史人は目を覚ます前に、手が先に動いていた。枕元に置いたスマホへ、指先が条件反射みたいに伸びる。画面が暗いままの黒を映し、そこに自分の輪郭だけがぼんやり浮いた。会社用スマホではない。私用だ。そう気づいてから、史人はようやく息を吐いた。部屋の窓は薄いカーテン越しに朝の光を通している。白い光は優しいはずなのに、史人の身体はまだ蛍光灯の白を思い出して身構える。肩が上がり、喉の奥が乾く。自分が息を止めているのが分かる。止めていることに気づくまでが、以前より少しだけ早い。それだけが、独立の初日らしい変化だった。机の上には、昨夜から開いたままのノートパソコンと、紙が二枚。プリンタのインクが薄く匂い、紙の白がやけに目につく。紙に縛られてきた人生だった。仕様書、議事録、障害報告、謝罪文。紙と画面の間で呼吸を削られてきた。なのに、今日の紙は違う。史人の名前が、史人の意思で書かれる。台所側に置いたケトルが、少し遅れて沸騰を始めた。シュウ…という音に、史人の神経がぴくりと反応する。蒸気の音が、どこかのサーバルームの冷却音を連れてくる。脳が勝手に結びつける。今は違う。今は自分の部屋だ。史人は自分に言い聞かせるみたいに、マグカップを取り出した。陶器の冷たさが指先に染みて、現実の温度を取り戻させる。朝食は食べられない日が多かった。食べる余裕がないというより、胃が働かない。働かない胃のまま出社して、働くのは仕事だけで、身体は置き去りになる。今日は出社がない。出社がないのに、胃はまだ働かない。史人はインスタントのコーヒーを溶かし、口に含んだ。苦味が舌に広がる。苦いのに、少しだけ落ち着く。苦味が現実を戻す。机の横に、封筒が用意されている。開業届の控えを入れるための封筒。史人は昨日、税務署の場所を地図で確認し、必要書類を印刷し、ペンを揃えた。そういう細部の準備は得意だった。仕事でもそうだった。穴を埋める。抜けを見つける。誰かの作った雑な前提の中で、落ちるところを先に塞ぐ。史人の身体は、その作業だけは軽く動く。なのに、自分の将来のことになると、手が重い。ペンを握るだけで、指先が冷たくなる。将来は仕様書に書けない。設計書に落とせない。見積もれない。見積もれないものを扱うのが、史人はずっと怖かっ
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