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雪が舞い、あの少年はもういない

雪が舞い、あの少年はもういない

بواسطة:  一時مكتمل
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夫の斉藤渉(さいとう わたる)が、妊娠した若いモデルの坂本胡桃(さかもと くるみ)を堂々と家に連れてきた。そして、彼女の療養のために寝室を明け渡すように言ってきた。 でも私は、これまでみたいに物を壊したり、ご飯を食べなくなったりはしなかった。 むしろおとなしく部屋を譲って、胡桃のために手料理まで作ってあげた。体にいい栄養満点のスープを。 それから私は、香市のセレブの間で笑いものになった。 渉に取り入ろうとする女たちは、みんな私のことを「ちょろい」と思ったみたい。渉の子供さえできれば、簡単に私を追い出せる、って。 渉の遊び仲間たちは、さらに私のことを馬鹿にした。「斉藤家っていう金の鳥かごから離れられない、かわいそうな女だ」って、笑いながら話していたらしい。 やがて、胡桃のお腹も目立ってきた頃。渉は、ベビー服にアイロンをかける私を、得意げな顔で見ていた。 「玲奈(れな)、外の女なんて、しょせんは遊びなんだよ。 お前がおとなしくさえしていれば、俺が外で何人女を作ろうと関係ない。俺の妻は、永遠にお前だけだから安心しろ」 誰もが、私が渉のお金目当てだから、こんなみじめな真似をしているんだと思っていた。 でも、本当の理由は私にしか分からなかった。 私は斉藤家と、ある婚前契約を結んでいたのだ。 【夫側に有責行為がある場合、その行為如何にかかわらず、妻が結婚生活を5年間続けた時点で、斉藤グループの株の10%を受け取ることができる】 そして今、その5年が経った。 渉の資産は何千億円。その半分が、これからは私のものになるのだ。

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الفصل الأول

第1話

夫の斉藤渉(さいとう わたる)が、妊娠した若いモデルの坂本胡桃(さかもと くるみ)を堂々と家に連れてきた。そして、彼女の療養のために寝室を明け渡すように言ってきた。

でも私は、これまでみたいに物を壊したり、ご飯を食べなくなったりはしなかった。

むしろおとなしく部屋を譲って、胡桃のために手料理まで作ってあげた。体にいい栄養満点のスープを。

それから私は、香市のセレブの間で笑いものになった。

渉に取り入ろうとする女たちは、みんな私のことを「ちょろい」と思ったみたい。渉の子供さえできれば、簡単に私を追い出せる、って。

渉の遊び仲間たちは、さらに私のことを馬鹿にした。「斉藤家っていう金の鳥かごから離れられない、かわいそうな女だ」って、笑いながら話していたらしい。

やがて、胡桃のお腹も目立ってきた頃。渉は、ベビー服にアイロンをかける私を、得意げな顔で見ていた。

「玲奈(れな)、外の女なんて、しょせんは遊びなんだよ。

お前がおとなしくさえしていれば、俺が外で何人女を作ろうと関係ない。俺の妻は、永遠にお前だけだから安心しろ」

誰もが、私が渉のお金目当てだから、あんなみじめな真似をしているんだと思っていた。

でも、本当の理由は私にしか分からなかった。

私は斉藤家と、ある婚前契約を結んでいたのだ。

【夫側に有責行為がある場合、その行為如何にかかわらず、妻が結婚生活を5年間続けた時点で、斉藤グループの株の10%を受け取ることができる】

そして今、その5年が経った。

渉の資産は何千億円。その半分が、これからは私のものになるのだ。

……

私は変わらずベビー服にアイロンをかけていた。渉の愛の誓いのような言葉なんて、まったく心に響かなかった。

「わかってるわ」

私のそっけない態度に、渉は少しイラっとしたようだった。

渉にしてみれば、私がこんなに従順なのは慣れないことなのだろう。

なんせ半年前、彼がクルーザーで女優とキスしている写真が出回ったときは、高級なアンティーク食器一式を叩き割って、大騒ぎしたのだから。

渉は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにその苛立ちを抑え、私の頭をなでようと手を伸ばしてきた。

「玲奈、お前もようやく物分かりがよくなったな。やっぱり、お前は分別のある女だと思っていたよ」

私はさりげなくその手をかわした。

「キッチンに行って、スープができたか見てくるわ」

渉の手が宙で固まった。でも、彼はすぐにそれを引っ込めると、少しの雷鳴で胸に飛び込んできた胡桃をあやし始めた。

キッチンでは、土鍋がぐつぐつと湯気を立てていた。

熱い湯気が顔にあたって、目の奥がじんわりと熱くなった。

ぼーっとスープを見つめていると、さっきリビングで必死に保っていた気丈さが、あっけなく崩れていくのを感じた。

昔は、渉もこうやって私を守ってくれたのに。

あの頃、私たちはまだ江川市にいた。彼はまだ人目に出せない私生児の身で、兄一家の追っ手から逃れるため、母親に頼まれて私の家に預けられていたのだ。

ある年のとても寒い冬、私が高熱を出して、どうしても南区の栗が食べたいとわがままを言った。

車も走っていない中、渉は大雪の中を何キロも走って買いに行ってくれた。

戻ってきた彼の手は真っ赤に凍えていたけど、懐に抱えられた栗は、まだ温かかった。

その後、私の両親が交通事故で亡くなったときも、気を失うまで泣きじゃくる私を抱きしめて、渉は目を真っ赤にしながら誓ってくれた。「玲奈、これからは俺がお前の家族だ。命に代えても、お前を守る」って。

今、立派な「家」はある。

この豪邸は、港の景色を一望できる、ものすごく価値のある家だ。

でも、心から私のことだけを想ってくれていたあの男は、香市のきらびやかな世界で死んでしまった。

スープを持ってリビングに戻ると、胡桃が私のドレッサーの前に座って、母の形見であるヒスイのネックレスを手に取ってもてあそんでいた。

「渉さん、このネックレスすてき。私の肌に合うかな?」

渉は、彼女をとろけるような目で見つめた。「好きならあげるよ。どうせ玲奈はアクセサリーをいっぱい持ってるし、一つくらいなくなったって平気だろ」

私はその場で立ち止まり、指先が白くなるのを感じた。

あれは、母の形見なのに。

私は二人に近づき、声の震えを抑えながら言った。「このネックレスは古いものだから。お腹の赤ちゃんに障るといけないし。坂本さん、あなたがアクセサリーを好きなら、また今度、渉にオークションにでも連れて行ってもらって、新しいものを選んでもらったらどう?」

胡桃は顔をこわばらせ、何か不吉なものでも触ったかのように慌ててネックレスを置いた。

渉は眉をひそめ、汚らわしいもののようにネックレスをテーブルの奥へと押しやった。

その瞬間、彼の目に浮かんだ嫌悪の光を、私は見逃さなかった。

あのネックレスは、母の優しさと愛情そのものだった。それに、渉が一番つらかった時代を、ずっと見てきたものでもあったのに。

私の両親は、生きていたとき、渉のことを少しも邪険に扱ったことはなかった。

なのに今では、亡くなった両親の恩も忘れ、その形見までまるでゴミのように扱われている。

胸が、きゅっと痛んだ。

私は心の中でカウントダウンを始める。あと、3日。

あと3日だけ、耐えればいいんだ。
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第1話
夫の斉藤渉(さいとう わたる)が、妊娠した若いモデルの坂本胡桃(さかもと くるみ)を堂々と家に連れてきた。そして、彼女の療養のために寝室を明け渡すように言ってきた。でも私は、これまでみたいに物を壊したり、ご飯を食べなくなったりはしなかった。むしろおとなしく部屋を譲って、胡桃のために手料理まで作ってあげた。体にいい栄養満点のスープを。それから私は、香市のセレブの間で笑いものになった。渉に取り入ろうとする女たちは、みんな私のことを「ちょろい」と思ったみたい。渉の子供さえできれば、簡単に私を追い出せる、って。渉の遊び仲間たちは、さらに私のことを馬鹿にした。「斉藤家っていう金の鳥かごから離れられない、かわいそうな女だ」って、笑いながら話していたらしい。やがて、胡桃のお腹も目立ってきた頃。渉は、ベビー服にアイロンをかける私を、得意げな顔で見ていた。「玲奈(れな)、外の女なんて、しょせんは遊びなんだよ。お前がおとなしくさえしていれば、俺が外で何人女を作ろうと関係ない。俺の妻は、永遠にお前だけだから安心しろ」誰もが、私が渉のお金目当てだから、あんなみじめな真似をしているんだと思っていた。でも、本当の理由は私にしか分からなかった。私は斉藤家と、ある婚前契約を結んでいたのだ。【夫側に有責行為がある場合、その行為如何にかかわらず、妻が結婚生活を5年間続けた時点で、斉藤グループの株の10%を受け取ることができる】そして今、その5年が経った。渉の資産は何千億円。その半分が、これからは私のものになるのだ。……私は変わらずベビー服にアイロンをかけていた。渉の愛の誓いのような言葉なんて、まったく心に響かなかった。「わかってるわ」私のそっけない態度に、渉は少しイラっとしたようだった。渉にしてみれば、私がこんなに従順なのは慣れないことなのだろう。なんせ半年前、彼がクルーザーで女優とキスしている写真が出回ったときは、高級なアンティーク食器一式を叩き割って、大騒ぎしたのだから。渉は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにその苛立ちを抑え、私の頭をなでようと手を伸ばしてきた。「玲奈、お前もようやく物分かりがよくなったな。やっぱり、お前は分別のある女だと思っていたよ」私はさりげなくその手をかわした。「キッチンに行って、スープ
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第2話
スープを飲む胡桃の横顔を見ていると、なんだかぼうっとしてしまった。渉はこれまでどんなに女遊びが激しくても、分別はあった。浮気相手を私の目の前に連れてくるようなことは、一度もなかったのに。でも今回は、胡桃のお腹の子どものために、その一線を越えてしまった。渉は婚外子をあれほど憎んでいた。なのに胡桃がずる賢く妊娠すると、まるで宝物みたいに扱っている。私になかなか子どもができないからだろうか。渉は少し視線を泳がせながら、探るように言った。「玲奈、この子には斉藤家の血が流れている。生まれてきたら、お前をママと呼ばせて、斉藤家の正式な跡継ぎにするのはどうかな?」自分の子どもに、自分と同じ道を歩ませたくない。そのために、私のプライドを犠牲にしようというのだ。私は微笑んだ。「いいわよ」私が思ったよりあっさり頷いたので、渉はあっけにとられた顔をしていた。でも、私の心は少しも揺れなかった。だって、あと3日もすれば、「斉藤夫人」の座なんて誰かにくれてやるつもりだもの。今さら誰かの都合のいい母親役なんて、どうでもよかった。自分の子どもが斉藤家の跡継ぎになると知った胡桃は、ますます付け上がった。彼女は庭のハナカイドウの木を指さして、甘ったるい声で言った。「渉さん、私はハナカイドウって好きじゃない。バラの花がいいな」それを聞くと、渉は一声かけて、すぐに使用人にハナカイドウの木を切り倒させ、バラを植えさせた。あのハナカイドウは、私の両親が亡くなった年に、渉が一緒に植えてくれた木だった。彼は言った。「玲奈、ハナカイドウが咲けば、毎年穏やかに過ごせるよ。これからは俺がお前を守る。もう一人じゃない」って。チェーンソーの耳障りな音が響き渡り、ハナカイドウの木は大きな音を立てて倒れた。私は二階の窓辺に立ち、地面に散らばった枝や葉を眺めていた。心の中に残っていた最後の未練も、やがて静かに消えていった。渉が二階に上がってきた時、ちょうど窓辺に立つ私を見つけた。私の後ろ姿があまりに寂しげだったからか、彼は珍しく罪悪感を覚えたようだった。そして、後ろから私を抱きしめた。「玲奈、たかが木一本じゃないか。そんなに好きなら、今度、広い庭のある別荘でも買って、ハナカイドウでいっぱいにしてやるよ」渉の腕の中は昔みたいに温かかった。でも、その体か
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第3話
渉が胡桃とチャリティーパーティーに出席した写真が、その日の夜、香市のニュースでトップ記事になった。マスコミは面白がって、こんな見出しをつけた。【#斉藤渉、新恋人と公の場に妊娠説浮上で離婚危機か?】写真の中の渉は、胡桃をそっと支えている。そして胡桃の首には、ピンクダイヤのネックレスが光っていた。あれは、私たちの結婚3周年の記念日に、渉がオークションで競り落として、私に贈ってくれたものだった。彼は、このダイヤは「天使の心」っていう名前で、私への永遠の愛を表してるんだって言ってたのに。笑っちゃう。次の日、私はいつものようにエステに行った。中に入るとすぐ、何人かのマダムたちが噂話をしているのが聞こえてきた。「ねえ、ニュース見た?斉藤家のあの方、今回はさすがにヤバいんじゃない?」「ほんとよね。『天使の心』まで、あの愛人の首にかかってるんだも。完全に本妻への当てつけじゃない?」「ふん、でも斉藤社長の奥さんも自業自得よ。昔、斉藤社長がまだ日陰の身だったころ、彼女が必死に支えたんじゃない。実家の内田家の財産までつぎ込んでね。お金を持った途端にダメになる男に尽くした報いってわけ」「それに、今じゃあの愛人のために三食まで作ってあげてるって噂じゃない?女の恥だわ。私なら、恥ずかしくて生きていられない」ここまで聞いて、私はドアを開けて中に入った。休憩室は一瞬で静まり返った。マダムたちは私を見ると、一瞬気まずそうな顔をしたが、すぐに面白いものを見るような表情に変わった。「あら、斉藤さんじゃないですか。今日はどうしましたか?お家にいる大事なお客さんにご飯を作らなくていいんですか?」声をかけてきたのは松田絵美(まつだ えみ)だ。家は建材業で、ずっと渉に取り入りたがっていたけど、私が間を取り持たなかったせいで逆恨みされている。私は平然とした態度でいつもの席に座ると、エステティシャンが出してくれたお茶を受け取り、そっと口をつけた。「ご飯作りなんて、たまにするから愛情表現になるんです。毎日なら、ただの使用人ですよ。私は松田さんとは違いますから。外で女子大生を囲っている旦那さんの気を引くために、わざわざ料理教室に通っているそうじゃありませんか?」絵美の顔色が変わった。「何、何を言ってるんですか!」「松田さんご本人が一番よくご
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第4話
今夜の会は、とある会員制のクラブで開かれた。個室のドアを開けると、タバコとお酒の匂いが鼻をついた。そこにいたのは渉の仕事仲間たち。あとは、彼の悪友が数人混じっている。私が入っていくと、あれほど騒がしかった部屋が、一瞬だけ静まり返った。「おっ、やっと来たね!さあさあ、こっちに座って!」誰かがやけに親切に席を譲ってくれた。でも、その目の奥に私をからかう色が見えた。上座には渉が座っていた。私に気づくと、彼は隣の席を軽く叩き、言った。「玲奈、こっちに座りな」私は言われるがままに、渉の隣に腰を下ろした。「渉、両手に花で楽しんでるって噂だぜ?あの若いモデル、もうお腹もだいぶ大きいんだろ。なのに奥さんはこんなに心が広いんだから、俺たち感心しちゃうよなぁ」声を上げたのは井上社長だった。お酒が回って、口が軽くなっているみたい。渉は笑いながら悪態をつく。「バカ言え、お前は黙って酒でも飲んでろよ」でも、渉はそれを否定しなかった。そして、仲の良い夫婦みたいに、私の肩をぐっと引き寄せた。「玲奈は、そこらの女とは違う。外の女なんて所詮は遊びさ。俺の妻の座は、玲奈だけのものだよ」そう言う彼の目は、まるで恵んでやっている、と言わんばかりだった。私に「妻」という名前だけを残してあげることが、さも大きな恵みだと言いたげな顔。お酒がだいぶ回ってきた頃、誰かが内田家のことを口にした。「渉、そういえば昔、内田家の協力がなければ、お前もこんなに早く斉藤グループを掌握できなかったよなぁ。奥さんの両親が早くに亡くなられたのが惜しいよ。今の成功を見たら、どれだけ喜んだことか」渉の表情が、わずかにこわばった。その目にも一瞬、不自然な光が宿る。あの時、私の両親の交通事故……警察はただの事故として処理したけれど、タイミングがあまりにも良すぎたのだ。ちょうど、渉が兄一家と一番激しく争っていて、運転資金を喉から手が出るほど欲していた時期だ。両親の死後、私は内田家の遺産をすべて相続し、ためらうことなく渉の事業に投じた。それで彼は、完全に形勢を逆転できたのだ。これまで何年も、私は渉のことを一度も疑わなかった。でも、つい最近。両親の遺品を整理していた時に、暗号化されたメールを一つ見つけてしまった。まだ解読できていないけれど、その内容は、ある
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第5話
渉は慌てて立ち上がり、胡桃を横抱きにすると、振り返りもせず部屋を飛び出していった。個室は、しんと静まり返っていた。その場の全員が、私を見ていた。その目には、同情と、あざけるような色が浮かんでいる。本妻が目の前にいるのに、夫は愛人を抱きかかえていなくなってしまったのだ。でも私は、みんなが思うほど落ち込んではいなかった。私はゆっくりと箸を取り、料理を口に運んだ。「みなさん、どうぞ食事を続けて、しらけないでください。だってこれ、斉藤社長がみなさんにご馳走する、最後の豪華な食事になるかもしれませんから」みんなは顔を見合わせ、私の言葉の意味が分からずに戸惑っていた。クラブを出てから、私はまっすぐ家に帰った。使用人の小島幸子(こじま さちこ)はまだ起きていて、私が一人で帰ってきたのを見て、少し驚いた様子だった。「奥様、旦那様は?」「坂本さんと一緒に病院よ」幸子は一瞬きょとんとしたが、すぐに事情を察したようだった。ただ、私を見るその目には、前よりもっと憐れみの色がこもっていた。私は口の端をゆがめ、自分をあざ笑うかのように微笑んだ。周りの人から見れば、私は香市では一人ぼっち。渉の愛情を失ったら、もう何もない存在なのだ。渉の浮気を知ったばかりの頃は、私も本当にそんな可哀想な女だった。ヒステリックに泣き叫んで、彼から贈られたアクセサリーを床に叩きつけたこともある。あの頃は本当にばかだったな。愛が全てだって信じてたから。でも、たくさん失望したおかげで、ようやく目が覚めた。指にはめているダイヤの指輪に触れると、渉本人よりずっと愛おしく思えた。だって、男の心は変わるけど、お金は絶対に私を裏切らないから。私はそのまま階段を上がり、自分の部屋に戻った。金庫を開けて、5年間眠っていた書類のファイルを取り出した。それは、結婚式の1日前にサインしたものだ。あの時、渉は私の父の前にひざまずき、私を一生大切にすると誓った。もしその約束を破ることがあれば、どんな報いも受ける覚悟だ、と。父は誓いの言葉なんて信じなかった。信じたのは、法律だけだった。父は言った。「玲奈、人の心は変わるものだ。お父さんが一生そばにいてやれるわけじゃない。この契約書は、お父さんが君に残してやれる、最後の御守りだ」その頃の私には理解
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第6話
「地下室」という言葉を聞いた瞬間、全身の血が凍りついた。私は閉所恐怖症。渉は、そのことをよく知っているはずなのに。彼は昔、一晩中明かりをつけてそばにいてくれた。「もう二度と、お前を暗くて狭い場所には行かせない」と、そう誓ってくれたのに。「渉、私が閉所恐怖症なのを知ってるでしょ……」私の声は、かすかに震えていた。「自業自得だ!」渉は冷たく私の言葉をさえぎると、そばにいたボディーガードに合図した。「こいつを連れていけ!俺の許可がなければ、誰もそこから出すな!」地下室はひんやりと湿っぽく、光一つなかった。隅でうずくまると、体はガタガタと震え、呼吸がどんどん苦しくなっていった。「助けて……誰か、助けて……」意識がだんだん薄れていく。もうここで死ぬんだと思った、その時だった。耳もとで、誰かが必死に叫ぶ声がした。「玲奈!」次に目を覚ましたとき、私は寝室のベッドに寝かされていた。渉が、疲れた顔でベッドの脇に座っていた。私が目覚めたのを見ると、彼はほっと息をつき、私の頬に触れようと手を伸ばした。私はとっさに顔を背けて、その手を避けた。体はまだ、ぶるぶると震えが止まらない。渉の手は宙で固まり、そして、気まずそうに引っ込められた。「目が覚めてよかった」彼の口調はいつものそっけないものに戻っていた。「調べさせたが、あのスープに問題はなかった。どうやら、胡桃が自分で冷たいものを欲しがって、アイスを食べたのが原因らしい」馬鹿馬鹿しい、としか思えなかった。じゃあ、私が地下室で味わった地獄のような数時間は、一体なんだったというの?「原因がわかったのなら、私に謝るべきじゃない?」私はしゃがれた声で問いかけた。渉は、わずかに眉をひそめた。「玲奈、正しいからといって、いつまでも相手を許さないのは良くない。胡桃は妊娠中で、気持ちが不安定なんだ。お前に少し罰を与えないと、彼女の気がおさまらない。お腹の子にも悪いだろ」私は笑った。涙があふれてきた。「渉、離婚しよう」渉は一瞬固まったが、すぐに馬鹿にしたように笑った。「玲奈、俺なしで、お前がどうやって生きていくんだ?」私は震える体に力を入れて起き上がると、ずっと前に用意していた書類の束を、彼に叩きつけた。渉は不思議そうにそれを拾い上げると、何気な
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第7話
翌日、斉藤グループの役員会議室。渉は意気揚々と社長の席に座っていた。彼は、古くからの役員たちが自分を支持してくれると確信していた。私は弁護士に、社長の解任案を読み上げさせた。渉は椅子にもたれかかって、余裕の表情を浮かべていた。しかし、投票が始まると、彼の顔からだんだんと笑みが消えていった。普段から渉に笑顔で親しく接していた役員たちが、全員、私に票を入れたのだ。全会一致で可決された。会議室はしんと静まりかえり、聞こえるのは渉の荒い息づかいだけだった。「そ……そんな、ありえません!」渉は目を真っ赤にして叫んだ。「お気は確かですか?俺は斉藤家の跡取りですよ!俺を差し置いて、この女を支持するなんて」誰もが押し黙る中、古株の山下康弘(やました やすひろ)が静かに口を開いた。「すみません。君を支持することはできません」康弘はため息をつくと、分厚い報告書の束を取り出し、渉の前に突きだした。「自分で見てください。この1年、君のくだらないゴシップのせいで、斉藤グループの株価がどれだけ下がったかわかりますか?スキャンダルがネットで話題になるたびに、会社の価値は何十億円も吹き飛んでいます。百年続いた斉藤グループの信用も、君のせいで台無しです!」渉は顔を真っ青にして、無理やり言い返した。「それは単なるトラブルです!それに、ちゃんとプロジェクトで取り返しています……」「取り返してる、と言いましたか?」隣にいた陣内仁(じんない じん)が、冷たく笑って彼の言葉をさえぎった。「君の成功したプロジェクトは、全部自分の才能だと思っているんですか?あのプロジェクトだって、裏で奥さんが寝る間も惜しんで企画書を直し、人脈をあたってくれたからでしょう。彼女が取引先に頭を下げなかったら、斉藤グループはとっくに潰れていますよ!私たちは利益しか見ません。斉藤グループを儲けさせ、株価を安定させられる人間、私たちはそんな人について行くだけです」「君には心底がっかりしました。今の君には、斉藤という苗字以外、なんの価値もありません」康弘の言葉は、渉の甘い考えを容赦なく打ち砕いた。「ちがいます……そんなはずは……」渉はよろめきながら後ずさり、顔は血の気を失っていた。私は、そんな彼を見下ろした。「渉、昨日あなたは私に言ったわよね。あなた
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第8話
胡桃の顔から笑みが消えた。「な……なにを言ってるの?そんなはずない!渉さんは?渉さんに電話しなきゃ!」「どうぞ、電話して。ついでに今夜どこに泊まるのかも聞いたら?今のあの人、ホテル代だって怪しいんだから」胡桃は震える手で、渉に電話をかけた。電話の向こうから、渉の荒んで苛立った声が聞こえた。「うるさい!ほっとけ!みんな消えろ!」胡桃は顔面蒼白になった。私は立ち上がり、彼女の目の前まで歩み寄った。「坂本さん、玉の輿の夢が破れた気分はどう?あなたが私を踏み台にしてここに来たように、今度はそのまま這って出ていってもらうわ」胡桃がボディガードに連れて行かれたけど、私の心は少しも晴れなかった。ただ、深い疲れを感じるだけだった。思い出がたくさん詰まったこの家を見渡しても、今はがらんとして空っぽに感じる。ここにはもう、私が未練に思うものはなにもない。私はスマホを取って、登録してある番号に久しぶりに電話をかけた。「もしもし、おじさん。私、玲奈です。江川市に戻ろうと思います。それと……5年前のあの交通事故を起こした運転手を調べてください。その人に会わなきゃいけません」香市を離れる日、空は不思議なくらい晴れ渡っていた。空港で、渉が私を待ち伏せしていた。彼は無精髭だらけで、目の下には黒いクマができていた。シャツはしわくちゃで、かつての自信に満ちた姿はもうどこにもなかった。「玲奈!行かないでくれ!」渉は私のスーツケースを必死に掴んだ。その姿は、地面にひれ伏すように惨めだった。「俺は本当に間違ってた!胡桃は追い出したし、お腹の子も堕ろさせた!俺にはもう何もないんだ、お前しかいない!」私は冷たく彼を見つめ、力ずくでその指を一本ずつ引き剥がした。「渉、みっともない真似はやめて。私たちはもう離婚したんだから」「いやだ!認めない!」渉は目を真っ赤にして叫んだ。「あの離婚協議書は、お前が無理やりサインさせたんだろう!俺はカッとなってただけなんだ!玲奈、俺たちの長年の気持ちを、たった一度の間違いで全部なかったことにするのか?」「一度の間違い?」私は呆れて笑いながら、カバンから写真の束を取り出して彼の顔に叩きつけた。写真がひらひらと床に舞い落ちた。どの写真にも、渉が違う女とホテルやクラブに
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第9話
江川市に戻って、私はまず刑務所へ向かった。5年前の交通事故を起こした運転手は、まじめな態度が認められて、もうすぐ減刑されることになっていた。面会室に入ると、男は私に気づいて視線をそらし、まともに顔を上げようとしなかった。「話すべきことはすべて話ました。あれは本当に事故だったんです。ブレーキが、きかなくて……」「事故?」私は冷たく笑って、解析途中のハードディスクをテーブルに置いた。「この中のメールによると、事故の1週間前、あなたの口座に2000万円が振り込まれているわ。振り込んだのは海外の口座だけど、IPアドレスは香市だった」男の顔色が一瞬で変わった。「それに、息子さんのことも調べさせてもらったわ。白血病だったのに、5年前に突然まとまった資金が入って、骨髄移植を受けたそうね。おかげで今は海外でいい暮らしをしてるみたい」私は彼の目をまっすぐ見つめ、言葉を区切るように言った。「ねぇ、この証拠を警察に渡したら……息子さんは、今までみたいにのんびり暮らしていけると思う?」男の心は、完全に折れた。彼は頭を抱えて、苦しそうにうめき声をあげた。「話します!全部話します!指示したのは斉藤社長です!彼に頼まれたんです!」予想はしてたけど、実際にその名前を聞くと、心臓が張り裂けそうだった。「あの頃、斉藤社長は事業資金に困っていました。でも、あなたのお父さんは彼の野心を見抜いて、出資を断ったんです。それで斉藤社長は……俺に事故を偽装するようにと……ご両親がいなくなればあなたが遺産を相続するから、そうすればきっと、彼を助けるためになんでもするはずです……」指の爪が手のひらに食い込んで血がにじんだけど、痛みはまったく感じなかった。内田家のお金と自分の野望のために、渉は恩のある私の両親を殺した。それだけじゃない。私の愛情を利用して、両親を殺した犯人に私自身の手でお金を渡させたんだ。刑務所から出ると、外はどしゃ降りの雨だった。私は雨の中に立ちつくして、とうとう声をあげて泣きじゃくった。その頃、香市での渉の生活は、さんざんなものだった。斉藤グループでの実権を失い、私に財産の半分を奪われた彼は、天国から地獄へ突き落とされた。あれだけ渉のご機嫌をとっていた人たちも、今ではクモの子を散らすように姿を消した。渉の兄一
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第10話
渉が江川市に預けられたばかりの頃、内田家はまだ小さくて、ごく普通の家庭だった。初めて会った渉は、人形みたいに肌が白くて。あの目にはまだ、怯えと警戒心しかなかった。なんだか可哀想になって、私は渉の頭をそっと撫でた。「怖がらなくていいよ。今日からここが、あなたの家だからね」渉の体がびくって震えた。でも、避けようとはしなかった。しばらくして、彼はポケットから見たこともないチョコを一つ取り出して、私の手のひらに乗せてくれた。それから、渉は香市と江川市を行き来するようになった。江川市に戻ってくるたびに、いつもあのチョコをお土産にくれたんだ。その頃にはうちの会社も大きくなって、あのチョコが有名なものだって知った。もっと美味しいチョコも、たくさん食べたことがあった。でも、私にとって特別だったのは、渉がくれるチョコだけだった。もらったチョコの箱が空になる頃、渉の母親が亡くなったという知らせが届いた。渉は急いで香市に帰って、それから数ヶ月も連絡がなかった。やっと戻ってきた彼の目から、昔のおどおどした様子は消えていた。代わりに、暗い影と野心が宿っていた。でも、渉がポケットから取り出したのは、いつもの金色の包みのチョコだった。その瞬間、渉は何も変わってないんだって、そう思った。そして、ちょうどその日。彼は片膝をついて、私にプロポーズしてくれた。「玲奈、一緒に香市へ行こう。必ずお前を幸せにするから」「玲奈?」渉の声で、はっと我に返った。私がチョコをぼーっと見ていたから、許してくれたとでも思ったんだろう。彼は慌てて包み紙をむくと、期待に満ちた目でチョコを私の口元に差し出した。「これ、何軒もお店を探し回って、やっと見つけたんだよ」私はそのチョコと、目の前で必死に機嫌を取ろうとしている男の顔を、交互に見つめた。かつての人形のように純粋だった少年。そして、利益のためなら何でもする今の男。二人の姿が、頭の中でぷつりと切り離された。私は、渉の手を強く振り払った。チョコは床に転がり、ほこりにまみれた。渉の手が、行き場をなくして宙で止まる。その瞳から、光がすうっと消えていく。「お前が、一番好きだったやつだろ……」彼の顔を見ていると、目の奥が熱くなる。でも、声は氷のように冷たかった。「昔は、このチョコが宝物み
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