設を訪ねた。小林先生は唯織の主治医であるだけでなく、この施設の共同経営者の一人でもあった。規模こそ大きくはないが、閑静な場所にあり、専門的な雰囲気が漂う場所だった。小林先生は唯織の姿を見つけると、多くを尋ねることはせず、ただその肩を軽く叩いた。「よく来てくれましたね、唯織さん。まずは生活を落ち着けてください。仕事は急がなくていいですよ。心身ともに、じっくりとコンディションを整えていきましょう」小林先生の計らいで、施設の近くに1LDKの小さなアパートを借りることができた。清潔で、日当たりも申し分なかった。唯織は、千隼から渡されたあの資金で礼金や敷金を支払い、必要最低限の生活用品を買い揃えた。落ち着いて迎えた最初の週末、唯織は二束の白菊を買い求め、長い時間バスに揺られて郊外の霊園へと足を運んだ。両親が眠る合葬墓は、区画の隅の静かな場所にあった。墓石に刻まれた二人の名を見つめていると、その穏やかな微笑みが昨日のことのように思い出され、今も変わらずすぐ傍で見守ってくれているかのような心地がした。唯織はしゃがみ込み、墓石に積もった塵を丁寧に拭き取ると、白菊をそっと供えた。「お父さん、お母さん、会いに来たわ」声はひどく小さく、微風にかき消された。「A県を離れたの。それから……千隼とも別れたわ」唯織は一度言葉を切った。言葉を選んでいるようでもあり、勇気を振り絞っているようでもあった。「ずっと心配をかけて、ごめんなさい。私はあの火事と、あなたたちが突然いなくなったあの日の影に怯えて、自ら作り上げた狭い檻の中に閉じこもっていたの。あの人を繋ぎ止めておくことだけが、私の世界のすべてで、生きていく理由だと思い込んでいたわ。……間違っていたのね」唯織は顔を上げ、墓石に向かって静かに語りかけた。頬を伝う涙は止めどなく溢れたが、その口元には懸命な笑みが浮かんでいた。「自分の傷や、あなたたちがいなくなった悲しみを盾にして、八年間もあの人を縛り付けていた。それは、自分自身を八年もの間、呪縛の中に閉じ込めていたのと同じだった。安心も未来も、すべてを他人任せにして……誰かに縋らなければ生きてい
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第18話

リハビリ施設での仕事は、唯織にとって挑戦であると同時に、一種の癒やしでもあった。小林先生は、彼女をまず事務アシスタントとして配属し、カルテの整理や受付、簡単な書類作成などの業務を任せた。雑多な実務ではあったが、人間関係がシンプルで、同僚たちがみな親切なのが何よりの救いだった。最初は、何をするにも戸惑うばかりだった。八年近くも社会と隔絶した生活を送っていた唯織にとって、現代社会のスピード感はあまりに眩しく、そして恐ろしかった。パソコンの操作はおぼつかなく、人とのやり取りでも反応が遅れてしまう。基本的なオフィスソフトの使い方さえ、一から学び直す必要があった。それでも、唯織は決して後ろへは引かなかった。これが社会に復帰するための第一歩であり、どんなに困難でも歩み続けなければならないと分かっていたからだ。彼女はパソコン教室に通い始め、仕事が終わった後の時間を使って必死にスキルを叩き込んだ。若い同僚たちにも自分から進んで教えを乞い、少しずつ業務の流れを覚えていった。毎日、身なりを整えることも自分に課した。薄化粧を施し、清潔感のあるオフィススタイルに身を包む。それだけで、自分が少しずつ「まっとうな人間」としての日常を取り戻せているような気がした。身体のリハビリも、仕事と並行して着実に進めていた。施設内にある専門の訓練室で、小林先生の指導の下、背中の傷跡を柔らかくするためのマッサージや機能回復訓練を本格的に開始した。その過程は苦痛に満ちていて、マッサージを受けるたびに冷や汗が滲んだが、唯織は奥歯を噛み締めて耐え抜いた。同僚の中には、鈴木晴奈(すずき はるな)という唯織と同年代の女性がいた。明るく人懐っこい性格の晴奈は、唯織のぎこちなさと人知れぬ努力を察し、何かと気にかけてくれた。昼休みに食事に誘ったり、仕事で分からないことがあれば根気強く教えてくれたりした。「唯織さん、前は何をしてたの?」ある時の昼食中、晴奈が好奇心に瞳を輝かせて尋ねた。唯織は少し沈黙し、短く答えた。「……以前は、ちょっとした商売をしてたの。でも、その後、体を壊しちゃって。数年、休んでたんだ」晴奈はそれ以上深く踏み込むことはせず、ただ笑顔で返した。「へぇ、そうなんだ。でも、どん底から這い上がってまた働き始めるなんて、本当に
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第19話

唯織の生活は、少しずつ、けれど確実に軌道に乗っていった。仕事は安定し、同僚たちとも打ち解けて、ささやかながらプライベートでの交流も増えてきた。晴奈は根っからの世話好きで、周囲の独身者のために縁結びの橋渡しをすることに情熱を燃やすようなタイプだった。唯織の穏やかで上品な佇まいと、誰に対しても誠実な人柄にすっかり惚れ込んだ彼女は、ある日、ついにその「お節介」に火がついた。「ねえ、唯織さん!私のいとこなんだけどさ、プログラマーですごくいい人なんだ。真面目で頼りになるし、稼ぎも結構いいんだよ。今度の土曜日、一緒にご飯でもどう?友達を増やすくらいの軽い気持ちでさ!」目を輝かせて熱心に勧めてくる晴奈に、唯織は不意を突かれて一瞬呆気に取られたが、すぐに穏やかな、それでいて揺るぎない態度で首を振った。「晴奈、気持ちは嬉しいよ。でも……今はまだ、そういうことを考える余裕がないんだ」「えー、どうして?」晴奈は不思議そうに眉を寄せた。「唯織さん、こんなに綺麗で優しいんだから、絶対モテるのに。もしかして、前に何か……」そこまで言って、プライバシーに踏み込みすぎたことに気づいた晴奈は、慌てて口を閉ざした。唯織はふっと表情を和らげ、気にする様子もなく言った。「あなたが心配しているような理由じゃないから大丈夫。ただ……すごく長くて、お世辞にも健全とは言えない関係から抜け出したばかりだから」彼女は言葉を慎重に選びながら続けた。「大病を患った直後みたいなものかな。体は治っても、免疫力はまだ弱くて、次のウイルスに抗う力が足りないの。今はまず自分を慈しんで、一人での生き方を自分なりに確立させたいんだ。二人のことを考えるのは、その先の話だよ」晴奈は今ひとつピンとこない様子で頷きながらも、やはり名残惜しそうに言った。「でも、せっかくのいい縁だし、逃しちゃうのはもったいないよ」「本当に縁がある相手なら、出会うのが少し遅れたくらいで切れたりしないわ」窓から差し込む明るい陽光を見つめながら、唯織の声は澄み渡っていた。「それに、あんな経験をしたからこそ、自分に何が必要で、何が不要なのかがよく分かる。焦って始めたら、自分にも相手にも失礼でしょう?」その晩、二人は残業で資料の整理をしていた。仕事の手を休めたふとした合間に、話題は
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第20話

二年という歳月は、一粒の種が芽吹き、若木へと成長するには十分な時間だった。唯織のリハビリ施設における仕事ぶりは、今や周囲の誰もが認めるところとなっていた。彼女は心理カウンセリングの補助を務める傍ら、自らの経験と絶え間ない研鑽を活かし、身体的トラウマを抱える患者のための「心理再建プログラム」を独自に開発した。その成果は目覚ましく、多くの患者の支えとなった。小林先生はそんな彼女を高く評価し、より専門的な道へ進むよう、折に触れて背中を押し続けてくれた。機会は、ある日突然訪れた。施設が海外のトップクラスのリハビリ研究センターと提携を結ぶことになり、実務経験と成長のポテンシャルを兼ね備えたスタッフを、一年間の共同プロジェクトへ派遣することになったのだ。小林先生が真っ先に推薦したのは、唯織だった。「唯織さん、君の歩んできた道のりは、君だけの大きな財産です」小林先生は穏やかな口調で彼女に語りかけた。「君は自分自身を救っただけでなく、今では誰かを救う力を持っています。もっと広い世界で学びなさい。君なら、もっと多くの人の力になれるはずですよ」思いがけない機会を前に、唯織はためらった。海外へ行く。それは、ようやく手にした安穏な日常を離れ、全く未知の世界で新たな壁にぶつかることを意味していた。「私に、そんな大役が務まるだろうか?」という不安が、どうしても首をもたげる。だが、心の奥底で、小さく、けれど一度も絶えることのなかった火が囁いた。「どうして、できないなんて決めつけるの?」二年前、傷だらけの体とボロボロに砕け散った心を引きずってこの街へ辿り着いたあの日、今の自分を一体誰が想像できただろうか。どん底の、あの廃墟の中から這い上がることができたのなら、もっと遠くへだって行けるはず。唯織は、その切符を掴む決意をした。手続きは驚くほどスムーズに進んだ。離陸した飛行機が雲を突き抜け、見慣れた景色が次第に遠ざかっていく。唯織の心に、湿っぽい離別の感傷はなかった。代わりに胸を満たしていたのは、新しい世界へ飛び込む高揚感と、どこまでも静かな勇気だった。海外での研究生活は、息つく暇もないほど多忙を極めた。彼女は乾ききったスポンジが水を吸い上げるように、最先端の知識と技術を必死に吸収していった。言葉の壁、文化の
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