All Chapters of 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才: Chapter 41 - Chapter 50

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41.告げる言葉、隠す事情

宵だまりの引き戸が開く音は、律の中ではいつもより少し遅れて届いた。暖色の灯りと出汁の匂いが、胸の奥の硬い塊を溶かすはずなのに、今日は溶けない。笑い声が膜になっているのも、いつも通りなのに、膜の内側で律だけが薄い酸素を吸っている気がした。カウンターの端、史人がいつもの位置にいた。シャツの襟元が少しだけ歪んでいて、目の下の影が濃い。くたびれているのに、顔の輪郭は驚くほど整っている。疲れが剥がれたら、誰でも一度は振り返る種類の顔だと、律は知っている。史人自身がそれを価値として扱わないから、余計に目立つ。史人がこちらを見た瞬間だけ、律の呼吸が戻る。心臓が落ち着く。安堵が、すぐに痛みに変わる。今日の安堵は、別れの前触れの味がする。串田が水を出すのも、米谷が雑に絡むのも、宵だまりの通常運転だった。「お、来た来た。最近サボり気味やったやん」米谷が笑いながら言う。律は笑って返すために口角を上げる。膜を張る。いつも通りの軽さを纏う。「忙しかってん。俺のせいちゃう」史人は小さく笑うだけで、深追いしてこない。救われるのに、刺さる。深追いされないことが、今夜は優しさではなく猶予に見えた。串田がだし巻きを出す。湯気が上がって、出汁の匂いが鼻の奥をくすぐる。律は箸を伸ばしながら、史人の手元を盗み見る。会社用のスマホは今日は見えない。伏せているのか、鞄の奥なのか。どちらでもいいのに、どちらでもよくない。史人の私用スマホが一度、机の上で震えた。通知ではない。画面が光っていない。幻振動ではなく、ただの癖みたいに、史人の指がぴくりと動く。律の背筋が反射で固くなる。自分のスマホはポケットの中で沈黙している。それでも、いつ鳴るか分からないものを抱えている感覚が喉を締めた。史人がグラスに口をつける。氷が鳴る。律はその音を聞きながら、梅田の白いネオンと鍵盤の打撃音を思い出してしまう。あの夜、自分は音で言った。言ってしまった。言ったのに、言葉で言える気がしない。史人が、ちらりと律を見る。何か言いたげな視線が来る。律は先に笑ってしまう。逃げ道を作る。「今日、めっちゃ疲れてる顔してる」史人の眉がほんの少し
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42.回廊の街

飛行機の扉が開いた瞬間、空気の匂いが違った。日本の空港で吸い込む冷えた整った匂いとも、大阪の雨上がりの湿り気とも違う。少し土が混じっていて、遠くに石と古い木の匂いがする。律はその匂いを鼻の奥で確かめるように吸い込み、吐いた。吐いた息が、まだ自分の胸に引っかかる。引っかかったままでも、ここでは誰もそれを急かさない気がした。ボローニャの夕方は、思ったより柔らかい色をしていた。空が高く、光が斜めに落ちる。黄味の混じった光が、石の壁に染み込んでいる。律はキャリーケースの取っ手を握りながら、空港の床を歩いた。ゴロゴロという車輪の音が、やけに大きく聞こえる。自分の耳が過敏なのか、広い空間の反響のせいなのか分からない。出迎えの手配は最低限だった。祖父母が準備してくれた下宿先の鍵の受け取りと、簡単な案内だけ。誰かが付き添ってくるようなことはない。そのことがありがたいのに、心細さも同じくらいあった。心細さが胸に触れると、息が浅くなる。浅くなると、指先が冷える。律はそれを知っている。知っているから、浅くなった瞬間に、意識を外側へ向けた。空港の自動ドアが開く。タクシー乗り場の看板の文字が、慣れない言語で並んでいる。文字を読むだけで頭が疲れる。言葉が分からないことが不安を呼ぶ。けれど、その不安は大阪で抱えていた種類のものと違った。評価される不安ではない。契約書の白さが迫ってくる不安でもない。これは、ただの環境の不慣れだ。いつか慣れる。慣れるために来た。その単純さが、律の肩の力を少しだけ抜いた。タクシーの中で窓の外を見た。建物が低く、色が落ち着いている。派手な広告がない。人の声が、叫ぶようではない。会話の抑揚が耳に引っかかることはあっても、それは刃の音ではなく、単なる異国の音だった。律はその違いを、喉の奥で確かめるように味わった。市街に入ると、回廊が現れた。建物の一階部分が連なって、屋根のある歩道になっている。柱が続き、影が続く。陽と影が交互に律の視界を撫でる。回廊の影は、庇護ではなく、ただそこにある構造だった。守ってくれるために作られたわけじゃない。役割として人を守っているわけじゃない。ただの街の形が、結果として人の肩を濡らさない。律はそれが好きだと思った。善意の言葉で縛られない優しさ。意図のない助け。
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43.鍵盤の前で、弾かない練習

スタジオのある通りに入った瞬間、匂いが変わった。車の排気や甘いパンの香りから、古い木とワックスと、ほんの少しだけ湿った紙の匂いへ。石畳の道は相変わらず足裏に硬い現実を返してくるが、その硬さは今日、律の心拍を追い立てない。追い立てられないことが逆に怖かった。追い立てられていないのに、胸の奥が勝手に速くなる。いつもなら、ここで理由を探す。誰かの目、期限、評価。けれど今の律の目の前には、ただ木の扉があるだけだった。祖父がくれた紙切れの住所は短い。部屋番号も、階数もない。控えめな表札に、アルファベットで名前だけが彫られている。名前を見ただけで、律は唾を飲み込んだ。背筋が勝手に硬くなる。硬くなると息が浅くなる。浅くなると、指先が冷える。律は自分の身体がそういう仕組みになってしまっていることを、今朝から何度も確認している。ノックをする手が、少し遅れた。遅れたのは躊躇だったのか、慎重さだったのか分からない。扉の向こうから、椅子が擦れる音がして、次に足音。鍵が回る金属音が、思ったより近くで響いた。律はその響きに肩をすくめそうになるのを堪えた。扉が開いた。白い髪の男が立っていた。想像していたより背は高くない。けれど、立ち方が静かで、床に影が落ちる速さが遅い。目だけが先に律を捉える。視線は鋭いのに、刺す感じがない。鍵盤を見られるときの視線とは違う。楽譜の欠点を探す目でもない。人間を見ている目だった。「サガ…リツ」たどたどしい日本語が耳に届いた。律の名前が、異国の口の中で少し丸くなって落ちる。その丸さが、律の胸を少しだけ緩めた。緩んだ分だけ、怖さも入ってくる。律は頭を下げた。頭を下げる角度が、東京の家で覚えた礼の角度になりかけて、途中で止めた。ここは家ではない。指揮台でもない。支援の檻でもない。自分で来た場所だ。「嵯峨律です」声が少し硬い。硬さに気づいた途端、息を止めそうになる。律は慌てて息を吐いた。吐いた息が喉の奥で引っかかったまま消える。男は軽く頷き、扉を大きく開けた。スタジオの中は明るすぎない。窓からの光が床に四角く落ち、木目の上で柔らかく滲んでいる。匂いが強い。ピアノの匂いだ。古い木と、フェルトと、少し
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44.八小節の檻、八小節の自由

練習室のドアを閉めた瞬間、外の世界が少しだけ薄くなった。完全に消えるわけではない。廊下の足音が、隣の部屋の椅子が軋む音が、換気扇の低い唸りが、薄い膜を通して残る。防音が完全ではないという事実が、律を苛立たせるより先に、妙に落ち着かせた。ここでは大きな音で押し切れない。派手な音量で自分を誤魔化せない。その代わり、息と指先の小さな揺れが全部、自分に返ってくる。ピアノはアップライトだった。スタジオのグランドに比べれば影が小さい。鍵盤の白も少し黄ばんでいる。椅子の高さを合わせるだけで、律は一度息を止めそうになって、喉の奥がきゅっと締まった。止めたくなるのは癖だ。止めた瞬間に音が硬くなることも知っているのに、止めてしまう。律は掌を膝に置き、ゆっくり吐いた。吐く息は短い。短いことに気づくと焦る。焦ると息が浅い。浅いと指先が冷える。八小節。課題はそれだけだった。ジョヴァンニが紙に書いて渡してきた数字も、それだけだった。八小節を一週間。期限のある言葉なのに、律の中でそれは鎖にならなかった。むしろ鎖が切れて、輪になった感じがした。どこかへ飛ばされるための期限ではない。生活の中で回すための輪。そう思いたい。思いたいのに、数字を見ると胸がざわつく自分もいる。律は譜面台に楽譜を置いた。どの曲でもなかった。誰もが知っている旋律でもない。短い断片。呼吸が入る余地だけを残した八小節。ジョヴァンニが選んだのか、祖父が選んだのか、律には分からない。ただ、その八小節は、どこにも勝てない音を要求してきた。勝つための音ではなく、そこに居るための音。鍵盤へ手を伸ばす前に、律は一度だけ目を閉じた。梅田の白いネオンが瞬間的に瞼の裏に浮かび、すぐに消えた。消えたのに残響だけが残る。あの夜、指先が熱くて冷たかった。熱情の三楽章は、吐き出すみたいに出ていった。出ていった後に自分が空っぽになった。その空っぽを、史人の体温で埋めた。埋めたはずなのに、今はその体温が遠い。遠いものを掴みに行くのは、まだ違う。律は目を開けて、譜面の最初の音を見た。音符の黒が小さな穴みたいに見える。穴に落ちると、また息が止まる気がした。律は椅子に座り直し、肩を意識した。上がっている。顎が前に出ている。胸が固い。固さを責めると、も
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45.条件を出す練習

アカデミアの廊下は、いつも少し冷えている。石造りの建物の内側に残った湿り気が、夕方になると床から上がってきて、靴底を通して足首まで触れてくる。練習室から漏れる音が、壁の曲がり角で薄く反響し、遠くの鐘の残り香みたいに混ざる。誰かがスケールを弾き、誰かが同じ箇所を何度も繰り返し、誰かがため息をつく。その全部が、律の神経を刺さない程度に、日常としてそこにあった。以前なら、それだけで胸の奥がざわついた。音があるというだけで、評価がついてくる気がした。誰かの耳が自分を切り分け、並べ、順位をつける。空気の中にある見えない秤が、息を浅くする。けれど今は、ざわつきが来る前に、律は自分で手綱を握れる瞬間が増えていた。息を吐く。吐くことを忘れない。指先が冷えたら立つ。歩く。水を飲む。自分の身体を自分の側へ引き戻す。その小さな手順が、日に日に確かな輪郭を持ちはじめている。練習室のドアを閉めて、椅子の高さを合わせ、鍵盤に手を置く。その一連が、儀式ではなく、生活の一部になってきた。弾くことが目的ではない。座れること。息が続くこと。音が出ても出なくても、世界が壊れないこと。ジョヴァンニが最初に律に教えたのは、そこだった。その日のレッスンは短かった。八小節はもう檻ではなくなりかけている。檻だったものが自由に変わるには、時間が必要だと律は分かりはじめていた。急がない。急げばまた、期限の鎖が喉へ巻きつく。レッスンが終わって廊下に出たとき、壁際に小さな掲示板があることに律は気づいた。普段は視界に入っても読み取らない。自分に関係のないことは、守るために見ない。それが癖だった。けれど今日は、掲示板の紙が一枚だけ、妙に白く見えた。白さは怖い。それでも足が止まった。紙には、手書きのイタリア語が並んでいた。内部発表、サロン、来週、数名。学生同士の小さな会。招待制。拍手は控えめに、とまで書いてある。控えめな拍手という言葉に、律の胸がきゅっと締まった。拍手の量を測られる気がしたからだ。音を出した後の沈黙が、刃になる気がした。背中が冷える。指先が一段階だけ冷たくなる。視界の端が少し狭くなる。呼吸が浅くなる兆候が揃いはじめて、律は自分で気づけた。その瞬間に気づけたことが、少しだけ嬉しい。嬉しさがあるのに、恐れが勝つ。勝
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46.断る勇気

昼の光は、ボローニャの回廊を思ったより白く照らす。石の肌が乾いている日は、音の輪郭まで硬くなる気がして、律は無意識に肩をすくめた。湿った夜の方が楽だと気づいてから、昼の乾きは少しだけ苦手になっていた。息が喉の奥で引っかかる感じがするからだ。アカデミアの外れにある小さなレッスン室は、ジョヴァンニのスタジオと違って、余計なものがほとんどなかった。壁の色も机も椅子も、すべてが実務的で、落ち着くというより緊張を強いる。窓は高い位置にあって、外の喧騒が届かない。代わりに、沈黙がこちらへ迫ってくる。ドアノブに手をかけた瞬間、律は自分の指先が少し冷えていることに気づいた。怖いのではなく、身構えている冷えだ。ジョヴァンニのレッスンは身体をほどく。ここは違う。ここは背筋を立てる場所だと、律は聞いていた。プロの言葉を教える師匠。現役の演奏家。中堅スター。そういう肩書きの方が、律の呼吸を浅くする。ドアを開けると、室内にはピアノはなかった。代わりに長机とノートパソコンが一台、スマホが二台、薄いファイルが積まれている。練習室というより、打ち合わせ室に近い。律は一瞬、間違えたかと思った。奥に座っていた男が顔を上げた。三十代後半か四十代前半。髪は整えすぎず、ジャケットは肩に馴染んでいる。指輪も時計も派手ではないのに、手元が妙に目立つ。爪が短く、指先が乾いていない。鍵盤を弾く手というより、契約書を捲る手だと思った。男は律を頭の先から足元まで一度だけ見て、視線を戻した。視線が刺さらないのに、律は妙に落ち着かなくなった。見られたのに評価されていない。評価されていないことが怖い。男が短く言った。「座って」律は椅子に腰を下ろした。座った途端、背中が椅子に吸い込まれそうになり、律は自分で背筋を立てた。立てると息が浅くなる。浅くなりそうで、律はゆっくり吐いた。吐くことを忘れない。男は自己紹介をした。イタリア語のアクセントが混ざった英語と日本語が、滑らかに切り替わる。「俺はレオナルド・フェッリ」律はその名をどこかで見た気がした。ポスターか、配信のサムネイルか。現役の演奏家。コンクールの審査員もやる。オーケストラと共演し、レーベル契約
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47.戻ってくる呼吸

夜は、ボローニャの回廊を少しだけ甘くする。石は昼の乾きを忘れたみたいに湿り、街灯の光が表面に薄く滲んで、歩く靴音まで丸くなる。律はその丸さに救われるようになっていた。東京の夜は、いつも角が立っていた。角は人の喉に引っかかり、息を切らせる。ここでは、息が途中で折れにくい。下宿の窓を少し開けると、遠くで鐘が鳴った。きっぱりした音なのに、柔らかい。音が胸に当たっても刺さらないという感覚に、律はまだ慣れきれず、時々驚く。驚いて、それから安心する。テーブルの上には、折りたたみの譜面台と、書き込みだらけのスコアと、マグカップと、スマホが置かれている。スマホは、以前のように刃物ではなくなった。刃物ではない。そう言い切るのはまだ怖い。けれど、少なくとも喉を締めるものではなくなってきている。画面が光っても、律の視界は狭まらない。指先が冷え切る前に、吐ける。吐いて、吸える。律はソファに背中を預け、しばらく何もしなかった。何もしない時間に罪悪感が湧く癖は、まだ残っている。何もしないと、置いていかれる気がする。評価から、期限から、人の期待から。けれど、ここでは何もしないことが練習の一部になっていた。ジョヴァンニはそれを、練習より大事だと言った。フェッリも言った。弾かないのは逃げではなく、選ぶことだ。選ぶ。律はその言葉を、舌の裏で転がすように噛みしめた。選ぶという行為には、責任がつく。責任がつくのが怖かった。責任という言葉は、嵯峨アーツマネジメントの白い紙を呼び出す。紙の白さは、生活の湯気を冷やした。祖父母の台所の匂いを、別の匂いにした。あの匂いを思い出すと、今でも胸の奥がちょっと硬くなる。その硬さを、律は最近、息でほどけるようになってきた。ほどけるというより、ほどけるまで待てるようになってきた。待てるということが、律にとっては大きな回復だった。スマホが小さく震えた気がして、律は肩をすくめた。幻振動ではない。今の震えは、本当に自分の手のひらが机に触れたときの揺れだった。東京にいた頃は、震えの正体がいつも分からなかった。音も振動も、仕事の通知みたいに身体の中へ侵入してきて、逃げ場を消した。史人の会社用スマホの通知音が、夜の肌を裂いた瞬間を思い出す。あの刃のような音。その刃を、律
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48.終電の外側、通知音の残響

梅田のビルは、夜になるほど白さを増す。昼間の蛍光灯はまだ人の往来を前提にした明るさをしているのに、終電が近づく頃の白は、誰かを帰さないための照明みたいに冷たい。史人はその白の下で、モニターの赤いアラートと、更新される監視グラフの波形に目を焼かれながら、今日も席を立てずにいた。会議室のガラス越しに、清掃員の影が横切る。床にワックスを引く音が、乾いた摩擦として耳に残る。空調はいつも同じ温度のはずなのに、深夜に近いほど冷えた気がした。体が冷えるのではなく、神経が乾いていく。舌の奥が渇き、唇の端が割れそうになる。喉を潤したくて水を飲んでも、内部で蒸発してしまうみたいだった。客先のフロアは、誰がまだ残っているかが分かりにくい。人の気配があるのに、視線は届かない。机の列が、同じ形のパーティションで区切られているせいで、誰もが個室に閉じ込められたまま働いているように見えた。史人もその一つに、今日の自分を押し込められている。会社用スマホは、手の届く場所に伏せて置いてある。画面を上に向けると、呼吸が浅くなるからだ。音が鳴らなくても、鳴る前提で身体が構えてしまう。人間の体は、こんなに単純に条件づけられるのかと、時々怖くなる。通知音が鳴る前に、鳴る気配で肩が上がる。振動がないのに、腿のあたりが震えた気がして、反射でポケットを探ってしまう。幻だと分かった瞬間、怒りより先に情けなさが来る。自分はもう、機械に飼われている。終電の時間を頭の中で何度も計算した。大阪の夜は、駅の時計の針が裁判官みたいに見える。間に合えば執行猶予、間に合わなければ罰。そういう単純な世界に縮んでいく。仕事の中身がどうとか、納期がどうとか、その前に、帰れるか帰れないか。それだけが今夜の人生を決める。ようやく榊からの連絡が切れ、大西の「じゃあ明日」みたいな声が遠くに消えたのは、時計がもう一段進んだ後だった。史人は立ち上がるとき、腰のあたりが痛むことに気づいた。椅子の高さが合っていないとか、姿勢が悪いとか、そんな理由で片づけたくなる痛みだ。でも、これはもっと単純で、ただ長時間、息を止めていた人間の痛みだと、分かっていた。入館ゲートの「ピッ」という電子音が、最後に耳を殴る。帰れるはずの音なのに、帰れない日の記憶を呼び起こしてし
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49.藤堂の依頼

終電の一本手前を逃したあとの梅田は、昼の顔よりずっと正直だった。華やかな看板はまだ光っているのに、人の歩幅が揃わない。酔いの重さ、疲れの重さ、帰る場所がある者とない者の差が、足音の乱れとして路面に残っていた。史人は常駐先のビルを出たあとも、肩から抜けない緊張を引きずったまま、地下街の出口を探していた。頭の中ではまだ監視画面が点滅している。赤いアラート、更新される時刻、会議室の淡々とした声。息を吸っても、肺の上の方で止まってしまう。会社用スマホは、鞄の底に押し込んである。触れないでいれば鳴らない気がする。鳴ったら終わる気がする。どちらにしても、もう終わっているのに、身体だけが納得していない。歩きながら、太腿のあたりが震えた気がして、反射でポケットを探ってしまう。もちろん空だ。自分が自分に嘘の振動を送っている。情けなさが喉の奥をこすり、唾が苦い。スマホの私用のほうが震えたのは、その直後だった。通知の短い振動が掌に伝わり、史人の心拍が一段跳ねた。会社用じゃないと分かっていても、身体が同じ動きをする。画面を覗くと、見慣れた名前が出ていた。藤堂。同期より少し上で、史人がこの業界に入った頃から、やたらと現場の匂いに敏感な男だった。先に辞めて、今はフリーになっている。辞めると言い出したとき、皆は笑ったり心配したりしたが、藤堂はどちらでもなく、淡々と「そっちのほうが合う」と言った。合うかどうかは、史人にはまだ分からない。分かりたくない、が近い。メッセージは短かった。「今から空いてる?」その短文の軽さが、逆に嫌な予感を連れてくる。藤堂は、無駄な前置きをしない。楽しい用事ならもっと雑に誘う。深夜に、こういう聞き方をするのは、だいたい火の匂いがする。史人は立ち止まって、梅田の風の通り道に身体を置いた。湿った夜気が頬に触れる。返信をする指が少し迷う。断る理由はいくつもある。眠い。疲れた。家に帰りたい。宵だまりに寄りたい。どれも本当だ。でも、その本当は、全部逃げの色をしている。史人は打った。「今、梅田。終わった」送信した瞬間、後悔が来る。自分で面倒を増やした、という感覚。だが、その後悔はすぐ次の通知に押し流された
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50.辞表は紙より軽い、体は重い

朝の梅田は、夜の残骸を薄い光で誤魔化していた。ガラス張りのビルの縁に、昨夜の雨の水滴がまだ残っている。史人はその反射を見ているだけで、胃の奥がきゅっと縮むのを感じた。辞める。そう決めたはずの言葉が、舌の上に乗るたびに冷たくなる。声にすれば現実になる。その現実が、今までの生活を全部塗り替える。改札の電子音が、昨日の深夜のファミレスの白い照明と一緒に脳裏に浮かんだ。藤堂の声。「お前、いけるから」あの言葉は救いのはずなのに、同時に崖の縁に立たされたような怖さを持っていた。選べるのなら、今の地獄に留まるのも自分の選択になる。史人はそこから目を逸らしてきた。逸らしてきたぶん、真正面から受け止めるのが怖い。常駐先の入館ゲートが、いつも通りの音で史人を迎えた。ピッ。あの短い音は、許可と監視を同時に含んでいる。フロアに入ると、乾いた空調の匂いが鼻に刺さる。紙とインクと、誰かの制汗剤と、コーヒーの酸味。人間の匂いが薄い。人間が仕事の機能に変換された場所の匂いだった。デスクに座ると、モニターの白が目に突き刺さる。監視グラフが更新される。チャットが流れる。打鍵音が波のように続いて、止まると逆に怖い。音があるうちは、誰かが働いている。音が止まると、誰かが倒れている気がする。そんな錯覚の中で、史人は自分の会社用スマホを鞄から出し、机の端に置いた。伏せない。伏せたくなる衝動を、わざと裏返す。逃げじゃない。そう言い聞かせるために。昼前、会議室に呼ばれた。ガラス張りの部屋の中は、外から丸見えで、逃げ場がない。客先PMの榊が、資料を見ながら淡々と言う。「来月の体制、今のままで行ける想定ですか」その声は、質問の形をしているだけで、答えを許さない種類の圧があった。現場リーダーの大西が、いつものように史人に視線を寄せる。「史人くんが一番分かってるよね。ここ、抜けられると困るんだよね」困る。困ると言われると、史人は今まで反射で頷いてきた。頷けば、その場の空気が少しだけ滑らかになる。滑らかになる代わりに、自分が削れる。削れても、空気が守られるならそれでいいと、ずっと思ってきた。今日は違う。史人の喉が一瞬ひっかかった。息が浅くなる。
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