祖父母の家の台所は、火の気があるだけで空気が柔らかくなる。古い換気扇が低く唸り、まな板に包丁が当たる乾いた音が、一定のリズムで続いていた。祖母が味噌を溶くと、湯気が立ち上り、出汁の匂いが天井の方へゆっくり逃げていく。窓の外には住宅街の午後があるはずなのに、律の意識は湯気の輪の内側から出られなかった。玄関を入った瞬間、身体が勝手に弛むのが分かった。肩の力が抜ける。指先の冷えが少しだけ引く。祖母がすぐに言った。「おかえり」律は靴を揃えながら、笑って返した。「ただいま」史人の部屋を出た朝の白い刃は、ここにはない。畳の匂いと、台所の油の残り香と、石鹸のような清潔な匂いが混ざって、生活の温度になっている。温度があるだけで、肺の奥に空気が届く気がした。息を止める癖が、ここでは少しだけ緩む。祖父は居間で新聞を読んでいた。背中が大きい。背中が大きいのに、家の中ではその大きさを誇示しない。黙っているだけで、支えになる背中だ。律はその背中に目をやってから、視線を逸らした。見ていると、甘えたくなる。甘えたくなるのが怖い。祖母が味噌汁を椀に注ぎながら言った。「昼、ちゃんと食べてへんやろ」律は曖昧に笑った。「まあ」祖母は笑い返さない。叱りつけるのでもない。ただ、律の顔を見て、眉を少しだけ寄せた。無理に明るくもしない、その正直さが、律の胸の奥を静かに刺した。律は台所の椅子に座った。椅子の硬さが、身体を現実に繋ぎ止める。湯気の匂いが鼻に入る。味噌の甘さが喉の奥に触れるだけで、涙が出そうになる。涙を出す理由が分からないまま、律は息を吐いた。その時だった。居間の方で電話が鳴った。固定電話の、昔ながらの音だ。スマホの震えとは違う。高くも低くもない、単調で逃げ道のない音。律の背筋がぴんと伸びた。伸びた瞬間、喉が少しだけ固くなる。肩に力が入る。呼吸が浅くなる。その浅さを自覚すると、余計に息が吸えなくなる。祖父は新聞を畳み、受話器を取った。声は普段通りの低さだった。だが、言葉が一音目から短い。「もしもし」祖父の声が低い
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