All Chapters of 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才: Chapter 21 - Chapter 30

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21.蛍光灯の白で殴られる

梅田の朝は、いつも白い。空の色ではない。ビルのガラスに反射した光でもない。史人の目に刺さるのは、入館ゲートの発光と、天井に並ぶ蛍光灯と、ディスプレイの白背景だった。白が多い場所は、人の影を薄くする。薄くなるほど、人間は機能になっていく。史人は、その機能として今日も歩いている気がした。ビルのエントランスは、無駄に広い。無駄に磨かれた床が、靴底の音を少しだけ反響させる。香りは薄い。清掃洗剤と、空調の乾きと、誰かの整髪料が混ざっているのに、どれも決定打にならない。決定打がない空気は、個性を奪う。奪われた空気の中で、史人は首から下げた入館カードを指で確かめた。ゲートにかざす。「ピッ」音が短いほど、失敗の余地がないみたいで息が詰まる。ゲートの先へ進むだけで、胸の奥が固くなる。固さは、ここへ来るたびに増える。増えた固さは、休日になっても抜けない。抜けない固さを抱えたまま、史人はエレベーターのボタンを押す。上へ上がる箱の中は、無音に近い。無音の中で、史人の心拍だけが聞こえる気がした。心拍の音が大きいと、自分が生きていることを感じるはずなのに、ここでは逆だ。心拍が大きいほど、何かが起きる予感がする。予感はいつも、当たる。フロアに着く。ドアが開く。冷たい空気が頬に触れた。乾いた空調。オフィス独特の匂い。紙、コーヒー、制汗剤、電子機器の熱。どれも毎日嗅いでいるはずなのに、慣れない。慣れないのは、身体が拒否しているからだろうと思う。拒否しても、ここから出られない。形式上、史人は自社の社員だ。名刺にもそう書いてある。けれど実態は客先常駐で、身動きが取れない。職場はここで、評価もここで、怒号もここで受ける。逃げる先は自社ではなく、自分の胃の奥だ。席に着くと、モニターが二枚、白い画面で迎えた。監視のダッシュボード。進捗表。チケット管理。チャット。今日のタスク。白地に黒文字、ところどころに赤や黄が点る。赤は危険。黄は注意。緑は順調。普通ならそうだ。ここでは違う。赤も黄も緑も、全部が詰めの色に見える。史人はキーボードに指を置いた。指を置くと、指先が少し冷たい。冷たい指先は、眠さではない。緊張が末端に溜まっている証拠だ。史人は深呼吸をし
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22.耳の中の避難場所

電車の窓に映る自分の顔は、夜のガラスに薄く貼りついて、すぐ剥がれそうだった。照明が揺れるたびに輪郭がぼやけ、目の下の影だけが濃く残る。史人はその影を見ないふりをして、背中を座席に預けた。預けたはずなのに、肩は上がったままだ。上がった肩のまま、胸の奥が硬い。硬い胸が、呼吸を浅くする。車内は空いていた。空いているのに静かではない。空いている分だけ、音がよく聞こえる。車輪の規則的な響き、ジョイントを跨ぐたびの小さな衝撃、吊り革が揺れて当たる金属音、遠くの咳、誰かのスマホのバイブ。音のひとつひとつが粒になって、史人の耳を叩く。叩かれるたびに神経がささくれ、指先が冷たくなる。史人は会社用スマホを膝の上に置いたまま、画面を見なかった。見ない方が安全だと、身体が覚えている。見れば何かが来る。来たら対応しなければならない。対応すれば、終わったと思った夜が終わらない。終わらない夜は、明日の朝の蛍光灯へ直結する。画面を見ない代わりに、史人の視線は自分の手へ落ちた。手のひらが白い。力が入っている。気づかないうちに握りしめている。握りしめると、掌に爪が食い込み、その痛みだけが現実になる。現実になれば落ち着く。落ち着くために痛みを使うのは、健康ではないと分かっているのに、史人はそうしないと自分の輪郭を保てなかった。息を吸う。吸っているつもりなのに、肺の上の方で止まる。止まるから、吐く息も短くなる。短い息が繰り返されると、胸がさらに硬くなる。硬くなる胸のまま、史人は視線を少し上げた。車内の広告。旅行のポスター。笑う家族の顔。笑う恋人の顔。未来を約束しているようなコピー。そこに書かれている言葉は軽く、史人の胸には届かない。届かないから、逆に刺さる。刺さるものから目を逸らしたくて、史人は鞄のファスナーに指をかけた。指が震えている気がした。震えは疲れではない。緊張の残りだ。さっきまでの会議室の空気が、まだ皮膚に貼りついている。榊の「誰が判断した?」が、耳の奥で反響している。大西の「君が一番分かってる」が、喉に絡みついて離れない。綾部の「頼むで」が、背中に乗ったまま降りない。降りないものを、降ろす方法を史人は知っていた。イヤホン。それは逃げ道で、避難所で、唯一の贅沢だっ
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23.通知音が肌を刺す

宵だまりを出たとき、雨はもう止んでいた。路地のアスファルトだけが湿っていて、街灯の光を薄く伸ばしている。冷えた空気が頬に触れるたび、史人の身体は仕事の殻をまだ脱ぎ切れていないのだと分かった。殻は薄い膜みたいに皮膚に貼りついて、動くたびにきしむ。隣を歩く律は、酔いが残っているはずなのに足取りが妙にまっすぐだった。ふらつくでもなく、しなだれるでもなく、ただ距離を詰めるのが自然で、それが史人には一番危険に思えた。危険だと思うくせに、手が伸びる。伸びた手で、史人は律の腕に触れてしまう。触れた瞬間だけ、肩の力が少し落ちる。落ちると息が入る。息が入るのが、嬉しい。「寒い?」律が、聞くというより確かめるように言った。史人は首を横に振ったつもりだった。けれど返事は曖昧な息になった。寒いのは空気ではない。仕事が冷たいまま、身体の奥に残っている。階段を上がる。途中の踊り場で、史人は自分の部屋の扉が見えた瞬間に胸がほどけるのを感じた。ほどけるのは帰宅の安心ではない。もっと身勝手で、もっと浅いところの欲望だ。言葉にすると醜いから言葉にしない。言葉にしないために、史人は鍵を回す。扉が開く。白い灯りの匂いが戻ってくる。狭い廊下、散らかった靴、冷えた床。生活の乱雑さが、宵だまりの暖色と地続きになって、史人の神経を少しだけ緩める。緩めた瞬間が怖い。緩めたら、仕事の世界が入り込む余地ができる。入り込まれると、何もかも台無しになる。台無しになるという予感を押し込めるように、律が靴を脱いだ。脱ぐ動作が慣れている。慣れていることが、史人の胸をざわつかせた。ざわつきは罪悪感にも似ていて、期待にも似ている。史人は会社用スマホを鞄から出さなかった。出して見えるところに置くと、そこに仕事が存在し続ける。存在し続けるものを今だけ消したかった。消せないと分かっていても、隠したかった。鞄の中に押し込み、ファスナーを閉めた。閉める音がやけに大きく聞こえ、史人は自分の神経がまだ尖っているのを知った。律が史人の方を見る。目が合うと、史人の呼吸が浅くなる。浅くなる呼吸のまま、律が距離を詰める。詰められると、史人は拒めない。拒めないのは欲望だけではない。拒んだら、今夜の呼吸がなくな
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24.白い雑踏、袖を引く指

その日は最初から、釘が一本だけ浮いているみたいに落ち着かなかった。梅田のガラス張りの会議室で、史人は朝から何度も息を止めた。止めた息のぶんだけ、胸の奥が硬くなり、硬さのまま言葉を飲み込む癖が強くなる。誰が判断したのか、なぜそうしたのか、いつまでにどうするのか。理由を詰められる質問の形が、机の上で整然と並び、整然としているぶんだけ暴力的だった。榊の目は冷たいわけではない。冷たいより厄介な種類の正しさだった。正しさは、誰かが壊れる瞬間にだけ無表情になる。史人は壊れないように、壊れたふりをした。頭を下げ、声を低くし、謝罪の単語を並べ、暫定対応の段取りを組み直す。何もかもが儀式だ。儀式を間違えた瞬間、次の生贄になる。午後の終わりにかけて、突然、潮が引いた。会議が一つ飛び、榊が席を立ち、大西が電話に吸い込まれていった。誰かが「今日はここまで」と言ったわけじゃない。ただ、仕事の手が一瞬だけ緩んだ。緩むと逆に怖い。緩みは、次の締め付けの前触れだと身体が知っている。史人は自席で時計を見た。まだ早い。早いという事実が、やけに空虚で、胸のどこかがむず痒かった。終電の計算をするには早すぎる。早すぎると、逃げる先がなくなる。綾部が通りがかりに、軽く肩を叩いた。「史人、今日はもう上がってええで。明日またな」史人は反射で立ち上がりかけた。立ち上がりかけて、自分の手がまだ冷たいことに気づく。冷たい手でマウスを握り、画面の監視グラフを見る。赤も黄も緑も全部詰めだと言い聞かせてきた目が、今日はどこを見ればいいのか分からない。「ありがとうございます」そう言ってしまう声が、自分のものじゃないみたいだった。礼を言う場面でも、謝る場面でも、同じ調子になる。会社で生き残るための声。会社の外へ持ち出したくない声。史人は荷物をまとめた。ケーブル、ノートPC、会社用スマホ。スマホの硬い角がポケットの内側に当たっただけで、皮膚が緊張する。幻振動が来る気がする。来る前に来る気がする。来る気がするだけで胃が冷える。入館ゲートの前でカードをかざす。「ピッ」音が短く耳を殴った。殴られるたび、心臓が反
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25.鍵盤に触れる前の沈黙

人だかりの中心に近づくにつれて、梅田の夜は別の顔を見せた。ネオンの白がただ眩しいだけじゃなく、輪郭を切り出す刃みたいに見える。人の肩、髪、スマホの光、笑い声の口元。全部がはっきりしすぎていて、息をする場所が薄い。律に袖を引かれたまま、史人は人の流れを避けるように歩いた。避けているつもりでも、肩がぶつかる。コートの布が擦れる音が耳に残る。どこかで缶の開く音がして、すぐに拍手のような乾いた音に紛れた。イベントの空気だと、身体が理解した。宵だまりの笑い声の膜とは違う。ここは、見るための場所だ。見られるための場所だ。人だかりの中心に、グランドピアノがあった。黒い艶が、街の光を飲み込んでいる。飲み込んだ光が、表面で歪んで返る。その歪みの中に、人の顔が何枚も映る。誰かが手を伸ばせば触れられる距離なのに、黒いものは遠い。遠いのに、そこだけがこの場の心臓みたいに鼓動している。周囲はざわめいていた。スマホを構える腕が何本も上がっている。小さな子供が背伸びをし、大人がそれを覗き込む。誰かが冗談めいた声で何かを言い、すぐに笑いが起きる。笑いの薄い波が、黒い艶の周りをなぞる。けれど、その笑いが届かない場所がある。それが律のいる場所だった。律は、人だかりの少し外側に立っていた。中心へ近づいていない。近づかないのに、視線だけがピアノに触れている。触れているように見えるだけで、史人の胸がざわついた。体温で誤魔化してきたはずの関係なのに、今は触れないもので繋がれている気がする。律の指先が動いていた。ポケットの縁をなぞり、爪の先で布を掻き、すぐに掌を握りしめて開く。落ち着かない癖みたいに見えるのに、癖という言葉では足りない。呼吸が浅い。さっき地下街で「息」と言ったときと同じだ。いや、それよりも浅い。浅い呼吸は、胸を硬くする。硬い胸は、息を止める。息を止めると、視界が狭くなる。史人はその流れを自分の身体で知っている。史人は自分の肺の奥を意識した。喉が乾いている。乾いているのに、無理に吸い込むと咳が出そうだった。だから、少しだけ吸う。少しだけ吐く。少しだけ、息を続ける。律の隣で息を止めたくなかった。律が息を止めているのに、隣の自分まで止めたら、何かが壊れる気がした。誰かがピアノに近づき、
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26.熱情の第一音、名前のない告白

律の指先が、白と黒の境界に触れた瞬間、梅田の雑踏が一度だけ息を止めたように見えた。実際には、誰かの笑い声も、遠いアナウンスも、通り過ぎる靴音も消えていない。それでも、史人の耳の中でだけ、音の層が入れ替わる。上に乗っていた日常のノイズが薄くなり、代わりに、鍵盤に触れる皮膚の擦れる気配が濃くなる。黒い艶の向こうに、律の背中が真っ直ぐに立っている。背中の細さは弱さではない。細いまま折れないための硬さだと、直感が告げる。律は一度、深く吸ったように見えた。見えただけかもしれない。さっきまで浅かった呼吸が、その一瞬だけ底へ落ちた気がする。落ちた呼吸のあとで、律の手が鍵盤へ落ちる。最初の一音は、刃だった。音は鋭く、乾いているのに、どこか湿っていた。湿りは、梅田の夜風の湿気ではない。吐き出せなかったものの湿りだ。弾き始めの一音が、空気に穴を開け、その穴から別の世界が流れ込んでくる。人だかりのざわめきが遠のく。スマホの光だけが、星みたいに点々と残る。史人は、その一音で分かってしまった。ベートーヴェン。熱情。第三楽章。曲名は頭の中で文字にならず、身体の記憶として立ち上がる。幼い頃、ピアノ教室の硬い椅子に座り、先生が譜面台を叩いてテンポを示したときの緊張。練習の終わりに手の甲が少し熱くなった感覚。発表会の前に、指先が冷えたまま鍵盤に触れた記憶。弾けなくて泣いた夜の湿り。弾けた瞬間だけ、胸の底が軽くなった奇妙な解放。それらが全部、律の一音に引きずり出される。史人は気づいた。自分は、音楽を「聴く趣味」として持っているのではなかった。音楽を、呼吸のために持っていた。職場の白に殴られ、通知音の幻に皮膚を裂かれそうになって、耳の中へ逃げ込むために。息を止める癖を、なんとか戻すために。音楽は薬だと思っていた。整うための。眠るための。けれど今、律の音は整わせない。整うより先に、掴む。律の右手が跳ね、左手が追いかける。音は走る。走るのに乱れない。乱れないのに、落ち着いていない。落ち着いていないのに、制御されている。矛盾したまま、熱だけが増していく。熱は、鍵盤から出ているのではない。律の胸から出ている。
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27.曲名を言えない喉、答えを待つ目

拍手は熱を持って押し寄せた。さっきまで息を止めていた世界が、一斉に息を吐き出すみたいに、ざわめきが戻る。戻った音は、梅田の夜の雑踏そのものなのに、史人の耳にはまだ遠い。遠いまま、胸の奥だけが痛いほど近い。律の音が、まだそこにいる。律は立ち上がり、軽く頭を下げた。周囲の拍手に混ざって、スマホのシャッター音が細かく鳴る。撮れてしまう。閉じ込められてしまう。史人はそう思ったが、思ったところでどうにもできない。どうにもできないことに慣れすぎている自分が、今夜だけは嫌だった。律が人だかりの中へ戻ってくる。戻ってくる動きは宵だまりで見た軽さに似ているのに、身体の芯が違う。軽いふりをしているだけで、どこかが硬い。硬さは、背中の奥にある。背中の奥がまだ震えているように見えた。史人は一歩近づこうとして、足が止まった。近づいて何を言う。上手かった。すごかった。そんな言葉は薄い。薄い言葉で律の音に触れたら、指先が切れる気がする。切れてしまったら、もう戻らない。戻らないものが増えるのが怖い。怖いのに、近づきたい。律の目がこちらを捉えた。目が合う。合った瞬間、史人の喉が鳴る。唾を飲み込む音が自分の耳にだけ大きい。律は笑おうとした。口角が上がりかけて、途中で止まる。その止まり方が、宵だまりの笑いと違う。宵だまりでは笑いが膜になる。今は膜にならない。膜にならない笑いの前に、裸の律がいる。史人は、その裸に言葉を投げる勇気がない。代わりに、動いた。言葉ではなく、手足で。人だかりの熱の中で、史人は律の横へ回り込み、肩がぶつかりそうな人の流れを腕で遮った。遮ると、知らない誰かの視線が刺さる。刺さってもいい。刺さる視線より、律の呼吸が浅いままなのが怖い。律は少しだけ顔をしかめ、すぐに平気な表情を作った。作った表情が、逆に危うい。平気は仮面だ。仮面の下で、指先が微かに震えているのが見えた。ピアノの鍵盤から離れた指が、行き場をなくしている。さっきまで世界を掴んでいた指が、今は自分の居場所を探している。史人はその指を見て、胸の奥が締め付けられた。締め付けられるのに、口は動かない。こういうとき、職場なら言葉は出る。謝罪の文言、暫定対応の段取り、原因の推測。言葉は手札
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28.体温へ戻れない帰り道

梅田の白い光から離れるほど、音の残像だけが濃くなる気がした。律の横を歩きながら、史人はさっきまで耳の奥を占拠していた旋律が、街の雑踏に溶けていくのを感じていた。溶けていくのに、消えない。消えないのは、音そのものではなく、音が開けた穴だった。胸の奥に穴が開いて、そこから冷たい風が出入りしている。冷たい風が痛いのに、息がしやすい。痛みと回復が同居するのが、気持ち悪いほど心地いい。二人はいつもみたいに並んで歩いている。肩が触れそうな距離も、歩幅を合わせる癖も、何も変わっていないはずだった。けれど、会話だけがない。宵だまりから史人の部屋へ向かう夜も、こんなふうに無口になることはあった。疲れた日、言葉が余っていない日、笑いで膜を作る余裕もない日。そういう無口なら、慣れている。今夜の無口は違った。言葉が余っていないのではなく、言葉が多すぎて出せない。出した瞬間、形が決まるのが怖い。形が決まれば、責任が生まれる。責任が生まれれば、戻れなくなる。戻れなくなったのは、もう分かっているのに。律は前を見て歩いていた。横顔は平気な顔の形をしている。宵だまりで見せる軽口の膜を、薄く戻そうとしている。その膜が今夜はうまく張れない。張れないまま、目の奥だけがまだ熱い。熱い目の奥を見ると、史人は胸が締め付けられた。史人は一度、喉の奥で曲名を唱えた。唱えるだけなら誰も傷つかない。熱情。第三楽章。唱えた瞬間、律の指先が鍵盤を叩く残像が目の裏に現れる。残像が現れると、史人の腹の底が熱くなる。熱は欲望の熱に似ている。似ているのに、向きが違う。向きが違う熱に、自分の身体が追いついていない。信号の前で立ち止まる。赤い光。車の音。人の話し声。全部が現実のはずなのに、どこか薄い。薄さの中で、律が小さく息を吐いた。吐いた息は白くならない。ならないのに、史人はその息が白く見えた気がした。白い息は寒さの証拠だ。寒さは怖さの証拠だ。怖さは、まだ律の中にいる。史人は言葉を探した。大丈夫か、と言えば簡単だった。簡単な言葉ほど、今夜は怖い。大丈夫かと問うた瞬間、律は大丈夫のふりをしなければならなくなる。ふりをさせたくない。ふりをさせない方法が分からない。史人は結局、別の言葉に逃げ
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29.知らないまま、知ってしまう

朝の光は、梅田の白よりも柔らかいはずだった。史人の部屋のカーテンの隙間から差し込む淡い色は、いつもなら眼球の奥に刺さらない。刺さらないはずの光が、今朝は刺さった。眠りが浅かったせいだ。隣で眠っていた律の呼吸が深くなるたび、史人の胸の奥に残った音が揺れたせいだ。揺れた音は、目覚めた瞬間にも消えない。史人はベッドから起き上がり、洗面所へ向かった。蛇口をひねる。水の音が流れる。その水音が、昨夜の鍵盤の打撃と重なる。重なった瞬間、史人の指先が小さく震えた。歯ブラシを握り直す。白い泡が口の中で広がる。泡は冷たい。冷たいのに、胸の奥は熱い。熱が引かない。鏡に映る自分の顔は、いつもの二十七歳より少しだけ若く見えた。若く見えるのは、健康になったからではない。昨夜の音に、内側を掴まれたせいで、表情が追いついていないだけだ。目の下の影は消えていない。唇も荒れている。肌も疲れている。疲れているのに、眼だけが妙に冴えている。冴えている眼は、仕事に向く冴え方ではない。鏡の中で、自分が何かを待っているように見えて、史人は気持ち悪くなった。待つ。という行為が、史人の生活から消えて久しい。待つのは、バグ修正の完了通知か、顧客の返答か、障害の再発か、オンコールの着信だけだった。人を待つ余裕も、何かを楽しみに待つ余裕もない。ないはずだった。けれど今朝、史人の胸の奥は、音の続きを待っている。待っていることを認めた瞬間、喉の奥が詰まった。吐き気ではない。言葉の詰まりだ。言葉にしたら終わるものがある。言葉にしたら始まるものがある。どちらも怖い。怖いから、史人は泡を吐き出し、水で口をすすいだ。冷たい水で誤魔化すのが癖になっている。部屋に戻ると、律はもう起きていた。ベッドに座り、髪を指で整えながら、スマホをいじっている。宵だまりで見せる軽口の膜を、朝の光の中で薄く張っているように見えた。張っているのに、目の奥の熱はまだ残っている。残っている熱が、史人の胸の穴と繋がってしまう。史人はその繋がりを断ちたくて、声を出した。「コーヒーいる」律は顔を上げた。笑う。「いる」一語。短い。短い言葉が、昨夜よりも怖い。
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30.着信名は「父」

朝の光は、いつもなら部屋を薄く漂うだけで終わる。史人の一Kの窓から差し込む白は、カーテンの繊維を透かし、壁の汚れをぼんやり浮かび上がらせる程度のものだ。律にとっては、昨日の梅田の白に比べれば優しいはずだった。けれど今朝の白は、優しいふりをして、刃の薄さで喉を撫でてくる。律は目を開けた瞬間に、それが分かった。空気が軽い。軽いのに、胸の奥に重いものが沈んでいる。重いものは音だった。昨夜の鍵盤の打撃、息を詰めて放った自分の熱、拍手の熱のなかで固まった史人の眼差し。全部がまだ、皮膚の内側に貼り付いている。隣では史人がまだ眠っていた。寝返りを打つ気配もなく、落ちた体温のまま、深く沈んでいる。律はその横顔を、見ないようにした。見たら、何かを言ってしまう気がした。言えば終わる。言えば始まる。どちらも今の自分には危険で、危険だと分かっているのに、口が勝手に動きそうになるのが怖かった。律は静かに上体を起こし、枕元のスマホを手に取った。いつもの癖だ。時間を確認して、勝手に頭の中で予定を整える。整えないと呼吸が乱れる。予定は自分の中にしかないのに、脳はそれに縋る。画面が点いた。通知の数字より先に、着信履歴が見えた。父。その一文字が、眼球に刺さった瞬間、喉がきゅっと縮んだ。息が止まる。止まると気づく前に止まっている。胸の奥が急に狭くなる。肺が小さくなる。指先が冷える。冷えが掌の中心から爪へ走り、スマホを握る力が抜けた。律は反射で画面を暗くした。暗くしたのに、一文字は残る。目の裏に焼き付いたまま消えない。喉の奥が乾く。唾が飲み込めない。飲み込もうとすると、喉が詰まって、心臓が一段跳ねた。跳ねた拍が、昨日弾いた第三楽章のテンポを呼び戻す。呼び戻された瞬間、耳の奥が遠くなる。外の音が薄くなる代わりに、自分の血の音だけが大きくなる。律は息を吸おうとした。吸えない。浅い吸気が途中で折れる。折れたまま、肩だけが上がる。呼吸が足りないと、視界の端が微かに白く滲む。白い滲みは梅田の白と重なり、重なるほど喉が固くなる。違う。これは梅田じゃない。ここは史人の部屋だ。狭い。壁が近い。生活の匂いがする。昨夜飲んだ水のペ
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