Tous les chapitres de : Chapitre 11 - Chapitre 20

27

第9章 静かな変化は

翌日、屋敷はいつもよりわずかに早く動き出していた。 昨夜と同じ石壁、同じ回廊。 だが、空気の重さだけが違う。 鐘の音は規定の時刻通りに鳴り、騎士の巡回も足並みを揃えて中庭を横切っていく。 表面上の秩序は、昨日までと何ひとつ変わらない。 だが、厨房の方から漂う匂いだけが、確かに違っていた。 刺激の強い香辛料は、使われていない。 甘さを引き立てるための余計な工程も省かれている。 火を入れる時間、仕上げの順序、配膳までの動線―― すべてが、必要最小限に整理されていた。 誰かが命じたのではない。 現場が、判断した。 私は回廊を進みながら、その匂いを無意識に受け取っていた。 昨日までとは違う、余計な甘さのない香り。 (……受け取られた) 命じたわけではない。 だが、確かに届いている。 誰かが声高に命じたわけではない。 だが、昨日のやり取りは、すでに屋敷の内側へと浸透していた。 食事室に入ると、使用人たちは静かに配置につく。 視線を走らせる者はおらず、動きは簡潔で、互いの間合いも正確だった。 アレクシスは、すでに席についていた 手元の書類を一枚閉じ、私に気づくと視線を上げる。 「おはよう」 「おはようございます」 それだけのやり取り。 だが、彼の視線は自然に室内全体を捉えていた。 配膳が整い、料理が並ぶ。 質素だが、温度も香りも適切だ。 アレクシスは一口運び、わずかに眉を動かした。 「厨房が変わったな」 責める調子ではない。 評価とも断定ともつかない、ただの確認。 「余計なものを削っただけです」 アレクシスは皿を見下ろし、二口目をゆっくりと運ぶ。 「……それが、一番難しい」 そう言ってカップを手に取った。 形式を保つことは容易い。 だが、削ることは覚悟がいる。 この屋敷でそれを理解しているのは、彼も同じだった。 少し間を置いて、アレクシスが口を開く。 「今朝、騎士団経由で照会があった」 「王宮から、ですか」 「ああ。君がどこまで関与するのか、探っている」 “探る”という言葉に、私は小さく頷いた。 「想定の範囲内ですね」 「拒否する気は?」 「ありません。ただし、曖昧な場には出ません」 彼は視線を上げる。 「条件は」 「判断を要する案件であること。 そして、必ず記録が残る場である
Read More

第10章 軽視できない存在

グレイは、その日、いつもより早く目を覚ました。 王都の朝は騒がしい。 だが、この日は違う。 外務局の宿舎に漂う空気が、どこか張り詰めている。 窓の外の声も、抑えられているように感じた。 机の上には、前日の応接記録。 黒鷲公爵家でのやり取りを、可能な限り正確に書き留めたものだ。 言葉遣いは簡潔。 感情の揺れはなく、判断の線引きが明確。 (……これは、想定外だ) 王宮が把握していた「黒鷲公爵夫人レティシア」は、感情的で扱いづらく、場の空気を乱す存在だった。 今回の訪問も、「確認」で済ませるはずだった。 刺激せず、深入りせず、反応を見るだけ。 だが―― 彼女は、その前提そのものを壊した。 「判断が必要な案件には関与する」 要求ではない。 主張でもない。 ただ、事実として置いた。 グレイは外套を肩に掛けながら、無意識に眉を寄せる。 濃紺の文官服に身を包み、胸元には王宮の紋章章だけが控えめに光っていた。刺繍も装飾も最小限。 派手さはないが、仕立ての良さだけは隠せない。 ――いかにも「王宮の人間」だった。 (……彼女は、権限を欲しがっていない) (だが、権限を避けてもいない) そこが、厄介だった。 午前中、王宮内では非公式のやり取りが交わされる。 「黒鷲公爵夫人は直接出てくる気だそうだ」 「いや、条件付きだ。記録が残る場でなければ応じないらしい」 「面倒だな」 「だが、拒否もしていない」 「……測るなら、今だ」 最終的に決まったのは、王宮外での個別確認。 距離を保ちつつ、責任を曖昧にできる配置。 グレイは、その窓口役を任された。 「またか」 誰にも聞こえない声で、呟く。 (……今度は、こちらが測られる) 午前。 私設応接室。 本来は午後に予定されていた会談だが、王太子ユリウスの要望で、急きょ午前へと繰り上げられた。 理由は告げられていない。 黒鷲公爵家に到着すると、すでに黒鷲公爵家の騎士たちが配置についていた。 過剰ではない。だが、隙がない。 「整えすぎだ……」思わず心中で呟く。 それは威圧ではない。 だが、油断も許さない配置だった。 扉が開き、私は応接室へと案内された。 黒鷲公爵夫妻。 アレクシスは変わらない。 だが―― 隣に立つレティシア。 場に入った瞬間、空気が定まる。
Read More

第11章 無踏會の裏側

俺は王宮の舞踏会が嫌いだ。 音楽は必要以上に大きく、笑顔はどれも磨き上げられた仮面だ。 酒は甘く、言葉はもっと甘い。だが、その裏側にある計算だけは、決して甘くない。 今回の舞踏会の招待状が届いたのは、夜会の五日前だった。 通常なら、一か月前に通知が来る。 日程の調整、衣装の手配、随行や護衛の配置。 宴に供される料理の予算、座席の順、どの家がどの位置に立つか。 それらが整って初めて「招待」と呼べる。 王太子主催とはいえ、五日前の通知は短すぎる。 不可能ではない。 だが、余裕がない。 封書を手に取る。王家の印章、紙の厚み、文面の整い方。 形式は完璧だ。完璧すぎる。 封の縁をなぞりながら、違和感が胸に残る。 ――急いでいるのに、急いでいると悟らせない文面。 「各家とも同時期に受け取っております」 側近の報告は冷静だった。 貴族たちは「今回は準備が短いな」と笑う程度。 欠席するほどの無理ではない。 だから誰も疑わない。 だが俺の元には別の報告が届いていた。 三日前から、内廷の警備配置が変更されている。 衣装師が慌ただしく動き始めたのも三日前。 だが―― 聖女候補エミリアの衣装だけは、すでに仕立て終わっていた。 偶然にしては、整いすぎている。 つまり、この舞踏会は五日前に決まったのではない。 もっと前から決まっていた。 だが“誰か”に時間を与えたくなかった。 その意図だけが透けて見える。 結論は出さない。 判断材料が足りない。 だが、違和感は消えない。 「出席する」 アレクシスは書類から視線を上げずに告げた。 「派手な衣装は不要。 今夜は祝う夜ではない。観察する夜だ」 クラウスは静かに一礼する。 「承知いたしました。 落ち着いた装いを、すぐにご用意いたします」 公爵は短く頷くだけだった。 そのわずかな仕草で、クラウスは必要な意図をすべて読み取る。 「紋章は控えめに。視線を集める必要はない」 「かしこまりました」 執事は音もなく部屋を辞し、準備へと向かった。 ―― 会場はいつも通り華やかだった。 シャンデリアの光、磨き上げられた床、甘い香り。 壁際に立ち、杯には手を伸ばさない。 王太子ユリウスは中央で笑っている。 隣に立つのは聖女候補エミリア。 白い衣装。完璧な立ち位置。
Read More

第12章 王宮へ向かう日

王宮晩餐会当日の朝、屋敷の空気はいつもと違っていた。騒がしさはない。けれど、静まり返っているわけでもない。廊下では使用人たちが忙しく行き交い、いつもより短い言葉で確認を交わしている。銀器は磨き直され、花は新しく生け替えられていた。騎士たちの姿も、普段より目につく。誰も騒がない。だが、誰も気を抜いていない。私は朝食の席に着きながら、自分の指先に力が入っていることに気づいた。カップを持つ手にわずかに震えがある。白磁の縁が、指の圧で冷たく感じた。アレクシスがそれを見ていた。「眠れなかったか」「途中で何度か目が覚めました」彼は責めるでも慰めるでもなく、淡々と頷く。「行かないという選択もある」試すような言い方ではなかった。ただ事実を並べただけの声音。「行きます」私は迷わず答えた。「いいえ。ただ、緊張しています。逃げれば、弱いと見なされます」「恐れはあるか」「あります」彼は紅茶を一口飲んでから言った。「それでいい。恐れを自覚しているほうが、判断を誤らない」その言葉で、胸の奥のざわつきが少しだけ落ち着いた。朝食後、王宮より座次予想図が届いた。執務室の机上には、晩餐会の配置図が広げられている。王太子は中央。その右に聖女候補。黒鷲家は三席離れた位置。近すぎず、遠すぎない距離だ。近すぎず、遠すぎない。牽制にも、対話にも使える距離。「殿下は必ず話を振ってくる」アレクシスが言う。「婚約の件か、内政か」「軍需改革に振られる可能性がある」アレクシスが淡々と告げる。「どちらでも構いません」私は配置図を見つめたまま答える。「聞かれたことにだけ答えます。余計なことは言いません」アレクシスは腕を組んだまま、静かに続ける。「殿下が踏み込んできた場合でもか」「はい」「でも、必要なら言います。黒鷲家として」彼の視線がまっすぐに向けられる。「俺が止めてもか」一瞬、息を整える。「止める理由があるなら従い
Read More

第13章 王宮の晩餐会(上)

馬車が石畳を踏む音が、一定のリズムで響いていた。揺れは穏やかだが、心臓の鼓動はそれより速い。窓の外では、王都の明かりが流れていく。やがて視界の奥に、王宮の白い外壁が現れた。夕闇を受けて淡く輝き、無数の窓から温かな光が漏れている。近づくにつれ、空気が変わる。門前にはすでに数台の馬車が並び、各家の紋章が灯りに照らされていた。従者たちの衣擦れ、馬の息遣い、控えめな会話。華やかだが、浮ついた気配はない。緊張が漂っている。馬車が止まる。扉が開き、外の空気が流れ込んだ。アレクシスが先に降りる。深い紺色の礼装が光を受け、静かな存在感を放つ。彼は振り返り、私に手を差し出した。その手は揺れない。私は指先を重ね、ゆっくりと地面に足を下ろす。視線が集まるのを感じた。直接見てくる者もいれば、あえて視線を逸らす者もいる。黒鷲公爵家。そして、かつて婚約破棄された女。噂はすでに広がっているはずだ。だが、誰も口には出さない。王宮の階段を上がる。両脇に立つ待従たちは正面を向いたままだが、背後に緊張が走っているのが分かる。大広間の扉が開かれると、音楽と人々のざわめきが一斉に押し寄せた。高い天井から幾重にも吊り下げられた水晶灯が、金色の光を床に落としている。壁には王家の紋章をあしらった織物。光が大理石の床に反射し、足元を淡く照らす。金と白を基調とした装飾が、王家の権威をこれでもかと示していた。王宮の広間には、すでに数名の貴族が集まっていた。扉の前に立つ宮廷典礼官が、銀杖を床に打ち鳴らす。乾いた音が広間に響いた。「黒鷲公爵アレクシス・フォン・グラナート閣下、ならびに公爵夫人レティシア・ヴァルフォード閣下、ご入場。」その瞬間、空気が変わった。 視線が一斉にこちらへ向く。 音楽だけが、変わらず空間に流れている。中央には王太子ユリウス。その隣に聖女候補エミリア。白の衣装は光を受けて輝いている。宮廷典礼官の声が響いた後、私たちは広場中央へ数歩進む。王太子の前で足を
Read More

第14章 王宮の晩餐会(下)

王太子ユリウスが杯を置き、ゆるやかに口を開いた。「春の王都は穏やかだ。庭園の薔薇も間もなく見頃だろう。」大神殿長・セドリック伯爵が静かに頷く。「神殿の庭でも花が開き始めております。民の心が和らぐ季節でございます。」エミリアが微笑む。「花が咲くたび、神の恵みを感じます。」その声音に、場の空気が柔らぐ。王国農政官ヨハン侯爵が杯を軽く掲げる。「西境でも今年は収穫が期待できそうです。葡萄の出来は良好でして。」「それは結構。」王太子は応じる。「いずれ王都にも届けてほしい。」「喜んで。」突然、王太子が話題を変える。「黒鷲公爵。先日の件では、ずいぶんと大胆な判断をされたようだ」口元は笑っている。だが、目は笑っていない。アレクシスは静かに応じる。「王家の決定を尊重した結果です。」「ほう?」周囲がわずかに息を呑む。ユリウスの指が杯の縁をなぞる。「尊重、か。婚約解消の場で即座に求婚とは、ずいぶん迅速だった。」ユリウスはそう言った後、全員が私に視線が集まる。アレクシスは動かない。「迅速でなければ、無礼になると判断しました。」「無礼?」「王家が不要とした方を、我が家が受け入れただけです。」ユリウスの目が、一瞬だけ鋭くなり、私をまっすぐ見た。「では公爵夫人は、王家に不要とされたと認めるのか。」私は息を整え、顔を上げた。「王家の判断は、王家の事情によるものと理解しております。」淡々とした口調に。「ですが、私の価値は王家の評価のみで決まるものではありません。」そう言ったあと、長い卓の周囲は一瞬で静寂に包まれた。「黒鷲家が必要と判断した。それが、今の立場です。」ユリウスは一瞬言葉を失った。エミリアが微かに眉を寄せる。「自信があるようだな。」王太子の声は低い。私は視線を逸らさない。「恐れはあります。ですが、恐れがあるからこそ慎重に判断いたします。」王国財務官夫人エリザベートが私を見つめる。
Read More

第15章 黑鷲家の過去

王宮の灯が遠ざかり、馬車の窓に映る光が細く揺れていた。
 車輪の音は一定で、夜の石畳を滑るように進む。先ほどまで交わされていた言葉の応酬が嘘のように、車内には静かな空気が満ちていた。 アレクシスは向かいに座り、外を見ている。王太子の視線も、探りも、あの一瞬の鋭さも、何一つ残していないかのように、ただ静かだ。 だが、レティシアは思う。 本当に、何も残っていないのだろうか。 晩餐会での彼は、一度も言葉を乱さなかった。
 挑発にも、試探にも、怒りにも、動じなかった。 それは冷静だからか。
 それとも——慣れているからか。 ふと、胸に浮かんだ疑問は消えなかった。 彼は、いつからあの顔をしているのだろう。 夜気が少し冷たい。馬車が屋敷の門をくぐり、静かに止まった。扉が開く。クラウスが一礼し、二人を迎えた。「お帰りなさいませ」 アレクシスは短く頷く。「変わりはないか」「はい。邸内は静穏にございます」 それだけを確認すると、彼はそのまま書斎へ向かった。歩みは迷いなく、重くも軽くもない。 レティシアは一瞬だけ立ち止まり、その背を見送る。 強い。揺らがない。 だが——揺らがぬことは、本当に強さなのだろうか。 自室へ戻る途中、長い廊下の壁に掛けられた肖像画が目に入った。黒鷲家の歴代当主。その中でも中央に掲げられた一枚——先代公爵。 鋭い眼差し。整えられた黒髪。冷厳な威圧。 アレクシスに、よく似ている。「奥様」 背後から低い声がした。振り返ると、クラウスが立っている。彼は少年時代からアレクシスに仕え続ける、黒鷲家の執事である。「何かご用でしょうか?」 レティシアは少しだけ迷い、やがて問いかけた。「先代公爵様は……どのようなお方でしたか」 クラウスの表情が、わずかに柔らぐ。「先代公爵レオポルト様は厳格なお方でございました。黒鷲の名に相応しくあろうと、常に己を律しておられました。」その声音には、敬意が感じられるようでした。「旦那様は、似ておられますね」「……はい」短く、だが確かな肯定だった。
Read More

第16章 封書の警告

王宮から戻った二日後、黒鷲公爵邸はいつもと変わらぬ静けさに包まれていた。 レティシアは部屋で本を読んでいた。突然、ドアをノックする音がした。 「どうぞ」 「奥様、旦那様より、書斎にてお待ちするようにとのことです」 エレノアの声は変わらず落ち着いていたが、その瞳の奥に、わずかな緊張が宿っていた。 レティシアは一瞬だけ彼女の顔を見つめ、静かに頷いた。 「わかりました、すぐに向かいます」 --- 書斎の扉の前に立つと、深呼吸をひとつ。 (何があっても、冷静に) ノックの音に応じて、扉が静かに開かれる。 中には、アレクシスがいた。机の上には、封を切られた書簡がいくつも並び、彼はその一つに目を落としていた。 眉間には深い皺が刻まれ、金色の瞳は鋭く光を宿している。 「公爵様、どうなさいましたか?」 「座れ。話がある」 その声は低く、だがいつもより少しだけ硬かった。 レティシアは静かに椅子に座わります、背筋を伸ばす。アレクシスは一通の封書を手に取り、彼女の前に差し出した。 封蝋には、見慣れた紋章——大神殿のものが刻まれていた。 「セドリック伯爵から?」 「そうだ。中身は……これだ」 レティシアが封の中の書簡を取り出した、紙には短く、だが意味深な文が記されていた。 『神の御心に背く者には、必ず裁きが下る。 その時が来た。』 レティシアは眉をひそめ、紙を見つめたまま呟いた。 「これは……脅し?」 「いや、警告だ。大神殿が動き出す」 アレクシスは立ち上がり、窓の外を見つめた。 朝の光が石造りの壁に反射し、書斎の空気は冷たく澄んでいた。 「先日の晩餐会で、君は王家に対して一歩も引かなかった。あれは、彼らにとって“反逆の兆し”に映っただろう」 「でも、私は事実を述べただけです」 「それが問題だ。王家にとっての“事実”は、常に彼らの都合で決まる」 レティシアは拳を握りしめた。 (また、理不尽が迫ってくる…… ) 「どうすれば……?」 「先手を打つ」 アレクシスは机の引き出しから、一枚の大きな地図を取り出した。それは王国全土の詳細な地図で、各地の領地が色分けされている。 彼の指が、王都から南へ延びる街道をなぞり、一つの領地を指し示した。 「グラナート領。黒鷲公爵家の本領だ。ここへは馬車で二日かかる」 レティシアは地図を
Read More

第17章 静かなる盾

私——ハース・ヴェルナーは、公爵様の呼び出しを受け、書斎へと向かった。扉の前で一度、軍服の襟を正す。(公爵様が、急に呼び出すとは……何かあったのか?)ノックをすると、低い声が響いた。「入れ」扉を開けると、書斎の中にはアレクシス公爵様——そして、公爵夫人レティシア様がいらっしゃった。(公爵夫人も……?)私は姿勢を正し、一礼した。「ハース・ヴェルナーです。お呼びでしょうか、公爵様」「ああ。レティシア、紹介する。彼は俺の副官で、情報と護衛を統括している。十年来の腹心だ」公爵様がそう言うと、公爵夫人は静かに立ち上がり、こちらを向いた。私は慌てて一礼する。「公爵夫人様、初めてお目にかかります」「こちらこそ。いつも公爵様をお支えいただき、ありがとうございます」公爵夫人の声は、落ち着いていて、優しかった。私は少し驚いた。(噂とは……随分違う方だ)王都で囁かれている"悪女公爵夫人"の姿とは、まるで違う。目の前にいるのは、落ち着いた物腰と、凛とした気品を持つ女性だった。むしろ、公爵様に対する敬意と、感謝の気持ちが、その言葉から伝わってくる。(これが……本当の公爵夫人様なのか?)私は心の中で、王都の噂を疑い始めた。---公爵様が続けた。「ハース、明後日の早朝、グラナート領へ出発する。護衛の手配を頼む」「承知しました。精鋭騎士十名、明日中に準備を整えます」(グラナート領……公爵様が、領地へ?)「頼んだ。それと——」公爵様は机の上の伝信用紙に、素早く文を書いた。私はその文面を見た。『四日後の夕方、グラナート領に到着する。今回は、公爵夫人レティシアを伴っての長期滞在となる』(長期滞在……公爵夫人を伴って?)公爵様が領地に行くのは、年に一度、それも数日だけだ。だが、今回は——これは、ただの視察ではない。何か、大きな動きがある——「これを、私設伝信網でエルヴィンに送れ」公爵様が伝信用紙を差し出した、私はそれを受け取り、一礼した
Read More

第18章 本領へ

「その通りだ。王都で大神殿が君を攻撃しても、領民が君を支持すれば——君の立場は揺るがない」 アレクシスは地図を指差しながら続けた。 「グラナート領は、山を越え、森を抜ける道のりだ。人口は約五千。主な産業は農業、林業、そして——鉄鉱石の採掘」 「鉄鉱石……」 「ああ。領地北部に良質な鉄鉱脈がある。それが、黒鷲家の軍事力を支えてきた」 アレクシスの表情が、わずかに曇った。 「だが、毎年の短い視察では、領民の本当の声を聞くことができなかった。執政官のエルヴィンからの報告書は正確だが、それでも、すべてを把握しきれているわけではない」 「執政官……?」 「ああ。エルヴィン・シュトラウス。五年前、王国行政学院から招いた優秀な官僚だ。三十代で、領地の統治を任せている。四半期ごとに詳細な報告書を送ってくる。信頼できる人物だ」 レティシアは頷いた。 「わかりました。私も、公爵夫人として——領民に顔をお見せしたいです」 アレクシスは彼女を見つめた。 「……本当に、君は変わったな」 「変わった……?」 「ああ」アレクシスは頷いた。「王宮にいた頃の君は——もっと、脆く見えた。まるで、誰かに依存しなければ生きられないような」 レティシアは少し寂しそうに微笑んだ。 「それは……本当の私ではなかったのかもしれません」 「本当の……?」 「……王宮では、『期待される姿』を演じていました。王太子殿下の婚約者として、完璧な貴族令嬢であろうとして。でも、断罪されて——全てを失って——ようやく、本当の自分になれた気がします」 アレクシスは長い沈黙の後、静かに言った。 「ならば、あの断罪は——君にとって、救いだったのかもしれないな」 レティシアは目を見開いた。 そして、ゆっくりと頷いた。 「……そうかもしれません」 --- 翌日、黒鷲公爵邸館全体が、出発の準備に追われていた。 使用人たちが荷物を運び、馬車の点検が行われ、護衛の騎士たちが武器を整えている。 書斎ではアレクシスとハースが、大きな地図を広げて協議していた。 「護衛は精鋭騎士十名。王都から領地までの街道は比較的安全だが——」 ハースが地図上の数カ所を指差した。 「この森と、この峠は盗賊が出没する可能性があります。警戒を強化します」 「頼む」アレクシスは頷いた。「それと、レティシアの護衛
Read More
Dernier
123
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status