All Chapters of 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才: Chapter 31 - Chapter 40

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31.祖父の低い声

祖父母の家の台所は、火の気があるだけで空気が柔らかくなる。古い換気扇が低く唸り、まな板に包丁が当たる乾いた音が、一定のリズムで続いていた。祖母が味噌を溶くと、湯気が立ち上り、出汁の匂いが天井の方へゆっくり逃げていく。窓の外には住宅街の午後があるはずなのに、律の意識は湯気の輪の内側から出られなかった。玄関を入った瞬間、身体が勝手に弛むのが分かった。肩の力が抜ける。指先の冷えが少しだけ引く。祖母がすぐに言った。「おかえり」律は靴を揃えながら、笑って返した。「ただいま」史人の部屋を出た朝の白い刃は、ここにはない。畳の匂いと、台所の油の残り香と、石鹸のような清潔な匂いが混ざって、生活の温度になっている。温度があるだけで、肺の奥に空気が届く気がした。息を止める癖が、ここでは少しだけ緩む。祖父は居間で新聞を読んでいた。背中が大きい。背中が大きいのに、家の中ではその大きさを誇示しない。黙っているだけで、支えになる背中だ。律はその背中に目をやってから、視線を逸らした。見ていると、甘えたくなる。甘えたくなるのが怖い。祖母が味噌汁を椀に注ぎながら言った。「昼、ちゃんと食べてへんやろ」律は曖昧に笑った。「まあ」祖母は笑い返さない。叱りつけるのでもない。ただ、律の顔を見て、眉を少しだけ寄せた。無理に明るくもしない、その正直さが、律の胸の奥を静かに刺した。律は台所の椅子に座った。椅子の硬さが、身体を現実に繋ぎ止める。湯気の匂いが鼻に入る。味噌の甘さが喉の奥に触れるだけで、涙が出そうになる。涙を出す理由が分からないまま、律は息を吐いた。その時だった。居間の方で電話が鳴った。固定電話の、昔ながらの音だ。スマホの震えとは違う。高くも低くもない、単調で逃げ道のない音。律の背筋がぴんと伸びた。伸びた瞬間、喉が少しだけ固くなる。肩に力が入る。呼吸が浅くなる。その浅さを自覚すると、余計に息が吸えなくなる。祖父は新聞を畳み、受話器を取った。声は普段通りの低さだった。だが、言葉が一音目から短い。「もしもし」祖父の声が低い
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32.梅田の白が、胸の内側を擦る

祖父母の家を出ると、外の空気は思ったより乾いていた。夕方の前、陽が傾く直前の大阪は、湿気が残っているのにどこか軽い。住宅街の道は狭く、車の音も遠い。律の胸の奥だけが、さっきまでの台所の湯気をまだ抱えていて、息を吐くたびに味噌の甘い匂いが幻みたいに戻ってくる。その幻が消えないうちに、律は歩き出した。帰る場所があるという安心は、同時に、帰る場所に押し込められる怖さも連れてくる。祖父の低い声の硬さが耳の奥に残っている。良一。美智子。東京。守る。正しい。そういう言葉は、紙の角みたいに薄く鋭い。律はポケットの中でスマホの位置を確かめた。取り出さない。取り出したら見る。見たら息が止まる。息が止まったら、止まった息のまま梅田へ吸い寄せられる。吸い寄せられてしまうと分かっているのに、足が自然に駅へ向かっているのが怖かった。どこへ行くつもりだ。自分に問いかけても答えは出ない。答えを出したら責任が生まれる。それが今いちばん嫌だった。駅へ着くと、電車の音が近くなった。改札の電子音、ホームの案内、広告の映像の白。白が多い。白は空間を広く見せるための色なのに、律にとっては内側を削る色だった。梅田の白と繋がっている。梅田の白は、ネオンとガラスと人の目の反射でできていた。昨日の自分は、あの白の中で鍵盤を叩いた。叩いた音は、まだ胸の奥で鳴っている。電車に乗り、揺れに身を任せると、身体が少しだけ落ち着いた。揺れは逃げ道になる。移動している間は、何かを決めなくていい。決めないまま、ただ運ばれていけばいい。律はその卑怯な安堵に縋りかけて、自分の胸を軽く押さえた。胸を押さえた手のひらの下で、心臓が一定の速さになろうとしている。一定の速さは、拍に似ている。拍に似ていると、昨日の第三楽章が戻ってくる。戻ってきてほしくない。戻ってきてほしい。矛盾が胸の中で絡み合い、喉が少しだけ硬くなった。梅田で降りるつもりはなかった。そう思っていたのに、気づけば路線図の中で梅田の文字が近づいていた。身体が先に選んでいる。頭が追いつく前に、足が準備をしてしまう。律は自分の身体が怖かった。身体は正直だ。正直なものは回収されやすい。弱いところを掴まれる。掴まれたら、また息ができなくなる。ホームに入ってくる車輪の音が、
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33.宵だまりの夜、史人の目が痛い

宵だまりの引き戸を開けると、油と出汁の匂いが一瞬で肺に入った。暖色の照明が目の奥の白さを溶かし、湿った夜気が肩から落ちていく。梅田の白はまだ胸の内側を擦っていたのに、その擦れる音がここでは少しだけ遠のく。遠のくから、余計に自分がここへ逃げてきたことが分かってしまう。カウンターの奥で串田が手を止め、律の顔を見るより先に水のグラスを出した。いつも史人にするのと同じ動作だった。律はそれが痛かった。痛いのに、救いでもある。串田が短く言った。「おかえり」律は軽く笑って返した。「ただいま」言ってから、自分の言葉に小さく驚いた。ここは家ではない。家ではないのに、帰ると言ってしまう場所になっている。祖父母の台所も家だ。史人の部屋も家になりかけている。家が増えるほど、回収の影が濃くなる気がした。影は、帰る場所を奪うために近づいてくる。史人はいつもの席にいた。カウンターの端、壁に背をつけるような位置だ。人の流れに背中を晒さない場所。逃げ道を確保した座り方。律はそれを、仕事の疲れのせいだと分かっているのに、今日は別の意味に見えた。守りの姿勢。守り続けてきた人の姿勢。守りが癖になって、何も言えなくなる姿勢。史人の目が上がった。目が合う。合った瞬間だけ、律の呼吸が少しだけ深くなった。深くなるのが怖い。深くなった呼吸は、依存の匂いがする。史人が言った。「こっち」律はカウンターの空いた一席に滑り込んだ。史人の隣ではない。隣に座ると、体温が近すぎる。近すぎる体温は、言葉を引き出してしまう。言葉を引き出されると、巻き込む。巻き込みたくない。巻き込みたくないのに、隣が欲しい。この矛盾が、胸の奥で静かに鳴っていた。米谷がすぐに絡んできた。「お、若い兄ちゃん、今日は梅田で迷子にならんかったか」律は笑って返す。「迷子なっても、誰かが拾ってくれるから平気や」米谷が笑う。「誰やねん、拾うの」律は視線だけで史人の方を示すように動かした。動かした瞬間、史人が微かに眉を動かした。その反応が、痛いほど嬉しい。嬉しいほど怖い。
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34.体温が救いになり切らない夜

史人のアパートへ向かう道は、宵だまりからの帰り道として身体が覚えてしまっていた。暖色の匂いを背中に残したまま、夜気の冷たさに晒される。足元の濡れたアスファルトが街灯を鈍く反射し、その光が梅田の白とは違うと分かっているのに、律の胸の内側はまだ擦れ続けていた。史人はいつも通りに歩いていた。歩幅を合わせてくる。無理に覗き込まない。聞かない。律がさっき店で嘘をついたことも、今は何も言わない。言わない優しさが、今夜の律には刃だった。刃は切らない。切らないまま、皮膚の表面だけをじわじわと削る。アパートの階段を上がると、踊り場の蛍光灯が白く光っていた。白い光は嫌いだ。なのに、史人の部屋の白は嫌いになり切れない。白い灯りの下で、ここではいつも息が戻っていたからだ。戻ってしまう息が怖かった。戻る息は依存の証拠になる。依存は回収されやすい。回収されると、奪われる。史人が鍵を開ける。金属の音が小さく鳴り、ドアが軋む。狭い一Kの匂いが出迎えた。洗剤と、少しだけ汗と、仕事の服に染みついた外の空気。それが混ざり合って、律の胸の奥を変な形で落ち着かせた。落ち着くと同時に、喉が締まる。落ち着きは、油断だからだ。部屋に入ると、史人が無言でスリッパを寄せた。律はそれを履きながら、壁際に伏せられた会社用スマホを見てしまった。黒い画面。通知のない沈黙。沈黙のはずなのに、あの黒はいつでも鳴る。鳴る前提の黒だ。黒が律の胸の奥を冷やし、冷えが指先に伝わる。史人がジャケットを脱ぎ、ハンガーに掛ける。その動作が丁寧で、いつもより遅かった。遅いのは迷っているからだと、律は勝手に思った。迷っているのは史人ではなく律のほうだ。今日は体温に逃げたい。逃げたいのに、体温へ行くほど息が浅くなる。浅くなった息の先に、父と母の名前が浮かぶ。浮かぶたび、喉が締まる。史人が振り向く。「風呂、先入るか」律は喉の奥の硬さを笑いで誤魔化した。「どっちでもええ」史人は頷き、浴室のほうへ目をやった。律はその視線の先に逃げた。視線を逸らすことで、史人の目の痛さからも逃げられる気がした。史人が小さく息を吐く。「なんか、あったんちゃうか」問
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35.予定を濁す朝、置いていく罪

薄いカーテン越しの光が、部屋の白さをぼんやりと浮かび上がらせた。夜の白は冷たかったのに、朝の白は優しいふりをする。優しいふりをされるほど、律の胸の奥は痛んだ。昨夜の途中で冷えた影が、まだ床の隅に残っているような気がする。影は消えず、形を変えて朝の静けさに混じった。史人の寝息は浅くはなかった。眠っているときだけは、仕事の外にいる呼吸ができる。その呼吸のリズムが、律の背中に残ったままの緊張を少しずつほどく。ほどけるのが怖い。ほどけたら、言ってしまう。言ってしまったら、史人が関係者になる。関係者になった史人の前で、父と母の名前が現実になる。現実になった瞬間に、史人の生活の上にも東京の影が落ちる。それだけは嫌だった。嫌だという感情が、同時に史人を独占したい欲に似ているのが、律には気持ち悪かった。律はそっと起き上がった。ベッドのスプリングが小さく鳴る。鳴った音に自分の心臓が跳ねる。跳ねた拍が、昨日の梅田のテンポを呼び戻しそうになって、律は息を一度だけ深く吸った。深く吸うと胸が広がる。広がった胸に痛みが走る。それでも、吐いた息を長くして、何も考えないふりをした。枕元のスマホは伏せられたままだった。昨夜、通知を見ないまま放ったそれは、黒い画面で沈黙している。沈黙しているのに、怖い。怖さは画面の中ではなく、律の体内に残っている。着信名を見ただけで喉が締まる感覚は、もう反射になってしまった。反射は戻らない。戻らないものを、史人に見せたくなかった。キッチンのほうで、史人が動く気配がした。起きたのか。律は振り向きたいのを堪えた。振り向くと、目が合う。目が合うと、昨夜の「なんかあったん」という問いが復活する。復活した問いに答えられないと、また嘘をつく。嘘をつけば胸が重くなる。重くなった胸が、体温に縋りたくなる。縋ったら巻き込む。巻き込みたくないのに縋りたい。その循環が、昨日よりも今日のほうが強いのが分かってしまう。史人が部屋の奥から声をかけた。「起きたんか」声は寝起きの低さが混ざり、普段より柔らかかった。柔らかさが胸に刺さる。律は布団の端を整えるふりをしてから返事をした。「起きた」史人がこちらへ近づく足音がした。足音は軽い。軽
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36.白い封筒の角

祖母の味噌汁は、火を止めても湯気がしぶとく立ちのぼっていた。昆布と鰹の匂いが畳に染みて、居間の空気をやわらかく包んでいる。律はその匂いを吸い込みながら、呼吸の形を確かめた。吸って、吐く。胸の奥のどこかが細くなる癖は、梅田の白い反響に慣れたせいではなく、ずっと前から持っているものだと知っている。だからこそ、こういう生活の匂いの中にいると、油断してしまう。窓の外では洗濯物が揺れている。祖母が干した白いシャツは、律のものではないのに妙に眩しい。祖父は座椅子に腰を落としたまま新聞を広げていた。紙をめくる音は軽いのに、祖父の指は重かった。老いた指の節が新聞の端を押さえるだけで、居間の中心がそこに定まる。律は台所の入口に立ち、祖母の背中を見ていた。祖母は出汁巻きの話をする時みたいな調子で、味噌汁の味を整えている。鰹節を足すか、味噌を少し溶くか。その迷いは幸せな迷いだ。律はその迷いの中に混ざりたかった。混ざってしまえば、名前のある恐怖が遠のく気がした。玄関のチャイムが鳴るまでは。短い電子音が、居間のやわらかい空気を一瞬で切った。律の肩が先に固まったのが分かった。音はただのチャイムなのに、身体がそれを通知音と同じカテゴリに仕分けしてしまう。息が、細くなる。喉の奥が乾く。祖父の新聞をめくる手が止まった。祖母が振り返る気配が、台所の湯気を揺らした。「誰やろなあ」祖母の声はいつも通りだった。けれど、いつも通りの声のまま目だけが律を見る。大丈夫かと問うのではなく、律がここにいることを守ろうとする目だった。律は頷けないまま、唇の内側を噛んだ。祖父が立ち上がる。座椅子から立つだけなのに、畳が沈む音がした。祖父は玄関へ向かいながら、振り返らずに言った。「律、台所おれ。顔、無理に作らんでええ」命令ではない。祖父の声は低く、短く、余計な柔らかさがない。だからこそ逃げ道になる。律は頷き、台所へ半歩下がった。祖母がすぐに律の前に立つようにして、湯気の壁を作る。「味噌汁、もうちょいだけ待ってな」祖母はそう言って鍋の蓋を少しずらした。湯気が律の顔に触れ、熱が頬を撫でた。温度は現実だ。現実を確かめるように、律は指先
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37.支援という名の檻

律が居間へ戻った時、座卓の上の封筒はすでに開かれていた。開けられた紙の匂いは、インクの匂いより先に、空気の温度を変える。紙が重い。重い紙は、重い約束を連れてくる。律は足の裏で畳を踏み直した。畳の柔らかさが足に返ってくるのに、その返りがどこか遠い。息が浅いからだと分かる。分かるのに、深く吸おうとすると胸が狭くなる。祖父は座卓の正面に座り直し、背筋を伸ばしている。祖父は威圧しない。けれど、祖父が背筋を伸ばす時は、家の話が終わり、外の話が始まる時だ。祖母は台所の方に半身を残したまま、居間を見守っている。湯気の膜を保ちながら、でも逃げ道を確保する位置。祖母の気遣いが胸に刺さる。刺さるから、息がさらに薄くなる。良一は、封筒から出した紙を座卓の中央に重ねて置いていた。紙は二枚だけではない。クリアファイルの中には数枚の資料が挟まっている。その「数枚」の存在が、律の胃を冷やした。数が多いほど、逃げ道は減る。美智子はその横に座り、手を膝に揃えている。指が長い。指先の角度が整っている。ピアニストの手が、今は紙を整えるために動くのが見えた。律は目を逸らした。逸らした先に祖父の視線があり、祖父は黙って頷いた。逃げるなではない。ここにいていい、という頷きだ。良一が、律に向けて言った。「座れ」律は、座った。立っていると、話が始まる前に倒れそうだった。倒れたくない。倒れたら、また「休め」と言われる。その「休め」の裏にある「早く戻れ」を知っている。美智子が湯呑みを律の前に置いた。祖母が入れたお茶だ。香りはほうじ茶。茶の匂いは生活の匂いなのに、美智子の指で運ばれると、ケアの匂いになる。ケアは優しい。優しいのに、律にとっては窒息の前触れになる。美智子が小さく笑って言った。「今日はね、喧嘩しに来たんじゃないの」律は笑えなかった。喧嘩ではない。喧嘩ではないから怖い。喧嘩なら怒鳴ればいい。喧嘩なら逃げればいい。喧嘩ではなく、正しさが来る。正しさは逃げ道を塞ぐ。良一が紙の一枚目を指で軽く叩いた。乾いた音がした。畳の上の音なのに、会議室の机の音に似ている。律の呼吸がまた浅くなる。「これは、回復のための段取りや」
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38.指揮台の声、鍵盤の手

ペン先の光は、小さな刃のように座卓の上で揺れていた。律はそれを取れば終わると分かっている。取らなければ始まるとも分かっている。始まるのは喧嘩ではなく、戦いでもなく、もっと静かで確実なものだ。相手の正しさに飲まれていく時間。自分の呼吸が薄くなっていく時間。良一はペンを差し出したまま、表情を変えない。変えないことが武器になる人間の顔だ。律はその顔を、指揮台の上で何度も見てきた。照明を浴び、音の洪水の中心に立ちながら、一ミリも揺れない顔。揺れない顔が指揮棒を振ると、百人の呼吸がひとつになる。ひとつになる呼吸は美しい。けれど、そのひとつの呼吸の中に入れられた瞬間、律は息ができなくなる。美智子は膝の上で手を重ねている。指先は柔らかく、爪は短い。爪の形すら整っている。整っているから、触れられたらほどける気がした。ほどけるのは救いではなく、解体だ。美智子の手は鍵盤の上で音を作る手だ。音を作る手は、同時に音の間違いも見逃さない。律が子供の頃、指の形を直された時の感触が蘇る。指先を軽く押され、脱力しなさいと囁かれる。脱力は正しい。正しいのに、その正しさがいつも律の胸を締め付けた。祖父は座卓の端に手を置き、指先で畳を一度だけ押した。言葉の代わりの合図だ。祖父は怒鳴らない。怒鳴ったら良一に勝てないと分かっている。良一は怒鳴り声で支配する人間ではない。静かな声で、全体を組み立てていく人間だ。良一が、ペンを差し出したまま言った。「律、話は簡単や。戻るための段取りを決める。それだけや」律はその「簡単」を聞くたびに、胸の奥に小さな砂が溜まっていく気がする。砂は息の通り道を塞ぐ。塞がれたことに気づかないまま、ある日突然、吸えなくなる。美智子が、さらに柔らかい声で続けた。「段取りって言っても、縛るためじゃないの。あなたが壊れないために、最初に枠を作るの。枠がないと、焦ってしまうでしょう」枠。枠という言葉は、鍵盤の枠にも、舞台の枠にも、人生の枠にも繋がる。枠があると安心する人もいる。律は違う。枠があると、その内側に収まらなければならないと感じてしまう。収まるために息を止める。息を止めて収まると、音が硬くなる。硬くなった音を指摘される。指摘される前に、さら
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39.祖父母の灯

玄関の扉が閉まったあとも、居間の空気は戻らなかった。人が去ったはずなのに、靴の揃え方と手土産の匂いと、座卓に残った紙の白さが、家の中に残留している。祖母が片づけようとして伸ばした手が、一度だけ止まった。祖母は、紙に触れる前に律の顔色を見る。律はその視線を受け止めきれず、湯呑みの縁を見つめた。ほうじ茶はぬるくなっていて、舌に乗る熱はもう弱い。それでも香ばしさだけは残っている。残っている匂いが、律の胸の奥にある小さな熱を繋ぎ止める。祖父は座卓の端に肘を置いたまま、しばらく黙っていた。黙りは、怒りを抑えるためではない。言葉を整えるための沈黙だ。祖父は昔、音楽の現場にいた。音を出す前に場の温度を読む癖が、そのまま生活にも残っている。祖父が黙っている間、祖母が湯気の立たない味噌汁を温め直しに立つ。湯気が立つと、家が家の匂いを取り戻す。取り戻せる匂いがあるうちに、律は息を吸う。浅い。浅いままでもいい。浅い息が、今は命綱だ。テーブルの上の封筒の角が、照明の光を反射した。白い紙は、ただそこにあるだけで律の喉を締める。締められる感覚は、さっきまでのものより少しだけ違っていた。今は、恐怖だけじゃない。怒りと、罪悪感と、そして妙な空白が混ざっている。空白は、良一が最後に置いていった言葉の形をしている。後悔するなよ。後悔という言葉は、正しさの衣をまとっている。正しい人が正しい顔で投げると、受け取った側は自分を疑うしかなくなる。疑うと息が止まる。息が止まると負ける。律は負けたくないと思った。負けたくないと思った瞬間、自分の中に残っていた火種が、少しだけ息を吹き返した気がした。台所から祖母の鍋の蓋が鳴る音がした。味噌汁が沸く前の小さな音。律の耳はその音を拾って、現実にしがみつく。現実は音と匂いでできている。紙の白さも現実だ。けれど、紙の白さに飲まれたら息が止まる。息を止めないために、律は視線を上げた。祖父の目が、律を見ていた。祖父は何も責めていない。ただ見ている。見ていることが支えになる。支えがあると、律はやっと口を開ける。「……迷惑かけた」声は細い。細い声が畳に落ちて、すぐ吸われた。吸われた音を聞いて、律は焦りそうになる。焦ると息が
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40.すがりたい手、すがらない指先

祖父母宅の二階、律の部屋は、いまだけ借り物の巣みたいに静かだった。畳は古く、障子の桟は少しささくれている。窓の外からは、遠い車の音と、どこかの家の換気扇の低いうなりが聞こえる。生活の音は優しいはずなのに、今夜は全部が薄い膜になって、律の耳の内側を擦った。膜の向こうに、東京の気配がある。良一の声、美智子の指の形、紙の白さ。あの白さが、目を閉じても視界に残っている。机の上には、封筒ではなく、茶色いクリアファイルが置かれていた。祖父がまとめてくれた書類の写しだ。航空券の候補、入学手続きの一覧、滞在先の仮予約のメモ。文字は全部、生活の匂いをまとっているはずなのに、律の指先は紙に触れること自体が怖かった。触れた瞬間、また管理の匂いが鼻に入ってきそうだったからだ。管理じゃない。祖父母は管理しない。分かっている。分かっているのに、身体が先に縮む。縮むと息が浅くなる。浅くなると、鍵盤に触れる前みたいな沈黙が戻る。スマホが机の端に伏せて置かれている。伏せていても、光る時は光る。通知の光は、部屋の暗さの中では刃物みたいに鋭い。律は昼間から何度も、あの画面を見ないふりをしてきた。父と母からの着信は、祖父が止めると言った。止めると言ったのに、止まらない気配がある。止めるという言葉は、向こうの世界では段取りの一部に過ぎないのかもしれない。段取りは必ず次の段取りを呼ぶ。律はその仕組みを知っている。知っているから息が浅くなる。窓の隙間から冷えた空気が入ってきた。冬の匂い。大阪の冬は東京より湿り気がある、と誰かが言っていた。湿り気は、喉の奥に絡む。絡むと呼吸が重くなる。重い呼吸のまま、律はベッドに腰を下ろした。布団は祖母が干してくれたから、日光の匂いがする。日光の匂いは、本来なら安心の匂いだ。安心の匂いの中で、律はなぜこんなに胸が苦しいのかと、自分に腹が立った。腹が立つほど、思い出す。梅田の白いネオン。人だかりのざわめき。鍵盤に触れた瞬間に、世界が一度沈む感覚。熱情の第3楽章。叩きつけた音。吐き出したかったもの。言えなかったもの。音で言ったくせに、言葉になると途端に喉が閉じる。喉が閉じると息が止まる。息が止まると、あの練習室の白い壁が戻ってくる。白い練習室の記憶は、いつも音より先に匂いで来る。乾いた空調、ワックス
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