All Chapters of 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才: Chapter 51 - Chapter 60

68 Chapters

51.開業届の朝

史人は目を覚ます前に、手が先に動いていた。枕元に置いたスマホへ、指先が条件反射みたいに伸びる。画面が暗いままの黒を映し、そこに自分の輪郭だけがぼんやり浮いた。会社用スマホではない。私用だ。そう気づいてから、史人はようやく息を吐いた。部屋の窓は薄いカーテン越しに朝の光を通している。白い光は優しいはずなのに、史人の身体はまだ蛍光灯の白を思い出して身構える。肩が上がり、喉の奥が乾く。自分が息を止めているのが分かる。止めていることに気づくまでが、以前より少しだけ早い。それだけが、独立の初日らしい変化だった。机の上には、昨夜から開いたままのノートパソコンと、紙が二枚。プリンタのインクが薄く匂い、紙の白がやけに目につく。紙に縛られてきた人生だった。仕様書、議事録、障害報告、謝罪文。紙と画面の間で呼吸を削られてきた。なのに、今日の紙は違う。史人の名前が、史人の意思で書かれる。台所側に置いたケトルが、少し遅れて沸騰を始めた。シュウ…という音に、史人の神経がぴくりと反応する。蒸気の音が、どこかのサーバルームの冷却音を連れてくる。脳が勝手に結びつける。今は違う。今は自分の部屋だ。史人は自分に言い聞かせるみたいに、マグカップを取り出した。陶器の冷たさが指先に染みて、現実の温度を取り戻させる。朝食は食べられない日が多かった。食べる余裕がないというより、胃が働かない。働かない胃のまま出社して、働くのは仕事だけで、身体は置き去りになる。今日は出社がない。出社がないのに、胃はまだ働かない。史人はインスタントのコーヒーを溶かし、口に含んだ。苦味が舌に広がる。苦いのに、少しだけ落ち着く。苦味が現実を戻す。机の横に、封筒が用意されている。開業届の控えを入れるための封筒。史人は昨日、税務署の場所を地図で確認し、必要書類を印刷し、ペンを揃えた。そういう細部の準備は得意だった。仕事でもそうだった。穴を埋める。抜けを見つける。誰かの作った雑な前提の中で、落ちるところを先に塞ぐ。史人の身体は、その作業だけは軽く動く。なのに、自分の将来のことになると、手が重い。ペンを握るだけで、指先が冷たくなる。将来は仕様書に書けない。設計書に落とせない。見積もれない。見積もれないものを扱うのが、史人はずっと怖かっ
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52.初案件の夜

史人の部屋の夜は、昼より静かで、静かだからこそ音が立つ。冷蔵庫の低い唸り、換気扇の小さな回転、窓の外を通る車のタイヤが濡れた路面を削る音。仕事を辞めたはずなのに、史人の身体はその音の隙間に、通知音の幻を挟み込もうとする。耳が勝手に構える。机の上にはノートパソコンが開き、画面には監視ツールのダッシュボードと、チャットのやり取りが並んでいる。客先常駐だった頃と似た景色だ。違うのは、背後に誰も立っていないことと、責任の矢印の向きが一本しかないことだった。自分に向く一本。逃げ道はない。でも、押し付けられることもない。初案件は藤堂が紹介してきた小規模な運用保守だった。小規模と言っても、見えない地雷が埋まっているのはいつも同じだ。人が足りなくて回し続けた現場ほど、暫定対応が暫定のまま積み重なっている。ログが保存されていない。監視の閾値が雑だ。手順書が更新されていない。誰かがいなくなって、誰も気づかないまま放置された穴が、夜に口を開ける。その口が開いたのは、二十三時を回った頃だった。スマホが震えた。通知音は控えめに設定している。それでも史人の身体は一瞬で固まった。会社用スマホを伏せていた頃の反射が抜けていない。心臓が一段速くなる。指先が冷える。史人は息を吐き、画面を見た。新しいチャットメッセージ。担当者の名前と、短い文章。「すみません、アラート出てます。画面が赤いです」史人は椅子に座り直し、背筋を伸ばした。慌てない。慌てないことが武器になる。慌てないことで、相手の呼吸が戻る。相手が呼吸を戻すと、自分も呼吸を戻せる。史人はチャットを打った。短く、順序をはっきりさせる。主語を曖昧にしない。今やること、あとでやることを切り分ける。「確認します。今は触らず待ってください。こちらでログ取ります」送信した瞬間、指先の冷たさが少しだけ引いた。打った言葉が、自分の足場になる。会社にいた頃は、打った言葉が自分の首を絞めた。約束にされ、責任にされ、逃げられない印にされた。今は違う。自分で線を引ける。線を引けるから、言葉が怖くないわけではない。怖いまま、使う。画面の監視グラフが、鋭く落ちている。CPUでもメモリでもない。レ
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53.普通の夜が痛い

雨上がりの匂いは、街の隙間に残る。アスファルトの黒がいったん洗われて、そこに排気と土と遠い川の湿り気が混ざる。史人はその匂いを吸い込むたび、身体が仕事の癖から少しずつほどけているのを感じる。梅田の白いフロアの乾いた空気ではなく、夜の街が持つぬるさに、呼吸が合わせられるようになってきた。時計を見る回数が減った。終電を逆算して、足の指を内側でせかせか動かす癖も、薄れてきた。今夜は、行きたいときに行く。帰りたいときに帰る。それが当たり前のはずなのに、史人の中では長いこと当たり前ではなかった。だからその当たり前が、いちいち体のどこかを痛くする。引き戸に手をかけると、木の感触が温かい。乾いた手のひらに、わずかに水分が戻っている気がした。史人は戸を開ける。宵だまりの暖色が、湿った夜気を押し返してくる。出汁の匂いが鼻の奥をくすぐり、鉄板で何かが焼ける音がする。グラスの氷が鳴って、誰かの笑い声がすべっていく。膜だ。ここには、いつも膜がある。その膜が、今日はきちんと効いた。串田は顔を上げて、史人の目を見たわけではないのに、自然に水を出す。黙って、いつも通りの高さでグラスを置く。史人が座る場所も、ほとんど決まっている。自分で選んでいるのに、身体がそこに流れる。流れることが怖くないのが、少しだけ不思議だった。米谷が隣の席に肘をつき、史人の顔を覗き込む。「お、今日は早いやん」史人は笑ってしまった。笑うとき、胸の奥が詰まらない。詰まらずに笑えることが、嬉しい。嬉しいのに、同じ形で、痛い。「早いっていうか、終わっただけや」米谷が口の端を上げる。「日本語やな。終わっただけやって。終わったら帰れ」史人は肩をすくめて水を飲んだ。冷たい水が喉を通る。喉が通るたび、昔より喉の奥が広い気がする。息が通る道が、ちゃんとある。息が通る道があるだけで、人は少しまともになる。串田がだし巻きを置く。湯気がふわりと上がって、照明に溶ける。史人は箸を入れる。ほどける。箸先の抵抗が消える瞬間が心地いい。口に入れると、甘さと塩気がゆっくり広がって、最後に出汁が追いつく。舌が喜ぶ。身体が落ち着く。落ち着きがきちんと身体に届くのは、宵だまりが逃避で
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54.最後の八小節

ボローニャの夜は、冬の終わりほど冷たくない。なのに律の胸の内側だけ、薄い氷が張っていた。回廊の影に沿って歩くと、石畳が靴底を通して固い音を返す。遠くの教会の鐘は、時間を告げるというより、街の呼吸の合図みたいに鳴った。下宿の階段を上がり、鍵を回して部屋に入る。古い建物特有の木と石の匂いが、まだ少し湿っている。机の上には、折り目のついた楽譜。八小節だけ、鉛筆の跡が濃くなっている場所がある。たった八小節。それが律の留学の終わりを決めるわけではないのに、喉が狭くなる。律は椅子に座り、楽譜を指で押さえた。紙のざらりとした感触が、意外に現実的だった。手のひらが汗ばむのを感じる。指先が冷える前兆は、汗と一緒にやってくる。いつもそうだと律は知っていた。知っているのに、知らないふりをしようとしてしまう癖が、まだ残っている。窓を少し開けると、外の空気が細く入ってきた。市場の果物の甘い匂いはもうない。代わりに、夜の冷えた石の匂いがする。律はその匂いに、息を合わせた。吐いて、吸う。胸ではなく、腹のあたりに重心を落とすように。「拍じゃない。息」師匠の声が、耳の奥で蘇る。日本語の単語だけが、妙に輪郭を持って残っている。律は自分が、音を出す前から息を止める癖を持っていることを、この街に来てから何度も突きつけられてきた。八小節を弾く。そう決めた課題なのに、律は鍵盤に触れないまま、楽譜を閉じた。今夜は弾かない。弾かないことが逃げではないと、ここまで来てようやく身体が理解し始めていた。寝る前に、シャワーを浴びる。石鹸の匂いが湿気を含んで肌にまとわりつく。鏡に映る顔は、数か月前よりも少しだけ柔らかい。目の奥の硬さが、薄くなっている。けれど、明日のことを考えると、舌が乾く。ベッドに横になっても、眠りはすぐには来なかった。律の脳は、勝手に明日のスタジオを再生し始める。木の匂い。古いピアノの黒の艶。窓から入る午前の光。師匠の目が、自分の指ではなく、肩の位置を見る感覚。師匠の名前はアルベルト・モレッティ。ボローニャの音楽院の近くで、半分伝説みたいに語られる老人だった。若い頃は、派手なコンクールの勝ち上がりではなく、ヨーロッパの主要ホールでシューベルトやベートーヴェ
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55.プロの言語で別れる

レッスン室のドアを押した瞬間、乾いた空気が喉の奥に貼り付いた。木の床は磨かれすぎていないのに、靴底の音だけがやけに明瞭に返る。窓は大きく、昼の光がまっすぐ落ちている。スタジオの外を走る車の音は遠いが、遠いほど逆に逃げ場がないように感じた。律は鞄を胸の前で抱え直した。指先が冷える前兆は、今日はまだ出ていない。出ていないのに、身体のどこかが先回りして緊張する。ここは音を出す場所のはずなのに、今日の用件は音よりも言葉だと分かっているからだ。レオナルド・フェッリは、ピアノの横ではなく机の前に座っていた。五線譜ではなく、紙束とノートパソコン。机の端には細い眼鏡。彼が眼鏡をかけると、音楽家というより契約担当みたいに見える。現役で、ステージを回り、インタビューも受け、スポンサーと握手をし、拍手の渦の中心に立ちながら、それでも自分の境界線を崩さない人の匂いがした。レオナルドは顔を上げ、律を一度だけ見た。目は鋭いが、突き刺すためではなく、切り分けるための視線だと律は知っている。彼の言葉はいつも、痛いほど現実的で、現実的だからこそ救いになる。「来たね」律は小さく頷いた。返事が喉で詰まらないだけで、ここへ来た意味がある気がした。「座って」椅子は柔らかくない。柔らかくないことが、今日にはちょうどいい。柔らかい椅子は、沈み込むと立ち上がるのが億劫になる。律は背筋を伸ばして座った。背筋を伸ばすことが、緊張の形だけを真似る癖にならないように、呼吸を一度だけ深くする。レオナルドは紙束を指で整えながら、唐突に言った。「帰国したら、まず何が来る」律の胸が少しだけ狭くなる。質問が具体的で、逃げ道がない。「…連絡です」律がそう言うと、レオナルドは頷いた。肯定でも否定でもなく、続けるための合図。「誰から」律の脳裏に、封筒の角とロゴが浮かんだ。嵯峨アーツマネジメント。父の名前。母の声。善意の顔をした管理の紙。律は舌の裏が乾くのを感じながら、口に出した。「事務所…嵯峨から」レオナルドは紙を一枚引き抜いた。そこには短い箇条書きが
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56.弾く条件、帰る条件

段ボールの底に、薄い紙が一枚だけ残った。ピアノの譜面でも、レッスンのメモでもない。近所の文房具屋でもらった領収書で、インクの匂いがまだかすかに残っている。律はそれを指でなぞり、笑うこともできずに指を引いた。こういう端っこに、生活がくっつく。生活を持てるようになったことが、いちばんの成果だと気づくのに、ここまで時間がかかった。下宿の部屋は相変わらず狭い。窓辺に置いた卓上ライトの影が壁を斜めに切り、床に積んだ本の背表紙を浮かび上がらせる。荷造りの途中で動かした椅子が、木の床を擦った音を立てた。深夜に慌てて息を潜めたことが何度もあったのに、今は音を立てても怖くない。怖くないのは、誰も怒鳴らないからではない。律が自分で、止めることを選べるからだ。スーツケースの内側に畳んだシャツは、洗剤の匂いがする。祖母が持たせてくれたものと似た匂いで、鼻の奥が少しだけ熱くなる。ここへ来たばかりの頃、匂いは全部が異物だった。石鹸が甘く、オリーブオイルが重く、湿った石畳が冷たかった。今は、異物が少しずつ自分の皮膚に馴染み、馴染んだ分だけ別れが刺さる。窓の外では、回廊の下を誰かが歩く足音が響いた。石のアーチが音を拾い、何気ない足取りを小さな行進みたいに増幅する。律はその響きに、まだ緊張の反射が混じっていることに気づく。梅田の白い反響が、いまだに胸の奥に残っている。鍵盤の打撃音、スマホの光、拍手の熱。熱情の第一音が空気を変えた瞬間の、あの息の止まり方。息が止まりかけた律は、スーツケースの取っ手から手を離した。椅子に座る。肩を落とす。顎を引きすぎない。呼吸を一つ、深く入れる。拍ではなく息。木の匂いのスタジオで言われた言葉が、体の奥から浮かび上がる。戻り方を知っている自分が、ここにいる。机の上には、練習室の鍵が封筒に入っていた。小さくて重い。重さは金属の重さであり、時間の重さでもある。鍵を受け取った日、律は嬉しさよりも恐怖を感じた。鍵盤に触れる権利が増えれば増えるほど、壊れる可能性が増えると身体が勘違いした。壊れるのは音ではなく、自分の呼吸なのに。それでも鍵は、律の手の中に残り続けた。弾かない練習から始まった。椅子の高さを合わせる。足の裏を床につける。肩を緩める。顎の力を抜く。鍵盤に触
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57.短文の送信

下宿の部屋の灯りは、いつもより弱く感じた。電球が暗いわけではない。荷物が減り、壁の白が露出し、光が跳ね返る場所が増えたせいで、逆に冷えた白さが強調される。律はスーツケースのファスナーを閉める手を止め、指先を見下ろした。爪の先に、ピアノを弾いた後のわずかなざらつきが残っている。乾いた感触は嫌ではない。息が止まらない状態で、音に触れてきた証拠のようで、むしろ支えになる。窓の外から教会の鐘が鳴った。遠いのに、金属の輪郭がはっきりしている。湿った夜気が音を運び、回廊の石が反響を返す。律はその残響の中で、ふと梅田の白い反響を思い出した。ネオンの白、改札の電子音、人の足音、スマホの光。世界がうるさくて、息を飲み込み、息を飲み込んだまま誰かに袖を引かれた夜。あの夜からここまで、律は何度も同じことを繰り返した。息が浅くなる。指先が冷える。視界が狭くなる。音が刃になる。そのたびに、止める。歩く。水を飲む。戻す。弾かないことを選ぶ。条件を出す。相手の反応を待つ。世界が壊れないことを確かめる。確かめるたびに、自分の中の檻が少しずつ錆びていった。檻の錆びた音は静かだった。派手な勝利ではない。誰かに称賛されるような場面もない。けれど、律は今、自分で窓を開け、空気の温度を確かめることができる。自分の呼吸を、自分で戻せる。戻せるという事実が、帰国の条件だった。机の上にはスマホが置かれている。画面は暗いまま、そこにあるだけで存在感を放つ。律はそれを見つめる。触れれば、世界が動く。触れれば、史人に届く。触れれば、過去の逃避に繋がる。逃避という言葉が胸に刺さるのは、その逃避が救いだったことを否定できないからだ。史人の体温は救いだった。宵だまりの暖色は救いだった。救いが救いになり切らない夜もあった。それでも、救いは救いだった。だからこそ、律は怖い。連絡をした瞬間、あの頃の自分に戻りたくなる。息が苦しくなったら、言葉を捨てて体温に逃げればいいと、脳が短絡する。史人の部屋の白い灯り、石鹸と汗の匂い、外の車音。そこへ戻れば、すぐに息ができる。息ができる代わりに、言えなくなる。言えないまま、また歪む。それを知っているから、律は触れないふりを続けてきた。けれど、帰国する。帰国するなら、何も言わずに帰ることはできな
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58.通知の一行

史人の部屋の夜は、独立してから少しだけ静かになった。静かになったのは、世界が優しくなったからではない。史人が世界に触れる指の置き方を変えたからだ。触れる範囲を選び、触れない範囲を残す。オンコールの代わりに、契約書の稼働範囲がある。終電の代わりに、今日を終わらせるボタンが自分の手元にある。机の上にはノートパソコンが開いている。画面の白が部屋の白と溶けて、境界がぼやける。昔はその白が刃だった。蛍光灯の白に殴られる感覚が、目の奥にこびりついていた。今は、白がただの光になりつつある。それでも時々、通知音の残響だけが、皮膚の内側をひっかく。音が鳴っていないのに、鳴った気がする。スマホを持っていないのに、震えた気がする。史人は椅子の背にもたれず、浅く腰をかけたままキーボードを叩いていた。報告書の文章を整える。相手が安心する順番に並べ直す。現象、影響範囲、暫定対応、恒久対応案、次回作業、リスク。言葉を選ぶ作業は、案外好きだった。言葉を選べる場所が増えたのが、独立の利点だ。時計を見る。二十三時を回っている。以前なら、ここから終電の計算が始まっていた時間帯だ。今は計算する必要がない。計算する必要がないことが、救いのはずなのに、胸の奥に空洞が残る。空洞は、静けさと似ている。静けさが増えると、空洞も増える。律がいなくなってから、空洞は形を変えた。最初は、ただの穴だった。今は、輪郭を持った空洞になった。宵だまりの暖色、だし巻きの湯気、串田が黙って出す水。米谷の雑ないじり。笑い声の膜。そこに、律の軽口が混じっていた頃の記憶だけが、やけに鮮明だ。鮮明なのに触れない。触れたら崩れる気がして、触れないまま放置してきた。史人は最後の一文を打ち、保存してウィンドウを閉じた。画面が暗くなる。暗くなった瞬間、部屋が広く感じる。広いのに息苦しい。どこにも圧はないのに、胸だけが詰まる。詰まりは、音ではなく沈黙から来る。史人は立ち上がり、キッチンの流しでコップに水を注いだ。水道水の匂いが少しだけ塩素っぽい。口に含むと、冷たさが喉を通って胃の底に落ちる。水を飲む動作は、いつからか儀式になっていた。宵だまりでも、史人は水を飲んでいた。律がいる夜も、いない夜も。水だけは変わらない。変わらないものがあると、安心する。安
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59.迎えに行く理由

史人は、スマホの画面を見つめたまま指を止めていた。画面の上には、律とのトークが開かれている。最後に届いた短い連絡は、日付と便名と、たったそれだけの事実でできていた。ターキッシュエアライン。イスタンブール経由。関西空港、夜着。文字の並びが、胃の奥を軽く押した。嬉しい、と言い切るには胸がうるさすぎた。怖い、と言い切るには、もう逃げる言い訳が薄すぎた。史人は指先に汗がにじむのを感じながら、画面を一度閉じた。閉じても、文面はまぶたの裏に残ったままだった。机の上にはノートパソコンが開いたままになっている。作業中のターミナルが黒い窓をいくつも並べ、監視のログが淡々と流れている。独立してから、史人はこの黒に救われるようになった。会社の白い蛍光灯と、誰かの視線と、責任転嫁の言葉がない。画面の黒はただ、事実だけを返してくる。それでも今夜は、その黒がいつもより薄く感じた。視線が何度もスマホへ戻りそうになって、肩がこわばる。迎えに行く。頭の中で言葉にした途端、胸の奥がざわついた。迎えに行く、というのは、会うよりも先に決めることだ。逃げたいときの自分ではなく、選び取る自分でそこに立つことだ。史人は椅子から立ち上がり、狭い一Kの床を二歩だけ歩いた。窓の外は雨上がりの気配が残っていて、路面の街灯がぼやけている。梅田の白いネオンとは違う、近所の暗さ。暗い方が落ち着くはずなのに、今夜は暗さの中で胸の内側だけがうるさい。律が帰ってくる。それだけで、宵だまりに逃げていた頃の動作が、一つずつ蘇りかける。暖色の照明。だし巻きの湯気。水の冷たさ。閉店間際の空気。並んで歩く夜道。階段を上がる足音。部屋の白い灯り。あの反復は、救いであり、誤魔化しだった。救いは必要だった。でも誤魔化しに戻るのは違う。史人は、自分の中にある「すぐ会いたい」「すぐ埋めたい」という衝動を、唇の裏で噛んだ。衝動は悪くない。ただ、衝動のまま動くと、また息を止める。机に戻り、史人はカレンダーアプリを開いた。明日の予定。午前中に一件、定例のオンライン。午後は納品前の確認。夜は空けている。空けている、というより、空ける必要がある。迎えに行ったあと、何をするかは次の話だ。少なくとも、迎えた直後に仕事へ戻るような選び方はしない。史人は、まずメッセージアプリでクライ
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60.夜着陸のロビー

関空の夜は、都市の夜より静かだった。静かなのに、音がはっきり刺さる。誘導灯の緑が床の光沢に細く伸び、ガラスの向こうで滑走路の点滅が規則正しく呼吸しているように見える。史人は到着ロビーの端に立ち、背中を壁に預けるのをやめた。預けると、そこから動けなくなる気がした。待つ、という行為は、ただ立っているだけのはずなのに、体力を食う。空港の冷気が足元から上がってきて、喉の奥が乾く。乾きは、梅田の蛍光灯の乾燥とは違う。ここは人が目的地へ戻る場所だ。誰かが誰かを迎え、誰かが誰かに手を振る。そこに混ざるだけで、史人の胸は勝手に忙しくなる。史人はスマホを取り出し、画面を見ないまま握り直した。律の便名と到着予定時刻は何度も確認した。遅延表示はない。それでも、何かが遅れる想像だけが膨らむ。遅延の想像ではなく、会った瞬間の想像が勝手に先へ進む。抱きしめるのか、言葉を投げるのか、何を聞くのか。何を聞かないのか。史人はその想像が怖くて、手のひらの汗をズボンで拭った。呼吸を整えろ。律のためではなく、自分のために。史人は鼻から息を吸い、吐いた。吐く息が白くはならない。冬ではない。なのに、胸の奥が冷える。吐き切る前に肩が上がりそうになるのを抑える。律のいない時間の中で、史人は何度も自分の呼吸を見失った。独立して、生活は整った。終電の計算は消えた。通知音の幻は薄れた。それでも、律が関わる場面になると、体は古い癖を引っ張り出す。ガラス越しに見える滑走路の点滅は、遠い。遠いのに、律がそこから入ってくると思うだけで、史人の脈が速くなる。胸の内側の膜が薄くなる感覚がある。薄くなると、どんな小さな音も過剰に入ってくる。キャリーケースの車輪の音。ガラガラと引きずる音。コツコツと床を叩く音。遠くで流れるアナウンスの反響。異国の言葉の断片。笑い声。泣き声。ハグの衣擦れ。史人は自分の足元を見た。白い床。光。影。自分の靴のつま先が、少しだけ外側を向いている。逃げる方向を探す癖が出ている。史人は靴の向きを正面に揃えた。逃げない。迎える。到着ゲートの表示が変わった。案内板の文字が切り替わり、扉の向こうの空気がわずかに動く。人の流れが生まれる前の、短い間がある。史人は喉を鳴らし、唇の裏を噛んだ。何を言うのかを決
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