不仲と噂された財閥夫婦ですが、今夜も愛されています のすべてのチャプター: チャプター 21 - チャプター 30

114 チャプター

第22話 最初に口を開くのは誰か

夜が明けても、九条邸は異様なほど静かだった。綾乃は、ベッドの上で目を覚ましたまま、しばらく動けずにいた。カーテンの隙間から差し込む光が、やけに現実味を帯びている。――あの写真。昨夜、秘書経由で送られてきた一枚の画像が、頭から離れなかった。神崎和真と並ぶ、自分の姿。一瞬を切り取られただけのはずなのに、“言い逃れできない距離”に見える構図。(……見たのよね。あの人も)玲司が同じ写真を見ていることだけは、確信していた。それでも、連絡はない。責める言葉も、確認の一言もない。それが、何より怖かった。朝食の時間になっても、ダイニングに玲司の姿はなかった。使用人は、何事もなかったように食事を並べる。「社長は、もう出られたの?」綾乃の問いに、使用人は一瞬だけ間を置いた。「……いいえ。本日は、まだお屋敷に」その答えに、心臓が強く脈打つ。(同じ家に、いるのに)避けているのか。考えているのか。それとも――すでに、結論を出しているのか。耐えきれず、綾乃は立ち上がった。向かったのは、書斎だった。扉の前で、一度だけ深く息を吸う。ノックをしようとして、手が止まる。(……私から?)先に口を開けば、言い訳をしているように聞こえるかもしれない。でも、黙っていれば、“認めた”ことになるかもしれない。逡巡の末、綾乃は扉をノックした。「……入れ」低い声が返ってくる。書斎に入ると、玲司はデスクに向かったまま、こちらを見なかった。机の上には、あの写真が裏返しに置かれている。それだけで、胸が締めつけられた。「……おはよう」綾乃がそう言うと、玲司は、ほんの一瞬だけ顔を上げた。「起きていたのか」それだけだった。重い沈黙が落ちる。先に口を開いたのは――綾乃だった。「……あの写真」その瞬間、玲司の指が止まる。「誤解よ」声が、わずかに震えた。「和真とは、何もない。あれは――」「どこまでだ」玲司の声は、感情を削ぎ落としたように平坦だった。「どこまで、何もない?」綾乃は、言葉を失う。疑われている、というより、事実を確認されているだけ。それが、余計に苦しかった。「……信じてないの?」その問いに、玲司は即答しなかった。数秒後、静かに言う。「信じるかどうかは、証拠の話じゃない」「じゃあ、何なの?」「――覚悟
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第23話 水面下で、牙を研ぐ

九条ホールディングス本社ビル最上階。深夜零時を回っても、玲司の執務室には灯りが残っていた。ネクタイは外され、シャツの袖は肘まで捲られている。デスクの上に広げられているのは、東亜リンクス商事の内部資料――正規ルートでは決して手に入らないはずのものだった。「……やはり、ここか」低く呟き、玲司は一枚の送金記録に視線を落とす。海外エネルギー開発プロジェクト。表向きは共同出資、共同リスク。だが、資金の流れは不自然なほど歪んでいた。(東亜リンクス単独では、できない)そして――九条ホールディングスの名義が、“噛まされている”。それも、極めて巧妙な形で。「社長」背後から声がした。玲司が信頼を置く、数少ない側近の一人だ。「……あの件、裏取りが進みました」「話せ」側近は、声を落とす。「東亜リンクスの問題案件、表で動いているのは数名ですが…… その上に、“別の意志”が見えます」玲司は、ゆっくりと椅子に深く腰掛けた。「誰だ」「まだ、断定はできません。ですが――」側近は一拍置いて続けた。「九条ホールディングスが“主導”したように見える構図を、 意図的に作っている人物がいる」玲司の口元が、わずかに歪む。(やはり、罠だ)偶然ではない。不正が“発覚するタイミング”。綾乃に疑惑が向く流れ。そして、自分たち夫婦の不仲が、都合よく広まっていること。すべてが、一つの線でつながり始めていた。「……黒幕は、九条を引きずり下ろすつもりだ」玲司は静かに言った。「そのために、東亜リンクスを“燃料”にしている」「では、奥様は……」側近が言いかけて、言葉を止める。「駒だ」玲司は即答した。「だが――切り捨てる前提の駒じゃない」それが、彼の怒りを何倍にもしていた。「この件、奥様には?」「言わない」即断だった。「今、彼女に伝えれば、迷いが生じる」側近は、意外そうに目を見張る。「信頼していないのですか?」玲司は、しばらく沈黙したあと、低く答えた。「……信頼しているからだ」彼女は、正面から戦う人間だ。正義を選ぶ。それが、今は――危険すぎる。「俺がやる」玲司は立ち上がり、窓際に向かった。眼下には、眠らない東京の灯り。「黒幕が望んでいるのは、夫婦が疑い合い、足並みを崩すことだ」「なら――」「乗ってやる」
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第24話 差し出された逃げ道

その連絡は、仕事用ではない端末に届いた。《少し話せないか》短い文面。差出人は――神崎和真。綾乃は、しばらく画面を見つめたまま動けなかった。(……今じゃなくても)そう思いながら、拒む理由をうまく作れない自分がいた。指定されたのは、都心から少し離れた会員制のラウンジ。静かで、人目につかない場所。「来てくれて、ありがとう」和真は先に来ていて、立ち上がって、自然に微笑んだ。その態度が、今の綾乃には、やけに“安全”に見えた。「……話って?」席に着くと、和真はすぐに本題に入った。「正直に言うよ。今の状況、君はかなり危険だ」「わかってる」「いいや。君が思っている以上に、だ」和真は声を落とす。「東亜リンクスの不正は、もう“内部処理”で済む段階じゃない」「……」「いずれ、誰かが責任を取らされる。その時、一番“使いやすい”のは誰だと思う?」綾乃は答えなかった。答えなくても、わかっている。「鷹宮の娘で、九条の妻で、現場にいた人間」和真は、ゆっくりと言葉を重ねた。「君だよ、綾乃」胸が、ひやりと冷える。「……だから?」「だから、“逃げ道”を用意した」和真は、テーブルの上に一枚の書類を置いた。それは――海外拠点への異動案。形式上は、キャリアアップ。実質は、責任の中心から外れる配置。「神崎グループの関連会社だ。君の立場も、名誉も、守れる」「……それって」「九条から、距離を置くということだ」綾乃の指が、わずかに震えた。「別れろとは言わない。でも、今は――」和真は、まっすぐに綾乃を見る。「君だけが、矢面に立つ必要はない」優しい声だった。責めるでも、煽るでもない。「君は、十分戦った」その一言が、今の綾乃には、致命的だった。(……戦った?)誰にも、そう言われたことはなかった。「九条さんは、強い。でも、彼の戦い方は冷酷だ」和真は続ける。「君まで、あの世界に引きずり込まれる必要はない」頭の中に、玲司の背中が浮かぶ。あの静かな視線。何も言わず、一人で背負おうとする姿。「……私が、逃げたら」綾乃は、ぽつりと呟いた。「彼は、どうなるの?」和真は、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。「……彼なら、大丈夫だ」その答えに、綾乃は、かすかな違和感を覚えた。(本当に?)和真は、“九条玲司”を信じているのではな
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第25話 沈黙の裏側で

深夜一時を回っていた。 九条ホールディングス本社、最上階の執務室はすでに消灯されている。 だが、隣接する小さな会議室だけは、間接照明が落とされ、机の上のタブレットだけが淡く光っていた。 九条玲司は、ネクタイを外したまま椅子に深く腰掛け、画面を見つめていた。 東亜リンクス商事――表に出ている不正は、あくまで“枝葉”だ。(動き方が不自然すぎる) 東亜リンクスの重役辞任、監査の矛先が鈍ったタイミング、綾乃への追及が唐突に弱まった流れ。 どれもが「偶然」にしては出来すぎている。 玲司は、誰にも言っていない。 綾乃にも、役員会にも。 自分が“別ルート”で調査を進めていることを。 タブレットに映るのは、海外子会社を経由した資金の流れだった。 複数のダミー会社、短期間での株式移動、表向きは合法だが―― 最終的に向かう先だけが、意図的に隠されている。「……九条を、狙っているな」 低く呟いた声は、誰にも届かない。 もし、ここで下手に動けばどうなる。 東亜リンクスの不正は、“九条ホールディングスが関与していた”という形にすり替えられる。 そうなれば、綾乃は“共犯”として世間に晒される。(あいつは、何も知らない) 玲司は、ふと視線を落とした。 先日、少しだけ見せた綾乃の安堵の表情が、頭をよぎる。 ――疑いが和らいだことに、ほっとしていた。 そして、ほんの一瞬だけ、弱さを見せた。(だからこそ、言えない) この調査の存在を知れば、綾乃は止めようとするだろう。 あるいは、自分を責める。 それだけは、させたくなかった。 玲司は、古い端末を取り出す。 この番号を知っているのは、三人だけだ。「……俺だ」 短い通話。 相手は名乗らない。「東亜リンクスの“外”を洗え。国内じゃない。南條家の動きと、重なるはずだ」 数秒の沈黙のあと、低い返答が返ってくる。「――分かりました。ですが九条さん、これは相当、深いところまで行きますよ」「構わない」 即答だった。 切断された画面に、再び静寂が戻る。 玲司は立ち上がり、窓際に歩み寄った。 眼下に広がる夜景は、美しいほど無関心だ。 誰が傷つこうと、どんな罠が張られていようと、街は何事もない顔で光っている。「……来るなら来い」 黒幕は、まだ名を持たない。 だが確実に、“九条家と綾乃
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第26話 視線の先にいた人

南條沙耶は、静かな違和感を覚えていた。 九条ホールディングスが、表立って動いていない。 だが――“何もしていない”わけではない。(玲司は、必ず裏で動く) それを、沙耶は誰よりも知っていた。 十代の頃から、彼はそういう男だった。 多くを語らず、感情を表に出さず、だが決断だけは揺るがない。 沙耶が初めて九条玲司を見たのは、高校生の頃だ。 財界の子息たちが集まる、堅苦しい夜のパーティー。 長身で、無駄のない立ち姿。 黒いスーツに身を包み、背筋を伸ばして立つ姿は、同年代の少年たちとは明らかに違っていた。(……綺麗な人) それが、最初の印象だった。 玲司は、目立とうとはしなかった。 だが、不思議と視線を奪われる。 歩くときの足運び、グラスを持つ指、誰かに話しかけられたときの、わずかな会釈。 男らしく、静かで、近寄りがたい。 沙耶は、すぐにその気になった。 周囲が「南條と九条の縁談」を囁き始めたのも、自然な流れだった。 無口な彼を、沙耶はよく追いかけた。 話しかけても、返ってくるのは必要最低限の言葉だけ。「玲司様って、本当に何を考えているのか分からない」 そう言って笑いながら、 それでも、彼の隣に立つ未来を疑わなかった。 ――だが。 沙耶は、何度も見ていたのだ。 彼の視線が、 自分ではない“誰か”を追っている瞬間を。 それは、同じ会場に現れる、一人の少女だった。 鷹宮綾乃。 名家の娘でありながら、過剰に飾らず、 場の空気に溶け込みながらも、不思議と目を引く存在。 玲司は、決して声を掛けない。 近づくこともない。 ただ、遠くから、静かに見ている。(……どうして) 沙耶は、何度もその光景を見た。 パーティーでも、晩餐会でも、式典でも。 綾乃が移動すれば、玲司の視線も、ほんのわずかに動く。 無意識のようでいて、確信めいた執着。 それでも、彼は何もしなかった。 声を掛けることも、挨拶を交わすことも、一度もない。 ――なのに。(この人は、もう決めている) 沙耶は、薄々感じていた。 結婚するなら、 玲司が選ぶのは“自分ではない”ということを。 そして、今。 綾乃への追及が、唐突に弱まった。 監査の流れが変わり、責任の矛先が逸れている。 誰が動いたのか、名は出ていない。 だが、沙耶には分か
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第27話 名前のない盾

朝の光が、カーテンの隙間から静かに差し込んでいた。 綾乃はベッドの上で、スマートフォンを手にしたまま、しばらく動けずにいた。 ――消えている。 昨夜まで確かに存在していたはずの記事が、跡形もなく消失していた。 東亜リンクス商事の不正疑惑。 そこに、半ば強引に結びつけられていた「九条ホールディングス」の名前。 何度も更新し、URLを打ち直しても、表示されるのは削除通知だけ。(……どうして) 否定声明を出したわけでもない。 法務から、何か動いたという連絡も来ていない。 それなのに、まるで最初から存在しなかったかのように消えている。 胸の奥に、かすかな違和感が残った。 リビングに行くと、玲司の姿はすでになかった。 整えられた朝食と、テーブルの上の短いメモ。『先に出る。夜は遅くなる』 理由も、感情も、説明もない。(……いつも通りね) だが、今日はその「いつも」が、妙に引っかかった。 出社すると、空気は明らかに変わっていた。 昨日まで張り詰めていた経理部の緊張が、嘘のように緩んでいる。「九条さん、例の件ですが……」 担当者が、少し言いにくそうに口を開いた。「本部から、これ以上深入りしないように、と」「……誰の判断ですか?」「それが……“上”から、としか」 その言葉が、重く胸に落ちる。 昼休み、窓際で一人、コーヒーを口にしながら考える。 偶然では説明がつかない。 誰かが、意図的に線を引いた動き。(……私の知らないところで) その瞬間、脳裏に浮かんだのは、九条玲司の横顔だった。 感情を表に出さない人。 必要以上を語らない人。 問い詰めても、「必要なことはした」としか言わない人。 でも―― 何もしない人ではない。 胸の奥が、じわりと熱を帯びる。 夜。 帰宅しても、玲司はまだ戻っていなかった。 ソファに腰を下ろし、部屋の静けさに身を委ねた、その時。 スマートフォンが、短く震えた。 見知らぬ番号。『動きが変わりましたね。あなたは、守られています』 差出人の名前は、どこにもない。 綾乃は、息を止めた。(……やっぱり) 確信には至らない。 証拠も、名前も、何一つない。 それでも。 ――誰かが、盾になっている。 その感覚だけが、はっきりと残った。 玄関のドアが開く音。 玲司が帰ってきたの
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第28話 甘い罠の設計図

同じ頃。 南條沙耶は、苛立ちを隠そうともせず、グラスを強く握っていた。 透明なグラスの中で、琥珀色の液体がわずかに揺れる。 それは、彼女の感情そのものだった。「……潰せなかった」 低く吐き捨てるような声。 その言葉には、怒りよりも先に、悔しさが滲んでいた。 向かいに座る神崎和真が、口角をわずかに歪める。「九条は、やっぱり表に出てこないな」 冷静な分析を装った声。 だが、和真の胸の奥にも、思い通りにならなかった現実への苛立ちが渦巻いていた。 二人が仕掛けたはずの波紋は、思ったほど広がらなかった。 九条ホールディングスも、東亜リンクス商事も、致命傷には至っていない。 ――だが。 沙耶の脳裏に、ひとりの女の顔が浮かぶ。 鷹宮綾乃。「無傷で済んだのは……あの女だけよ」 吐き捨てるように言いながら、沙耶の指先が、無意識にグラスを撫でた。 沙耶にとって、玲司は“いつか手に入るはずの男”だった。 無口で、感情を表に出さず、誰にも心を許さない―― だからこそ、自分だけが理解者になれると、信じて疑わなかった。 なのに。 彼が選んだのは、自分ではない。 あの、静かで、品のある女。「九条じゃない。東亜でもない。次は、あの女自身を落とす」 その声は、冷たく、そしてどこか幼かった。 和真は、ゆっくりと頷く。「彼女が落ちれば、俺が助ける」 それは、最初から決められていた役割だった。 和真にとって、綾乃は“守りたい存在”などではない。 欲しいのだ。 奪ってでも、自分の隣に置きたい。 昔から、和真は綾乃が欲しかった、だが、振り向かない。手に入らないものほど、価値がある。 九条玲司の妻―― その肩書きがある限り、彼女は特別だった。 綾乃が社会的に孤立し、追い詰められた瞬間。 その時、手を差し伸べる“理解者”として現れる。 彼女が縋る先が、自分であるように。 一方で。「九条玲司には、“私を選ばせる”」 沙耶の声は、甘く、冷たい。「妻を切るか、会社を守るか。その間で、私は……玲司を落とす」 玲司が疲れ、追い詰められ、誰にも弱さを見せられなくなった時。 その隙間に、そっと入り込む。 それは、愛情ではない。 執着だった。 子どものように身勝手で、 けれど財界を動かしてしまえるほどの力を持つ計画。 数日後。 
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第29話 切るように見せる一手

 ――切る。 そう見える形でなければ、意味がない。 九条玲司は、九条ホールディングス本社最上階の執務室で、一人、書類に目を落としていた。 夜の帳が下り、窓の向こうには東京の灯りが静かに瞬いている。だが、その景色を楽しむ余裕はなかった。 綾乃に関わる件から、意図的に一歩引く。 東亜リンクス商事に関する会議には出ない。 庇わない。 擁護もしない。 どれもが、玲司にとっては不自然な選択だった。 本来なら、彼は真逆の立場を取る人間だ。守るべきものがあるなら、前に出る。批判も矢面も、すべて自分が引き受ける。 ――だが、今回は違う。 周囲には、こう映るだろう。 九条玲司は、妻を切ったと。 社内外の人間は、ささやくはずだ。 結局、九条は九条だ、と。 会社を守るためなら、妻でさえ切る男だ、と。 だが、それでいい。 玲司は、書類から視線を外し、背もたれに深く身を預けた。 指先で、無意識にペンを転がす。 今回の「東亜リンクス商事の不正に関わった」という疑惑が、なぜ綾乃に向けられたのか。 その理由が、ようやく輪郭を帯び始めていた。 思い出すのは、先日のパーティーだ。 綾乃と二人で出席した、あの夜。 ――沙耶。 脳裏に浮かんだ名前に、玲司はわずかに眉を寄せる。 「あれはやり過ぎだ、沙耶………」 思わず、誰もいない執務室で低く呟いていた。 あの日のことを、玲司ははっきりと覚えている。 会場の熱気に疲れ、テラスで一息ついていた時だった。 人の視線から逃れるように外へ出て、煙草に火をつける。夜風が、ほてった頭をわずかに冷ましてくれた。 その時だった。 「玲司」 背後から、聞き慣れた声がした。 振り返ると、南條沙耶が立っていた。 会ったのは、ちょうど一年ぶりだった。 玲司には、この一年、沙耶が何をしていたのか、興味はなかった。 彼女がどんな噂を纏い、どんな場所で笑っていたのか――知る必要がなかった。 それでも、最低限の礼儀として、玲司は言った。 「お前も来ていたのか」 それだけだった。 次の瞬間だった。 沙耶が、ためらいもなく距離を詰め、不意に抱きついてきたのは。 以前から、沙耶の露骨な好意には気づいていた。 『九条と南條の婚姻』という噂も、何度も耳にしている。 だが、それはあくまで周囲が勝手に描いた筋書
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第30話 勝ったつもりの女

南條沙耶は、久しぶりに、心からの笑みを浮かべていた。「……やっと、動いたわね」 グラスの中で、琥珀色の液体がゆっくり揺れる。 九条玲司が、綾乃から距離を取った―― その情報は、沙耶にとって疑いようのない“勝利の証”だった。 庇わない。 擁護しない。 会議にも顔を出さない。 それらはすべて、彼が綾乃を切った証拠。 そう、沙耶には見えた。(やっと、私の方を見始めたのね) 胸の奥に、甘い確信が広がる。 長い間、待ち続けた瞬間だった。 沙耶は、昔からそうだった。 無口で、感情を表に出さない玲司を、追いかけてきた。 何を考えているのかわからないからこそ、知りたかった。 隣に立つ“資格”が、自分にはあると証明したかった。 周囲は言った。 九条と南條は、釣り合いだと。 財閥同士、最も合理的な組み合わせだと。 だから、いつかは―― そう信じて疑わなかった。(結局、疲れるのよ。ああいう女は) 綾乃の顔を思い浮かべ、沙耶は口元を緩める。 真面目で、誠実で、正しい妻。 だが、それだけ。 男は皆、同じだ。 責任や重圧に押し潰されそうになった時、選ぶのは“安らげる女”。 それが、自分だと。 沙耶は、何度も自分に言い聞かせてきた。 あの夜のパーティー。 テラスでの一瞬の出来事を、彼女は都合よく思い出す。 久しぶりに会った玲司。 煙草を手にした横顔は、昔と変わらず無骨で、男らしかった。 長身で、無駄のない動き。 視線ひとつで、場の空気を支配する存在感。 だから、抱きついた。 躊躇などなかった。 「会いたかった」 あの時の彼の冷たい声も、今となっては意味が変わる。「沙耶、離せ」 拒絶ではない。 “今はまだ”というだけ。(だって、結果はこれだもの) 玲司は、綾乃から距離を取った。 誰がどう見ても、それは事実。 沙耶は、知らない。 それが、守るための一手だということを。 知らないまま、勝利を祝う。 スマートフォンを手に取り、画面を眺める。 そこに映るのは、流れてくる噂と、憶測。――九条は、妻を切ったらしい――東亜リンクスの件、もう庇えないんだろう――南條と、また近いんじゃないか? どれも、沙耶にとって心地いい。(ほら、やっぱり私でしょう?) 彼が疲れ切った時、隣にいるのは、自分。 そうな
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第31話 異変の輪郭

 朝、スマートフォンを開いた瞬間、綾乃の指が止まった。 画面いっぱいに広がる一枚の写真。 夜のテラス。 スーツ姿の九条玲司の背中に、女の腕が回されている。――「九条ホールディングス・九条玲司と、南條財閥の南條沙耶、夜の密会」 週刊誌の一面を飾り、同じ写真が、ネットニュースでは見出しより先に大きく表示されていた。 まるで、言葉など不要だと言わんばかりに。 沙耶は、玲司を背中から抱きしめていた。 親密で、迷いのない仕草。 見る者に、“関係性”を想像させるには十分すぎる一枚。(……そう、見えるわよね) 綾乃は、画面を伏せるように閉じた。 胸の奥が、じわりと熱を帯びる。 だが―― この写真について、玲司から説明はなかった。 一言も。 あのパーティーの帰り道も、そうだった。 玲司お気に入りのベントレーの後部座席。 いつもと同じ、節度のある距離。 視線も、言葉も、必要最低限。 特別な沈黙ではない。 けれど、親密な沈黙でもない。 邸宅に戻り、それぞれの寝室に向かい、夜は終わった。 まるで、何事もなかったかのように。(……聞けばよかったのに) 綾乃は、何度もそう思った。 そして、何度も飲み込んだ。「沙耶との仲を深めるために、自分を見限ったと、世間に思わせたの?」 その問いが、喉元まで込み上げては消える。 聞く資格が、自分にあるのか分からなかった。 ――和真に、聞かれたときのことが脳裏をよぎる。「夫婦としての時間は、あるのか?」 あの時、浮かんだ光景は、ひとつもなかった。 食事を共にした記憶も、他愛のない会話も、眠る前の言葉も。(……何も、ない) それは、事実だった。 九条玲司は、誠実だった。 礼儀正しく、節度を守り、夫としての立場を外れたことは一度もない。 けれど―― “近づいてくる”ことも、なかった。 胸が、きりきりと痛む。 誰かに奪われた、というよりも、 最初から、そこに無かったのだと突きつけられたようで。 綾乃は、ふと気づく。 最近、周囲の態度が微妙に変わっている。 心配するような視線。 探るような沈黙。 直接は何も言わないが、“何かを知っている”空気。(……私、何かから外されている?) 守られているのか。 切り離されているのか。 分からない。 ただ、確実に言えるのは――
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