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連れていかれる渉の目は、うつろで絶望しきっていた。「玲奈、もしあの時、俺が香市に戻らずに江川市で普通に暮らしていたら、結末は違っていたかな?」私は彼を見つめて、冷たく言った。「『もしも』なんて、ないのよ」渉は力なく笑うと、警察にパトカーへ押し込まれていった。裁判は、あっという間に終わった。証拠は十分で、渉に無期懲役が言い渡された。香市での用事をすべて片付けた後、私は江川市の実家に戻った。そこは、両親が残してくれた、たったひとつの思い出の場所だったから。庭のカイドウの木は、すっかり枯れていた。渉と私の恋、そのものだった。私は人を呼んで枯れ木を掘り起こしてもらい、代わりに新しい苗木を植えた。今回はカイドウじゃない。楠にした。大きな楠には神が宿ると信じられているから。私も、新しい人生を始めようと思った。真夜中にふと、今でも夢を見る。雪の中を走っていた、あの少年の夢を。夢の中の彼は私に笑いかけ、あつあつの栗が入った袋を手渡してくれる。「玲奈、熱いうちに食べな」目が覚めると、いつも枕が濡れている。でも、それがただの夢だってことは、わかっている。現実の渉は、鉄格子の中で、長くて苦しい余生を送っている。刑務所での彼の暮らしは、かなり悲惨なものらしい。足が不自由だから、いつも他の囚人にいじめられているそうだ。それに、渉は多くの人を敵に回しすぎた。渉の兄一家は、わざわざ人を使って彼を「お世話」しているらしい。面会の日が来ても、誰も渉に会いに来ないそうだ。彼はいつもたった一人で、窓から見える四角い空をぼんやりと眺めているという。看守の話では、渉はもうおかしくなってしまったそうだ。一日中、誰もいない空間に向かって、あるときは「玲奈」、またあるときは「母さん」と、叫んでいるらしい。時には、彼が床に額を押しつけたまま動かずにいるそうだ。渉が心の底から後悔していることは、わかっている。でも、それが何になるっていうの?一度与えられた傷は、永遠に癒えることはないのだから。私は、絶対に許さない。
渉が江川市に預けられたばかりの頃、内田家はまだ小さくて、ごく普通の家庭だった。初めて会った渉は、人形みたいに肌が白くて。あの目にはまだ、怯えと警戒心しかなかった。なんだか可哀想になって、私は渉の頭をそっと撫でた。「怖がらなくていいよ。今日からここが、あなたの家だからね」渉の体がびくって震えた。でも、避けようとはしなかった。しばらくして、彼はポケットから見たこともないチョコを一つ取り出して、私の手のひらに乗せてくれた。それから、渉は香市と江川市を行き来するようになった。江川市に戻ってくるたびに、いつもあのチョコをお土産にくれたんだ。その頃にはうちの会社も大きくなって、あのチョコが有名なものだって知った。もっと美味しいチョコも、たくさん食べたことがあった。でも、私にとって特別だったのは、渉がくれるチョコだけだった。もらったチョコの箱が空になる頃、渉の母親が亡くなったという知らせが届いた。渉は急いで香市に帰って、それから数ヶ月も連絡がなかった。やっと戻ってきた彼の目から、昔のおどおどした様子は消えていた。代わりに、暗い影と野心が宿っていた。でも、渉がポケットから取り出したのは、いつもの金色の包みのチョコだった。その瞬間、渉は何も変わってないんだって、そう思った。そして、ちょうどその日。彼は片膝をついて、私にプロポーズしてくれた。「玲奈、一緒に香市へ行こう。必ずお前を幸せにするから」「玲奈?」渉の声で、はっと我に返った。私がチョコをぼーっと見ていたから、許してくれたとでも思ったんだろう。彼は慌てて包み紙をむくと、期待に満ちた目でチョコを私の口元に差し出した。「これ、何軒もお店を探し回って、やっと見つけたんだよ」私はそのチョコと、目の前で必死に機嫌を取ろうとしている男の顔を、交互に見つめた。かつての人形のように純粋だった少年。そして、利益のためなら何でもする今の男。二人の姿が、頭の中でぷつりと切り離された。私は、渉の手を強く振り払った。チョコは床に転がり、ほこりにまみれた。渉の手が、行き場をなくして宙で止まる。その瞳から、光がすうっと消えていく。「お前が、一番好きだったやつだろ……」彼の顔を見ていると、目の奥が熱くなる。でも、声は氷のように冷たかった。「昔は、このチョコが宝物み
江川市に戻って、私はまず刑務所へ向かった。5年前の交通事故を起こした運転手は、まじめな態度が認められて、もうすぐ減刑されることになっていた。面会室に入ると、男は私に気づいて視線をそらし、まともに顔を上げようとしなかった。「話すべきことはすべて話ました。あれは本当に事故だったんです。ブレーキが、きかなくて……」「事故?」私は冷たく笑って、解析途中のハードディスクをテーブルに置いた。「この中のメールによると、事故の1週間前、あなたの口座に2000万円が振り込まれているわ。振り込んだのは海外の口座だけど、IPアドレスは香市だった」男の顔色が一瞬で変わった。「それに、息子さんのことも調べさせてもらったわ。白血病だったのに、5年前に突然まとまった資金が入って、骨髄移植を受けたそうね。おかげで今は海外でいい暮らしをしてるみたい」私は彼の目をまっすぐ見つめ、言葉を区切るように言った。「ねぇ、この証拠を警察に渡したら……息子さんは、今までみたいにのんびり暮らしていけると思う?」男の心は、完全に折れた。彼は頭を抱えて、苦しそうにうめき声をあげた。「話します!全部話します!指示したのは斉藤社長です!彼に頼まれたんです!」予想はしてたけど、実際にその名前を聞くと、心臓が張り裂けそうだった。「あの頃、斉藤社長は事業資金に困っていました。でも、あなたのお父さんは彼の野心を見抜いて、出資を断ったんです。それで斉藤社長は……俺に事故を偽装するようにと……ご両親がいなくなればあなたが遺産を相続するから、そうすればきっと、彼を助けるためになんでもするはずです……」指の爪が手のひらに食い込んで血がにじんだけど、痛みはまったく感じなかった。内田家のお金と自分の野望のために、渉は恩のある私の両親を殺した。それだけじゃない。私の愛情を利用して、両親を殺した犯人に私自身の手でお金を渡させたんだ。刑務所から出ると、外はどしゃ降りの雨だった。私は雨の中に立ちつくして、とうとう声をあげて泣きじゃくった。その頃、香市での渉の生活は、さんざんなものだった。斉藤グループでの実権を失い、私に財産の半分を奪われた彼は、天国から地獄へ突き落とされた。あれだけ渉のご機嫌をとっていた人たちも、今ではクモの子を散らすように姿を消した。渉の兄一
胡桃の顔から笑みが消えた。「な……なにを言ってるの?そんなはずない!渉さんは?渉さんに電話しなきゃ!」「どうぞ、電話して。ついでに今夜どこに泊まるのかも聞いたら?今のあの人、ホテル代だって怪しいんだから」胡桃は震える手で、渉に電話をかけた。電話の向こうから、渉の荒んで苛立った声が聞こえた。「うるさい!ほっとけ!みんな消えろ!」胡桃は顔面蒼白になった。私は立ち上がり、彼女の目の前まで歩み寄った。「坂本さん、玉の輿の夢が破れた気分はどう?あなたが私を踏み台にしてここに来たように、今度はそのまま這って出ていってもらうわ」胡桃がボディガードに連れて行かれたけど、私の心は少しも晴れなかった。ただ、深い疲れを感じるだけだった。思い出がたくさん詰まったこの家を見渡しても、今はがらんとして空っぽに感じる。ここにはもう、私が未練に思うものはなにもない。私はスマホを取って、登録してある番号に久しぶりに電話をかけた。「もしもし、おじさん。私、玲奈です。江川市に戻ろうと思います。それと……5年前のあの交通事故を起こした運転手を調べてください。その人に会わなきゃいけません」香市を離れる日、空は不思議なくらい晴れ渡っていた。空港で、渉が私を待ち伏せしていた。彼は無精髭だらけで、目の下には黒いクマができていた。シャツはしわくちゃで、かつての自信に満ちた姿はもうどこにもなかった。「玲奈!行かないでくれ!」渉は私のスーツケースを必死に掴んだ。その姿は、地面にひれ伏すように惨めだった。「俺は本当に間違ってた!胡桃は追い出したし、お腹の子も堕ろさせた!俺にはもう何もないんだ、お前しかいない!」私は冷たく彼を見つめ、力ずくでその指を一本ずつ引き剥がした。「渉、みっともない真似はやめて。私たちはもう離婚したんだから」「いやだ!認めない!」渉は目を真っ赤にして叫んだ。「あの離婚協議書は、お前が無理やりサインさせたんだろう!俺はカッとなってただけなんだ!玲奈、俺たちの長年の気持ちを、たった一度の間違いで全部なかったことにするのか?」「一度の間違い?」私は呆れて笑いながら、カバンから写真の束を取り出して彼の顔に叩きつけた。写真がひらひらと床に舞い落ちた。どの写真にも、渉が違う女とホテルやクラブに
翌日、斉藤グループの役員会議室。渉は意気揚々と社長の席に座っていた。彼は、古くからの役員たちが自分を支持してくれると確信していた。私は弁護士に、社長の解任案を読み上げさせた。渉は椅子にもたれかかって、余裕の表情を浮かべていた。しかし、投票が始まると、彼の顔からだんだんと笑みが消えていった。普段から渉に笑顔で親しく接していた役員たちが、全員、私に票を入れたのだ。全会一致で可決された。会議室はしんと静まりかえり、聞こえるのは渉の荒い息づかいだけだった。「そ……そんな、ありえません!」渉は目を真っ赤にして叫んだ。「お気は確かですか?俺は斉藤家の跡取りですよ!俺を差し置いて、この女を支持するなんて」誰もが押し黙る中、古株の山下康弘(やました やすひろ)が静かに口を開いた。「すみません。君を支持することはできません」康弘はため息をつくと、分厚い報告書の束を取り出し、渉の前に突きだした。「自分で見てください。この1年、君のくだらないゴシップのせいで、斉藤グループの株価がどれだけ下がったかわかりますか?スキャンダルがネットで話題になるたびに、会社の価値は何十億円も吹き飛んでいます。百年続いた斉藤グループの信用も、君のせいで台無しです!」渉は顔を真っ青にして、無理やり言い返した。「それは単なるトラブルです!それに、ちゃんとプロジェクトで取り返しています……」「取り返してる、と言いましたか?」隣にいた陣内仁(じんない じん)が、冷たく笑って彼の言葉をさえぎった。「君の成功したプロジェクトは、全部自分の才能だと思っているんですか?あのプロジェクトだって、裏で奥さんが寝る間も惜しんで企画書を直し、人脈をあたってくれたからでしょう。彼女が取引先に頭を下げなかったら、斉藤グループはとっくに潰れていますよ!私たちは利益しか見ません。斉藤グループを儲けさせ、株価を安定させられる人間、私たちはそんな人について行くだけです」「君には心底がっかりしました。今の君には、斉藤という苗字以外、なんの価値もありません」康弘の言葉は、渉の甘い考えを容赦なく打ち砕いた。「ちがいます……そんなはずは……」渉はよろめきながら後ずさり、顔は血の気を失っていた。私は、そんな彼を見下ろした。「渉、昨日あなたは私に言ったわよね。あなた
「地下室」という言葉を聞いた瞬間、全身の血が凍りついた。私は閉所恐怖症。渉は、そのことをよく知っているはずなのに。彼は昔、一晩中明かりをつけてそばにいてくれた。「もう二度と、お前を暗くて狭い場所には行かせない」と、そう誓ってくれたのに。「渉、私が閉所恐怖症なのを知ってるでしょ……」私の声は、かすかに震えていた。「自業自得だ!」渉は冷たく私の言葉をさえぎると、そばにいたボディーガードに合図した。「こいつを連れていけ!俺の許可がなければ、誰もそこから出すな!」地下室はひんやりと湿っぽく、光一つなかった。隅でうずくまると、体はガタガタと震え、呼吸がどんどん苦しくなっていった。「助けて……誰か、助けて……」意識がだんだん薄れていく。もうここで死ぬんだと思った、その時だった。耳もとで、誰かが必死に叫ぶ声がした。「玲奈!」次に目を覚ましたとき、私は寝室のベッドに寝かされていた。渉が、疲れた顔でベッドの脇に座っていた。私が目覚めたのを見ると、彼はほっと息をつき、私の頬に触れようと手を伸ばした。私はとっさに顔を背けて、その手を避けた。体はまだ、ぶるぶると震えが止まらない。渉の手は宙で固まり、そして、気まずそうに引っ込められた。「目が覚めてよかった」彼の口調はいつものそっけないものに戻っていた。「調べさせたが、あのスープに問題はなかった。どうやら、胡桃が自分で冷たいものを欲しがって、アイスを食べたのが原因らしい」馬鹿馬鹿しい、としか思えなかった。じゃあ、私が地下室で味わった地獄のような数時間は、一体なんだったというの?「原因がわかったのなら、私に謝るべきじゃない?」私はしゃがれた声で問いかけた。渉は、わずかに眉をひそめた。「玲奈、正しいからといって、いつまでも相手を許さないのは良くない。胡桃は妊娠中で、気持ちが不安定なんだ。お前に少し罰を与えないと、彼女の気がおさまらない。お腹の子にも悪いだろ」私は笑った。涙があふれてきた。「渉、離婚しよう」渉は一瞬固まったが、すぐに馬鹿にしたように笑った。「玲奈、俺なしで、お前がどうやって生きていくんだ?」私は震える体に力を入れて起き上がると、ずっと前に用意していた書類の束を、彼に叩きつけた。渉は不思議そうにそれを拾い上げると、何気な