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第3話

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時計を見ると、薫の降園時刻からすでに一時間が経過していた。

だが私はカートを押し続け、歩調を緩めようとはしなかった。

「先生、実は私、薫の父親とは離婚しまして。親権はあちらにあるんです。父親の方に連絡していただけますか?電話番号をお伝えします」

「あ、そうだったんですね。いつもお母様がお迎えにいらしていたので、薫くんも『ママに電話して』と言うものですから……失礼いたしました」

先生が恐縮した様子で謝る。

「いえ」と短く返し、電話を切ろうとしたその時、薫が先生からスマホをひったくった気配がした。

「ママのいじわる!パパは仕事で忙しいんだよ。ママは暇なんだから迎えに来ればいいでしょ!ふん、雅子さんだったら、絶対迎えに来てくれるのに!」

その喚き声を聞いても、私の胸にはさざ波ひとつ立たなかった。

「薫、よく聞きなさい。ママはパパと離婚したの。これからはもう迎えには行かない。もし誰も迎えに来なかったら、先生にパパの電話番号を教えなさい。雅子の番号でもいいわ」

一方的に告げ、通話を終了した。

私は薫をあんな子に育てた覚えはない。

幼い頃、仕事に忙殺され薫と過ごす時間が持てなかった晴彦のことを、私はいつも庇っていた。「パパはお仕事頑張ってるんだから、優しくしてあげようね」と教え諭していた。

子供というのは、家にいる大人が自分の世話をするのを、空気のように当たり前だと思ってしまう生き物なのだろうか。

こめかみを指で揉む。

もういい。好きにすればいい。

しかし、電話は鳴り止まなかった。

夕食を終えた頃、またしても晴彦から着信があった。

「木村紗智(きむら さち)、薫の胃の調子が悪いんだ。家中探したのに薬が見つからない。どこに置いてある?」

湧き上がる怒りを抑え込み、冷静さを装って答える。

「テレビ台の下の棚よ」

「ああ、あった」

「あの……今日、薫の先生から電話があっただろう。午後は少し立て込んでて迎えが遅れたんだ……悪かったな」

晴彦が何を言いたいのか理解に苦しむ。まるで無理やり話題を探しているかのようだ。

「ええ、いい迷惑だわ。だから、もう二度と電話してこないで」

以前、私がかけた電話は着信拒否されていた。彼から電話がかかってくることなんて、天地がひっくり返ってもありえなかったはずだ。

それなのに、この数日で次から次へと。

私は電話番号を変えた。それ以来、晴彦からの連絡は途絶えた。

私は実験室での研究に没頭した。一日中そこに籠もることも珍しくなかった。

ここにいると、自分の原点に立ち返ることができる。

まるで、夢多き大学時代に戻ったかのようだ。

かつての私も、研究を愛し、実験を愛する一人の学生だった。

いつから私の夢も、初心も、生活の雑事という名の泥濘に飲み込まれてしまったのだろう。

自ら手放してしまったのだろう。

……

ある日、主任が実験室に来て、プロジェクトの引き継ぎがあると告げた。

実験用の手袋をゴミ箱に放り、実験室を出る。

応接室には、見慣れた二つの影があった。

晴彦。その隣には薫がいる。

ガラス越しに、晴彦が子連れで来た理由を、主任に対して決まり悪そうに説明しているのが見えた。

応接室に入ると、私に気づいた晴彦が微かに眉をひそめた。

「パパ……」

薫が晴彦の服の裾をギュッと掴み、小さく呟く。

「ああ、こちらがこのプロジェクトの責任者です。彼女が引き継ぎを担当します」

主任が私を紹介する。

私は余裕を持って微笑んだ。

「主任、ご紹介は不要です……面識がありますから。ここは私に任せてください」

主任は戸惑ったように苦笑いを浮かべ、そそくさと応接室を後にした。

資料に目を通しながら、私は口を開く。

「確か、チームにはもう一人いるはずですよね」

言いかけたその時、ドアがノックされた。

雅子が入ってくる。

「遅れてすみません」

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