LOGIN寝室の枕元。そこには長年、私たちの結婚写真が飾られていた。 だがその日、夫はそれを研究室の先輩が描いたという油絵に掛け替えた。 その瞬間、私の心の中でぷつりと、何かが切れた。 晴彦の前に離婚届を突きつけたとき、彼は氷のように冷たい瞳で私を見上げ、吐き捨てた。 「たかが絵を一枚掛け替えたくらいで、何を言っている。離婚だと?正気か。あれほど可愛がっている息子の親権まで放棄するつもりか」 私は静かに頷いた。 もういい。すべて手放してしまおう。 手塩にかけて育ててきた息子もまた、父親と同じ穴の狢だったのだ。 彼らの心の一等地に居座っているのは、私ではなく、別の女なのだから。
View More言い終え、私は視線を戻した。晴彦は私の言葉の裏にある意味を悟ったようだった。彼は自嘲気味に笑った。「……そうか。もう二度と邪魔はしない。薫も連れてこない。ただ……時間があるときだけでいい、たまに会いに来てくれないか?」晴彦はソファに座り、私の顔色を窺うように尋ねた。「海外プロジェクトへの参画が決まったの。これからはもう、そんな時間はないと思うわ」私が凛とした声で返すと、晴彦は苦笑いを浮かべて頷いた。唇を噛み締め、立ち上がる。「じゃあ、行くよ……元気でな」そう言って薫の手を引く。「でも、これだけは言わせてくれ」晴彦がドアの前で振り返る。「俺はお前を愛してる。今でも、お前だけを。結局、俺たちも時の流れには抗えなかったんだな。昔誓った『墓場まで一緒』なんて、実際に叶えられる夫婦は一握りなんだろう」私は顔を上げ、彼の目を真っ直ぐに見据えた。「時間のせいじゃないわ。あなたが私を追い出したの。先に手を放したのは、あなたよ」晴彦は雷に打たれたように立ち尽くした。その目が再び潤み始める。彼は背を向け、薫の手を強く引いた。薫はずっと私を見ていた。玄関のドアの前まで来ても、その視線は私から離れなかった。突然、彼はドア枠に必死にしがみついた。「嫌だ!行かない、行かないよ!パパはママを連れて帰るって言ったのに、嘘つき!ママがいい、ママがいい!ママと一緒に暮らしたいよぉ!」薫は声を枯らして泣き叫ぶ。晴彦は暴れる薫を抱え上げようとするが、彼自身の声も嗚咽で震えている。「……家に、帰ろう」「ママ、もう雅子さんなんていらない!ママがいいよ!これからはちゃんと歯磨きする!お菓子も食べない!毎晩ちゃんと寝るから!エビもカニも食べない!ワガママ言わない!だから、お願い!お願いだよ、ママぁ!」薫の悲痛な叫びを聞いても、私の心はもう揺らぐことはなかった。自分の決意の固さを、改めて確認するだけだった。薫はまだ幼い。多くのことを理解できていないのかもしれない。私が時折厳しく躾けたのを、愛情ではなく欠点だと思っていたのだろう。それは理解できる。だが、私が彼に注いできた無償の愛を、献身を、空気のように「あって当たり前」だと思われ続けるなら。ただただ、空虚な思いが広がるだけだった。私が彼をど
ある日、仕事から帰ると、ドアを激しく叩く音が聞こえた。ドアを開けると、そこには晴彦と薫が立っていた。晴彦の目は血走り、酒の臭いが漂っている。また飲んでいるようだ。「何の用?」どうやって私の住所を突き止めたのかは分からないが、私は努めて冷静に尋ねた。晴彦は答えず、強引に私を押しのけて上がり込んだ。寝室、トイレ、キッチン。嵐のように全ての部屋を荒らし回り、何かを探している。やがて彼は、血眼になってリビングに戻ってきた。狂ったようにクッションをひっぺがし、投げ飛ばす。床にはテーブルの上の物やクッションが散乱し、見るも無残な有様だ。顔を上げると、晴彦と視線がぶつかった。彼は目を見開き、うわ言のように呟いている。「どこに隠したんだ?どうして男の影すら見当たらないんだ?」彼は私の肩を激しく揺さぶる。私は彼の手を冷たく振り払った。「やましいことなんて何一つしてないわ。ここには私一人しか住んでない。他に誰もいないのよ」晴彦は赤い目で私を睨み、声を震わせた。「そんなはずない……ありえない。男がいないなら、お前がなぜ俺たちを捨てたのか、どうしても分からないんだ!」そう叫ぶと、晴彦はその場に崩れ落ち、床にへたり込んだ。「お前は俺を愛してたんじゃないのか?薫のことも、愛してたんじゃないのか?どうして……どうして『いらない』なんて言えるんだ?」晴彦の悲痛な叫びが部屋に響く。私は恐怖で立ち尽くしていた薫を部屋に入れ、静かにドアを閉めた。「お前は、俺が泣くのを一番辛がっていただろ?俺が泣いていると、自分の心も張り裂けそうに痛むって言ってたじゃないか。俺が泣けば、お前は俺の言うことを何でも聞いてくれた……今、俺たちと一緒に家に帰ってくれ、紗智……頼む」最後に私の名前を呼ぶその声は、縋るような懇願に変わっていた。以前の私は確かに、晴彦が悲しむ姿を見るのが何より辛かった。彼が傷つけば、私の心も同じように血を流した。でも今は、驚くほど何も感じない。愛とは、時と共に磨り減っていくものだ。そして先にすり減らし、無くしてしまったのは、晴彦の方だった。愛しているか、いないか。答えはあまりにも明白だ。あなたが私の電話に出なくなったとき。私以外の誰かと話すときだけ、その笑顔を見せるようにな
場が凍りつき、気まずい沈黙が流れる。だが晴彦は何事もなかったかのように近づいてくると、グラスを手に取り、皆と談笑を始めた。離婚から時間が経ち、私がいなくなった生活にも慣れたのだろう。きっとそういうことだ。薫は以前のような活発さを失い、借りてきた猫のように大人しく晴彦の隣に座っていた。時折誰かが「どこの子?」と尋ねると、彼は晴彦を指差して「こっちがパパ」と答える。そして私を指差し、小さな声で言う。「そっちが、ママ」と。同窓会は表面上、和やかに進んだ。久しぶりに再会した友人たちは、昔の思い出話や失敗談に花を咲かせた。もう過ぎ去った過去だから、笑って聞き流すことができる。調子に乗って飲みすぎた同級生も多く、お開きになる頃には、誰かに支えてもらわなければ歩けない者もいた。私はお酒に弱いので、ほとんど口をつけなかった。晴彦もかなり飲んでおり、顔は真っ赤だったが、意識はまだしっかりしているようだった。桃がトイレで吐きたいというので、背中をさすりながら付き添った。吐き終えて口をゆすぐと、彼女は少し酔いが覚めたようだった。私の肩に手を置き、真面目な顔で問いかけてくる。「紗智、晴彦と本当に終わったの?」私は無言で頷いた。桃は深いため息をつき、視線を逸らした。「本当にもったいないわ。あんなに必死に愛し合ってたのに。あれは全部嘘だったの?」「嘘じゃないわ。ただ、愛が尽きたの」私が答えると、桃は食い下がるように言った。「紗智、もう三十過ぎでしょ。昔に免じて、水に流してあげられない?息子さんだってこんなに大きくなって。本当に手放せるの?夫婦の小さな摩擦なんてどこにでもあるわ。白髪になるまで添い遂げた夫婦だって、何も問題がなかったわけじゃないのよ」私が反論しようと口を開きかけた時、桃が遮った。「こっそり教えるけど、今日の同窓会、実は晴彦が企画したのよ。絶対あなたに連絡するようにって、彼が頼んできたの。これがどういう意味か分かるでしょ?彼はまだあなたのことを想ってるのよ。謝るきっかけを探してるの」桃が話し終えるのを待ち、私は静かに口を開いた。「白髪になるまで添い遂げる夫婦が大変なのは分かってる。でもね、誰だって、愛されたいと願うものよ。一方的に尽くすだけの関係なんて、もうごめんだわ。本当に
帰り道、ハンドルを握っていたのは私だった。助手席の晴彦が、重い沈黙を破るように口を開いた。「薫はまだ小さい。やっぱり母親が必要なんだ。この数日、あいつはずっと家でお前を探してる。さっき、明日一緒に迎えに行くって言ったのは……明後日が薫の誕生日だからだ。少しでもあいつを喜ばせてやりたくて。駄目か?」ヘッドライトが前方の闇を切り裂き、アスファルトを白く照らす。私はどこか他人事のようにその光景を眺めていた。確かに、愛情と慈しみを注ぎ込んで育てた小さな命だ。だが、それもすべて徒労だったのだと、今なら割り切れる。何度も願いを叶える機会があった。誕生日、雨上がりの虹、神社の絵馬。そのたびに薫が口にする願いは、いつも残酷なほど同じだった。「雅子さんをママにしたい」私という母親を、別の誰かに取り替えたいと。我に返り、私は氷のような声で答えた。「明日は用事があるから行けない」「……そんなことさえ、嫌だと言うのか」晴彦の声に苛立ちが混じる。私の拒絶に、プライドを傷つけられたのだろう。私もまた、我慢の限界だった。自然と声が荒くなる。「晴彦、私たちはもう離婚したの。赤の他人よ。何かあるたびに私を頼らないで。私はあなたたちの家政婦じゃないんだから」晴彦は表情を曇らせ、窓の外へと顔を背けた。それきり、車が止まるまで彼は一言も発しなかった。翌日、私は本当に迎えに行かなかった。実験室で研究に没頭している間は、そのことさえ記憶の彼方に追いやられていた。その夜、帰宅途中にふと目に留まった園芸店に入ってみた。一目で心を奪われたのは、一鉢の胡蝶蘭だった。華奢な枝に、淡い紫色の花が連なっている。その姿は儚く、それでいて凛とした美しさを湛えていた。店主の話では、胡蝶蘭は育てるのが少し難しいという。手間をかけ、愛情を注ぐ必要があるのだと。私は詳細な注意事項を聞き、その鉢を抱えて帰路についた。帰宅すると、胡蝶蘭を窓辺に置いた。風通しがよく、柔らかな日差しが降り注ぐ特等席だ。ただし、強すぎる直射日光は避けて。育て方を検索して、慎重に水を与え、肥料を施す。気温の変化に合わせて、置き場所も細かく調整する。一通りの手入れを終え、ほっと一息ついたその時、けたたましい電話の呼び出し音が、静寂を切