All Chapters of 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才: Chapter 11 - Chapter 20

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11.帰り道の最短距離

宵だまりの夜は、終わり方に癖がある。時計が何時を指しているかより先に、空気が「そろそろ」と囁き出す。グラスの氷が溶けて音が鈍り、笑い声がひとつ短くなる。換気扇の唸りが急に耳に入る。串田が皿を拭く手を少しだけ早める。見送る準備が始まる合図は、いつも言葉ではない。史人はそれを、身体で覚えていた。覚えているはずだった。なのに今夜は、覚えている動きの中に律が混ざっている。混ざっていることが、胃の奥をざわつかせた。ざわつきは嫌悪ではない。恐れと、高揚と、どうしようもない安堵が一緒になっている。史人は水を飲み干し、空になったグラスを指先で回した。指先の感覚が敏感になっている。ガラスの冷たさが妙に鮮明で、冷たさの中に温度差があるように感じる。温度差は、隣の体温のせいだ。隣に律が座っているだけで、史人の神経は勝手に律に合わせてしまう。律は酔っていないように見えた。顔色は少し赤いが、目は澄んでいる。言葉も滑っていない。笑いも軽いまま保たれている。保たれているからこそ、史人は怖い。昨夜は勢いだと言い訳できた。今夜は、勢いだけではない気がする。勢いだけではないと認めた瞬間に、逃避が逃避でいられなくなる。串田がカウンターの向こうで皿を重ねながら、短く言った。「そろそろ閉めるで」客の誰かが「はーい」と気の抜けた返事をして、笑いが起きる。笑いの中で立ち上がる気配が増える。米谷もいつの間にか戻ってきていたらしく、上着を引っ掴みながらわざとらしく大きな声を出した。「兄ちゃん、律くん、仲良う帰りや」その言い方がまた雑で、だからこそ宵だまりらしい。雑さは踏み込まないための膜だ。膜があるから、史人は息ができる。けれど今夜は、その膜の内側に熱が溜まっている。史人は睨むように言った。「黙れ」米谷が笑う。「照れてる照れてる」史人は返す言葉を持たなかった。否定したら熱が増える。肯定したら終わる。終わるのは怖い。だから黙る。黙りはいつも、史人の逃げ方だ。律が米谷に向かって軽く手を振った。「ほな」それだけ。挨拶の形で、場を軽くする。律は場を軽くするのが上手い
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12.二回目の夜

シャワーの音が、狭い部屋の壁に柔らかく跳ね返っていた。浴室のドアの向こうで水が落ちる音が一定に続くと、それだけで宵だまりの氷の音とは別の膜ができる。一定の音は思考を薄める。薄まった思考の隙間から、今日の蛍光灯の白さが抜け落ちていく。抜け落ちたあとに残るのは、律の気配と、自分の身体が覚えてしまった熱だけだった。史人はベッドの端に腰を下ろし、手のひらを見た。指先がまだ少し震えている。寒さではない。雨上がりの夜気の冷たさはもう部屋の中では薄く、代わりに室内の白い灯りが生活の輪郭を浮かび上がらせている。散らかったままの服、畳む元気のないタオル、洗い切れていないコップ。そんなものの中に、律がいるという事実が、今夜はもう否定できないほど重い。重いのに、逃げたいという気持ちは消えていなかった。逃げたいのは仕事からだ。現実からだ。恋愛をする余裕がない自分からだ。けれど同時に、逃げ先に律がいることを、史人はもう認め始めてしまっている。その認め始めた部分が、胸の奥で熱を持って疼く。浴室のドアが開いた。湿った空気と石鹸の匂いが廊下へ流れ、ひとり暮らしの乾いた匂いを薄く塗り替える。律がタオルで髪を乱暴に拭きながら出てきた。乱暴なのに、動作は妙に綺麗だった。指が長く、肩の動きが無駄がない。その綺麗さが、宵だまりで馴染む綺麗さと同じで、史人の胸をざわつかせる。律が史人を見る。目が合う。合った瞬間、史人は視線を逸らしたくなる。逸らしたら楽になるのに、逸らせない。逸らせない視線の中で、昨夜よりずっと現実が濃い。昨夜は勢いだった。勢いだったと自分に言い聞かせられた。今夜は、勢いという言い訳の上に、反復という事実が乗っている。律が軽い調子で言った。「次、入る?」史人は頷いた。頷くしかない。言葉を挟めば、どこかで昨日のことや今日のことに触れてしまう気がする。触れたら壊れる。壊れるのが怖くて、史人は生活の動作に逃げた。「タオル、そこ」史人が言うと、律はタオルを投げてよこした。投げ方は雑だ。雑さが救いになる。丁寧に扱われると、史人は受け取ってしまう。受け取ったら、もう逃げられない。雑なら、ただの同居のように見せかけられる。史人は浴室へ入り、ドア
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13.カレンダーに書けない約束

終電の時刻は、数字のくせに感情を持っている。梅田のビルの谷間で風に煽られていると、時計の針が一つ進むたびに胸の奥が硬くなる。硬くなるのは、帰りたいからではない。帰る場所が怖いからだと史人は知っていた。玄関の鍵を回して、乾いた部屋の匂いを吸い込むと、仕事の通知音が耳の内側で鳴り始める。鳴っていないのに鳴る。画面が黒いのに震える。幻振動という言葉が便利なだけで、それは結局、身体に刻まれた恐怖だった。今日も息が浅い。胸の上だけで呼吸して、肩が上がって、鎖骨のあたりが痛い。そんな状態のまま駅へ向かうはずだった足が、気づけば反対側に向いている。宵だまりへ。あの暖簾がある路地へ。帰宅の前に一杯だけ、という言い訳を何度口にしたか分からない。言い訳を口にするほど、言い訳が薄くなるのに、それでも言い訳は必要だった。宵だまりの引き戸を引くと、いつもと同じ音がする。木の軋み。グラスの氷が触れる音。出汁の匂い。暖色の照明が肌の疲れを丸くする。史人の胸の板が少しだけずれて、息が入る。串田が顔を上げた。目が一瞬で史人を測り、言葉を選ばないまま言う。「水、先な」史人は黙って頷く。水が置かれる。冷たい透明が喉を通ると、生き延びる感覚が戻る。宵だまりは、家の手前にある生存装置だと、史人は何度も心の中で定義してきた。定義してきたから、ここに来ることが恥にならない。恥にならないはずだった。隣の席に、律がいた。最初の夜のことを、史人はまだ言葉にできないまま抱えている。言葉にできないまま抱えているのに、律は平気な顔でここにいる。宵だまりの常連みたいに座って、氷の音の間に笑い声を落としている。初めて来たはずの男が、もう何年も前からここにいたみたいに。史人は視線を逸らして、串田の方へ顔を向けた。「だし巻き」串田は短く頷き、卵を割る音がする。音が生活だ。生活の音に包まれると、昨夜が勢いだったという言い訳が成立しそうになる。成立しそうになるのに、隣の気配がそれを崩す。律が小さく言う。「おつかれ」史人は水のコップを置いてから返した。「おつかれ」返事が硬い。硬いのは盾だ。盾があ
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14.部屋の狭さが、逃げ場になる

史人の部屋は、いつも狭い。狭いことが欠点だと思っていた。ひとりで暮らすには、壁が近すぎる。床に置きっぱなしの鞄が通路になる。椅子を引けばベッドの角にぶつかる。洗面所のドアは半分しか開かない。そんな窮屈さが、仕事で擦り切れた神経には余計に刺さるはずだった。けれど今夜は違った。玄関の鍵を回し、ドアを閉めた瞬間、狭さが逃げ場になるのを史人は理解してしまった。外の世界が切り離される。梅田の蛍光灯も、チャットの通知も、上司の声も、評価という名の監視も、ここには入ってこない。入ってこないはずだと信じられる距離に、壁がある。その壁の内側に、律がいた。宵だまりの暖色の膜を背中で閉じ、最短距離の階段を上がり、鍵を回すという一連の動作が、もう特別に思えないほど滑らかになっていることが怖い。怖いのに、滑らかであるほど胸が楽になる。楽になることに依存していくのが、自分でも分かる。律は靴を脱ぎ、部屋に入ってきた。前に来たときと同じように。けれど同じではない。律の動きが迷わない分だけ、史人の身体も迷わなくなっている。迷いが減るほど、逃避が習慣に近づく。習慣になると、逃げ道が義務になる。義務になった逃避は、いつか自分を壊す。そう思うのに、今夜の史人はその危険を遠くへ押しやってしまった。律が振り返って言う。「狭いな」史人は苛立つふりで返す。「文句あるなら帰れ」律が口角を上げる。笑いは小さく、宵だまりの笑い声の膜の代わりみたいに部屋に落ちた。「帰らん」その一言が、史人の胸の奥を熱くした。熱さは欲望というより、安堵に近い。帰らないと言われると、ひとりの静けさが回避される。静けさが怖いと認めたくないのに、回避されることがありがたい。史人は視線を逸らし、鞄を床に置いた。置く音が小さく響く。部屋の狭さが音を濃くする。濃い音は、現実の輪郭を強める。現実の輪郭が強まるのに、仕事の現実ではない。ここでの現実は、体温と呼吸と、言葉にならないものの距離だ。ベッドの端には、伏せた会社用スマホがあった。史人はそれを見るだけで胸が縮む。画面は黒いのに、鳴る気がする。震える気がする。通知音に似た音が耳の内側で鳴り、
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15.言わないで済む距離

未明の空気は、甘い疲労の匂いを含んでいる。シーツの皺の間に残る体温が、乾いた部屋の匂いを薄く塗り替えて、史人の肺の奥に沈んだ。窓の外では、車がたまに遠くを走る音がする。音の途切れ目があるたびに、世界がまだ続いているのだと知らされる。それが少し怖い。世界が続くなら、朝が来る。朝が来るなら、仕事が来る。仕事が来るなら、また窒息が始まる。その窒息の輪郭が、今だけぼやけている。ぼやけさせているのは隣の体温だと、史人は認めたくないまま知っている。律は仰向けに寝ていて、呼吸は深くはないが、落ち着いている。眠りに落ちたわけではないらしい。瞼は閉じているのに、眠りの重さがない。そこにあるのは、何かを待つ気配だった。史人は天井を見つめていた。天井の白さは、洗面台の白さに似ている。鏡を見ないようにする癖が、天井の白さにも追いかけられてくる。白さの下で、史人は自分の呼吸の深さに気づく。胸の上だけではない。腹まで空気が入る。深い呼吸ができることが、怖いほど気持ちいい。気持ちいいものは、すぐに依存になる。依存は、仕事の現場で何度も見た。誰かがコーヒーに、煙草に、夜の酒に、匿名の愚痴に、そして眠れない夜の薬に縋る。縋るのは弱さではなく、生きるための手段だと分かっている。分かっているのに、自分の縋り先が人の体温になるのは認めたくなかった。人間が絡むと、逃げ道に責任が生まれる。責任が生まれると、窒息と同じ匂いがする。律が小さく息を吐いた。吐いた息が、夜の静けさに混ざる。「史人さん」呼ばれた名前が、やけに近い。宵だまりの暖色の中で呼ばれるのとは違う近さだ。ここでは、壁が近いぶん声も近い。近い声は、史人の心臓を直接叩く。史人は目を閉じたまま返した。「なんや」律が少し笑った気配がした。笑いは音にならず、胸の上下だけがわずかに動く。「疲れてる顔してる」史人は反射で言い返したくなった。疲れているに決まっている、と。疲れていない顔をするほうが難しい、と。けれど言い返したら、会話になる。会話になったら、どこかで理由に触れてしまう。仕事の話も、家庭の話も、生活の話も、全部この部屋に持ち込みたくなかった。持ち込んだら、宵だまりから続いて
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16.軽くなる体、重くなる胸

終電間際のホームは、いつも同じ匂いがした。湿ったコンクリートと、誰かの整髪料と、疲労の汗が混ざった匂い。史人はその匂いを吸い込むたびに、胸の奥が固くなるのを感じた。自分が今どこに立っていて、次にどこへ向かうのかを、身体が先に知ってしまう。帰宅ではない。宵だまりだ。それは意思決定というより、反射に近かった。退勤のメールが飛び交い、会議の残滓が耳の内側で鳴り、会社用スマホがポケットの中で存在を主張する。画面は光っていないのに、震えた気がする。幻振動は、いつからか現実より確かな反応になっていた。震えた気がするだけで心拍が跳ね上がり、喉が渇き、背中の汗が冷える。だから、宵だまりへ行く。言い訳は毎回違うようで、結局同じだった。今日は疲れてるから。今日は最悪やったから。明日も早いから一杯だけ。家に帰る元気がないから。言い訳はどれも正しい。正しいからこそ、危険だ。正しい理由で逃げる癖は、生活に入り込む。宵だまりの暖簾をくぐると、世界の色が変わる。蛍光灯の白が消えて、暖色が皮膚の疲れを丸くする。出汁の匂いが鼻腔に入り、氷の音が耳を撫でる。串田が史人を見る。見た瞬間に水が出る。言葉は少ない。「水、先な」史人は頷く。水を飲む。喉が冷えて、胃の奥が少しだけ落ち着く。落ち着いたところに、今夜の合図が差し込む。律がいる。いることが当たり前みたいになっていくのが怖い。怖いのに、いると呼吸が深くなる。深くなるから、史人は自分の中で律の存在を「たまたま」に押し込めようとする。たまたま、先に来てるだけ。たまたま、同じ時間に寄るだけ。たまたま、同じ席に座るだけ。律は史人を見ると、小さく笑って言う。「おつかれ」史人は短く返す。「おつかれ」返事はいつも硬い。硬さは盾だ。盾があるから、宵だまりの膜の中でなんとか平静を保てる。盾が薄くなるのは、帰り道からだ。だし巻きが出る。湯気が立つ。卵がほどけ、出汁が舌に沁みる。沁みると肩が落ち、背中の硬さが少し緩む。緩む瞬間に、史人は気づいてしまう。緩んだ隙に、律の気配が入ってくる。入ってくることを拒めない。拒めな
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17.写真の裏に

今日は、珍しく早かった。早いと言っても、世間一般の「早い」とは違う。終電を気にせずに歩ける時間に、梅田のビル群を抜けられたというだけだ。空の色が完全に黒へ沈む前に地上へ出ると、街の音がまだ生きている。人の声がある。笑い声がある。店の呼び込みがある。いつもならそれらは遠くの世界で、史人は通り過ぎるだけの影になっているのに、今日は影が少しだけ薄い気がした。薄いのは救いのはずだった。救いのはずなのに、胸の奥は固いままだった。固さは仕事の残骸だ。会議で抑えた呼吸、キーボードの音に合わせて固まった肩、チャット通知に怯え続けた神経。固さは身体の中に残っていて、アパートの鍵を回しても消えない。玄関のドアを閉める音が、狭い廊下に響いた。響き方がいつもよりうるさく感じる。音が濃いと、静けさも濃くなる。静けさが濃くなると、史人の頭の中の音が目立つ。通知音に似た幻の振動。画面を見なくても分かる気がする焦り。何も鳴っていないのに心臓が跳ねる癖。史人は靴を脱ぎ、部屋に入って、照明をつけた。白い灯りが狭い1Kを平らに照らす。散らかった服が影を落とし、畳めていないタオルが椅子の背にぶら下がっている。洗い物が少しだけ溜まったシンク。生活の荒れが、時間のなさの証拠みたいにそこにある。史人は鞄を床に置き、ネクタイを緩めた。シャツの第一ボタンを外すだけで、胸の奥が少しだけ楽になる。楽になるのに、呼吸は深くならない。深くならないのが、怖い。冷蔵庫を開けた。中は空に近い。ペットボトルの水が二本、コンビニのサラダが一つ、いつ買ったか分からない豆腐が一丁。生活が薄い。薄い生活は、感情も薄くする。薄くするはずなのに、今日は薄さが逆に刺さった。史人は冷蔵庫を閉め、部屋の中央に立った。立つだけで、狭さが際立つ。狭さは逃げ場になると最近は思い始めていた。壁が近いと、外の世界が入り込みにくい。入り込みにくいから呼吸ができる。呼吸ができるから、宵だまりから律を連れて帰ることが増えた。そのことを思い出した瞬間、胸の奥が熱くなり、すぐに冷えた。熱くなるのは欲望ではないと言い聞かせたい。冷えるのは罪悪感だ。罪悪感はいつも、白い灯りの下で濃くなる。史人は目線を逸らすように、部屋の隅へ
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18.別れは会議のすき間に

就職して最初の春は、桜の色ではなく蛍光灯の白さで記憶されている。白い光の下で、史人は自分の呼吸が浅くなるのを覚えた。入社して間もないのに、終電が当たり前になり、土日が予備日になり、睡眠が削れ、食事がコンビニの袋に置き換わっていく。生活が薄くなるほど、感情も薄くなるはずだった。けれど薄くなったのは余裕だけで、焦りと罪悪感は逆に濃くなった。彼女との約束は、最初はちゃんと守ろうとしていた。大学を出る前の最後の冬、彼女は笑って言った。「就職したら忙しくなるんやろうけど、会えへんのは嫌やで」史人はそのとき、安易に頷いた。「会うに決まってるやろ」会うに決まっていると思っていた。予定を立てれば会える。予定を守れば会える。守れなかったときは謝ればいい。そういう常識が、社会に出ても通用すると思っていた。最初のリスケは、入社して二週間目だった。金曜の夜、仕事終わりに待ち合わせて、軽く飲んで帰る。彼女が行きたいと言っていた小さなカフェに寄って、ケーキを食べる。そんな約束だった。史人はその約束を、午前中の時点では本気で信じていた。昼過ぎに、上司が言った。「今日、客先から仕様の差し戻し来てる。明日の午前までに直しな」史人は頷いた。頷くしかない。断るという選択肢は、入社二週間目の史人には存在しない。断れないのは実力がないからだと、頭のどこかで理解している。理解しているから、悔しさより焦りが先に来る。チャットが鳴る。メールが飛ぶ。会議が入る。修正が積み上がる。終業時刻という概念は、机の上の時計から消える。消えるのに、スマホの画面の中では、待ち合わせの時間が進んでいく。史人は私用スマホを見た。彼女からのメッセージが来ている。「今どこ?」画面の文字を見ただけで胸が締まる。締まる胸のまま、史人は返信を打とうとして指が止まった。止まった指の先に、会社用スマホの幻の振動が重なる。振動はないのに、ある気がする。ある気がするものに怯える自分が情けない。史人は彼女に電話をかけた。耳に当てた瞬間、周囲のキーボード音がやけに大きく聞こえた。呼び出し音が二回鳴
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19.宵だまりの席が、家になる

宵だまりの引き戸を引く音は、いつも同じなのに、日によって違うものに聞こえた。木の軋みが濃い夜は、史人の胸の奥も軋む。軽い夜は、喉の奥に空気が入る。今日は、軋みの方だった。仕事を早く切り上げられたはずの夜だった。切り上げられたというだけで、何かが戻るわけではない。梅田の蛍光灯の白さを抜けた瞬間に肩の力が抜けることは、もうない。身体は会社の外でも緊張の形を保ったまま、ポケットの会社用スマホの存在を意識している。画面は暗いのに、いつ鳴るか分からない。鳴ったら、また呼吸が浅くなる。浅くなるのが怖い。史人は自宅の方角へ向かいかけて、足を止めた。止めた瞬間、胸が少し痛む。自宅は五分先にある。五分先に、箱がある。写真がある。連絡しない番号がある。そこに戻ったら、今日の白い灯りの下で、空虚がまた自分を刺す気がした。刺されるくらいなら、刺されない場所へ行けばいい。そう思ったのか、思わないふりをしたのか分からないまま、史人の足は宵だまりへ向かった。路地の湿った匂い。雨上がりのアスファルト。街灯の暖色。あの暖簾。呼吸の浅さが、少しずつ戻っていくのを感じる。戻っていくのが、もう怖い。怖いのに、止められない。引き戸を引くと、温い空気が頬に触れた。出汁と油の匂いが鼻腔に入り、氷の音が耳を撫でる。串田が顔を上げた。目が史人を一瞬で測り、言葉を選ぶ前に手が動く。「水、先な」史人は頷き、カウンターに腰を下ろした。水のコップが置かれ、指先に冷たさが伝わる。その冷たさだけで、胸の板が少しだけずれる。ずれて、息が入る。深くはないが、止まりかけていたものが動く。「今日は早いな」串田の声は低く、余計な色がない。だから助かる。助かることが、もう危険だ。史人は水を飲んでから言った。「たまたま」串田は「ふうん」とだけ返し、卵を割る音をさせた。だし巻きを焼いてくれるのだと分かる。頼んでいないのに分かる。その分かり合いが、怖いほど温かい。米谷が隣から肘で軽く突いてくる。「兄ちゃん、今日はマシな顔やん」史人は眉間に皺を寄せた。「黙れ」米谷は笑い、グ
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20.空白が痛む

鍵が回り、ドアが閉まる音が、狭い廊下の壁に跳ね返った。外の冷気が断ち切られると同時に、白い灯りの匂いが戻ってくる。史人の1Kは、いつも同じ温度で迎えない。仕事の残り香が濃い夜ほど、部屋は冷たく感じる。宵だまりの暖色が背中で消えた途端、部屋の白が皮膚の上に薄い膜を張る。律は靴を脱ぐ動作が迷いなく、部屋に入ってくることにためらいがない。ためらいがないのは良いことのはずなのに、史人の胸には小さな棘が刺さる。ためらいがないほど、ここが二人の帰り先として固まっていく。固まっていくものは、いつか崩れると知っている。崩れるものを、今はまだ見ないふりができるだけだ。史人は鞄を床に置き、会社用スマホをいつもの場所へ押しやった。画面は暗い。暗いのに、視界の端で光っている気がする。鳴る気がする。震える気がする。幻の振動は、宵だまりで水を飲んだ時だけ薄まる。薄まったものが、ここではまた濃くなる。濃くなるのが怖い。律が言った。「シャワー、先でええ?」史人は頷いた。「好きにしろ」好きにしろ、という言葉が合図になってしまっていることに、史人は気づきたくない。合図になれば反復になる。反復は習慣になる。習慣は生活を侵食する。侵食された生活は、元に戻りにくい。浴室のドアが閉まり、シャワーの音が始まった。水の落ちる一定の音が、部屋の静けさに筋を通す。通った筋が、史人の呼吸をわずかに整える。整うと同時に、胸の奥に別のものが浮かぶ。宵だまりで止められた会話の続き。元カノ、という軽い単語。串田が切った話題。米谷の笑い。律の「言わんでええ」。言わんでええ。その言葉が、慰めの形をしていることが怖い。慰められると、ここが逃避ではなくなる気がする。逃避でなければ、史人は受け止めなければならない。自分の空白を。自分の欲望を。自分の依存を。律が浴室から出てきた。湯気が廊下へ流れ、石鹸の匂いが部屋に広がる。湿った匂いは、乾いた生活の上に薄い布を被せる。布が被さるだけで、史人の肩が少し落ちる。落ちるほど、隣に誰かがいる夜が「特別」でなくなっていく。史人がシャワーを浴び、戻ると、律はベッドの端に座っていた。白い灯りの下で、顔の輪郭が
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