宵だまりの引き戸が開く音は、律の中ではいつもより少し遅れて届いた。暖色の灯りと出汁の匂いが、胸の奥の硬い塊を溶かすはずなのに、今日は溶けない。笑い声が膜になっているのも、いつも通りなのに、膜の内側で律だけが薄い酸素を吸っている気がした。カウンターの端、史人がいつもの位置にいた。シャツの襟元が少しだけ歪んでいて、目の下の影が濃い。くたびれているのに、顔の輪郭は驚くほど整っている。疲れが剥がれたら、誰でも一度は振り返る種類の顔だと、律は知っている。史人自身がそれを価値として扱わないから、余計に目立つ。史人がこちらを見た瞬間だけ、律の呼吸が戻る。心臓が落ち着く。安堵が、すぐに痛みに変わる。今日の安堵は、別れの前触れの味がする。串田が水を出すのも、米谷が雑に絡むのも、宵だまりの通常運転だった。「お、来た来た。最近サボり気味やったやん」米谷が笑いながら言う。律は笑って返すために口角を上げる。膜を張る。いつも通りの軽さを纏う。「忙しかってん。俺のせいちゃう」史人は小さく笑うだけで、深追いしてこない。救われるのに、刺さる。深追いされないことが、今夜は優しさではなく猶予に見えた。串田がだし巻きを出す。湯気が上がって、出汁の匂いが鼻の奥をくすぐる。律は箸を伸ばしながら、史人の手元を盗み見る。会社用のスマホは今日は見えない。伏せているのか、鞄の奥なのか。どちらでもいいのに、どちらでもよくない。史人の私用スマホが一度、机の上で震えた。通知ではない。画面が光っていない。幻振動ではなく、ただの癖みたいに、史人の指がぴくりと動く。律の背筋が反射で固くなる。自分のスマホはポケットの中で沈黙している。それでも、いつ鳴るか分からないものを抱えている感覚が喉を締めた。史人がグラスに口をつける。氷が鳴る。律はその音を聞きながら、梅田の白いネオンと鍵盤の打撃音を思い出してしまう。あの夜、自分は音で言った。言ってしまった。言ったのに、言葉で言える気がしない。史人が、ちらりと律を見る。何か言いたげな視線が来る。律は先に笑ってしまう。逃げ道を作る。「今日、めっちゃ疲れてる顔してる」史人の眉がほんの少し
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