All Chapters of 枕元の結婚写真が消えた日: Chapter 1 - Chapter 8

8 Chapters

第1話

寝室の枕元。そこには長年、私たちの結婚写真が飾られていた。だがその日、夫はそれを研究室の先輩が描いたという油絵に掛け替えた。その瞬間、私の心の中でぷつりと、何かが切れた。晴彦の前に離婚届を突きつけたとき、彼は氷のように冷たい瞳で私を見上げ、吐き捨てた。「たかが絵を一枚掛け替えたくらいで、何を言っている。離婚だと?正気か。あれほど可愛がっている息子の親権まで放棄するつもりか」私は静かに頷いた。もういい。すべて手放してしまおう。手塩にかけて育ててきた息子もまた、父親と同じ穴の狢だったのだ。彼らの心の一等地に居座っているのは、私ではなく、別の女なのだから。……上原晴彦(うえはら はるひこ)はテーブルの向かいに座り、能面のような顔で離婚届に目を滑らせている。真面目に読む気などないのだろう。ざっと一通り眺めただけで、すぐに放り出した。「絵を変えた程度で離婚とはな。頭を冷やせよ。俺はお前のヒステリーに付き合ってる暇はないんだ。それに、大事な息子はどうする。置いていくのか?」私はふと、視線の先に目をやった。そこには、とっくに就寝時間を過ぎているにもかかわらず、ソファでテレビに夢中になっている息子の上原薫(うえはら かおる)の姿があった。私は告げた。「いらないわ」晴彦は何の躊躇なくペンをさらさらとペンを動かし、サインを済ませた。その目は、私がまたいつもの癇癪を起こしているだけだとでも言いたげに、冷めきっていた。今日の午後のことだ。私はいつものようにキッチンに立ち、夕食を用意した。メニューは肉じゃが。あの二人の大好物だ。壁の時計が時を刻む音を聞きながら待ち続けたが、玄関が開く気配はない。晴彦に電話をかけても、たった二コールで通話が切れた。着信拒否だ。時計の針が十時を回った頃、ようやく二人が帰宅した。父子は、厳重に梱包された絵画を、まるで壊れ物を扱うかのように慎重に運び込んでくる。私が三度も温め直された料理には目もくれず、二人は打ち合わせたかのように食卓を通り過ぎ、足早に寝室へと消えていく。寝室のドア越しに、晴彦が枕元の結婚写真に手をかけ、取り外そうとしているのが見えた。「どうして、急に外すの?」私の問いかけにも、晴彦の手は止まらない。「絵を変える。ただそれだけのことが、
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第2話

薫の言葉は、残酷なほど正しかった。私にはこの街に、友達と呼べる存在なんて一人もいなかったのだから。晴彦と遠距離恋愛をしていたあの頃。私はただ、彼を失いたくなくて、彼と共に歩む未来を築きたくて必死だった。住み慣れた故郷を捨て、やりがいを感じていた仕事も辞めた。当時の私は愛に溺れ、盲目になっていたのだと思う。運命の相手はまさに彼であり、二人の未来は輝いているものだと信じて疑わなかった。その後、私たちは確かに幸せだった。愛する息子、薫も授かった。薫は人一倍手がかかる子供だった。一方で晴彦は、自身のキャリアを諦めることを拒んだ。「結婚っていうのは、どちらかが犠牲にならなきゃいけないものだろう?」彼の言葉に含まれた暗示を理解するのは、そう難しくはなかった。それに、この街で見つけた私の新しい仕事は、晴彦のそれと比べて将来性も待遇も劣っていた。だから私は、家族が幸せでさえあればそれでいいと、自ら進んで彼の「内助の功」に徹する道を選んだ。家事を完璧にこなし、息子の世話に明け暮れる日々。けれど、雅子が晴彦の研究室に異動してきてから、私たちの関係は音を立てて冷え切っていった。かつてあった温もりは薄れ、壊れ、形を失っていく。あろうことか薫でさえ、何度も無邪気に口にした。「雅子さんをママにしたい」と。深夜の冷たい街角。スーツケースを引きずりながらタクシーを拾う。吹き抜ける夜風は、凍りついた私の心よりも冷たく感じられた。……小さなアパートを借りた。日当たりの良い、暖かな部屋だ。主婦業の傍ら、私は密かに研究を続け、論文の執筆を進めていた。今日、その論文が賞を取ったという知らせが届いた。賞金は決して大金とは言えないが、私一人が一年半ほど慎ましく暮らしていけるだけの額はある。今朝は目覚めてから、驚くほど心が軽かった。目覚まし時計の不快な音で飛び起きる必要も、薫の登校準備に追われて髪を振り乱す必要もない。鏡に向かい、時間をかけて丁寧にメイクをし、髪を整える。見違えるほど、表情が明るくなった自分がそこにいた。ジムにも通い始めた。家にいた頃は、薫の相手や際限のない家事に追われ、運動量は足りていたかもしれない。世間では私のことを、「仕事もせずに家にいる、潰しの利かない主婦」だと噂して
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第3話

時計を見ると、薫の降園時刻からすでに一時間が経過していた。だが私はカートを押し続け、歩調を緩めようとはしなかった。「先生、実は私、薫の父親とは離婚しまして。親権はあちらにあるんです。父親の方に連絡していただけますか?電話番号をお伝えします」「あ、そうだったんですね。いつもお母様がお迎えにいらしていたので、薫くんも『ママに電話して』と言うものですから……失礼いたしました」先生が恐縮した様子で謝る。「いえ」と短く返し、電話を切ろうとしたその時、薫が先生からスマホをひったくった気配がした。「ママのいじわる!パパは仕事で忙しいんだよ。ママは暇なんだから迎えに来ればいいでしょ!ふん、雅子さんだったら、絶対迎えに来てくれるのに!」その喚き声を聞いても、私の胸にはさざ波ひとつ立たなかった。「薫、よく聞きなさい。ママはパパと離婚したの。これからはもう迎えには行かない。もし誰も迎えに来なかったら、先生にパパの電話番号を教えなさい。雅子の番号でもいいわ」一方的に告げ、通話を終了した。私は薫をあんな子に育てた覚えはない。幼い頃、仕事に忙殺され薫と過ごす時間が持てなかった晴彦のことを、私はいつも庇っていた。「パパはお仕事頑張ってるんだから、優しくしてあげようね」と教え諭していた。子供というのは、家にいる大人が自分の世話をするのを、空気のように当たり前だと思ってしまう生き物なのだろうか。こめかみを指で揉む。もういい。好きにすればいい。しかし、電話は鳴り止まなかった。夕食を終えた頃、またしても晴彦から着信があった。「木村紗智(きむら さち)、薫の胃の調子が悪いんだ。家中探したのに薬が見つからない。どこに置いてある?」湧き上がる怒りを抑え込み、冷静さを装って答える。「テレビ台の下の棚よ」「ああ、あった」「あの……今日、薫の先生から電話があっただろう。午後は少し立て込んでて迎えが遅れたんだ……悪かったな」晴彦が何を言いたいのか理解に苦しむ。まるで無理やり話題を探しているかのようだ。「ええ、いい迷惑だわ。だから、もう二度と電話してこないで」以前、私がかけた電話は着信拒否されていた。彼から電話がかかってくることなんて、天地がひっくり返ってもありえなかったはずだ。それなのに、この数日で次から次へと。私
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第4話

雅子は晴彦たちの隣に腰を下ろした。「薫くん、コーラとお菓子買ってきたわよ」彼女は袋からスナック菓子を取り出し、薫に手渡す。薫の目がパッと輝いた。雅子に抱きつき、その頬にちゅっとキスをした。「ありがとう、雅子さん!」普段、私は薫の健康を考え、こうしたお菓子はたまにしか食べさせなかった。薫はお菓子を抱えたまま、無意識に私の方を見た。私は視線を逸らした。いつものように「食べすぎちゃ駄目よ」と小言を言うつもりなんて、微塵もなかった。「紗智、久しぶり。ここに入社したの?」薫にお菓子を渡し終えた雅子が、気安く話しかけてくる。私は軽く頷いたが、世間話に付き合う気はなかった。「本題に入りましょう」引き継ぎの間、晴彦はどこか上の空だった。時折ぼんやりと虚空を見つめ、私の説明を聞き漏らしている。それでも、なんとか手続きは滞りなく完了した。引き継ぎを終えると、私は再び実験室に籠もった。夜の七時を回り、実験室を出ると、応接室の明かりがまだついていた。「パパ、ママって今日パパと同じような白衣を着てたんだね。ママもあの研究とかするの?」薫が晴彦の隣に座り、無邪気に尋ねている。「ああ、ママもパパと同じ研究者なんだよ。ただ……」ただ、私は彼らのためにキャリアを捨てたのだ。もう過ぎた話だ。今さら蒸し返しても何も生まれない。ガラスをコンコンと軽く叩く。晴彦と薫が同時に顔を上げ、私を見た。もう帰る時間だと、ジェスチャーで合図する。エレベーターの中で、晴彦が重い口を開いた。「お菓子、薫にはあまり食べさせてない。お前がいつも『虫歯になるから』って言ってたから」まるで上司への報告のように。私は何も答えず、ただエレベーターの扉を見つめていた。以前、私が薫に甘いものを控えるよう注意すると、晴彦は決まって「別にいいだろ、固いこと言うなよ」と言うだけだった。雅子も薫にお菓子を買い与え、私がそれを取り上げると、薫は怒って口を尖らせ、私の腕をペチペチと叩いたものだ。「ママなんて大嫌い!」と叫びながら。今となっては、彼の歯が虫歯になろうが知ったことではない。「お前がまたこの仕事を選ぶとは思わなかった。もう興味ないと思ってた」晴彦が続ける。私は小さくため息をついた。「何を見てそう思っ
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第5話

帰り道、ハンドルを握っていたのは私だった。助手席の晴彦が、重い沈黙を破るように口を開いた。「薫はまだ小さい。やっぱり母親が必要なんだ。この数日、あいつはずっと家でお前を探してる。さっき、明日一緒に迎えに行くって言ったのは……明後日が薫の誕生日だからだ。少しでもあいつを喜ばせてやりたくて。駄目か?」ヘッドライトが前方の闇を切り裂き、アスファルトを白く照らす。私はどこか他人事のようにその光景を眺めていた。確かに、愛情と慈しみを注ぎ込んで育てた小さな命だ。だが、それもすべて徒労だったのだと、今なら割り切れる。何度も願いを叶える機会があった。誕生日、雨上がりの虹、神社の絵馬。そのたびに薫が口にする願いは、いつも残酷なほど同じだった。「雅子さんをママにしたい」私という母親を、別の誰かに取り替えたいと。我に返り、私は氷のような声で答えた。「明日は用事があるから行けない」「……そんなことさえ、嫌だと言うのか」晴彦の声に苛立ちが混じる。私の拒絶に、プライドを傷つけられたのだろう。私もまた、我慢の限界だった。自然と声が荒くなる。「晴彦、私たちはもう離婚したの。赤の他人よ。何かあるたびに私を頼らないで。私はあなたたちの家政婦じゃないんだから」晴彦は表情を曇らせ、窓の外へと顔を背けた。それきり、車が止まるまで彼は一言も発しなかった。翌日、私は本当に迎えに行かなかった。実験室で研究に没頭している間は、そのことさえ記憶の彼方に追いやられていた。その夜、帰宅途中にふと目に留まった園芸店に入ってみた。一目で心を奪われたのは、一鉢の胡蝶蘭だった。華奢な枝に、淡い紫色の花が連なっている。その姿は儚く、それでいて凛とした美しさを湛えていた。店主の話では、胡蝶蘭は育てるのが少し難しいという。手間をかけ、愛情を注ぐ必要があるのだと。私は詳細な注意事項を聞き、その鉢を抱えて帰路についた。帰宅すると、胡蝶蘭を窓辺に置いた。風通しがよく、柔らかな日差しが降り注ぐ特等席だ。ただし、強すぎる直射日光は避けて。育て方を検索して、慎重に水を与え、肥料を施す。気温の変化に合わせて、置き場所も細かく調整する。一通りの手入れを終え、ほっと一息ついたその時、けたたましい電話の呼び出し音が、静寂を切
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第6話

場が凍りつき、気まずい沈黙が流れる。だが晴彦は何事もなかったかのように近づいてくると、グラスを手に取り、皆と談笑を始めた。離婚から時間が経ち、私がいなくなった生活にも慣れたのだろう。きっとそういうことだ。薫は以前のような活発さを失い、借りてきた猫のように大人しく晴彦の隣に座っていた。時折誰かが「どこの子?」と尋ねると、彼は晴彦を指差して「こっちがパパ」と答える。そして私を指差し、小さな声で言う。「そっちが、ママ」と。同窓会は表面上、和やかに進んだ。久しぶりに再会した友人たちは、昔の思い出話や失敗談に花を咲かせた。もう過ぎ去った過去だから、笑って聞き流すことができる。調子に乗って飲みすぎた同級生も多く、お開きになる頃には、誰かに支えてもらわなければ歩けない者もいた。私はお酒に弱いので、ほとんど口をつけなかった。晴彦もかなり飲んでおり、顔は真っ赤だったが、意識はまだしっかりしているようだった。桃がトイレで吐きたいというので、背中をさすりながら付き添った。吐き終えて口をゆすぐと、彼女は少し酔いが覚めたようだった。私の肩に手を置き、真面目な顔で問いかけてくる。「紗智、晴彦と本当に終わったの?」私は無言で頷いた。桃は深いため息をつき、視線を逸らした。「本当にもったいないわ。あんなに必死に愛し合ってたのに。あれは全部嘘だったの?」「嘘じゃないわ。ただ、愛が尽きたの」私が答えると、桃は食い下がるように言った。「紗智、もう三十過ぎでしょ。昔に免じて、水に流してあげられない?息子さんだってこんなに大きくなって。本当に手放せるの?夫婦の小さな摩擦なんてどこにでもあるわ。白髪になるまで添い遂げた夫婦だって、何も問題がなかったわけじゃないのよ」私が反論しようと口を開きかけた時、桃が遮った。「こっそり教えるけど、今日の同窓会、実は晴彦が企画したのよ。絶対あなたに連絡するようにって、彼が頼んできたの。これがどういう意味か分かるでしょ?彼はまだあなたのことを想ってるのよ。謝るきっかけを探してるの」桃が話し終えるのを待ち、私は静かに口を開いた。「白髪になるまで添い遂げる夫婦が大変なのは分かってる。でもね、誰だって、愛されたいと願うものよ。一方的に尽くすだけの関係なんて、もうごめんだわ。本当に
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第7話

ある日、仕事から帰ると、ドアを激しく叩く音が聞こえた。ドアを開けると、そこには晴彦と薫が立っていた。晴彦の目は血走り、酒の臭いが漂っている。また飲んでいるようだ。「何の用?」どうやって私の住所を突き止めたのかは分からないが、私は努めて冷静に尋ねた。晴彦は答えず、強引に私を押しのけて上がり込んだ。寝室、トイレ、キッチン。嵐のように全ての部屋を荒らし回り、何かを探している。やがて彼は、血眼になってリビングに戻ってきた。狂ったようにクッションをひっぺがし、投げ飛ばす。床にはテーブルの上の物やクッションが散乱し、見るも無残な有様だ。顔を上げると、晴彦と視線がぶつかった。彼は目を見開き、うわ言のように呟いている。「どこに隠したんだ?どうして男の影すら見当たらないんだ?」彼は私の肩を激しく揺さぶる。私は彼の手を冷たく振り払った。「やましいことなんて何一つしてないわ。ここには私一人しか住んでない。他に誰もいないのよ」晴彦は赤い目で私を睨み、声を震わせた。「そんなはずない……ありえない。男がいないなら、お前がなぜ俺たちを捨てたのか、どうしても分からないんだ!」そう叫ぶと、晴彦はその場に崩れ落ち、床にへたり込んだ。「お前は俺を愛してたんじゃないのか?薫のことも、愛してたんじゃないのか?どうして……どうして『いらない』なんて言えるんだ?」晴彦の悲痛な叫びが部屋に響く。私は恐怖で立ち尽くしていた薫を部屋に入れ、静かにドアを閉めた。「お前は、俺が泣くのを一番辛がっていただろ?俺が泣いていると、自分の心も張り裂けそうに痛むって言ってたじゃないか。俺が泣けば、お前は俺の言うことを何でも聞いてくれた……今、俺たちと一緒に家に帰ってくれ、紗智……頼む」最後に私の名前を呼ぶその声は、縋るような懇願に変わっていた。以前の私は確かに、晴彦が悲しむ姿を見るのが何より辛かった。彼が傷つけば、私の心も同じように血を流した。でも今は、驚くほど何も感じない。愛とは、時と共に磨り減っていくものだ。そして先にすり減らし、無くしてしまったのは、晴彦の方だった。愛しているか、いないか。答えはあまりにも明白だ。あなたが私の電話に出なくなったとき。私以外の誰かと話すときだけ、その笑顔を見せるようにな
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第8話

言い終え、私は視線を戻した。晴彦は私の言葉の裏にある意味を悟ったようだった。彼は自嘲気味に笑った。「……そうか。もう二度と邪魔はしない。薫も連れてこない。ただ……時間があるときだけでいい、たまに会いに来てくれないか?」晴彦はソファに座り、私の顔色を窺うように尋ねた。「海外プロジェクトへの参画が決まったの。これからはもう、そんな時間はないと思うわ」私が凛とした声で返すと、晴彦は苦笑いを浮かべて頷いた。唇を噛み締め、立ち上がる。「じゃあ、行くよ……元気でな」そう言って薫の手を引く。「でも、これだけは言わせてくれ」晴彦がドアの前で振り返る。「俺はお前を愛してる。今でも、お前だけを。結局、俺たちも時の流れには抗えなかったんだな。昔誓った『墓場まで一緒』なんて、実際に叶えられる夫婦は一握りなんだろう」私は顔を上げ、彼の目を真っ直ぐに見据えた。「時間のせいじゃないわ。あなたが私を追い出したの。先に手を放したのは、あなたよ」晴彦は雷に打たれたように立ち尽くした。その目が再び潤み始める。彼は背を向け、薫の手を強く引いた。薫はずっと私を見ていた。玄関のドアの前まで来ても、その視線は私から離れなかった。突然、彼はドア枠に必死にしがみついた。「嫌だ!行かない、行かないよ!パパはママを連れて帰るって言ったのに、嘘つき!ママがいい、ママがいい!ママと一緒に暮らしたいよぉ!」薫は声を枯らして泣き叫ぶ。晴彦は暴れる薫を抱え上げようとするが、彼自身の声も嗚咽で震えている。「……家に、帰ろう」「ママ、もう雅子さんなんていらない!ママがいいよ!これからはちゃんと歯磨きする!お菓子も食べない!毎晩ちゃんと寝るから!エビもカニも食べない!ワガママ言わない!だから、お願い!お願いだよ、ママぁ!」薫の悲痛な叫びを聞いても、私の心はもう揺らぐことはなかった。自分の決意の固さを、改めて確認するだけだった。薫はまだ幼い。多くのことを理解できていないのかもしれない。私が時折厳しく躾けたのを、愛情ではなく欠点だと思っていたのだろう。それは理解できる。だが、私が彼に注いできた無償の愛を、献身を、空気のように「あって当たり前」だと思われ続けるなら。ただただ、空虚な思いが広がるだけだった。私が彼をど
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