All Chapters of 雪が舞い、あの少年はもういない: Chapter 1 - Chapter 10

11 Chapters

第1話

夫の斉藤渉(さいとう わたる)が、妊娠した若いモデルの坂本胡桃(さかもと くるみ)を堂々と家に連れてきた。そして、彼女の療養のために寝室を明け渡すように言ってきた。でも私は、これまでみたいに物を壊したり、ご飯を食べなくなったりはしなかった。むしろおとなしく部屋を譲って、胡桃のために手料理まで作ってあげた。体にいい栄養満点のスープを。それから私は、香市のセレブの間で笑いものになった。渉に取り入ろうとする女たちは、みんな私のことを「ちょろい」と思ったみたい。渉の子供さえできれば、簡単に私を追い出せる、って。渉の遊び仲間たちは、さらに私のことを馬鹿にした。「斉藤家っていう金の鳥かごから離れられない、かわいそうな女だ」って、笑いながら話していたらしい。やがて、胡桃のお腹も目立ってきた頃。渉は、ベビー服にアイロンをかける私を、得意げな顔で見ていた。「玲奈(れな)、外の女なんて、しょせんは遊びなんだよ。お前がおとなしくさえしていれば、俺が外で何人女を作ろうと関係ない。俺の妻は、永遠にお前だけだから安心しろ」誰もが、私が渉のお金目当てだから、あんなみじめな真似をしているんだと思っていた。でも、本当の理由は私にしか分からなかった。私は斉藤家と、ある婚前契約を結んでいたのだ。【夫側に有責行為がある場合、その行為如何にかかわらず、妻が結婚生活を5年間続けた時点で、斉藤グループの株の10%を受け取ることができる】そして今、その5年が経った。渉の資産は何千億円。その半分が、これからは私のものになるのだ。……私は変わらずベビー服にアイロンをかけていた。渉の愛の誓いのような言葉なんて、まったく心に響かなかった。「わかってるわ」私のそっけない態度に、渉は少しイラっとしたようだった。渉にしてみれば、私がこんなに従順なのは慣れないことなのだろう。なんせ半年前、彼がクルーザーで女優とキスしている写真が出回ったときは、高級なアンティーク食器一式を叩き割って、大騒ぎしたのだから。渉は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにその苛立ちを抑え、私の頭をなでようと手を伸ばしてきた。「玲奈、お前もようやく物分かりがよくなったな。やっぱり、お前は分別のある女だと思っていたよ」私はさりげなくその手をかわした。「キッチンに行って、スープ
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第2話

スープを飲む胡桃の横顔を見ていると、なんだかぼうっとしてしまった。渉はこれまでどんなに女遊びが激しくても、分別はあった。浮気相手を私の目の前に連れてくるようなことは、一度もなかったのに。でも今回は、胡桃のお腹の子どものために、その一線を越えてしまった。渉は婚外子をあれほど憎んでいた。なのに胡桃がずる賢く妊娠すると、まるで宝物みたいに扱っている。私になかなか子どもができないからだろうか。渉は少し視線を泳がせながら、探るように言った。「玲奈、この子には斉藤家の血が流れている。生まれてきたら、お前をママと呼ばせて、斉藤家の正式な跡継ぎにするのはどうかな?」自分の子どもに、自分と同じ道を歩ませたくない。そのために、私のプライドを犠牲にしようというのだ。私は微笑んだ。「いいわよ」私が思ったよりあっさり頷いたので、渉はあっけにとられた顔をしていた。でも、私の心は少しも揺れなかった。だって、あと3日もすれば、「斉藤夫人」の座なんて誰かにくれてやるつもりだもの。今さら誰かの都合のいい母親役なんて、どうでもよかった。自分の子どもが斉藤家の跡継ぎになると知った胡桃は、ますます付け上がった。彼女は庭のハナカイドウの木を指さして、甘ったるい声で言った。「渉さん、私はハナカイドウって好きじゃない。バラの花がいいな」それを聞くと、渉は一声かけて、すぐに使用人にハナカイドウの木を切り倒させ、バラを植えさせた。あのハナカイドウは、私の両親が亡くなった年に、渉が一緒に植えてくれた木だった。彼は言った。「玲奈、ハナカイドウが咲けば、毎年穏やかに過ごせるよ。これからは俺がお前を守る。もう一人じゃない」って。チェーンソーの耳障りな音が響き渡り、ハナカイドウの木は大きな音を立てて倒れた。私は二階の窓辺に立ち、地面に散らばった枝や葉を眺めていた。心の中に残っていた最後の未練も、やがて静かに消えていった。渉が二階に上がってきた時、ちょうど窓辺に立つ私を見つけた。私の後ろ姿があまりに寂しげだったからか、彼は珍しく罪悪感を覚えたようだった。そして、後ろから私を抱きしめた。「玲奈、たかが木一本じゃないか。そんなに好きなら、今度、広い庭のある別荘でも買って、ハナカイドウでいっぱいにしてやるよ」渉の腕の中は昔みたいに温かかった。でも、その体か
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第3話

渉が胡桃とチャリティーパーティーに出席した写真が、その日の夜、香市のニュースでトップ記事になった。マスコミは面白がって、こんな見出しをつけた。【#斉藤渉、新恋人と公の場に妊娠説浮上で離婚危機か?】写真の中の渉は、胡桃をそっと支えている。そして胡桃の首には、ピンクダイヤのネックレスが光っていた。あれは、私たちの結婚3周年の記念日に、渉がオークションで競り落として、私に贈ってくれたものだった。彼は、このダイヤは「天使の心」っていう名前で、私への永遠の愛を表してるんだって言ってたのに。笑っちゃう。次の日、私はいつものようにエステに行った。中に入るとすぐ、何人かのマダムたちが噂話をしているのが聞こえてきた。「ねえ、ニュース見た?斉藤家のあの方、今回はさすがにヤバいんじゃない?」「ほんとよね。『天使の心』まで、あの愛人の首にかかってるんだも。完全に本妻への当てつけじゃない?」「ふん、でも斉藤社長の奥さんも自業自得よ。昔、斉藤社長がまだ日陰の身だったころ、彼女が必死に支えたんじゃない。実家の内田家の財産までつぎ込んでね。お金を持った途端にダメになる男に尽くした報いってわけ」「それに、今じゃあの愛人のために三食まで作ってあげてるって噂じゃない?女の恥だわ。私なら、恥ずかしくて生きていられない」ここまで聞いて、私はドアを開けて中に入った。休憩室は一瞬で静まり返った。マダムたちは私を見ると、一瞬気まずそうな顔をしたが、すぐに面白いものを見るような表情に変わった。「あら、斉藤さんじゃないですか。今日はどうしましたか?お家にいる大事なお客さんにご飯を作らなくていいんですか?」声をかけてきたのは松田絵美(まつだ えみ)だ。家は建材業で、ずっと渉に取り入りたがっていたけど、私が間を取り持たなかったせいで逆恨みされている。私は平然とした態度でいつもの席に座ると、エステティシャンが出してくれたお茶を受け取り、そっと口をつけた。「ご飯作りなんて、たまにするから愛情表現になるんです。毎日なら、ただの使用人ですよ。私は松田さんとは違いますから。外で女子大生を囲っている旦那さんの気を引くために、わざわざ料理教室に通っているそうじゃありませんか?」絵美の顔色が変わった。「何、何を言ってるんですか!」「松田さんご本人が一番よくご
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第4話

今夜の会は、とある会員制のクラブで開かれた。個室のドアを開けると、タバコとお酒の匂いが鼻をついた。そこにいたのは渉の仕事仲間たち。あとは、彼の悪友が数人混じっている。私が入っていくと、あれほど騒がしかった部屋が、一瞬だけ静まり返った。「おっ、やっと来たね!さあさあ、こっちに座って!」誰かがやけに親切に席を譲ってくれた。でも、その目の奥に私をからかう色が見えた。上座には渉が座っていた。私に気づくと、彼は隣の席を軽く叩き、言った。「玲奈、こっちに座りな」私は言われるがままに、渉の隣に腰を下ろした。「渉、両手に花で楽しんでるって噂だぜ?あの若いモデル、もうお腹もだいぶ大きいんだろ。なのに奥さんはこんなに心が広いんだから、俺たち感心しちゃうよなぁ」声を上げたのは井上社長だった。お酒が回って、口が軽くなっているみたい。渉は笑いながら悪態をつく。「バカ言え、お前は黙って酒でも飲んでろよ」でも、渉はそれを否定しなかった。そして、仲の良い夫婦みたいに、私の肩をぐっと引き寄せた。「玲奈は、そこらの女とは違う。外の女なんて所詮は遊びさ。俺の妻の座は、玲奈だけのものだよ」そう言う彼の目は、まるで恵んでやっている、と言わんばかりだった。私に「妻」という名前だけを残してあげることが、さも大きな恵みだと言いたげな顔。お酒がだいぶ回ってきた頃、誰かが内田家のことを口にした。「渉、そういえば昔、内田家の協力がなければ、お前もこんなに早く斉藤グループを掌握できなかったよなぁ。奥さんの両親が早くに亡くなられたのが惜しいよ。今の成功を見たら、どれだけ喜んだことか」渉の表情が、わずかにこわばった。その目にも一瞬、不自然な光が宿る。あの時、私の両親の交通事故……警察はただの事故として処理したけれど、タイミングがあまりにも良すぎたのだ。ちょうど、渉が兄一家と一番激しく争っていて、運転資金を喉から手が出るほど欲していた時期だ。両親の死後、私は内田家の遺産をすべて相続し、ためらうことなく渉の事業に投じた。それで彼は、完全に形勢を逆転できたのだ。これまで何年も、私は渉のことを一度も疑わなかった。でも、つい最近。両親の遺品を整理していた時に、暗号化されたメールを一つ見つけてしまった。まだ解読できていないけれど、その内容は、ある
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第5話

渉は慌てて立ち上がり、胡桃を横抱きにすると、振り返りもせず部屋を飛び出していった。個室は、しんと静まり返っていた。その場の全員が、私を見ていた。その目には、同情と、あざけるような色が浮かんでいる。本妻が目の前にいるのに、夫は愛人を抱きかかえていなくなってしまったのだ。でも私は、みんなが思うほど落ち込んではいなかった。私はゆっくりと箸を取り、料理を口に運んだ。「みなさん、どうぞ食事を続けて、しらけないでください。だってこれ、斉藤社長がみなさんにご馳走する、最後の豪華な食事になるかもしれませんから」みんなは顔を見合わせ、私の言葉の意味が分からずに戸惑っていた。クラブを出てから、私はまっすぐ家に帰った。使用人の小島幸子(こじま さちこ)はまだ起きていて、私が一人で帰ってきたのを見て、少し驚いた様子だった。「奥様、旦那様は?」「坂本さんと一緒に病院よ」幸子は一瞬きょとんとしたが、すぐに事情を察したようだった。ただ、私を見るその目には、前よりもっと憐れみの色がこもっていた。私は口の端をゆがめ、自分をあざ笑うかのように微笑んだ。周りの人から見れば、私は香市では一人ぼっち。渉の愛情を失ったら、もう何もない存在なのだ。渉の浮気を知ったばかりの頃は、私も本当にそんな可哀想な女だった。ヒステリックに泣き叫んで、彼から贈られたアクセサリーを床に叩きつけたこともある。あの頃は本当にばかだったな。愛が全てだって信じてたから。でも、たくさん失望したおかげで、ようやく目が覚めた。指にはめているダイヤの指輪に触れると、渉本人よりずっと愛おしく思えた。だって、男の心は変わるけど、お金は絶対に私を裏切らないから。私はそのまま階段を上がり、自分の部屋に戻った。金庫を開けて、5年間眠っていた書類のファイルを取り出した。それは、結婚式の1日前にサインしたものだ。あの時、渉は私の父の前にひざまずき、私を一生大切にすると誓った。もしその約束を破ることがあれば、どんな報いも受ける覚悟だ、と。父は誓いの言葉なんて信じなかった。信じたのは、法律だけだった。父は言った。「玲奈、人の心は変わるものだ。お父さんが一生そばにいてやれるわけじゃない。この契約書は、お父さんが君に残してやれる、最後の御守りだ」その頃の私には理解
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第6話

「地下室」という言葉を聞いた瞬間、全身の血が凍りついた。私は閉所恐怖症。渉は、そのことをよく知っているはずなのに。彼は昔、一晩中明かりをつけてそばにいてくれた。「もう二度と、お前を暗くて狭い場所には行かせない」と、そう誓ってくれたのに。「渉、私が閉所恐怖症なのを知ってるでしょ……」私の声は、かすかに震えていた。「自業自得だ!」渉は冷たく私の言葉をさえぎると、そばにいたボディーガードに合図した。「こいつを連れていけ!俺の許可がなければ、誰もそこから出すな!」地下室はひんやりと湿っぽく、光一つなかった。隅でうずくまると、体はガタガタと震え、呼吸がどんどん苦しくなっていった。「助けて……誰か、助けて……」意識がだんだん薄れていく。もうここで死ぬんだと思った、その時だった。耳もとで、誰かが必死に叫ぶ声がした。「玲奈!」次に目を覚ましたとき、私は寝室のベッドに寝かされていた。渉が、疲れた顔でベッドの脇に座っていた。私が目覚めたのを見ると、彼はほっと息をつき、私の頬に触れようと手を伸ばした。私はとっさに顔を背けて、その手を避けた。体はまだ、ぶるぶると震えが止まらない。渉の手は宙で固まり、そして、気まずそうに引っ込められた。「目が覚めてよかった」彼の口調はいつものそっけないものに戻っていた。「調べさせたが、あのスープに問題はなかった。どうやら、胡桃が自分で冷たいものを欲しがって、アイスを食べたのが原因らしい」馬鹿馬鹿しい、としか思えなかった。じゃあ、私が地下室で味わった地獄のような数時間は、一体なんだったというの?「原因がわかったのなら、私に謝るべきじゃない?」私はしゃがれた声で問いかけた。渉は、わずかに眉をひそめた。「玲奈、正しいからといって、いつまでも相手を許さないのは良くない。胡桃は妊娠中で、気持ちが不安定なんだ。お前に少し罰を与えないと、彼女の気がおさまらない。お腹の子にも悪いだろ」私は笑った。涙があふれてきた。「渉、離婚しよう」渉は一瞬固まったが、すぐに馬鹿にしたように笑った。「玲奈、俺なしで、お前がどうやって生きていくんだ?」私は震える体に力を入れて起き上がると、ずっと前に用意していた書類の束を、彼に叩きつけた。渉は不思議そうにそれを拾い上げると、何気な
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第7話

翌日、斉藤グループの役員会議室。渉は意気揚々と社長の席に座っていた。彼は、古くからの役員たちが自分を支持してくれると確信していた。私は弁護士に、社長の解任案を読み上げさせた。渉は椅子にもたれかかって、余裕の表情を浮かべていた。しかし、投票が始まると、彼の顔からだんだんと笑みが消えていった。普段から渉に笑顔で親しく接していた役員たちが、全員、私に票を入れたのだ。全会一致で可決された。会議室はしんと静まりかえり、聞こえるのは渉の荒い息づかいだけだった。「そ……そんな、ありえません!」渉は目を真っ赤にして叫んだ。「お気は確かですか?俺は斉藤家の跡取りですよ!俺を差し置いて、この女を支持するなんて」誰もが押し黙る中、古株の山下康弘(やました やすひろ)が静かに口を開いた。「すみません。君を支持することはできません」康弘はため息をつくと、分厚い報告書の束を取り出し、渉の前に突きだした。「自分で見てください。この1年、君のくだらないゴシップのせいで、斉藤グループの株価がどれだけ下がったかわかりますか?スキャンダルがネットで話題になるたびに、会社の価値は何十億円も吹き飛んでいます。百年続いた斉藤グループの信用も、君のせいで台無しです!」渉は顔を真っ青にして、無理やり言い返した。「それは単なるトラブルです!それに、ちゃんとプロジェクトで取り返しています……」「取り返してる、と言いましたか?」隣にいた陣内仁(じんない じん)が、冷たく笑って彼の言葉をさえぎった。「君の成功したプロジェクトは、全部自分の才能だと思っているんですか?あのプロジェクトだって、裏で奥さんが寝る間も惜しんで企画書を直し、人脈をあたってくれたからでしょう。彼女が取引先に頭を下げなかったら、斉藤グループはとっくに潰れていますよ!私たちは利益しか見ません。斉藤グループを儲けさせ、株価を安定させられる人間、私たちはそんな人について行くだけです」「君には心底がっかりしました。今の君には、斉藤という苗字以外、なんの価値もありません」康弘の言葉は、渉の甘い考えを容赦なく打ち砕いた。「ちがいます……そんなはずは……」渉はよろめきながら後ずさり、顔は血の気を失っていた。私は、そんな彼を見下ろした。「渉、昨日あなたは私に言ったわよね。あなた
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第8話

胡桃の顔から笑みが消えた。「な……なにを言ってるの?そんなはずない!渉さんは?渉さんに電話しなきゃ!」「どうぞ、電話して。ついでに今夜どこに泊まるのかも聞いたら?今のあの人、ホテル代だって怪しいんだから」胡桃は震える手で、渉に電話をかけた。電話の向こうから、渉の荒んで苛立った声が聞こえた。「うるさい!ほっとけ!みんな消えろ!」胡桃は顔面蒼白になった。私は立ち上がり、彼女の目の前まで歩み寄った。「坂本さん、玉の輿の夢が破れた気分はどう?あなたが私を踏み台にしてここに来たように、今度はそのまま這って出ていってもらうわ」胡桃がボディガードに連れて行かれたけど、私の心は少しも晴れなかった。ただ、深い疲れを感じるだけだった。思い出がたくさん詰まったこの家を見渡しても、今はがらんとして空っぽに感じる。ここにはもう、私が未練に思うものはなにもない。私はスマホを取って、登録してある番号に久しぶりに電話をかけた。「もしもし、おじさん。私、玲奈です。江川市に戻ろうと思います。それと……5年前のあの交通事故を起こした運転手を調べてください。その人に会わなきゃいけません」香市を離れる日、空は不思議なくらい晴れ渡っていた。空港で、渉が私を待ち伏せしていた。彼は無精髭だらけで、目の下には黒いクマができていた。シャツはしわくちゃで、かつての自信に満ちた姿はもうどこにもなかった。「玲奈!行かないでくれ!」渉は私のスーツケースを必死に掴んだ。その姿は、地面にひれ伏すように惨めだった。「俺は本当に間違ってた!胡桃は追い出したし、お腹の子も堕ろさせた!俺にはもう何もないんだ、お前しかいない!」私は冷たく彼を見つめ、力ずくでその指を一本ずつ引き剥がした。「渉、みっともない真似はやめて。私たちはもう離婚したんだから」「いやだ!認めない!」渉は目を真っ赤にして叫んだ。「あの離婚協議書は、お前が無理やりサインさせたんだろう!俺はカッとなってただけなんだ!玲奈、俺たちの長年の気持ちを、たった一度の間違いで全部なかったことにするのか?」「一度の間違い?」私は呆れて笑いながら、カバンから写真の束を取り出して彼の顔に叩きつけた。写真がひらひらと床に舞い落ちた。どの写真にも、渉が違う女とホテルやクラブに
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第9話

江川市に戻って、私はまず刑務所へ向かった。5年前の交通事故を起こした運転手は、まじめな態度が認められて、もうすぐ減刑されることになっていた。面会室に入ると、男は私に気づいて視線をそらし、まともに顔を上げようとしなかった。「話すべきことはすべて話ました。あれは本当に事故だったんです。ブレーキが、きかなくて……」「事故?」私は冷たく笑って、解析途中のハードディスクをテーブルに置いた。「この中のメールによると、事故の1週間前、あなたの口座に2000万円が振り込まれているわ。振り込んだのは海外の口座だけど、IPアドレスは香市だった」男の顔色が一瞬で変わった。「それに、息子さんのことも調べさせてもらったわ。白血病だったのに、5年前に突然まとまった資金が入って、骨髄移植を受けたそうね。おかげで今は海外でいい暮らしをしてるみたい」私は彼の目をまっすぐ見つめ、言葉を区切るように言った。「ねぇ、この証拠を警察に渡したら……息子さんは、今までみたいにのんびり暮らしていけると思う?」男の心は、完全に折れた。彼は頭を抱えて、苦しそうにうめき声をあげた。「話します!全部話します!指示したのは斉藤社長です!彼に頼まれたんです!」予想はしてたけど、実際にその名前を聞くと、心臓が張り裂けそうだった。「あの頃、斉藤社長は事業資金に困っていました。でも、あなたのお父さんは彼の野心を見抜いて、出資を断ったんです。それで斉藤社長は……俺に事故を偽装するようにと……ご両親がいなくなればあなたが遺産を相続するから、そうすればきっと、彼を助けるためになんでもするはずです……」指の爪が手のひらに食い込んで血がにじんだけど、痛みはまったく感じなかった。内田家のお金と自分の野望のために、渉は恩のある私の両親を殺した。それだけじゃない。私の愛情を利用して、両親を殺した犯人に私自身の手でお金を渡させたんだ。刑務所から出ると、外はどしゃ降りの雨だった。私は雨の中に立ちつくして、とうとう声をあげて泣きじゃくった。その頃、香市での渉の生活は、さんざんなものだった。斉藤グループでの実権を失い、私に財産の半分を奪われた彼は、天国から地獄へ突き落とされた。あれだけ渉のご機嫌をとっていた人たちも、今ではクモの子を散らすように姿を消した。渉の兄一
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第10話

渉が江川市に預けられたばかりの頃、内田家はまだ小さくて、ごく普通の家庭だった。初めて会った渉は、人形みたいに肌が白くて。あの目にはまだ、怯えと警戒心しかなかった。なんだか可哀想になって、私は渉の頭をそっと撫でた。「怖がらなくていいよ。今日からここが、あなたの家だからね」渉の体がびくって震えた。でも、避けようとはしなかった。しばらくして、彼はポケットから見たこともないチョコを一つ取り出して、私の手のひらに乗せてくれた。それから、渉は香市と江川市を行き来するようになった。江川市に戻ってくるたびに、いつもあのチョコをお土産にくれたんだ。その頃にはうちの会社も大きくなって、あのチョコが有名なものだって知った。もっと美味しいチョコも、たくさん食べたことがあった。でも、私にとって特別だったのは、渉がくれるチョコだけだった。もらったチョコの箱が空になる頃、渉の母親が亡くなったという知らせが届いた。渉は急いで香市に帰って、それから数ヶ月も連絡がなかった。やっと戻ってきた彼の目から、昔のおどおどした様子は消えていた。代わりに、暗い影と野心が宿っていた。でも、渉がポケットから取り出したのは、いつもの金色の包みのチョコだった。その瞬間、渉は何も変わってないんだって、そう思った。そして、ちょうどその日。彼は片膝をついて、私にプロポーズしてくれた。「玲奈、一緒に香市へ行こう。必ずお前を幸せにするから」「玲奈?」渉の声で、はっと我に返った。私がチョコをぼーっと見ていたから、許してくれたとでも思ったんだろう。彼は慌てて包み紙をむくと、期待に満ちた目でチョコを私の口元に差し出した。「これ、何軒もお店を探し回って、やっと見つけたんだよ」私はそのチョコと、目の前で必死に機嫌を取ろうとしている男の顔を、交互に見つめた。かつての人形のように純粋だった少年。そして、利益のためなら何でもする今の男。二人の姿が、頭の中でぷつりと切り離された。私は、渉の手を強く振り払った。チョコは床に転がり、ほこりにまみれた。渉の手が、行き場をなくして宙で止まる。その瞳から、光がすうっと消えていく。「お前が、一番好きだったやつだろ……」彼の顔を見ていると、目の奥が熱くなる。でも、声は氷のように冷たかった。「昔は、このチョコが宝物み
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