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風花と散る思い出

風花と散る思い出

By:  レイCompleted
Language: Japanese
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坂本恵美(さかもと えみ)は、信じられなかった。もうすぐ終わるはずの遠距離恋愛が、こんなにも惨めな結末を迎えるなんて。 だって、森田暁(もりた あきら)ほど自分を愛してくれる人は、他にいないはずだったから。 暁は忙しい病院の院長なのに、恵美に会うためだけに数えきれないほど飛行機に乗り、何千時間もかけて海外まで来てくれた。 毎回ほんの少しの時間しか会えなかった。でも、初雪のなかで恵美を抱きしめ、「このくらい、なんてことないよ」と低い声で言ってくれたんだ。 暁から贈られてきたプレゼントも、数えきれないほどだった。 手書きの長いラブレターから、オークションで競り落とした十億単位の値がつくネックレスまで。 恵美を笑顔にできるものなら、暁はなんだって手に入れようとした。たとえそれが空にうかぶ星だって、きっと命がけで取ってきてくれただろう。 そんな骨の髄まで染み込むような深い愛情が、3年間、一日だって変わることはなかった。 しかし、恵美が徹夜のフライトで帰国したときのことだった。友人たちは暁の変わらない愛をうらやましがっていたのに、当の暁本人が、かすれた声でそれを否定したのだ。 その言葉を聞いて、恵美は認めざるを得なかった。心臓が、まるでじわじわと切り刻まれていくような、耐えがたい痛みに襲われていることを。

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Chapter 1

第1話

坂本恵美(さかもと えみ)は、信じられなかった。もうすぐ終わるはずの遠距離恋愛が、こんなにも惨めな結末を迎えるなんて。

だって、森田暁(もりた あきら)ほど自分を愛してくれる人は、他にいないはずだったから。

暁は忙しい病院の院長なのに、恵美に会うためだけに数えきれないほど飛行機に乗り、何千時間もかけて海外まで来てくれた。

毎回ほんの少しの時間しか会えなかった。でも、初雪のなかで恵美を抱きしめ、「このくらい、なんてことないよ」と低い声で言ってくれたんだ。

暁から贈られてきたプレゼントも、数えきれないほどだった。

手書きの長いラブレターから、オークションで競り落とした十億単位の値がつくネックレスまで。

恵美を笑顔にできるものなら、暁はなんだって手に入れようとした。たとえそれが空にうかぶ星だって、きっと命がけで取ってきてくれただろう。

そんな骨の髄まで染み込むような深い愛情が、3年間、一日だって変わることはなかった。

しかし、恵美が徹夜のフライトで帰国したときのことだった。友人たちは暁の変わらない愛をうらやましがっていたのに、当の暁本人が、かすれた声でそれを否定したのだ。

その言葉を聞いて、恵美は認めざるを得なかった。心臓が、まるでじわじわと切り刻まれていくような、耐えがたい痛みに襲われていることを。

暁の声は大きくなかったけど、個室の中は水を打ったように静まり返った。

しばらくして、ようやく誰かが凍りついた空気を破った。「暁、冗談だろ?

恵美とは、大学でも有名なお似合いのカップルだったじゃないか。恵美を見送った後、一人で子供みたいに泣いてたくせに。この3年間、どんなに無理しても海外まで会いに行ってたし……」

友人は気まずそうに笑いながら、わざと大げさな口調で聞いた。「愛してないなんて、ありえないだろ?」

「俺にも分からない」暁は淡々と答えた。

いつもは冷静な暁が、どこか途方に暮れた様子で言った。「ただ、この3年間、すごく疲れたんだ。

時間を作って恵美に会いに行くのは、もちろん嬉しい。でも、それ以上に、十数時間のフライトを往復する孤独と疲れの方が大きかった。

プレゼントを贈るにも、いつも違うものを考えなきゃいけなかった。恵美は気に入ってくれるだろうか、喜んでくれるだろうかって、いつも気にしてた」

暁は、いつもメスを握っている節くれだった手でグラスを持ち、中のきらめきを眺めながら、低い声で呟いた。「今でも恵美を愛している。でも、その愛情が、もう燃え尽きそうなんだ」

友人たちは顔を見合わせ、ぎこちなく話題を変えた。

一方、恵美は頭が真っ白になり、耳鳴りが止まらなかった。

サプライズにするはずだったのに。恵美は、自分がどうやってこっそりとその場を離れたのか、よく覚えていない。

早く帰ってこなければよかった、とさえ思った。

そうすれば、二人の関係は今も完璧なままだって、自分に嘘をつけたのに。

でも、現実はそんな「もしも」を許してはくれなかった。

呆然としていると、マナーモードにしていたスマホが不意に震えた。

顔を上げると、いつの間にか店の外に出てきた暁が、眉をひそめて辺りを見回していた。

恵美はどきりとして、慌てて暗い木陰に身を隠した。画面をしばらく見つめた後、声を詰まらせながらなんとか電話に出た。

暁の少し焦ったような声がした。「恵美、ごめん、今メッセージに気づいた。早く帰って来たのか?今どこにいるんだ、店に来てるのか?」

聞き慣れた声が電話越しに響くと、恵美は鼻の奥がツンとして、涙が出そうになった。

聞きたいことは山ほどあったのに、結局、嗚咽をこらえて絞り出したのは、こういう言葉だけだった。「急に気が変わって、先に家に帰ったの……あなたはいつ帰ってくるの?」

それを聞いて、暁はほっとしたように、優しい声で言った。「今から帰るよ……」

彼が言い終わらないうちに、赤いマフラーをした女性が駆け寄ってきて、暁の胸に飛び込んだ。

恵美は見てしまった。暁がとっさにスマホのマイクを塞ぎ、優しい笑みを浮かべて、親しげにその女性の髪を撫でるのを。

そして、暁は不自然に言葉を変えた。「ごめん、今ちょっと急用ができた。待ってて」

その女性の白い頬が、ぽっと赤く染まっているのが見えた。

その瞬間、目の前が真っ暗になり、冷たい海の底に突き落とされたような衝撃が恵美を襲った。
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第1話
坂本恵美(さかもと えみ)は、信じられなかった。もうすぐ終わるはずの遠距離恋愛が、こんなにも惨めな結末を迎えるなんて。だって、森田暁(もりた あきら)ほど自分を愛してくれる人は、他にいないはずだったから。暁は忙しい病院の院長なのに、恵美に会うためだけに数えきれないほど飛行機に乗り、何千時間もかけて海外まで来てくれた。毎回ほんの少しの時間しか会えなかった。でも、初雪のなかで恵美を抱きしめ、「このくらい、なんてことないよ」と低い声で言ってくれたんだ。暁から贈られてきたプレゼントも、数えきれないほどだった。手書きの長いラブレターから、オークションで競り落とした十億単位の値がつくネックレスまで。恵美を笑顔にできるものなら、暁はなんだって手に入れようとした。たとえそれが空にうかぶ星だって、きっと命がけで取ってきてくれただろう。そんな骨の髄まで染み込むような深い愛情が、3年間、一日だって変わることはなかった。しかし、恵美が徹夜のフライトで帰国したときのことだった。友人たちは暁の変わらない愛をうらやましがっていたのに、当の暁本人が、かすれた声でそれを否定したのだ。その言葉を聞いて、恵美は認めざるを得なかった。心臓が、まるでじわじわと切り刻まれていくような、耐えがたい痛みに襲われていることを。暁の声は大きくなかったけど、個室の中は水を打ったように静まり返った。しばらくして、ようやく誰かが凍りついた空気を破った。「暁、冗談だろ?恵美とは、大学でも有名なお似合いのカップルだったじゃないか。恵美を見送った後、一人で子供みたいに泣いてたくせに。この3年間、どんなに無理しても海外まで会いに行ってたし……」友人は気まずそうに笑いながら、わざと大げさな口調で聞いた。「愛してないなんて、ありえないだろ?」「俺にも分からない」暁は淡々と答えた。いつもは冷静な暁が、どこか途方に暮れた様子で言った。「ただ、この3年間、すごく疲れたんだ。時間を作って恵美に会いに行くのは、もちろん嬉しい。でも、それ以上に、十数時間のフライトを往復する孤独と疲れの方が大きかった。プレゼントを贈るにも、いつも違うものを考えなきゃいけなかった。恵美は気に入ってくれるだろうか、喜んでくれるだろうかって、いつも気にしてた」暁は、いつもメスを握っている節くれだった
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第2話
その女性の名は高木佳奈(たかぎ かな)。暁の病院で研修医をしていた。最初、暁が恵美に佳奈の話をした時は、「ドジで気弱で、しょっちゅう薬を間違える」と、かなり呆れている様子だった。その後、暁は恵美の誕生日を祝いに海外まで来たが、その夜は佳奈と一晩中、症例研究をしていた。電話を切った暁は、恵美の前で佳奈を「勉強熱心で成長したし、人柄も素直で面白い」と笑顔で褒めたたえた。恵美は燃え尽きたロウソクを見つめながら、小さな声で「もうその話、やめてくれないかな」と頼んだ。すると暁は、途端に笑顔を消した。一瞬黙り込んでから、素っ気なく「わかった」とだけ答えた。さらにその後、恵美が何気なく佳奈のことを尋ねると、暁は佳奈とはもう連絡を取っていないと言った。でも、暁が嘘をついているのは明らかだった。夜は小雪が舞っていた。恵美は家にたどり着くと、服が濡れて肌に張り付いていた。指が覚えている暗証番号を入力した。それは、暁と付き合い始めた日だった。暁は番号を変えていなかった。ドアはすぐにカチリと開いた。部屋の中は床暖房で暖められていた。恵美はリビングの中央にあるガラスケースに目をやった。瞬きもせず、じっとそれを見つめているうちに、心臓がぎゅっと縮こまり、涙が堰を切ったように次々とこぼれ落ちた。ガラスケースの中は温かみのあるオレンジ色のライトで照らされ、そこには分厚い航空券の束が置かれていた。一枚一枚に番号が振られていて、合計で988枚もあった。暁はかつて、誇らしげにその写真を撮って、「これが君を愛している証拠だ」と言っていた。そして、「この航空券が千枚貯まる頃には君もきっと国内に帰ってくるから、すぐにプロポーズする。そうすればもう一生、離れ離れにならずに済むのだ」と。心臓の鼓動が一つ、また一つと重くなる。恵美は、異国の地で過ごした辛い日々を思い出していた。予定より早く卒業するため、四六時中、図書館にこもりきりだった。友達を作る時間もなく、周りの学生から「つまらない人」と笑われたこともあった。でも、そんなことは気にも留めず、ひたすら早く暁の元へ帰ることだけを考えていた。卒業論文の執筆中、あまりの疲労で熱を出したこともあった。でも暁には隠して、解熱剤ばかり飲んでいた。そして、何でもないふりをして笑いながら「私も会いたい
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第3話
恵美は感情的になるのが好きではなかった。いつでも理知的で、冷静なのだ。でも、夢の中ではいつもの自分らしくもなく、ヒステリックに暁と口論した。「『疲れた』って言ってたけど、私が会いに行くって言ったわ。なのにあなたは怒って断って、『愛があれば、これくらいなんともない』なんて言ってたじゃない?私が留学したのを恨んでるけど、これは二人で話し合って決めたことよ!あなたは『君の人生は、恋愛だけがすべてじゃない』って言った。だから私も、卒業したら必ずあなたの元へ帰って、もう離れないって約束したでしょ?あなたが疲れているのは分かってた。だから理由も聞いたわ。でもあなたは『心配かけたくないから』って、はぐらかした」恵美は狂ったように暁を問い詰めた。でも夢の結末は、現実と同じように、気まずいまま終わってしまった。翌朝、恵美は割れるような頭の痛みで目が覚めた。顔を上げると、暁と視線がかち合った。しばらく気まずい沈黙が流れた。暁は、血の気を失った恵美の顔を見て、とうとうため息をついた。「仲良くしよう。もう騒ぐのはやめてくれないか?」白いシャツの上に膝丈の黒いコートを羽織っていて、とても様になっている。暁は跪くようにして、恵美に暖かいブランケットをかけた。その鋭く精悍な横顔が、記憶の中のあどけない少年の顔と重なる。でも、恵美の心はもうときめかなかった。ただ、苦さと冷たさが広がるだけだ。「高木さんと俺は、ただの上司と部下の関係だ。信じられないなら、今日、病院に連れて行ってやるよ」「ええ」恵美はうなずいた。少し間を置いて、消え入りそうな声で言った。「あとで、私からも話があるの」昨夜、研究を続けることを決めた。知らない大学を選び、1週間後に出発する航空券も迷わず予約したのだ。これは意地を張っているわけではない。むしろ、たくさん考えた末の決断だった。暁が一時的な怒りで言ったのだとしても、あの言葉は砕けた石のように、心に突き刺さっていた。じくじくと痛んで、無視なんてできなかった。恵美が求めていたのは、いつだって純粋な愛情だけだった。もしそうでないなら、胸が張り裂けそうになっても、いっそ捨ててしまいたい。ただ、暁への敬意から、きちんと伝えようと思った。せめて、円満に別れるという体裁は保ちたかったのだ。車の中では会話もなく、やがて病院
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第4話
「親しくない」たったひと言が、鋭い刃となって恵美の胸に突き刺さった。心はズタズタに引き裂かれた。恵美は、ふっと笑った。そうね、親しくなんかじゃ、ないよね。たかが10年そばにいて、一生一緒にいようって誓い合っただけの、赤の他人なんだから。でも、その答えを聞いた佳奈は、ものすごく嬉しそうだった。キラキラした瞳には、暁への強い想いと、恥じらいが浮かんでいる。佳奈はそっとつま先立ちして、甘い香りのする唇を暁に寄せた。恵美は、その様子をはっきりと見ていた。暁は、一歩下がる必要なんてない。ただ少し顔を横に向けるだけで、スマートに佳奈を止められたはずだった。でも、彼はしなかった。佳奈の唇は、暁のシャープな顎のラインに、そっと触れた。それは、とても甘くて、意味深なキスだった。その光景は、まるで恵美の心を無残にかき乱すように、彼女を地獄の底へ叩きつけた。どうやってその場を離れたのか、自分でも分からなかった。やがて暁から電話がかかってきた。珍しく、彼の声は少し乾いていた。「もう着いた?さっきは……その、何も見てないよな?」「私に見られたら、何かまずいことでもあった?」恵美が静かに問い返すと同時に、涙がすっと頬を伝い、唇の端に流れた。しょっぱくて、苦い。大嫌いな味だった。本当に分からなかった。暁は、自分のことを心配しているの?だったら、どうして裏切ったりするの?「いや、そんなことはない」暁はほっと息をついた。後ろめたさと焦りで、恵美の声に感情がこもっていないことには気づかなかったようだ。「なら、早く上がってこいよ。話したいことがあるんだろ?」彼は軽い口調で言った。「もう行かない」吐く息が白く立ち上る。恵美はぼんやりと呟いた。「あなたにとって、もう大事なことじゃないみたいだし」恵美はそう言うと、電話の向こうで暁が驚き、怒る声も無視して、一方的に通話を切った。……10年という長い付き合いを終わらせるには、かなりの労力が必要だった。高価なジュエリーやペアの洋服、それにインスタントカメラだけでも、大きな箱、数箱がいっぱいになった。期待に胸を膨らませ、海外から持ち帰ってきた新生活のための品々も、今はすべて慈善団体に寄付してしまった。笑顔の収集員たちを見送ってから、恵美はガラスケースを開けた。
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第5話
「なんでこんなことに……」恵美が静かに話し終えると、親友の西村杏(にしむら あん)は憤慨してテーブルを叩いた。そして心配そうに顔を近づけて、恵美をなぐさめた。「恵美、そんなに気を落とさないで」恵美の心はもう空っぽだった。彼女は静かに首を振り、「もう悲しくなんかないから」とささやいた。むしろ杏のほうが、泣きながらお酒をあおっていた。「森田さんはなんで、恵美が絶対に出て行かないなんて思えたわけ?あなたの性格は、私だって知ってるわ。中途半端な妥協なんて、絶対できない人だもの。あのクズ男には、あなたを完全に失うってことがどんなことか、思い知らせてやらなきゃ!新しい大学のことは知らないんでしょ?見つけられなくて、絶対に胸が張り裂けるほど後悔するに決まってるわ!」言い終わるやいなや、杏はカウンターに突っ伏してしまった。恵美は呆然としていた。暁が、本当にそんなふうになるかしら?結局、杏は彼氏が迎えにきて、恵美が会計を済ませた。その時、振り返った拍子に、暁の幼馴染とぶつかってしまった。幼馴染は、恵美の顔を見るとぱっと明るくなった。そして、いきなり恵美の腕を掴む。「恵美さん!暁をなんとかしてよ、あいつ、酔っ払って大変なんだ!」恵美が抵抗する間もなく、個室の中に引きずり込まれてしまった。中はみんなの笑い声で盛り上がっていた。「高木さんがまた負けだ!今回の罰ゲームは、ここにいる男の誰かにキスすること!一体、誰がその幸運を手にするのかな!」佳奈は、うるんだ瞳で、助けを求めるような、甘えるような視線を暁に向けた。そして、甘ったるい声でささやく。「院長、お願い、助けてくれませんか?」暁はシャツの襟元を少し緩めていた。目じりは酒でほんのり赤らんでいる。アルコールで思考が鈍っているのだろう、「何だ?」と聞き返した。ようやく状況を理解した暁は、友人に「ふざけるな」と首を振ろうとした。しかし、ピンクに染まった佳奈の横顔は、もう目の前にあった。その柔らかい手のひらが、頬をそっと撫でる。暁の瞳がすっと暗くなった。喉をごくりと鳴らし、深く佳奈に口づけた。暁はドアに背を向けていた。だから、恵美の瞳から急速に光が失われていくのには気づかなかった。一方、佳奈は、息を切らしながらも恵美にちらりと視線を送った。そして得意げな笑みを浮かべ、挑発
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第6話
恵美の姿にまずきょとんとしたが、すぐに佳奈の赤く腫れた頬に目を落とすと、暁は途端に怒りが込み上げてきた。周りの目も気にせず、足早に佳奈の前に立ち、彼女を背後にかばった。そして、問答無用で怒鳴りつけた。「恵美、頭がおかしいんじゃないか!?高木さんが君に何をしたっていうんだ!なんでこんな理不尽なことをする!」かつて目を潤ませながら、一生愛すると誓ってくれたはずの男が、今は別の女だけを信じ、かばっている。恵美はふっと笑った。「彼女は恥知らずの泥棒猫よ。これだけじゃ理由にならない?」恵美は顔を上げて、詰め寄るように尋ねた。「暁、高木さんはあなたのことが大好きなのね。で、あなたは?どうなの、彼女を愛してるの?」「何を馬鹿なことを言ってるんだ」暁は一瞬視線をそらし、気まずそうに言った。「もういい。ここでそんな話はするな」「そっちはここで高木さんと熱烈にキスしてもいいのに、私は本当のことを言っちゃいけないわけ?」恵美はぷっと吹き出した。でも、その笑いがいかに悲痛なものか、彼女自身にしか分からなかった。その言葉に、暁はすっかりぽかんとしてしまった。まさか、恵美に見られていたなんて。酔いが一気に覚めた暁は、恵美を引き止めようと一歩踏み出した。あれは一時の気の迷いだったと説明したかった。でも、自分を頼るように見つめてくる佳奈の視線のせいで、ためらってしまった。「家で話そう……な?」「もう話すことなんて何もないわ」恵美は暁の手を思い切り振り払った。その力はとても強く、彼女自身のてのひらまでジンジンと痛んだ。彼女は大股で外へ向かった。後ろから暁が慌てて追いかけてくる足音と、佳奈の悔しそうに詰まった声が聞こえた。「院長……」結局、恵美は一人でバーを出た。月明かりが、その寂しげな影を長く長く伸ばしていた。……恵美は、急いで家に帰った。荷物はもうまとめてある。今すぐにでも、この家を出ていくつもりだった。しかし、暁もまた、車を飛ばして帰ってきた。彼は恵美のすぐ後ろで家に入ってきた。まだ息を切らしながら、まばゆいばかりの指輪を取り出し、恵美の指にはめようとした。「恵美、約束しただろう。君が戻ってきたら結婚するって。最近、色々なことがあったけど……この気持ちはずっと変わらなかったんだ。これからは、二人でうまくや
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第7話
「院長、いらっしゃいますか?」佳奈の、子猫みたいなか細い声が突然響いた。恵美は呆然として、そちらに目を向けた。そこには、当たり前のようにオートロックの暗証番号を押して、中に入ってくる佳奈の姿があった。その手慣れた様子から、ここに来たのが一度や二度ではないことは明らかだった。なんて馬鹿げてるの。恵美は、あまりのことに言葉を失った。ここは、自分と暁だけの、二人の家なのに。「どうして、急に来たんだ?」暁は少し驚いたように、佳奈の方へ注意を向けた。佳奈は鼻をすすり、深々と頭を下げた。そして、しゃくりあげながら言った。「謝りに来たんです、恵美さん、すみません!さっきのはただの罰ゲームです。みんな酔ってたし、キスしただけだから平気かなって、恵美さんがそんなに気にするなんて、思わなくて……」佳奈はペアの可愛らしい粘土の人形を差し出し、唇をきゅっと結んで言った。「これ、私が手作りしたんです。ペアになってるんですよ。恵美さんと院長が、末永くお幸せでいられますように!」その言葉は、暁の心にすっと染み入った。恵美と比べると、佳奈の素直で健気な態度が際立った。暁は、さらに不機嫌な表情になった。佳奈は恵美の前に駆け寄ると、「恵美さん、許してください」と言いながら、プレゼントを受け取るようにしつこくまとわりついた。そのあざとい態度に、恵美は吐き気をもよおした。彼女を振り払い、身をかわそうとする。ところが、佳奈はまるで力いっぱい突き飛ばされたかのように、後ろへ大きく倒れ込んだ。「きゃっ……」悲鳴とともに、粘土の人形が床に叩きつけられて砕ける音が響いた。佳奈は、ガラス棚の角に腰をぶつけた。涙が堰を切ったように次々とこぼれ落ちる。「痛い……」まるでひどい仕打ちを受けたかのように、佳奈は声を上げて泣き始めた。「恵美さん、私、あなたが叩いたことも責めずに、謝りに来たのに、どうしてまだ手を出すんですか……」暁は固く拳を握りしめると、すぐに佳奈を抱き起こしてなだめた。そして、心底がっかりしたという目で恵美を睨みつけ、歯を食いしばって言った。「恵美、君はひどすぎる!高木さんが君に何をしたっていうんだ?彼女に八つ当たりするなんて!」腕の中で泣く佳奈の涙が、暁の心をえぐるようだった。彼は息を吸い込むと、有無を言わさぬ口調で
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第8話
さっきは恵美のことばかり考えていて気づかなかった。でも今は違う。自分が3年間、心血を注いできたものが、すべて台無しにされてしまったのだ。この光景を目の当たりにして、心の中にあったためらいや罪悪感はすべて消し飛んだ。代わりに、抑えきれないほどの怒りが湧き上がってきた。暁は、恵美の帰りを待ちわびていた日々のことを思い出した。一枚一枚のチケットが、恵美への想いを募らせ、待ち続けるための希望だったのだ。それなのに今、恵美の身勝手な振る舞いのせいで、すべては価値のない灰になってしまった。ただの邪魔なゴミくずに。「君がやったのか?」暁の声は淡々としていた。しかし頭の中では、とっくに理性の糸が切れていた。殺気にも似た怒りが全身から溢れ出している。恵美は自分のやったことを隠すような性格ではなかった。「ええ、そうよ」「なぜだ?」暁は矢継ぎ早に問い詰める。恵美は静かに繰り返した。「なぜって?」ひどく傷ついたような暁の顔を見て、恵美は急に唇の端を吊り上げて笑った。「暁、あなたって本当に偽善者ね。そんな顔をして、誰を騙すつもり?心変わりしたくせに、それを認めようとしない。でも、私が何も気づいていないとでも思った?もう私のことなんてどうでもいいくせに。こんなものを残して、誰に見せつけるつもりだったの?」目頭が熱くなるのを感じながら、恵美は唇の内側を強く噛んだ。そして、一語一句、絞り出すように言った。「見ているだけで、虫唾が走るわ!」「もういい!」暁は肩で大きく息をしながら、そばにあった椅子を掴み、ガラスケースに叩きつけた。けたたましい音を立ててガラスが砕け散る。暁はこめかみに青筋を立てた。「恵美、君はつけあがりすぎだ!地下室にはゴキブリもネズミもいる。本当の『気持ち悪さ』ってやつを、じっくりと教えてやる!」暁が手を振ると、数人の使用人がすぐに恵美を捕まえ、地下室へと引きずっていった。「暁!どうしてこんなひどいことをするの?離して!」恵美は信じられない気持ちで必死にもがいた。しかし、振り返った暁の背中は、氷のように冷たかった。使用人たちは力が強く、恵美はなすすべもなかった。そのうちの一人が恵美の顔を平手打ちし、声を潜めて吐き捨てる。「喚かないでください!この3年間、本当の女主人は高木さんだったんです!」そのうちの一人が
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第9話
消毒液の匂いが鼻をついた。看護師が呆れたように言った。「やっと目が覚めましたね。どうしてアレルギーの薬を間違えて飲んだりしたのですか?しかもあんなにたくさん。発見が遅れて、運ばれてきた時はショック状態だったんですよ!もう少し遅かったら、死んでましたよ!」恵美は疲れきっていて、力なく笑いながらお礼を言った。看護師の向こう、部屋に入ってきた暁の姿を捉えると、恵美の表情からすっと笑みが消えた。暁は立ち止まり、少し黙ってから、責めるような口調で言った。「電話でちゃんと言うべきだったろ」「高木さんの仕業よ」恵美は、暁の目をまっすぐ見て言った。「ああ、知ってる」恵美の予想に反して暁はうなずき、こう続けた。「でも、わざとじゃないんだ。君が感情的になってるのを見て、落ち着かせようとしただけなんだ。善意からだったんだよ。ただ薬を間違えただけだ。でも、罰は与えておいた」恵美は目をそらさず、かすれた声で尋ねた。「どんな罰を?」暁は眉をひそめた。「半日分のバイト代を減給にした」暁が佳奈をひいきするのは分かっていた。でも、ここまでひどいなんて、呆れてしまう。「それで十分だと?」恵美は嘲るように笑った。肌はアレルギーで黄色い水ぶくれに覆われている。「暁、私がちょっと身をかわしただけで、謝罪を要求したじゃない?それなのに、高木さんにそそのかされた使用人に殴られて、薬まで飲まされて、地下室で死にかけたのよ!それら全部を、たかが半日分のバイト代でチャラにするつもり?ねぇ暁、聞くけど、それって本当に罰なの?ただ甘やかしてるだけじゃないの!」「先に手を出したのは君だろう」暁は感情のこもらない目で恵美を見下ろした。「高木さんは可哀想だよ。君にしつこく絡まれて。俺は彼女を信じている。あんなに心優しい子が、わざと君を傷つけるなんてありえない。自業自得だ。前にも言ったはずだ。高木さんに謝れ」恵美は、その言葉を拒んだ。だから、その後の数日間、たった一人で入院生活を送ることになった。暁の姿を次に見かけたのは、佳奈のインスタだった。投稿されていたのは、可愛らしいネイルをした手が、男性ものの黒いスーツの腕に絡んでいる写真だった。写真には、文章が添えられていた。【私が傷ついてるのを知って、わざわざ休みを取って気晴らしに連れ出してく
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第10話
恵美にラインを送った後、暁はソファに深くもたれかかり、こめかみを押さえながら、ふーっと長いため息をついた。その時だった。骨を感じさせないほどやわらかな手が、そっと手の上に重なり、誘うようにささやきかける。「院長、頭が痛いんですか?よかったら、私がマッサージしましょうか」「ああ」佳奈からは、暁が好むさわやかな香りがした。それは恵美の香りにどこか似ていて、張り詰めていた神経が少しだけほぐれるのを感じた。ここ数日、佳奈の気晴らしに付き合ってはいたものの、ふとした瞬間に恵美のことが頭をよぎる。病院のベッドで、やせ細っていく恵美の姿が目に浮かんで、心配でたまらなくなるのだ。恵美と喧嘩したいわけじゃなかった。恵美が帰国するこの時を、この3年間、どれほど待ち望んでいたことか。本当なら、もっと優しくしあって、お互いを大切にするはずだったのに。だけど、恵美は不安になりすぎている。どうしてあんなに佳奈の存在にこだわるのか、理解できなかった。「君を愛してる」とはっきり伝えたのに。それだけじゃ、まだ足りないっていうのか?そう思うと、暁はまたイライラしてきた。眉間のしわが、さらに深くなる。「院長、恵美さんから謝罪はありましたか?」佳奈は暁のこめかみを揉みながら、その手をこっそりと下へ滑らせていく。「私のことはどうでもいいんです。でも、恵美さんのしたことはあまりにひどすぎます。あんな大事なものを燃やしてしまうなんて……院長が甘やかしすぎるからですよ。私だったら、少し放っておきますね。院長が自分の思い通りになる相手じゃないって、分からせてやらないと!」暁は伏し目がちに、スマホの画面をじっと見つめていた。恵美からの返信を待っているのだ。もとはと言えば、暁も佳奈と同じようなことを考えていた。だから、意地になって恵美を病院に一人残してきたんだ。だけどこの数日、どうしても恵美との昔を思い出してしまう。恵美が海外へ行く前は、週末になるとよく二人で知らない街へ旅行したものだ。誰もいない街角で抱き合ってキスをし、高原でキャンプもした。二人で面白いお店を探し、美味しいものを食べて回った。恵美と一緒にいれば、何をするのも新鮮で楽しかった。思い出せば思い出すほど、恵美への気持ちがどんどん甘くなっていった。10年間も付き合っていれば、喧嘩だってす
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