All Chapters of 風花と散る思い出: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

しかし、佳奈の服に手を伸ばしたところで、暁の手はぴたりと止まった。家では恵美が待っている。その思いが頭に浮かんだ途端、まるで根を張るように心の中に広がっていった。恵美を裏切るわけにはいかない。甘い衝動はきれいに消え去った。暁は自分の上着を、薄着の佳奈にかけてやる。彼女がさっと青ざめるのを見て、重々しく口を開いた。「高木さん、すまない。恵美は俺の婚約者なんだ。最近、恵美は少しおかしいけれど、きっと何か思い違いをしているだけだ。明日帰ったら、ちゃんと時間をとって彼女と話すつもりだ。誤解が解けたら、恵美と結婚する」暁は、その気持ちを一度も変えたことがなかった。「結婚」という言葉を口にした瞬間、何度も思い描いた光景が再び脳裏に浮かんだ。それは、恵美が美しいウェディングドレスを着ている姿。幾重にも重なる純白のドレスが、彼女をさらに可憐に見せている。恵美は自分の腕を取り、その瞳には全身全霊の愛と信頼が溢れている。そして自分は、招待客全員の前で、恵美と生涯を共にすることを誓うんだ……それはきっと、人生で二番目に幸せな瞬間になるはずだ。一番目は、恵美が告白を受け入れてくれた時だった。思いがけず拒絶され、佳奈の顔からついに笑顔が消えた。彼女の目はみるみるうちに赤くなり、暁にキスをしようと顔を近づける。暁の体にしがみつくようにすり寄りながら、むせび泣いて懇願した。「院長、ずっと前から好きでした……恵美さんと結婚なさっても構いません。それでも、あなたを愛しています。日陰の存在でもいいんです。ほんの少しでもいいから、私のことも好きになってください……」「高木さん」暁の声が低くなった。彼が佳奈にこれほど厳しい態度をとるのは、滅多にないことだった。「俺はそんなこと、一度も考えたことはない。恵美にも、そして結婚というものにも、俺は誠実でなければならないんだ」佳奈に、特別な好意があったのは確かだ。でも、それだけだ。「どうしてですか?」佳奈には理解できなかった。暁は明らかに自分に欲情していたはずだ。なのにどうして、こんな甘い雰囲気の中で恵美のことを考えられるっていうの?「でも院長、恵美さんはあなたのその愛情に値しません!あんな自由な環境にいたのに、他の男の人と寝てないなんて言い切れるんですか?とっくに汚れているかもしれま
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第12話

中には、動画がひとつと、写真が何枚か入っていた。暁はまず動画を再生した。読み込みのあいだ、息が止まりそうだった。動画が再生されると、それが防犯カメラの映像だということがすぐにわかった。最初は薄暗い場面だったが、その場所に見覚えがあった。そこは自分が行ったことのあるバーだった。そして、ここで恵美と大喧嘩をしたのだ。やがて、酔ってソファに寄りかかっている自分の姿が映し出された。そして、罰ゲームで負けた佳奈が、甘えるように自分にすり寄ってきた。あの時は酔っていたこともあり、暁に大きな罪悪感はなかった。ほんの軽いキスで、浮気にはならないと、そう思っていたのだ。しかし、第三者の視点で見ると、自分と佳奈が情熱的にキスを交わしているのがわかった。自分が思っていたような、偶然触れただけの潔白なものでは決してなかったのだ。暁の心臓がどくんと重くなった。まるで氷の洞窟に落ちたかのように、全身が冷えきっていく。彼はドアの方にいる恵美に目を向けた。恵美はずっと自分の方を見ていたが、感情を取り乱してはいない。むしろ……絶望しきったあとの、静まり返った水面のようだった。キスが終わると、佳奈は恵美の方へ歩いて行った。あの時は、恵美が佳奈に先に絡んで、みんなの前でわざと恥をかかせようとしたのだと思っていた。しかし、防犯カメラはドアの真上にあったため、音もはっきりと拾っていた。佳奈が恵美に向けた、むき出しの侮辱と挑発が、はっきりと聞こえてきた。「院長、すごく激しくて……年増なだけじゃなくて、色気もない……」耳を塞ぎたくなるような言葉が、ナイフのように次々と暁の胸に突き刺さった。あまりの痛みに上半身を折り曲げ、大きく息を吸い込んだ。その様子に、使用人は全身に悪寒が走った。自分が暁をここまで怒らせたのだと思った彼女は、すぐにでも佳奈との関係を断ち切りたい一心で、佳奈の汚いやり口をすべて白状した。「旦那様に言わないように命令したのは高木さんなんです!私とはまったく関係ありません!この3年間、高木さんは私たちの前で、自分がこの家の女主人であるかのように振る舞っていました。そして、旦那様の全てを逐一報告するように命じていたのです。特に坂本さんが戻られてからは、高木さんの行動はエスカレートするばかりでした。あの時、坂本さんが旦那様に地下室に
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第13話

使用人がおびえながらドアを開けに行くと、暁は振り返って哲也に言った。「外国人の男を何人か呼んでこい」言い終わるか終わらないかのうちに、佳奈が入ってきた。男には気づかれないような、ナチュラルメイクをわざわざしてきたようだ。唇はぷるぷるで、涙袋にはラメが入っていて、いじらしくも明るく魅力的に見える。「院長……」佳奈は、その場の不穏な雰囲気にはまったく気づいていなかった。自分の計画がもうすぐ成功すると思うと、心臓が高鳴るのを感じた。でも、そんなそぶりは見せず、声を詰まらせながら言った。「院長、昨日の夜、断られてから、ずっと反省していました。院長と恵美さんの長年の絆に、私が割り込めるわけがありません。私が愚かでした。お邪魔してすみません。お二人の幸せを心から祈っています。なので……」佳奈は持っていたワインボトルを少し持ち上げた。「最後にお願いがあります。院長に、一杯だけ注がせてください。院長に見つけてもらえなかったら、研修医になることなんてできませんでしたから……院長、本当にありがとうございます」なかなか心に響くセリフだ。もし暁が佳奈の本性を知らなかったら、本当に騙されていただろう。暁の態度は氷のように冷ややかだった。顎をしゃくり、恐ろしいほど低い声で言った。「じゃあ、持ってこい」佳奈は途端にパッと顔を輝かせた。テーブルのワイングラスにワインをなみなみと注ぐと、うれしそうに暁の方へ歩み寄った。「院長、これは私からの感謝の気持ちです。仕事のことも、人としてのあり方も、たくさんのことを教えていただきました。院長のことは、一生忘れません……」暁まであと数センチというところで、佳奈はとてつもない力で首を掴まれ、つま先が床から浮いた。佳奈は顔色を変え、痛みで甲高い悲鳴をあげた。「きゃあぁっ!」「高木さん」沸騰するような怒りで、暁は歯の間から佳奈の名前を絞り出すことしかできなかった。この女を八つ裂きにしてやりたいという衝動を、どれほど抑えていることか。それでも佳奈は相変わらず涙目で、か弱いふりを続ける。「院長、どうしたんですか?また恵美さんに何か言われたんですか?」「黙れ!」暁は怒鳴った。「君が恵美の名前を口にするな!」言い終わるやいなや、暁は信じられないという表情の佳奈の顎を掴み、力任せにこじ開けた。骨が
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第14話

しかし、暁の期待は裏切られた。ドアをノックしたのは、慈善団体の制服を着た職員だった。職員はにこやかに言った。「すみません、坂本さんの恋人の方でいらっしゃいますか?」暁は何のことか分からず、「そうですが?」と答えた。「実は、坂本さんが以前、ネックレスなどの高価な品物をたくさん寄付してくださったんです。すごい金額になるもので、本当に感謝しています」職員は暁が息をのんだことにも気づかず、話を続けた。「ですが、寄付された品物の中に、この手作りらしい指輪と手紙が混じっていまして。ラブレターかもしれません。もちろん、中身は見ておりません。おそらく、坂本さんがうっかり入れてしまったものだと思いますので、お返しに参りました」職員は荷物を渡すと、帰ろうとした。暁は最後の望みを託すかのように彼の腕を掴み、かすれた声で尋ねた。「彼女は、どんなアクセサリーを寄付したんですか?」職員は不思議そうな顔で暁を見ると、長いオークションリストを取り出した。暁がそれにさっと目を通すと、そこには、遠距離恋愛中に自分が恵美へ贈ったプレゼントばかりが並んでいた。大切にすると約束してくれたはずなのに。それなのに、恵美はすべてあっさりと手放してしまったのだ。暁は唇を固く結んだ。その目は血がにじむように、真っ赤に染まっていた。ふと予感した。恵美は、冗談ではなく本気で自分を捨てたのだと。心臓をえぐられるような、耐え難い痛みが全身を駆け巡った。しばらく呆然と立ち尽くしていたが、哲也に小声で促され、指輪と封筒を受け取った。そして、震える指先で封を開けた。そこには、見慣れた恵美のきれいな字が並んでいた。まるで恵美本人が目の前にいるかのようで、暁が心の底に抑え込んでいた想いが一気にこみ上げ、涙となってあふれそうになった。【暁へ。あなたからの999通目のラブレター、受け取ったよ。来週、いよいよ私も帰国する。だから、私もあなたにラブレターを書こうと思って……3年という時間は、私たちには長すぎたわ。早くあなたの腕の中に戻って、温もりを感じたい。私たちの愛はもう、心の奥深くに刻み込まれているって気づいたの。だから、あなたより先に、私からプロポーズしたい。知っているでしょ、私は手先が器用じゃないし、デザインのセンスもない。でも3年間、心を込めて指輪を作ったの
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第15話

恵美の声を聞いた瞬間、暁は地獄の底から天国へ引き上げられたような気がした。心臓は一度止まったかと思うと、まるで凍りついた氷が溶け出すように、激しく脈打ち始めた。「恵美……」暁は思わずその名を口にした。電話を切られるのを恐れ、いてもたってもいられずに言葉を続けた。「恵美、俺だ、俺……」しかし、恵美は暁に話す隙さえ与えなかった。声はさっきまでの優しさが嘘のように冷たく凍りつき、まるで氷の刃のように彼の胸を突き刺す。「消えなさい」そして、暁の最後の希望だったはずの電話は、無情にも切られてしまった。暁は、呆然とその場に立ち尽くした。恵美に伝えたいことが山ほどあった。ごめん、全部自分が悪かったと謝りたかった。心の底から愛しているから許してほしいと伝えたかった。きっとこの言葉をずっと待っていただろうと、伝えたかったのに。でも、結局、一言も口にすることができなかった。恵美は、謝罪なんてまるで期待していないようだった。もう、一緒に歩んでいくつもりなんて、まったくないみたいだ。自分たちは、完全に他人になってしまったのだ。そう思った途端、暁は言いようのない不安に襲われた。すぐに電話をかけ直したが、恵美はすでに暁をブロックし、さらに知らない番号からの着信も拒否していたのだ。スマホを握る手にぐっと力がこもる。暁は振り返り、哲也に怒鳴った。「IPアドレスはまだ見つからないのか!」実は電話をかける前から、暁は哲也に発信元の信号を追跡させていたのだ。哲也は、パソコンの前にいる技術員に指示を出しながら、額に汗を浮かべていた。「もう少し、もう少しです!どうやら国外からで、少し距離があるので、特定するのに時間がかかっています」暁はぐっと顎に力を入れた。そして、とっさに問いかける。「M国か?」恵美がまた海外へ行ってしまった可能性は、一度は考えた。しかし、すぐにその考えを打ち消していた。恵美は、何度も言っていたからだ。「あなたがいる場所こそが、私の居場所なの」と。海外は、あくまで一時的な仮住まいに過ぎないと。哲也はごくりと唾を飲んだ。「まだはっきりとは……国外のサーバーを経由しています。特定するにはもう少し時間がかかります」暁は「急げ」とだけ言うと、苛立ちながらソファの周りをうろうろと歩き回った。そして、30分後。技術員がようやく居場
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第16話

神は、まだ暁を見捨ててはいなかった。暁はようやく、恵美に会うことができた。彼は薄暗い客席に立ち、一方、恵美は舞台の中央でキラキラと輝いていた。スポットライトが恵美を照らし、まばゆい光の輪で包み込んでいるかのようだった。スーツ姿は、上品でとても似合っている。アップにした髪は恵美をきりりと見せ、額にかかる後れ毛が、さらに彼女をエレガントにしていた。ふとした表情や仕草には自信が満ち溢れている。流暢な外国語で起業プロジェクトについて語り、その発音は洗練されていて魅力的だ。恵美は、すっかり変わってしまった……暁はステージの下で、うっとりと恵美を見つめながらそう思った。いや、むしろ、暁が初めて出会った頃の恵美に戻ったようだった。かすかに覚えている。恵美にアプローチしていた頃、彼女はこんな風に輝いていた。太陽のように自分の心を照らし、温かさを与えてくれた。恵美を不安にさせ、繊細で傷つきやすくさせたのは、自分だった。そして、何度も何度も「あなたの心の中で、私は一体何なの」と尋ねさせてしまった。暁が自分を責めるように昔を思い出しているうちに、恵美のプレゼンは終わっていた。会場は、割れんばかりの拍手に包まれた。恵美は小さい頃から、誰からも羨ましがられるような子だった。飛び級で大学に入学し、卒業後は海外トップクラスの大学院に進学した。暁はふと我に返った。自分から離れても、恵美は十分にやっていける。恵美には、それだけの実力も才能もある。この関係に縛られていたのは、ずっと自分の方だったのだ。その時、司会者が笑顔で言った。「坂本さんの起業プロジェクトがどれだけ素晴らしいかは、みなさんにもお分かりいただけたかと思います。ただ、今はまだ立ち上げ資金が不足しているとのことで、この機会に、ぜひご出資をご検討ください!」暁はそれを聞くや否や、近くにいたスタッフからマイクを奪い取り、大声で叫んだ。「1億円出す!」1億円。会場は騒然となり、誰もが声のした方を振り返った。恵美も、もちろん例外ではなかった。そして、二人の視線がぶつかった。しかし、暁の高ぶっていた気持ちは、急に沈んでいった。恵美の瞳には、かつてのような愛情はひとかけらもなく、代わりに、氷のように冷たい光が宿っていたからだ。恵美はまだ、自分を恨み、憎んでいる。
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第17話

暁は、自分がどうやって警備員に追い出されたのか、よく覚えていなかった。屈辱でも、怒りでもなく、ただ信じたくないという気持ちでいっぱいだった。恵美がこんな別れのような言葉を口にしたことは、今まで一度もなかった。自分に対して、恵美はいつも優しくて、全てを受け入れてくれていたからだ。恵美を失ったのは、まぎれもなく自分のせいだ。でも、このまま諦めるなんてできない。恵美は、生涯を共にしたいと願った相手だ。恵美が許してくれるなら、何だってする覚悟だった。だから暁は、日が暮れるまで、ずっと待ち続けた。そしてついに、恵美がホールから出てきた。恵美の周りには、満面の笑みを浮かべた同級生が数人いた。彼らは外国語で、恵美がいかに凄いか、そして集めた資金が想像以上だったと褒めやかしていた。それに対して恵美は、ただ謙虚に首を振るだけだった。「これは、みんなのおかげです」少し離れた木陰に立つ暁は、思わず口元をほころばせた。これこそが、自分の好きな恵美だ。同級生たちが去った後、暁は恵美に駆け寄り、その腕を掴もうとした。しかし、一瞬ためらって思い直す。恵美の家まで後をついていこう、と。どこに住んでいるか知らなければ、彼女を取り戻すことなんてできないからだ。そして、暁は恵美の後をつけ、彼女が住むアパートの前までやってきた。恵美が鍵を取り出すのを見て、たまらず駆け寄り、後ろからきつく抱きしめた。その甘い香りを深く吸い込むと、張り詰めていた神経は完全に解きほぐされた。「恵美、会いたかった」その久しぶりの呼び方に、恵美は吐き気を催し、暁を突き飛ばした。「暁、人の話が分からないの?言ったでしょ、私たちはもう終わったのよ!」「終わってない!」暁は息を呑み、震える声で叫んだ。どうすれば自分が一番傷つくかを、恵美はよく分かっているようだ。関係の終わりを何度も突きつけてくるその言葉は、無数の針のように全身を刺し貫いた。「恵美、俺たちはもう10年近く一緒にいたんだ……」暁は声を詰まらせた。「たった一度の過ちで、もう終わりだなんて言うのか?君がいないとダメなんだ。隣に君がいるのが当たり前だったんだ。離れてからこの数日、俺がどれだけ苦しかったか、君には分からないだろうな……君に会えなくて、夜もろくに眠れず、狂ったように君のことばかり考えてた。死ぬ
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第18話

アルバムはすっかり冷たくなって、手に握るとその角が痛かった。暁は息を深く吸い込むと、数歩前に出て、恵美の腕を掴んで自分のそばへ引き寄せた。力が入りすぎている自覚はあった。でも、これでも精一杯、抑えた結果だったんだ。恵美の隣に見知らぬ男がいるのを見た瞬間、とんでもない嫉妬と独占欲が、体中を駆け巡った。それは、はち切れんばかりに膨れ上がっていった。暁は声を抑えながら、口を開いた。「恵美、君にプレゼントがあるんだ」2日間、何も言わずに姿を消せば、恵美もさすがに心配して、どこへ行っていたのかと聞いてくれるはずだ。そう思っていた。それなのに、再会した恵美の第一声が「帰ったんじゃなかったの?なんでまだいるの?」だなんて、夢にも思わなかった。その言葉に、暁の顔から笑顔が消えかけた。ひきつった笑みを浮かべ、彼は言った。「恵美、俺が君を置いていくわけないだろ?」暁は目障りな男を必死で無視すると、アルバムを恵美の目の前に差し出した。「恵美、わざと黙っていなくなったわけじゃない。どうすれば君を取り戻せるか、どうすれば俺の深い愛情を伝えられるか、それを考えていたんだ。俺たちの家に帰って、今まで撮りためた写真を探し出したんだ……一枚一枚、この手でアルバムにしてきた。これ、君に。この写真、覚えてるか?俺の告白に頷いてくれて、付き合い始めたばかりの頃だ。すごく嬉しくてさ、君の頬にキスした時に撮った、初めてのチェキだよ。これは、初めて一緒に過ごしたバレンタイン。君の手作りケーキ、覚えてるよ。すごく美味しかった。特に君に食べさせてもらった時は、蜜みたいに甘かった」暁は焦るように次々と写真をめくっていく。しかし恵美の残酷な沈黙の中で、その動きはどんどん速く、声はどんどん小さくなっていった。ついに絶望に包まれ、暁は問いかけた。「恵美……気に入らない、か?」暁から見えない角度で、恵美は二度、素早く瞬きをした。そうして、滲んできた涙を必死にこらえた。心が動かないわけがない。10年という時間は、決して軽いものじゃないから。でも、だからこそ、恵美はここで情けをかけるわけにはいかなかった。アルバムを受け取ると、希望に満ちた暁の目の前で、それを無情にも道端へと投げ捨てた。さっきまで小雨が降っていたせいで、道端には黒く濁った水たまりができていた。
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第19話

隼人。暁が東都のうらやむような名士なら、隼人は、とてもじゃないけど手の届かないような、本物の名家の御曹司だ。隼人は小さいころから海外で育ったけど、国内でも彼の噂は絶えなかった。もはや、伝説に近いものだった。頭がいいなんて、隼人の取り柄の中では取るに足らないことだった。本当に恐ろしいのは、彼が15歳で会社を立ち上げたことだ。しかも、たった1年で国内外のトップ企業にまで成長させたんだ。今もまだ学生なのに、その資産は数えきれないほど。間違いなく、世界一の大富豪だ。「誰をだまそうとしてるんだ?」暁は思わず口走っていた。恵美が隼人と関わりがあるなんて、信じられるわけがない。恵美が自分より何倍も優れた男を見つけた。自分では勝ち目なんて全くない。そう思うだけで、胸が苦しくなる。隼人は自分が何者かなんて証明しようとはしなかった。ただ冷たい目つきで、暁に警告した。「言葉遣いに気をつけろ。恵美はお前とは違う。浮気をしておきながら、反省もしない。厚かましいにもほどがある。俺はずっと恵美にアプローチしている」隼人の言葉は、まるで爆弾のように暁の心に突き刺さった。「お前が勝手に自滅してくれて、助かったよ。俺にチャンスをくれたんだからな」隼人の挑発に、暁は感情を抑えきれなくなった。拳を振り上げて殴りかかる。「恵美は俺のものだ!お前と一緒になるわけがない!」しかし、隼人は長年ボクシングを嗜んでいる。暁のその程度の攻撃など、隼人にとっては子供の遊びのようなものだった。軽く一歩下がって身をかわし、相手の膝の裏を蹴り上げただけ。それだけで暁は前のめりによろめき、ドサリと地面に膝をついた。男にとって、ましてや恋敵の前でひざまずくなんて、最大の屈辱だ。暁のプライドは、粉々に砕かれたも同然だった。暁は目を見開いて、すぐさま立ち上がろうともがいた。しかし、すぐに隼人の膝で地面に押さえつけられてしまった。暁は無様に荒い息をしながら叫んだ。「このクソ野郎!横取りしやがって!離せ!」頭上から、隼人の嘲笑うかのような声が聞こえた。「恵美には、二度と近づくな。次に顔を見せたら、お前の病院を潰すことになっても構わない」隼人にとって、そんなことは指を動かすくらい簡単なことだった。ただ、恵美に自分の黒い一面を見せたくなかっただけだ。隼人は、本
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第20話

夜はあっという間にやってきた。案内されたのは個室だった。恵美が中へ入ると、テーブルの上に開け放たれたジュラルミンケースがいくつも並んでいて、彼女は驚いた。中には札束がぎっしりと詰まっていた。ざっと見ただけでも、確かに2億円はありそうだ。しかし、恵美は喜ぶどころか、むしろ異常なものを感じた。彼女は足を止め、とっさに部屋から出ようとした。だが、もう手遅れだった。ドアが外から閉められ、カチャリと鍵のかかる音がした。恵美はハッとして、慌ててドアノブに手をかけた。しかし、どうやってもドアは開かなかった。「恵美……」背後から聞こえたのは、聞き慣れた暁の声だった。恵美は彼のしつこさにうんざりし、怒りを抑えきれなかった。「暁、一体何がしたいの!?私の言ってることが分からないの?今さら愛情を示されても、何の価値もないわ。私はもう、新しい人生を歩み始めているんだから!」暁は暗く沈んだ瞳で恵美を見つめた。まるで自分こそが被害者だと言わんばかりの顔で。「恵美、忘れたのか?今日は俺の誕生日だぞ。お互いの誕生日は、絶対に一緒に祝おうって約束したじゃないか。テーブルの上にある現金が見えるか?病院を売って、金に換えたんだ。これは俺の全財産だ……」暁は、自分が狂気の一歩手前にいることを自覚していた。「俺は命がけで君を愛してる。君のためなら、すべてを捨ててゼロからやり直したっていい……恵美、許してくれ。もう一度やり直そう。絶対に幸せにするから」そう言いながら、暁はシャンパングラスを手に恵美へとにじり寄った。恵美は驚きを通り越し、心底うんざりしていた。彼女はグラスを叩き落とす。「すぐにここから出して。あなたの誕生日なんてとっくに忘れたし、覚えている必要もないわ」シャンパンが暁の体にかかり、真っ白なスーツにシミを作った。この日のために用意した服は台無しになり、何度も練習した告白の言葉は恵美にゴミのように捨てられた。暁の表情が、ついに歪んだ。「恵美、約束を破ったのは君の方だ。言っただろ、俺と高木さんはただの同僚だって。俺に間違いがあったとしても、もう改めたはずだ。なのになぜ、君はいつまでもそのことを責めるんだ?本当は、君の方にやましいことがあったんじゃないのか?それを口実に俺と別れて、別の男のところへ行くつもりだったんだろう……でもな、
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