Tous les chapitres de : Chapitre 1 - Chapitre 10

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1.死んだ目の帰り道

終電の一つ手前だと気づいたのは、改札を抜けてホームの冷気に頬を撫でられたときだった。梅田の地下から吐き出される風は、昼間に吸い込んだ埃と油の匂いをまだ抱えている。史人の鼻の奥に、蛍光灯の白さがそのまま刺さるような錯覚が残っていた。光に焼かれた目は、焦点が合うまでに一拍遅れる。視界の端で人が動き、広告が揺れ、電光掲示板の数字が滑っていくのに、どれも手に取れない。大原史人は立ち止まらなかった。立ち止まったら、足元から崩れる気がする。崩れても誰も拾ってくれないことを、仕事で十分に学んだ。だから歩く。体が命令に従うふりをしている間は、心は少しだけ後ろに逃げられる。ポケットの中で、会社用スマホが震えた気がした。史人は無意識に手を突っ込んでいた。画面は暗いまま、バイブも鳴っていない。指先だけが、震えた記憶の残響を拾っている。幻振動。そんな言葉を誰かが言っていたのを思い出す。笑い話みたいに語っていたのに、そのときの笑い声は軽すぎて、史人には遠い世界のことに思えた。仕事が終わった。そう頭で言っても、身体が信じない。終わったあとに来るのが次の仕事だと知っているからだ。胸の奥が、通知音が鳴る前の一瞬をずっと待ち構えている。空気が吸い込まれる気配、皮膚が薄くなる感覚。あれが来ると、呼吸が浅くなる。息を吸っても肺に届かないような、妙な詰まり。電車が滑り込んできて、扉が開いた。人が押し合い、流れ込む。史人はその波に紛れて乗り込んだ。座席に座りたいとは思わない。座ったら眠ってしまう。眠ったら降り過ごす。降り過ごしたら、またどこかで電話が鳴る。理屈ではない。怖いのは、眠りが仕事を途切れさせてくれるかもしれないことだ。途切れた瞬間に、今の自分がどれだけ空っぽかに気づいてしまう。吊革に手を掛ける。指が白くなるほど力を入れてしまうのは、揺れに備えてではなく、体の輪郭を保つためだと史人は知っていた。車内の広告に映るモデルの笑顔が、現実の明るさとして目に入ってこない。ひとつひとつが、薄い紙のように平らで、手触りがない。彼女と別れたのも、こんな夜だった。大学時代に付き合っていた彼女は、就職した途端に遠ざかった。遠ざかったのは彼女ではなく、史人の方だった。会う約束をして、遅れて、謝って、次はち
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2.だし巻きの湯気

宵だまりの中は、外より少しだけ時間が遅かった。暖色の照明が空気を柔らかくして、壁の短冊メニューの文字まで丸く見せる。換気扇の低い唸りが天井に張り付き、氷がグラスに当たる乾いた音が、ときどきその唸りを裂く。誰かの笑い声が跳ねて、すぐに油の匂いと出汁の匂いに吸い込まれる。その雑多さが、史人の胸に溜まった硬いものを少しずつほぐしていく。史人はカウンターの端の席に腰を落ち着けた。椅子の木が少しだけ軋む。背もたれはない。背筋を預けられない椅子の方が、今の史人には合っていた。預けた瞬間に崩れてしまう気がして、崩れた自分を見られるのが怖い。史人は会社用スマホを伏せたまま、指先で位置を確かめた。伏せても重さは消えない。黒い画面は、まるで虫の背中みたいに鈍く光を吸う。史人はその背中を見ないようにして、店内の音に意識を向けた。厨房で包丁がまな板を叩く音がして、油が弾ける。誰かが笑って、誰かが咳払いをする。空気が生きている。仕事場の空気とは違う。仕事場は、空気そのものが評価の匂いをしている。ここは評価ではなく、生活の匂いがする。「兄ちゃん、今日も目ぇ死んでるな」米谷正志の声が、隣から飛んできた。中年の男で、背が高いわけでもないのに声だけが大きい。肩で笑って、勝手に距離を詰めてくる。宵だまりの常連は、こういう雑な優しさでできている。史人は反射で口角を上げかけて、すぐに戻した。笑うための筋肉が固まっている。意識すると余計にぎこちない。「生きてます」史人が言うと、米谷は鼻で笑った。「それ、死んでるやつが言うやつや」米谷はグラスを揺らし、氷を鳴らした。ハイボールの薄い香りがふわりと漂う。史人はその匂いを嗅いだだけで、喉の奥が乾いていることに気づいた。カウンターの向こうで串田剛が手を止めた。店主は、派手な動きはしない。無駄な愛想も振りまかない。それでも視線だけで客の状態を拾う。拾ったものを口にせず、実務で返す。串田は史人の前に水の入ったコップを置いた。氷は入っていない。冷たすぎない水。喉を刺激しない温度。史人がそれを口にしたときに、身体がびくっとしないように計算された温度だった。「ありがとう」
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3.初来店の男

宵だまりの空気が少しだけ温まってきたころだった。だし巻きの皿が空に近づき、ビールの泡が薄くなると、店内の雑音がひとつの膜みたいに重なる。笑い声は遠くならず、近すぎもしない。誰かの会話の断片が耳に触れては溶け、氷の音がそのたびに輪郭を整える。史人はその膜の中で、ようやく肩の位置を思い出していた。上がりっぱなしの肩を少し下ろしても、誰にも責められない場所だと身体が理解し始めていた。カウンターの端で、史人はビールをひと口飲んだ。苦味が舌に残る。その苦味を飲み込むと、胃の奥が温かくなる。温かくなるだけで、心の奥に張り付いていた緊張が数ミリ剥がれる。剥がれると同時に、剥がれた下にある空白が見えそうになって、史人は視線を木目へ落とした。空白を見ると、今夜の救いが嘘みたいに思えてしまう。「兄ちゃん、ほんまに人間戻ってきたな」米谷が隣から囁くように言って、すぐにいつもの大きさで笑った。笑い声が店の壁に当たって返り、また吸い込まれる。史人は返事の代わりに、グラスを軽く持ち上げた。乾杯の形を作ると、米谷も勝手にグラスを寄せてくる。カチンと氷が触れ合い、澄んだ音がした。音がするだけで、胸の中のざわつきが少し整う。串田がカウンターの向こうで皿を拭いていた。濡れ布巾が陶器を擦る音は、仕事のキーボードよりずっと優しい。指先に伝わる摩擦が想像できる音だ。想像できることが、生活の感覚だった。引き戸が開いたのは、そのときだ。外の冷気が一瞬、店内の温度を押し分けた。暖簾が揺れ、湿った夜の匂いが入ってくる。雨上がりの土とアスファルトの匂い。そこに、かすかな香水の気配が混ざった。強くはない。けれど、宵だまりの出汁と油の匂いに混ざると、やけに目立つ。史人は反射で入口を見た。男が立っていた。背は高い。派手な服ではないのに、妙に整って見える。髪は無造作に見えるのに、乱れている感じがしない。顔立ちは、ぱっと見はそこまで主張しない。しかし目が、印象を決めてしまう種類の目だった。軽く笑っているのに、奥の方が冷えている。冷えているというより、冷やしている。自分で温度を調整しているみたいな目。男は店内を見渡し、すぐに空気を掴んだ。掴み方が速い。初めての場所の
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4.触れない優しさ

宵だまりの夜は、遅くなるほど柔らかくなる。客の声は少しずつ丸くなり、笑い声は角が取れて、氷の音に溶ける。油の匂いは揚げ物の甘さを含み、出汁の匂いは湯気と一緒に天井へ逃げる。換気扇の唸りだけが変わらず低く、店の骨格を支えていた。史人はカウンターの端で、空いたグラスを指先でなぞっていた。グラスの外側に残った結露の跡が、指の腹に冷たい線を引く。冷たさがあると、自分の輪郭がまだここにあると確かめられる。仕事の場では輪郭が薄くなる。名前も顔も、結局は「対応する人間」として一括りにされる。宵だまりでは、輪郭が少しだけ戻る。戻ると同時に、余計なものも見えてしまう。律は二つ隣で、ハイボールを二杯目にしていた。最初に入ってきたときの余裕は変わらないように見える。笑い方も声の高さも変わらない。けれど、飲む速度が上がっている。グラスが空になるまでが短い。短いのに、雑に飲まない。氷が歯に当たるような飲み方をしない。舌の上で味を確かめるように喉へ落とす。丁寧さが、逆に不安を呼ぶ。丁寧なまま急ぐ人間は、何かから逃げている。「律くん、いけるんかそれ」米谷が笑いながら言った。米谷の声はいつも大きいが、今は酔いでさらに大きい。テーブル席の方でも笑い声が上がり、宵だまりの狭い空間に声が重なる。声の層が厚くなるほど、史人は少しだけ楽になる。自分の鼓動が、他人の音に隠れるからだ。律は肩をすくめて、さらりと言った。「いけるいける」言葉は軽い。軽いのに、目が笑っていない瞬間がある。笑っていない目が、すぐに笑う目に戻る。戻り方が速すぎる。速いものは、いつか破れる。史人は仕事で、速すぎる笑顔が壊れる瞬間を何度も見てきた。串田がカウンターの向こうで、さりげなく律のグラスの位置を見た。視線は短い。すぐに手元へ戻る。気づいていても詮索しない。それが宵だまりのやり方だ。史人はそのやり方に救われてきた。救われてきたのに、今夜はそのやり方だけでは足りない気がした。律が笑って、米谷の話に適当に相槌を打つ。適当なのに場が崩れない。崩れないのに、律の指先だけが落ち着かない。グラスの底を親指で撫で、箸を置き直し、膝の上で指を開いて閉じる。癖だと片付けるには、動きが細かすぎる。落ち着かな
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5.帰り道

宵だまりの灯りは、人の輪郭を少しだけ柔らかくする。暖色の照明に照らされると、疲れた顔も眠そうな目も、どこか冗談みたいに見える。だから史人はこの店でだけ、社畜の鎧の継ぎ目を緩められる。それが救いで、同時に怖かった。緩めた継ぎ目から、自分の本音が漏れそうになるからだ。閉店の時間は決まっていないようで決まっている。串田が「そろそろ」と言わずとも、空気がそうなる。笑い声が一段落して、グラスを置く音が増える。換気扇の唸りだけが変わらず、店の終わりを知らせる鐘みたいに鳴っている。米谷が最後のハイボールを煽って、派手にため息をついた。ため息はいつもより大きく、演技が混じっている。「明日も早いのに、なんで飲んでまうんやろな」米谷が言うと、隣の常連が笑った。「それ言うたら飲まれへんやろ」律も笑った。笑い声は軽い。軽いのに、頬の赤みがほんの少し濃い。さっき水を飲ませた後の落ち着きは戻っているが、アルコールの熱が肌の下でじわじわと育っているのが分かる。ハイボールのグラスの中で氷が少し溶け、音が鈍くなっている。鈍い音が、夜更けの粘度を増やしていた。史人は会計を済ませようと財布を出した。いつも通りの動きだ。店で無駄に格好をつける気はない。けれど今夜は、隣に律がいる。それだけで、財布の開け方が妙にぎこちなくなる気がして、史人は手元を見ないようにした。串田がレジに立ち、史人の方を一瞥する。視線は短いが、必要な情報を含んでいる。史人が飲んだ量、食べたもの、疲れ具合、そして隣にいる律の酔い具合。串田はそれを全部、言葉にしないまま把握する。把握して、必要なことだけをする。串田は史人に会計額を告げ、史人が出した紙幣を受け取った。釣り銭を返す指先が早い。指先が早いのに丁寧だ。宵だまりの生活は、こういう手の記憶でできている。米谷が立ち上がり、よろけるふりをした。「律くん、気をつけや。兄ちゃん、送ったってな」米谷がわざとらしく言う。わざとらしさが、この店の優しさの形だ。真面目に言ったら、踏み込みになってしまう。踏み込むと、息苦しくなる。だから茶化す。茶化して、必要な線だけ引く。史人は即座に否定したか
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6.勢いの夜

ドアが閉まった瞬間、外の夜が薄い膜になって切り離された。玄関の鍵が噛み合う小さな音が、部屋の狭さに反響して、史人の胸の奥まで届く。宵だまりの暖色はもう背中にない。代わりに、天井灯の白さが生活の輪郭をさらけ出している。洗剤の匂いと、乾いた埃の匂い。小さな流し台の金属の冷たさ。脱ぎっぱなしのスリッパ。畳む気力を失ったまま椅子に掛けられたジャケット。ひとり暮らしの匂いは、律に言われた通りだった。狭いのに、妙に広く感じる。広く感じるのは、隠せる場所がないからだ。何もない部屋は、言い訳を置けない。言い訳を置けない場所に、今、律がいる。それだけで史人は落ち着かない。落ち着かないことを悟られたくなくて、史人は靴を揃えるふりをして、視線を床に落とした。律は玄関に立ったまま、部屋の奥を見た。観察というより、空気を吸い込むみたいに見ている。宵だまりでは空気に溶けていた男が、ここでは溶けない。溶けない分だけ、存在が濃くなる。史人は喉が乾いていることに気づいた。宵だまりで飲んだ水では足りない。足りないのは水だけではない気がして、史人はそれを否定するように唇を噛んだ。痛みが現実を引き戻す。仕事の現実ではなく、今夜の現実に。史人は部屋の奥へ歩き、靴下のままフローリングを踏んだ。冷たい。冷たい床が足裏に貼りつき、身体の中の熱を際立たせる。背後で律の足音がついてくる。ついてくる足音は静かで、静かなのに逃げ道がない。史人はテーブルの上に置いたままだった私用スマホを反射で見てしまい、すぐに視線を逸らした。会社用スマホは鞄の中だ。宵だまりのカウンターに伏せた時と同じように、ここでも伏せたい。伏せれば、少しだけ自分の鼓動が静かになる気がする。律が背中越しに囁く。「史人さん」名前を呼ばれると、背筋が薄く粟立つ。宵だまりで呼ばれたときよりずっと近い距離で、声が耳の後ろに触れる。触れた声が、史人の中の乾いた部分を濡らすみたいに広がる。濡れると、余計に怖い。濡れたら、もう乾いたふりができない。史人は振り返らずに言った。「狭いけど」それは言い訳だった。狭いから仕方ない。距離が近いのは部屋のせい。そう言いたかった。言い訳の薄さに、自分で苦
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7.27歳の顔

薄い眠りは、崩れるときの音がない。史人は目を開けた瞬間、自分がどこにいるのかを一拍遅れて思い出した。天井の白さ。カーテンの隙間から差す、夜明け前の青い光。エアコンの送風が止まったあとの静けさ。静けさの中に、もう一つの呼吸が混ざっている。隣で、律が眠っていた。平気な顔で、という言葉がそのまま当てはまる寝顔だった。眉間に力は入っていない。口元も緩みすぎていない。眠りに落ちるときの言葉は短かったのに、眠りそのものは深いらしい。胸がゆっくり上下して、吐く息が規則正しく布団を揺らす。史人は視線を逸らした。寝顔を見続けると、昨夜が現実になってしまう気がした。現実になったら、責任が生まれる。責任が生まれたら、今この瞬間の静けさが壊れる。壊れるのが怖くて、史人は布団の中で指先を動かし、自分の体のどこが熱く、どこが冷えているかを確かめた。身体は妙に軽かった。軽いのに、胸の奥だけが重い。重さの形がいつもと違う。仕事の重さではない。仕事の重さは肩に乗る。首を絞める。眠りを奪う。今の重さは、腹の奥に沈む。息を吸うたびに揺れる。揺れて、名前をつけろと迫ってくる。史人は息を止めた。止めたまま、布団から抜け出した。フローリングが足裏に冷たい。冷たい床が、現実を引き戻す。現実に引き戻されるたびに、昨夜が遠くなる。遠くなってほしい。遠くなったら楽になる。でも遠くなりすぎたら、あの熱が嘘になる気がして怖い。史人は洗面所へ向かった。狭い廊下を数歩で抜ける。壁にぶつかりそうな距離感が、ひとり暮らしの生活を思い出させる。誰にも合わせなくていい距離。誰にも触れられない距離。安全な距離。洗面所のスイッチを入れると、白い光が弾けた。蛍光灯の光は容赦がない。宵だまりの暖色と違って、肌も疲れも全部さらけ出す。史人は一瞬目を細め、鏡を見る勇気が出ないまま蛇口をひねった。水の音がする。透明な音。昨日の夜のどんな音とも違う。どんな匂いとも違う。水は現実だ。水は嘘をつかない。史人は両手で水をすくい、顔を洗った。冷たさが皮膚に刺さり、頭の奥が少しだけ冴える。冴えたぶん、胸の重さがはっきりする。史人は顔を上げた。鏡の中に、自分がいた。大原史人、二十七歳。社会人という年齢が、やけに現
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8.連絡先は約束じゃない

玄関のドアが閉まったあとも、空気はすぐには戻らなかった。律の石鹸の匂いが、ひとり暮らしの乾いた匂いに薄く混ざり、どこかでまだ湿っている。史人はその湿り気が消えるのを待つように、玄関に立ったまま動けなかった。動いたら、昨夜と今朝が「終わった」ことになってしまう気がした。終わったと認めた瞬間に、罪悪感だけが残りそうで怖い。怖いのに、残るものが罪悪感だけではないことも分かっている。肩口に触れた体温の残像。手首に絡んだ指の感触。水を渡したときの、短い視線。そういう些細なものが、仕事の通知音とは別の種類で史人の神経を刺激している。刺激は痛みにならず、熱に変わる。熱になると、渇きに似たものが胸の奥に生まれる。渇きは名前を求めてくる。名前を与えたら、そこから先へ進んでしまう。史人はゆっくりと靴を履いた。外に出るつもりはなかったのに、身体が勝手にそう動いた。律を追いかけたいわけではない、と頭は言い訳を並べる。郵便受けを見なければならないとか、ゴミを捨てるついでとか、そういう生活の理由を作って、昨夜の余韻をごまかす。だが結局、史人の手はドアノブにかかり、鍵を回していた。アパートの外廊下に出ると、朝の空気が頬に当たった。乾いている。雨上がりの匂いはもう薄く、かわりに日差しが温度を作り始めている。遠くから聞こえる車の音が、夜よりも高い。生活が始まっている音だ。生活の音に混ざると、昨夜が夢みたいに薄くなる。薄くなるのに、胸の奥の熱は消えない。階段を下りる途中で、律の背中が見えた。もうアパートの敷地を出るところだった。Tシャツの首元が少し緩く、髪は乾ききっていないのか柔らかく揺れる。その背中は、昨夜の夜道で見た背中よりずっと明るい朝に晒されている。朝に晒されると、どこか現実味が増す。現実味が増すと、史人の中で警戒が持ち上がる。現実になったら、関係を説明しなければならない気がするからだ。律は振り返らずに歩いていた。迷いがない。迷いがないのが、史人には少しだけ腹立たしい。自分は洗面台の鏡の前で、二十七歳の顔を見て、意味のない自嘲をして、名前をつけられない渇きに怯えていたのに、律は平気な顔で去っていく。平気な顔がずるい。史人は階段を下りきってから、律の背中に声をかけるか迷った。迷って、結局声は出な
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9.昼の蛍光灯と夜の通知音

朝の電車は、人の匂いで満ちている。整髪料とコーヒーと、紙の匂いと、寝不足の汗の匂い。匂いが混ざると、誰が誰だか分からなくなる。分からなくなるのは楽だった。大原史人という個体が、ただの通勤客の一つに溶ける。溶ければ、昨夜も今朝も、別の誰かの出来事みたいに押し込められる。押し込められないのは、指先だった。つり革を握る掌の奥に、まだ熱が残っている気がする。残っている気がするだけで、実際には同じ温度のはずなのに、脳が勝手に思い出す。律の指。絡められた指。ペットボトルの水を受け取ったときの、短い触れ方。触れた瞬間の皮膚の感覚は、仕事のデータよりも正確に記憶に残る。残ることが恥ずかしくて、史人は手のひらをぎゅっと握りしめた。会社に着くと、蛍光灯の光がすべてを平らにした。顔色も、疲労も、感情も、同じ白の下に並べてしまう。並べられると、人はただのリソースになる。史人はその白に慣れすぎていた。慣れすぎていたはずなのに、今朝は眩しい。眩しさが、目の奥を刺す。刺された奥で、昨夜の薄い暗がりが逆に鮮明になる。自席に鞄を置き、会社用スマホを取り出す。画面を点けるだけで、胸がきゅっと縮む。縮むのは条件反射だ。通知の音が鳴る前から、鳴ったような気がする。幻振動。幻通知。休日でも夜中でも関係なく鳴るはずだと思い込んでいる身体の癖。史人は深呼吸を一つして、PCを立ち上げた。ファンの回転音が小さく鳴る。ログイン画面。メール。チャット。チケット管理。いつもの朝の地獄の入口。入口の前で、史人は一瞬だけ目を閉じた。閉じると、律の声が聞こえる。たまたま会えたら。たまたまの言葉が、仕事の予定表よりも現実味を持つのが腹立たしい。腹立たしいのに、胸が少しだけ楽になる。楽になることが怖い。「おはようございます」後ろから声がして、史人は反射で背筋を正した。若い声だ。新卒か、二年目か。声の主はすぐに通り過ぎ、軽く会釈をしていった。史人も会釈を返す。返しながら、自分の顔がどんな表情をしているか分からなくなる。洗面台の鏡で見た二十七歳の顔を思い出す。疲れで古く見える顔。今この蛍光灯の下では、もっと古く見えるかもしれない。そのうち朝会が始まった。会議室に集まり、プロジェクターの光
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10.再び、カウンターで

宵だまりの暖簾は、夜の湿り気を含んで少し重い。史人はその暖簾をくぐる前に、無意識に肩をすくめた。雨上がりの冷気がまだ服の繊維に残っていて、駅からここまでの短い距離でさえ身体が固まっている。固まっているのは寒さのせいだけではない。今日一日、蛍光灯の白さに削られた神経が、やっと逃げ込める場所を前にして警戒を解けずにいる。引き戸を引くと、木の軋む音と一緒に、出汁と油の匂いが流れ出てきた。匂いはあたたかい。あたたかい匂いが鼻腔に入った瞬間、史人の胸の奥の硬い板が少しだけずれる。ずれた隙間から息が入る。息が入ると、やっと自分が生きていると分かる。仕事の中での生存ではなく、生活の生存だ。「お、兄ちゃん」米谷の声が先に飛んできた。店の奥の方、いつものテーブル席寄りのカウンターで、米谷がハイボールを掲げている。いつものように雑で、いつものように馴れ馴れしい。雑さが今夜はありがたい。雑さが、史人を地獄の外へ引っ張り出すロープになる。史人は軽く手を上げて返した。「おつ」声が思ったより低い。疲労のせいだと思いたい。疲労のせいにするほうが安全だ。安全だが、胸の奥がわずかに熱を持つのを止められない。低い声は、昨夜の自分の声を連れてくる。昨夜の自分の声は、律に触れたときの呼吸の熱を連れてくる。史人は視線をカウンターへ滑らせた。そこに、いた。律が、カウンターの中ほどに座っている。コップの水ではなく、今日はハイボールらしいグラスが目の前にあった。氷がゆっくり溶けて、音が丸い。律は常連と何か話していて、口元を軽く上げて笑っている。その笑い方は宵だまりの空気に馴染みすぎていて、昨日が初めてだったことが嘘みたいだ。嘘みたいに見えるのに、史人の身体は嘘をつかない。引き戸を開けた瞬間から、胸の奥がじわじわと騒いでいる。騒いでいるのを悟られたくなくて、史人は目線を逸らし、わざと串田の方へ向いた。「串田さん」串田はいつも通り、短く顔を上げた。顔色を一瞬で読み取る目だ。史人がどれだけ疲れているか、どれだけ息が浅いか、今どれだけ逃げたいか。言葉にしないで全部見抜く。見抜いても、言葉にしない。そこが宵だまりの優しさで、史人の救いだ。
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