All Chapters of 断罪された悪役令嬢ですが、冷酷公爵と契約結婚したら運命が書き換わりました: Chapter 1 - Chapter 10

27 Chapters

登場人物

レティシア・ヴァルフォード 元悪役令嬢・20歲 金色の巻き髪、青い瞳。外見は上品で物静かな令嬢だが、その内側には、前世で日本の会社員として働いていた佐藤美穂の記憶がある。頭が良くクールで、感情に流されることは少ない。常に状況を分析し、自分の自由と生存を最優先に考える合理主義者。婚約破棄をきっかけに黒鷲公爵アレクシスと契約結婚し、バッドエンドを回避しようとしている。 アレクシス・フォン・グラナート 黒鷲公爵・26歲 漆黒の髪に、金の瞳。若くして公爵位を継ぎ、軍事・財政・政治のすべてに強い影響力を持つ実力者。冷酷で理性的な人物として恐れられているが、その本質は極めて論理的で一途。感情に流されることがなく、政治や権力闘争に長け、王家ですら無視できない存在。一度信頼し「自分の側」と認めた相手には強い独占欲を示し、徹底的に守り抜く。 エミリア・ローゼン 聖女候補、王太子妃侯補・19歲 領地の管理を任されております淡い銀髪と透き通るような白い肌。純真無垢で可憐な少女として周囲に認識されているが、その本質は強い野心を秘めた計算高い人物。自らを「選ばれる存在」だと疑わず、その地位を守るためなら他者を切り捨てることも厭わない。立場や感情、言葉を巧みに操り、王太子ユリウスとの関係を利用しながら、周囲を自分に有利な方向へ導く。 ユリウス・フォン・エーデルハルト 王国の王太子・23歲 金色の髪、澄んだ青い瞳。端正な容貌に柔和な笑みを浮かべているが、視線の奥には常に計算が潜む。自尊心が強く、思い通りにならない相手を許せない性格。元婚約者であるレティシアが自分の手を離れ、黒鷲公爵に選ばれたことで、強い屈辱と執着を抱くようになる。彼女が不幸になることを願い、王家の力を利用して様々な厄介事を引き起こす。 エレノア・ヴァルディス 黒鷲公爵家執事長代理、兼女中頭・47歲 長年公爵家に仕える使用人で、屋敷の規律と実務を一手に管理している。感情を表に出さず、常に冷静に人を観察し判断するタイプ。黒鷲公爵アレクシスに絶対的な忠誠を誓っており、レティシアに対しても「公爵の妻」として公正かつ厳格に接する。 リナ・ハルトマン レティシアの侍女・19歲 黒鷲公爵家に仕える、公爵夫人付き侍女。 侍女教育と軍務基礎訓練を受けており、優れた観察力と判断力で危機を察知する。寡黙で冷静だが、
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序章 転生と破滅の運命

気がつくと、知らない天井を見上げていた。 白く、高い天井。 金の装飾が淡く光を反射している。 ――見覚えがある。 胸の奥が、ひやりと冷えた。 「ここ……」 声が思ったよりも幼い。 その違和感に気づいた瞬間、記憶が押し寄せた。 満員電車。 無機質なオフィス。 上司の顔色をうかがいながら過ごした日々。 杉木美穂、24歳。 特別優秀でもなければ、取り立てて不幸でもない、どこにでもいる会社員。 ただ一つの逃げ場が、乙女ゲームだった。 そして――理解する。 ここは、その世界だ。 何度も遊んだ物語の、終盤。 悪役令嬢が断罪される、あの舞踏会の場面。 私は、レティシア・ヴァルフォード。 誇り高く、嫉妬深く、ヒロインをいじめ抜き、最後はすべてを失う存在。 (……最悪ね) ゆっくりと視線を巡らせる。 豪奢な広間。 きらびやかなシャンデリア。 着飾った貴族たちの笑み。 けれど、その目は笑っていない。 好奇と嘲り。 これから始まる処刑劇への期待。 ――ああ、そうだ。 物語は、もう終盤なのだ。 この先に待っているのは、婚約破棄、罪の宣告、そして追放。 逃げ場のない、バッドエンド。 前の私は、それを知りながら、どこか他人事のように眺めていた。 ゲームの中の悲劇だから、と。 けれど今は違う。 痛みがある。 重さがある。 心臓の鼓動が、やけにうるさい。 これはゲームじゃない。 私は、ここで生きている。 「レティシア」 低い声が、広間に響いた。 振り向けば、王太子ユリウスが立っている。 整った顔立ち。 非の打ち所のない姿勢。 けれどその瞳は、氷のように冷たい。 かつての婚約者。 そして今から、私を断罪する人。 その視線は、すでに私を切り捨てた後のものだった。 胸がわずかに軋む。 それは私の感情か。 それとも、この体に残されたレティシアの未練か。 分からない。 そのとき、別の視線に気づいた。 広間の奥、影の落ちる場所。 黒衣の男が、静かにこちらを見ている。 黒鷲公爵、アレクシス・フォン・グラナート。 金色の瞳が、わずかに細められた。 嘲笑でも、同情でもない。 ――観察
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第1章 断罪の舞踏会

「レティシア・ヴァルフォード。今日この場をもって、お前との婚約を解消する!」 ユリウス王太子の声が、広間の隅々まで鋭く響き渡る。 深紺の王家礼服には金糸の刺繍が施され、肩章と勲章が眩く光っていた。 その凛とした立ち姿には確かな威厳があった——もっとも、それは表面だけにすぎない。 「これより、レティシア・ヴァルフォードの罪状を読み上げる!」 王太子の声が再び広間に突き刺さる。冷たい視線。断罪の意志だけがそこにある。 「第一。聖女候補エミリア・ローゼンを嫉妬のあまり陥れ、虚偽の噂を流布した罪。」 ざわりと空気が揺れ、貴族たちが互いに顔を見合う。 「第二。王家への正式な報告文を偽造し、王国の秩序を乱した罪。」 扇子が落とす小さな音が、やけに大きく響いた。 「第三。王太子妃として求められる品位を欠き、王家の名誉を傷つけた罪。」 「以上三点、紛れもなく重大な背信行為である! これをもって、お前との婚約を正式に解消する!」 シャンデリアの光は眩いほどきらめき、壁の金箔や彫刻はそれを反射して輝く——まるで私を裁くために、すべての光が集められているかのようだった 貴族たちがざわめき、扇子の陰で口元を隠しながら、指先で私を指す。 嘲り、軽蔑、好奇心。 あらゆる視線が、無遠慮に私を貫いてくる。。 (やっぱり、こうなるのね……) 前世で何度も見た「悪役令嬢のバッドエンド」。これはその焼き直し——私はただ、それを静かに受け入れているだけだった。 「こちらの手紙がその証拠です!」 ユリウスはわざとらしく、“偽造された手紙”をひらひらと掲げる。 「王太子妃にふさわしくない振る舞いです!」 「聖女候補を害するなど、重罪にあたります!」 広間の空気が、一瞬で凍りつく。全員の視線が私に集中し。 (出た…台本通りの断罪イベント。また、この流れ。) 光を受けた紙の端がきらりと光り、文字がくっきりと浮かび上がる。 (この紙があれば、普通なら誰も逆らえない……でも私は知っている。これは全部、偽造だ。) エミリアは淡い黄色のエレガントなドレスにレース手袋をはめ、扇子を巧みに操っていた。今にも泣き出しそうに俯き、肩は微かに震えているのに、涙は一滴も落ちない。そして瞳だけが、かすかに笑っていた。完璧な「庇護される聖女」の演技。 表向きは純真な聖女候補、だが実際
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第2章 冷酷公爵の条件

黒鷲公爵家の紋章が刻まれた漆黒の馬車が、会場の外に静かかに待っていた。 外に出た途端、夜気の冷たさが思った以上に刺さる。 風が吹くたび、肩口から冷気が入り込む。 シャンデリアの光が遠ざかり、王宮のざわめきが後ろへと薄れていく。 「マジか、もう後戻りできないんだ。」じわじわと現実が押し寄せてくる。 重厚な扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き出した。 その瞬間、やっと生き延びたんだと実感した。 馬車の内装は黒革と深紅の布張り。揺れるランプの光が金具を鈍く照らし、ほのかに黒檀の香りが漂っていた。 沈黙が、じわりと空間を重くしていく。 「……いい度胸だ」 耳元に落ちる低い声。 「ただし、裏切れば、王家より先に俺が君を切る」 向かいに座る男——アレクシス・フォン・グラナート。 黒の礼装は無駄な装飾を一切排し、胸元にあるのは黒鷲の紋章だけ。 金色の瞳は閉じているのに、意識は完全にこちらへ向いている気配がする。 (……寝たふり、ね) 呼吸は静かで規則正しい。まるで獲物を待つ狩人の息づかいだ。 私は背筋を伸ばし、ドレスの皺を軽く整える。 守られている令嬢ではない。 今ここに座っているのは——交渉を成立させた女だ。 「勘違いするな」 金の瞳が、ゆっくりと開く。 「君を連れ出したのは情でも善意でもない。王家が“正義”を振りかざすのが気に食わなかっただけだ」淡々とした声音。 だが、その裏には確かな嫌悪がある。 「聖女候補を掲げ、分かりやすい悪を処刑する。民衆は安心し、王家は正義を演じる。腐っている」 (この人は……王家を信用していない) 「君は選ばれただけだ。生贄として」 「理解しておりますわ」 私が即答すると、彼はわずかに眉を上げた。 「怖くないのか」 「怖がる時間があるなら、どうすれば生き残れるか考えるわ」 ふっと沈黙が挟まる。 「だから俺を選んだか」 「王家の庇護は、実質は毒でしたもの」 婚約者ですら簡単に切り捨てられた。 罪人にされたらどうなるか——想像するまでもない。 「修道院送り。あるいは病死、事故死。どれも、よくある幕引きですわ」 彼は否定しなかった。 それが答えだった。 やがて馬車が止まる。 巨大な鉄門が音もなく開き、黒鷲公爵邸が姿を現す。 王宮より華美ではない。 けれど、重厚で、堅牢で、実用
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第3章 黒鷲公爵邸の夜

「今日から君は、黒鷲公爵夫人だ」 その宣言は、祝福ではなく、契約書に押された封蝋の音のようだった。 静まり返った応接室に落ちたその一言は、軽くもなく、重すぎもしない。ただ、逃げ場を閉じるだけの重さを持っている。 ゆっくりと顔を上げる。 「承知しましたわ、公爵様」 声は安定していた。 自分でも不思議なほどに。 その瞬間、扉の外に控えていた気配がわずかに動く。 音はしない。 だが、空気が変わった。 これで、この屋敷での私の立場が正式に定まったのだ。 アレクシスは短く命じる。 「入れ」 扉が静かに開き、無駄のない足取りで入室する。 先頭に立っていたのは、一人の女性だった。 年の頃は40代後半、あるいは50に差しかかる頃だろう。だが背筋はまっすぐに伸び、長年この屋敷を支えてきた者だけが持つ、視線に揺るぎのない落ち着き。 灰色がわずかに混じった黒髪は、後ろで整然とまとめられ。 飾り気のない黒の実務服は質素でありながら、布地の上質さが際立っていた。動きやすさと機能性だけを追求した装い。その服装そのものが、この屋敷の在り方を如実に語っていた。 女性は一歩前に出み、静かに一礼した。 「黒鷲公爵家執事長代理、ならびに女中頭のエレノアでございます」 「奥様」その呼び名が、思った以上に胸に重く落ちる。 肩書きではなく、役割。 「本日はお疲れでしょう、湯の準備はすでに整えております。それから、衣装と……今後のご説明も」 私は一瞬だけアレクシスを見た。彼は何も言わない。否定も、制止もない。 つまり、これは“公爵夫人として扱え”という無言の承認なのだ。 私は軽く微笑んだ。 「よろしくお願いいたします」 案内されたのは、公爵邸の奥。王宮の客室よりも落ち着いていた、装飾は控えめなのに、豪奢ではない。だが、壁材も床も、触れれば分かる上質さだ。 濃い木目の家具、深い紺のカーテン。 王宮とは真逆だ。王宮は光、ここは影。 湯気の立つ浴室へ通される。 白い大理石の床、銅の縁取りが施された大きな浴槽。湯にはほのかな柑橘と薬草の香りが漂う、緊張していた身体が、ようやく少しだけ緩んだ。 ドレスを解かれ、コルセットが外れる、髪が下ろされる、肺が大きく空気を吸い込む。 (……生きてる) 侍女たちは静かだった、誰ひとりとして余計な言葉を発しない。
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第4章 公爵夫人の初日

朝は、音もなく訪れた。 目を覚ました瞬間、違和感があった。 静かすぎる。 王宮の朝は、いつだって遠くで誰かの声がしていた。廊下を行き交う足音、侍女の囁き、貴族の笑い声。華やかで、騒がしくて、常に誰かに見られている空気。 だが、ここにはそれがない。 ただ、重く落ち着いた静かがある。 天蓋付きの寝台。厚手の紺のカーテンを透かして、柔らかな朝の光が差し込む。家具は重厚だが、華美ではない。装飾よりも質そのものを優先した空間だ。 この部屋は、“飾るため”ではなく、“住むため”に作られている。 それが、妙に安心感を与えた。 控えめに、コンッと一度だけノックが響く。 「奥様、お目覚めでしょうか。」エレノアの声。 「ええ、入ってちょうだい。」 扉が開き、数名の侍女と共に彼女が入室する。 昨日と同じ動き。無駄がない。 だが視線が違う。 昨日は“観察”。 今日は“確認”。 “本当に主に値するか。” その無言の問いを、私は正面から受け止めた。 ゆっくりと身を起こす。 「本日より、奥様の一日の流れをご説明いたします。」エレノアは簡潔に告げる。 朝食、旦那様との情報共有。午前は屋敷と領地運営の基礎確認。午後は貴族との顔合わせ。 「ご希望でしたら、初日の動きを遅らせることも可能ですが——」 私は迷うことなく即答した。「予定通り進めて。」 ほんのわずかに、エレノアの口元が緩む。 「かしこまりました。」 身支度を整えながら、私は窓の外に視線を向けた。 朝霧の中、騎士たちが剣を振るっている。 掛け声はない。 あるのは、徹底された規律だけ。 (ここは、要塞ね) 王宮が舞台なら、ここは戦場。 与えられる地位ではなく、守る地位。 ——— 朝食室へ向かう廊下。 濃い石壁、高い天井、絨毯が足音を静かに吸い込む。 角ごとに騎士が立っている その視線は鋭い——けれど、私を見ると一礼した。 「奥様」として扱われている。 重厚な扉が静かに開いた。 「早いな。」低い声。 アレクシスはすでに席についていた。 黒の上着に白のシャツ。装飾は最小限だが、軍服に近い仕立て。 (待たせる側ではないのね) 私は向かいに座る。 静かな朝食。 パンの香り、温かなスープ、焼き立ての肉。 ただ食事の音だけ、誰も話さない。 それでも、この静けさは
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第5章 黒鷲公爵家の流儀

朝はまだ薄い霧に包まれていた。 黒鷲公爵邸の庭は華やかさとは無縁だ。整えられた植え込み、無駄のない石畳。訓練場からは鋼のぶつかる音が響いている。 朝食を終えた私は、窓辺に立ち、その光景を見下ろしていた。 (今日から、本当の意味でこの家に入る) 「奥様、お時間でございます」 エレノアの声は、昨日よりわずかに柔らいでいる。 「朝議でしたわね」 「はい。本日は主要幹部との初顔合わせを兼ねております」 私はゆっくりと振り返った。 「案内してちょうだい」 会議室の重厚な扉が開いた瞬間、空気の密度が変わった。 室内は広すぎず、天井はやや高い。壁は濃色の木材で統一され、装飾は最小限。細長い窓から落ちる光は柔らかく、室内は常に落ち着いた明るさに保たれている。 中央には長い黒檀の会議テーブル。椅子は左右対称に整えられ、上座が奥に置かれていた。 奥の壁には領地図が一枚あるだけ。 整然とした、静かな空間だった。 すでに数名が席についている。 まず、壮年の男が静かに立ち上がる。 「公爵家直属財務総監、ロベール・アルマンでございます。財政および契約管理を一任されております」 落ち着いた灰色の瞳。無駄のない衣服。 彼の視線は人ではなく、常に数字を追う。 収支、損益、将来予測。感情より均衡を優先する男。 黒鷲家の“帳簿”を握る者だった。 続いて、すらりとした体躯の女性が一歩前に出る。 「公爵家直属内政監査官、ミレイユ・ダロワ。領内施行規則および公爵家規律の監督を務めております」 声は静かで揺れがない。背筋は槍のように真っ直ぐ。 逸脱があれば、身分を問わず正す。 黒鷲家の“秩序”を守る番人だった。 最後に、日に焼けた男が腕を組んだまま口を開く。 「公爵家騎士団副長、ディオン・ラグラン。実戦指揮と訓練統括を担っている」 三十代半ば。鋭い目は常に周囲を測る。言葉は少ない。だが彼の判断一つで戦況は変わる。 黒鷲家の“刃”を預かる男だった。 上座に座る黒衣の男。 アレクシス・フォン・グラナート。 金色の瞳が、静かにこちらを捉える。 彼は指先で隣の席を示した。 「座れ」 私は一礼し、その席に着く。 (逃げ場はない、ということね) ロベールが帳簿を開く。 「奥様には、当家の財政概要をご確認いただきます」 分厚い帳面が置かれる。装飾
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第6章 黒鷲公爵家の内側

会議後、石壁の廊下。 私とアレクシスの足音が並ぶ。 「緊張は」 「しておりました」 「顔には出なかった」 「出せば負けですもの」 彼がわずかに笑う。 「この家の流儀をどう思う」 私は少し考える。 「冷たい。けれど、公平です」 「王宮より良いか」 不意打ちだった。 私は足を止める。 「……はい」 金色の瞳がわずかに揺れる。 「理由は」 「ここでは、私が“誰の婚約者だったか”は関係ない」 まっすぐに答える。 「役に立つかどうか。それだけです」 彼は何も言わなかった。 だが、歩幅がわずかに揃う。 午後。 エレノアが知らせに来た。 「王宮より使者が参りました」 封蝋には王家の紋章。 私はアレクシスの書斎へ向かう。 彼はすでに封を切っていた。 「三日後、王宮晩餐会への招待だ」 「早いですわね」 「探りか、牽制か」 「両方でしょう」 彼は書簡を机に置く。 「行くか」 試すような声。 「当然です」 「理由は」 「逃げれば、弱いと見なされます」 「恐れは」 「あります」 私は正直に答える。 「ですが、怖いままで進みます」 彼が一歩近づく。 指先が一瞬だけ、私の手首に触れる。 確認するように。すぐに離れる。 「黒鷲公爵夫人として振る舞え」 「ええ」 「俺の隣で」 胸の奥が静かに熱を帯びる。 窓の外、黒鷲の旗が夜風に揺れていた。 —— 朝は、目覚ましの鐘など鳴らない。 代わりに、決まった時刻になると、屋敷全体の空気がわずかに動き出す。廊下の足音、扉の開閉。交わされる声は短く、必要最低限。 私は一度深く息を吸い、身体を起こした。 控えめなノック。 「奥様、お目覚めでしょうか」 「ええ」 扉が開き、エレノアと数名の侍女が入室する。 だが、その中に、一人見慣れない顔があった。 年は私より少し下だろう。 淡い色の髪をきちんとまとめ、姿勢が良い。視線は低いが、周囲をよく観察している。 エレノアが告げる。 「本日より、奥様付として配置される者でございます」 そう言って、彼女はその少女を示した。 「リナ・ハルトマンと申します」無駄のない所作。 「よろしくお願いいたします、奥様」感情は控えめ。だが迷いはない。 王宮なら、まず“相性”や“扱いやすさ”が優先される。
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第7章 噂と実像

昨夜は、久しぶりに深く眠れた。 石壁に囲まれた寝室は、静かだった。 夜半に足音が近づくことも、遠くで誰かが低く言い争う気配もない。 黒鷲家は冷たい。だが、曖昧ではない。 その単純さが、思っていたよりも心を軽くしていた。 朝の空気に、わずかな緊張が混じった瞬間。 私はすぐに、それと分かった。 足音が、いつもより揃っている。 扉の開閉は短く、正確だ。 朝食室には、すでに人の気配があった。 だが、声は落ち着きすぎている。 視界の端で、騎士の立ち位置が半歩前に出ている。 使用人の数は抑えられ、私語は一切ない。 だが、内部向けではない。 内部調整であれば、巡回は増える。 今は違う。 動線が整理され、視線は入口を意識している。 外部対応。 前に、エレノアがそう言っていた。 ——来客対応 向かい側の席で、アレクシスが静かに食事を進めている。 ふと、視線が合う。 「気づいたか」 低く、短い。 「ええ」 それだけで、通じる。 彼はわずかに眉を動かした。 「慣れるのが早いな」 「必要ですから」 その返答に、彼の視線が一瞬だけ柔らぐ。 ちょうどその時。 エレノアが一歩前に出た。 「本日、午前中に来客がございます。王都よりの使者です。」 アレクシスはわずかに眉を動かした。 「グレイか?」 「はい。外務局付の文官で、定期折衝を担当しております。」エレノアを話を続く アレクシスは短く頷く。 「時間は?」 「本来は正午の予定でしたが、本日は午前十時に変更されております。」 わずかな沈黙。 私は静かに言う。 「二時間、早いのですね」 「はい」 理由の説明はない。 だが、必要もない。 アレクシスは淡々と告げる。 「準備は」 「既に整っております」 それだけ。 日付は変わらない。 訪問も定期の範囲内。 ただ—— 時間が少し前にずれただけ。 王宮は、反応を見たいのか。 それとも、急ぎの確認か。 いずれにせよ。 黒鷲家の朝は、乱れない。 「名はグレイ・フォード。外務局付の文官で、これまで数度、黒鷲公爵家との折衝を担当してきた人物だという」 エレノアは、確認するように私へ視線を向けた。 「……王宮の人間、ですね」 「はい。奥様が王太子の婚約者であった頃にも、一度だけお目にかかっているかと」
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第8章 屋敷の反応

応接が終わったあとも、屋敷の表面は静かだった。 扉の開閉も、足音も、いつもと同じ。 何事もなかったかのように、日常は整えられている 騎士の配置は元に戻り、巡回の音もいつもと変わらない。 使用人たちの動きに乱れはない。 黒鷲公爵家は、外部との接触一つで日常を揺らすような屋敷ではなかった。 だが、まったく同じかと問われれば……そうではない。 廊下を進むたび、わずかな視線を感じる。 露骨ではない。 立ち止まる者も、囁き合う者もいない。 ただ、確認するような目。 (……もう、“噂の中の公爵夫人”ではない) それを言葉にする者はいない。 だが、廊下ですれ違う使用人たちの視線が、昨日までとは違う。 迷いではなく、測るような目。 ——判断されている。私は、確かにそう感じていた。 執務室へ向かう途中、リナが半歩後ろから声をかける。 「奥様。先ほどの応接についてですが」 「もう動きが?」「はい。内容ではなく、“対応の仕方”が共有され始めています」 ――早い。 だが、この家では当然だ。 「評価は?」 「……様子を見る、という空気です」 警戒でも、賞賛でもない。 だが、それは軽視されていない証拠だった。 執務室に入ると、エレノアがすでに待っていた。 机の上には、まとめられた報告書が数通。 「公爵様は騎士団へ向かわれました」 「承知しています」 「こちらは、王都からの速報です」 差し出された書簡に目を通す。 正式な通達ではない。 だが、情報部経由の断片としては十分だった。 ――黒鷲公爵夫人の応接対応について、王宮内で意見が割れている。 「思ったより早いですね」 「はい。肯定と警戒が拮抗しています」 私は視線を落とさずに問う。 「明確な否定は?」 「現時点では……表に出ていません」 それでいい。 完全な否定が出ない時点で、“扱いづらい”という評価は崩れている。 「今後は、個人的な接触も増えるかと」 エレノアの声は淡々としている。 「構いません。ただし、窓口は整理します」 「奥様が直接対応される案件は?」 「判断が必要なものだけ。形式的なものは、これまで通りで」 「承知しました」 彼女は余計な確認をしない。判断の線引きが、すでに共有されているからだ。 執務の合間、控えめなノックがあった。 「入っ
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