不仲と噂された財閥夫婦ですが、今夜も愛されています のすべてのチャプター: チャプター 31 - チャプター 40

114 チャプター

第32話 外に向いた視線

東亜リンクス商事の不正疑惑に、綾乃の名前が関わっている―― そんな噂は、いつの間にか静かに消えていた。 訂正記事も、大々的な謝罪もない。 ただ、最初から存在しなかったかのように、話題が流れていった。(……晴れた、はずなのに) デスクに向かいながら、綾乃は小さく息を吐く。 仕事は滞りなく進み、周囲の視線も以前より穏やかだ。 それでも、心だけが、取り残されたままだった。 あの写真。 九条玲司と、南條沙耶。 “誤解だ”とも、“事実だ”とも、玲司は何も言わなかった。 それが一番、胸に残っている。 夜、邸宅に戻っても、変わらない距離。 変わらない無言。 まるで、最初から夫婦ではなかったかのように。(私……こんなに、平気じゃなかったんだ) それに気づいたのは、和真からの連絡だった。『久しぶりに、顔見ない?変な意味じゃなくて』 幼馴染らしい、軽い文面。 断る理由も見つからず、綾乃は「うん」とだけ返した。 待ち合わせたのは、子どもの頃から馴染みのあるホテルのラウンジ。 和真は先に来ていて、綾乃を見つけると、柔らかく手を上げた。「変わらないな、綾乃」「和真も」 向かい合って座ると、不思議と肩の力が抜ける。 財閥の令息同士、環境は似ているはずなのに、和真の前では、役割を演じなくてよかった。「……色々、大変だっただろ」 そう言って、和真はそれ以上踏み込まない。 事情を知っているからこそ、聞かないという選択。 その優しさが、胸に沁みた。「ねえ、和真」 気づけば、綾乃の方から口を開いていた。「私ね……今まで、寂しいって思ったこと、なかったの」 結婚生活も、静かで、穏やかで、そういうものだと思っていた。「でも……」 言葉が詰まる。 沙耶が、玲司の背中に腕を回していた、あの写真。 自分でも驚くほど、心が揺れた。「……思ったより、ダメージ、受けてたみたい」 和真は、何も言わずに聞いていた。 励ましもしない。否定もしない。 ただ、そっとカップを綾乃の方へ寄せる。「綾乃はさ」 静かな声で、和真が言う。「強いから。でも、我慢が“平気”と同じだと思ってるところ、あるよな」 その一言で、胸がぎゅっと締めつけられた。 優しさに、触れてしまった。 幼い頃から知っている、無条件でこちらを気遣う視線。 綾乃は、自分の中
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第33話 気づいた女

同じ夜。 同じホテル。 南條沙耶は、ラウンジ奥のソファに腰掛け、グラスの氷を静かに転がしていた。 照明は落ち着いていて、外からはここが誰の目にも触れない場所だと分かる。(……やっぱり、来た) 視線の先。 窓際の席に、二人の姿があった。 神崎和真。 そして――九条綾乃。 距離は近すぎない。 触れてもいない。 だが、空気が違う。 沙耶は、口元にごく薄く笑みを浮かべた。(あの男……動いたわね) 和真は慎重だ。 派手なことはしない。 綾乃の“心が弱る瞬間”を、ずっと待っていたはず。 沙耶は、九条玲司のそばに長くいた。 その影で、財界の男たちの欲望も、野心も、何度も見てきた。 ――和真の視線は、優しすぎる。 庇うようで、 寄り添うようで、 逃げ道を用意する男の目。(欲しがってる) 綾乃を。 “九条の妻”ではなく、 壊れかけた女として。 沙耶は、グラスを口に運ぶ。 氷が触れ合う、乾いた音。(……なるほど) 綾乃が落ちれば、和真が拾う。 その構図。 それは、沙耶が思い描いていた“理想形”と、驚くほど一致していた。 沙耶の視線が、自然と綾乃に向く。 表情が、少し柔らいでいる。 誰かに話を聞いてもらっている顔。(ああ……) 胸の奥に、嫉妬とは違う感情が湧いた。 ――同情。(知らないのね) 自分が、どれだけ狙われているか。 この優しさが、どれほど計算されたものか。 沙耶は、綾乃を“敵”だと思ったことはない。 むしろ、哀れな存在だった。 九条玲司という男に、選ばれた女。 愛されていると、信じたまま、何も知らない女。(でも……) 沙耶の視線が、今度は和真に移る。(和真。あなたも、私の駒よ) 彼は気づいていない。 自分が、誰の掌の上で動いているか。 沙耶は、ゆっくりと立ち上がった。 二人に近づくことはしない。 声も掛けない。 ただ、十分だ。(動き出した) 夫婦の間に、確かな“隙間”が生まれている。 そこに、和真が入り込む。 ――ならば。(私は、玲司を“癒す”だけ) 裏切られた夫。 孤独な男。 妻に切られたと“思い込んでいる”九条玲司。 そこに、寄り添う女は――自分。 沙耶は、ラウンジを出る前、もう一度だけ振り返った。 綾乃が、少しだけ微笑んでいる。 それを見て
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第34話 戻れないと知った夜

 夜の帳が、静かに邸宅を包み込んでいた。 広すぎるリビングには、時計の針が進む音だけが、やけに大きく響いている。 綾乃は、ソファに腰を下ろしたまま、手元のタブレットを見つめていた。 画面に映っているのは、もう何度も見た写真。 ――九条玲司と、南條沙耶。 夜のテラスで、背後から抱きしめるように腕を回した沙耶の姿。 記事の見出しは、刺激的だった。『九条ホールディングス・玲司、南條財閥令嬢と夜の密会』『冷え切った九条夫婦関係、その裏で――』(……もう、十分よ) そう思って画面を伏せても、胸の奥のざわめきは消えなかった。 ――聞けばいい。 そうすれば、何か答えが返ってくるかもしれない。 それなのに。 綾乃は、今日も結局、何も聞けなかった。 夕食の席で向かいに座った玲司は、いつもと同じだった。 落ち着いた仕草。 感情の揺れを感じさせない声。「疲れているだろ。先に休め」 それだけ。 問い詰める隙も、言い訳も、説明もない。 まるで――何も起きていないかのように。(私は……妻なのに) その事実が、じわじわと綾乃の胸を締めつけた。 結婚してから、半年以上。 手を取られたことはない。 抱き寄せられたことも、口づけもない。 それでも、信じてきた。 玲司は不器用なだけだと。 言葉や触れ合いより、責任で示す人なのだと。 ――でも。 沙耶は、触れていた。 公の場で、ためらいなく。 その事実が、綾乃の中で、どうしようもなく重かった。 スマートフォンが震えた。 表示された名前に、一瞬、息が止まる。『和真』 逡巡の末、通話ボタンを押した。「……もしもし」『起きてた?』 相変わらず、柔らかい声。 幼い頃から、何度も救われてきた、安心できる響き。「うん……少し」『無理しなくていい。ただ、声が聞きたかっただけだ』 それだけなのに、胸の奥が、きゅっと熱を持った。(……ずるい) 和真は、いつもこうだ。 踏み込みすぎない距離で、けれど確実に、心に触れてくる。『綾乃』 名前を呼ばれただけで、視線が揺れる。『君はさ……今、幸せか?』 その問いに、すぐ答えられなかった。 幸せかどうか。 ではなく――(私は、ここに居続けたいの?) 初めて、そんな疑問が浮かんだ。 答えが出ない沈黙の向こうで、和真は何も言わな
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第35話 越えてはいけない距離

その誘いは、あまりにも自然だった。「少し、話せないか」 和真からのメッセージは、それだけだった。 場所は都内のホテルラウンジ。 仕事の打ち合わせでも、珍しいことでもない。 ――それでも。 綾乃は、なぜか胸の奥に小さな引っかかりを覚えながら、その場所に向かった。 ラウンジは、夜に近づくにつれて人が減り、静かな空気が支配していた。 柔らかな照明。 磨き上げられた大理石の床。「来てくれて、ありがとう」 和真は立ち上がり、自然な仕草で椅子を引いた。 その動きに、昔から変わらない“気遣い”が滲んでいる。「……用件は?」「用件なんて、なくてもいいだろ」 そう言って、微笑む。 その笑顔に、綾乃の胸がわずかに疼いた。 弱っているときに見る笑顔は、必要以上に心に入り込む。 他愛もない話。 子どもの頃の記憶。 互いの近況。 時間が、静かに流れていく。 気づけば、和真はいつの間にか、テーブル越しではなく、綾乃の隣に座っていた。「……近くない?」「昔は、もっと近かった」 冗談めかした口調。 だが、距離は確実に詰まっている。 和真は、綾乃の指先に視線を落とした。「冷えてる」 そう言って、断りもなく、手を取った。 その瞬間、綾乃の身体が、びくりと震えた。 ――触れられた。 それは、玲司には一度もされなかったこと。「和真……」 離そうとした指に、ほんの少しだけ、力が込められる。「嫌なら、すぐ離す」 そう言いながら、離さない。「でも、嫌じゃないだろ」 その言葉は、優しい声で、残酷だった。(だめ……) 頭では、はっきりわかっている。 ここで越えたら、戻れない。 それなのに。 和真の親指が、指の甲をなぞる。 それだけで、心拍が早まる。「綾乃」 名前を呼ばれ、視線が絡む。「君は、一人でいるべきじゃない」 その言葉は、救いの形をしていた。 和真は、さらに一歩、距離を詰める。 肩が触れる。 体温が、はっきり伝わる。 読者なら、ここで叫ぶだろう。――やめて。――それ以上、近づかないで。 けれど、現実は、止まらない。 そのときだった。 ラウンジの奥。 柱の影から、鋭い視線が注がれていることに、綾乃は気づかなかった。 南條沙耶は、グラスを傾けながら、その光景を眺めていた。(……なるほど) 綾
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第36話 遅すぎた気配

その違和感は、ほんの些細なところから始まった。 九条ホールディングス本社、最上階の執務室。 夜景を背に、玲司は報告書に目を通していたが、文字が頭に入ってこない。(……妙だ) 綾乃に関する不正疑惑は、表向きには沈静化している。 マスコミの追及も弱まり、東亜リンクス商事への世間の関心も薄れつつあった。 ――守ったはずだ。 切ったように見せることで、彼女を標的から外した。 それなのに。 胸の奥に、針のような感覚が残っている。 秘書が、静かに入室した。「九条社長。今夜の予定ですが――」「……ああ」 返事をしながらも、玲司の意識は別のところにあった。 綾乃の顔が、浮かぶ。 最近、目を合わせていない。 帰宅時間も、わずかにずれている。 報告も、必要最低限。(それでいい、はずだった) 自分が距離を取れば、彼女は安全になる。 それが、唯一の正解だと信じていた。 だが。「社長?」 秘書の声に、現実へ引き戻される。「……悪い。もう一度」 秘書が説明を再開する間、玲司の視線はデスクの隅に置かれたスマートフォンへ向かった。 ――未読のままの、綾乃からの短いメッセージ。『今日は、少し遅くなります』 それだけ。 理由も、行き先もない。 今までなら、気にもしなかった。 彼女の行動を、制限する資格は自分にはない。 だが、今夜は違った。(……どこへ?) 自分が一歩引いた、その隙間に、誰かが入り込んでいる。 そんな考えが、初めて、はっきりと浮かんだ。 玲司は、無意識に眉を寄せる。(まさか) 脳裏をよぎった名前を、すぐに打ち消す。 神崎和真。 綾乃の幼馴染。 “味方”を名乗る男。 だが、財界で生きてきた玲司は知っている。 優しさほど、疑うべきものはない。 執務室を出たあと、エレベーターの中で、玲司はスマートフォンを取り出した。 数秒、迷い、画面を閉じる。(……今さら、何を聞く) 聞いたところで、答えが返るとは限らない。 何より―― 自分は、綾乃に「何も説明しない」選択をした。 その結果が、これだ。 自宅に戻っても、邸は静まり返っていた。 使用人の気配も最小限。「奥様は、まだお戻りではありません」 淡々とした報告。 玲司は、頷いただけだった。 書斎に入り、ソファに身を沈める。 ネクタイを緩め
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第37話 すれ違いの音

 綾乃は、静まり返った邸宅の廊下を、足音を殺すように歩いていた。 夜はすでに深く、照明は落とされ、壁に掛けられた絵画だけが淡く浮かび上がっている。 書斎の前を通り過ぎようとした、そのときだった。 不意に、ドアが開いた。「帰ったのか?」 低く、抑えた声。 思わず、綾乃は足を止め、振り返る。 そこに立っていた玲司は、いつもと同じはずなのに、どこか張りつめて見えた。「ええ。遅くなってごめんなさい」 形式的な謝罪。 自分でも驚くほど、感情を込めない声だった。 そのわずかな違いに、玲司はすぐ気づいた。 昨日までとは違う。 距離を取られている――そんな感覚が、胸をざわつかせる。「誰と会っていたんだ?」 口をついて出た言葉に、玲司自身が一瞬、息を詰めた。 ”どこへ”ではない。 ”誰と”。 しまった、と気づき、すぐに言い直す。「いや、どこに行ってたんだ?」 綾乃は一瞬、視線を伏せた。 ほんのわずかな逡巡のあと、顔を上げる。「昔からの友人に会いに行っていたの。まずかったかしら?」 冷たい声音。 突き放すような響きに、玲司の胸がひりついた。(夫婦としての生活は必要ないと言っておきながら、今更何を気にするの?) 綾乃の表情は、そう語っていた。「もう遅いから、あなたも早く休んでね」 それだけ言うと、踵を返し、自室へ向かおうとする。 次の瞬間。 強い力で、腕をつかまれた。「なに?玲司、痛い」 驚きと苛立ちが混じった声。 振り払おうとするが、力は緩まない。「誰と会っていたんだ?」 有無を言わせぬ低い声。 綾乃は、思わず玲司の目を見る。 そこにあったのは、いつもの冷静沈着な社長の顔ではなかった。 怒り。 焦り。 そして、抑えきれない感情。 綾乃は小さく息を吐いた。「神崎和真と会っていたの……何も悪いことはしていないわよ」 そう言って、腕を引こうとする。 だが、玲司は離さない。「あなた、結婚してすぐに言ったじゃない。『俺たちに夫婦生活は必要ない』って。 なのに、今更、ヤキモチも何もないでしょう」 吐き捨てるような言葉。 胸の奥に溜まっていたものが、一気に溢れ出す。「それに、東亜リンクス商事の不正疑惑も、九条ホールディングスへの献金疑惑も晴れたのなら、もう、私たちが協力する必要はないじゃない………それに
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第38話 完成した笑み

南條沙耶は、ホテルの高層階ラウンジで、夜景を眺めながらグラスを傾けていた。 氷が静かに触れ合う音が、やけに心地いい。(……綺麗) 東京の夜は、いつ見ても嘘みたいに整っている。 人の感情がどれだけ壊れていようと、光は何も知らない顔で瞬いている。 テーブルの上に置いたスマートフォンが、短く震えた。 沙耶は慌てず、ゆっくりと画面を見る。 ――写真、確認しました。 それだけのメッセージ。 だが、十分だった。(……ええ、これでいい) 綾乃と神崎和真。 距離の近い、あの一枚。 誰が見ても、言い訳の余地はない。 触れてはいない。 だが、“触れる直前”に見える。 沙耶は、その曖昧さが何より重要だと知っていた。(人は、事実よりも、想像に傷つくのよ) 九条玲司は、賢い男だ。 だからこそ、直接的な裏切りには気づく。 だが、感情の揺らぎには、決定打を持てない。 ――綾乃は、本当に何もしていないのか? ――それとも、もう遅かったのか? 答えの出ない疑問ほど、人を追い詰めるものはない。 沙耶は、グラスに口をつけ、ゆっくりと笑った。(これで、彼は“疑う側”になる) 夫としてではない。 男として。 取り返せるかもしれない、と思ってしまう立場に。 それは、最も惨めで、最も危うい場所だ。 ――綾乃。 あの女は、まだ気づいていない。 自分が守られていた理由も、 その守りが、どれほど歪んだ形だったのかも。(九条玲司は、守り方を間違えたの) 切ったつもりで、手放した。 沈黙を選んで、心まで閉ざした。 その隙間に、誰かが入らないはずがない。 沙耶は、テーブルに肘をつき、夜景を見下ろした。(和真……あなたの役目はもう十分) 彼が、綾乃に本気かどうかは、どうでもいい。 必要なのは、“そう見える事実”だけ。 すでに、記事の見出し案は回っている。 写真も、複数の角度で用意されている。 あとは、流すだけ。(……九条家の夫婦は、もう戻らない) 確信が、静かに胸に広がった。 沙耶は、スマートフォンを伏せ、最後の一口を飲み干す。 唇に残る冷たさが、心地いい。「勝ったわ」 誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。 この夜は、まだ始まったばかりだ。 明日の朝、世界はきっと―― 彼女の思い描いた通りの顔をする。 南條沙耶は、よう
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第39話 噛みつく群れ

朝のニュースは、いつもより音が大きく感じられた。 まだ完全には覚めきらない街の空気を切り裂くように、アナウンサーの抑揚のある声が響く。静かなはずの朝が、その瞬間だけ別の世界へと塗り替えられた。 テレビ画面いっぱいに映し出されたのは、見覚えのある写真。 ホテルのラウンジ。 柔らかな照明。 そして――綾乃と神崎和真。 切り取られた一枚の静止画は、そこに至るまでの時間も、言葉も、空気もすべて削ぎ落とし、ただ“意味ありげな距離”だけを残していた。『九条ホールディングス・九条夫人、禁断の夜』『財界名門夫婦、同時不倫か』『社長は南條財閥令嬢、妻は神崎財閥御曹司と密会』 見出しは、どれも似たような言葉を使いながら、少しずつ表現を変えている。 断定はしない。だが、疑いを強く匂わせる。読む者の想像力を煽るように、巧妙に配置された単語の数々。 まるで獲物に群がる獣たちが、噛みつく場所を探しているかのようだった。 ひとたび血の匂いが立てば、誰も止めようとはしない。 ネットニュースは、さらに露骨だった。 記事を開く前に、まず写真。 説明よりも、印象。 文字よりも、感情。 クリックされるたびに、憶測は“既成事実”へと形を変えていく。 コメント欄は、すでに荒れ果てている。《やっぱり仮面夫婦だったんだ》《九条社長、可哀想》《奥さん、清楚ぶってたのに》《和真って前から怪しかったよね》 匿名の言葉は軽く、そして残酷だった。 真実を知りたい者など、ほとんどいない。 必要なのは、叩ける対象だけ。 綾乃の名前は、もはや“個人”ではなく、 消費される記号になっていた。 その名が表示されるたびに、数字は伸び、広告は回り、誰かの利益が積み上がっていく。 その頃、九条ホールディングスでも、空気は一変していた。 普段は静謐なオフィスフロアに、緊張が走る。足音は早まり、視線は交錯し、誰もが小声で状況を確認し合う。 広報部は緊急対応に追われ、秘書課の電話は鳴り止まない。「事実関係の確認を……」「奥様への直接取材は……」 受話器越しの声は、丁寧でありながらも鋭い。 誰もが“正解”を探しているふりをして、本当は、責任の所在を押し付け合っている。 失言は許されない。沈黙もまた、罪になる。 そして―― 最も注目されているはずの当事者、九条玲司は、沈
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第40話 逃げ場を失う朝

その朝、綾乃は、いつもより早く目を覚ました。 目覚ましが鳴る前だった。静まり返った寝室に、微かな空調の音だけが響いている。眠りは浅く、何度も途切れていた気がする。まぶたを開けた瞬間、胸の奥に重たいものが沈んでいるのを感じた。 カーテンの隙間から差し込む光が、やけに冷たく感じる。 白い壁を淡く照らす朝日。その色は優しいはずなのに、今日に限っては無機質で、突き放すようだった。世界は何事もなかったかのように朝を迎えているのに、自分だけが取り残されている。 スマートフォンを見るのが、怖かった。 枕元に置いたままの小さな機械が、爆弾のように思える。手を伸ばせば、現実が確定してしまう。 それでも、見ないわけにはいかない。 逃げ続けるには、あまりにも大きすぎる波だった。 画面をつけた瞬間、通知が一斉に表示される。 未読のメッセージ。 着信履歴。 ニュースアプリの速報。 無機質なアイコンが、容赦なく並ぶ。 ――逃げ場は、もうどこにもなかった。 知人からの連絡は、ほとんどない。 心配や慰めの言葉を期待していたわけではない。だが、沈黙はそれ以上に重い。 代わりに、知らない番号からの着信が並んでいる。 取材。詮索。あるいは、ただの好奇心。 画面に表示された数字の羅列が、悪意の形に見えた。 綾乃は、ベッドの端に座り、膝の上で手を握りしめた。 指先が白くなるほど力を込めても、不安は消えない。(……何もしていない) それは、事実だ。 自分の中では、揺るがない。 だが、事実が、守ってくれるとは限らない。 世間が求めているのは真実ではなく、わかりやすい物語だと、もう思い知らされている。 鏡に映った自分の顔は、思った以上に疲れていた。 丁寧に整えられてきたはずの表情は崩れ、目の下にはうっすらと影が落ちている。 目の奥に、影が落ちている。 それは化粧では隠せない種類のものだった。 食卓に降りると、邸宅は異様なほど静かだった。 広いダイニングに、足音だけが小さく響く。 使用人たちの気配が、遠慮がちになっている。 視線は合わせない。必要以上に近づかない。 ――腫れ物に触るような空気。 ここは自分の家のはずなのに、どこかよそよそしい。 そして、そこに。 玲司の姿は、なかった。 長いテーブルの主の席は、整然としたまま空いている。 
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第41話 最後の一押し

南條沙耶は、勝敗が決したあとの静けさが、昔から好きだった。 喧騒が収まり、誰もが結果を受け入れ始める、その一瞬。 人は、最も無防備になる。 九条ホールディングスのビルに足を踏み入れたとき、 沙耶は、ここ数日の報道が、すでに空気を変えていることを感じ取っていた。 視線が違う。 秘書の態度が違う。 ――「妻」の名前が、もはや腫れ物になっている。(完璧ね) 案内された執務室の扉の前で、沙耶は一度だけ、呼吸を整えた。 焦る必要はない。 今日は、詰める日ではない。 “寄り添う”日だ。 ノックをすると、低い声が返る。「入れ」 扉を開けると、そこにいた九条玲司は、想像以上に疲れて見えた。 背筋は伸びているが、目の奥が、少しだけ鈍っている。「久しぶりね、玲司」「ああ……どうした」 形式的な挨拶。 拒絶も、歓迎もない。 沙耶は、その距離を、少しずつ詰める。「報道、見たわ」「……」「大変だったでしょう。会社も、あなた自身も」 そう言いながら、沙耶は、玲司のデスクの前に立った。 指先で、書類の端をなぞる。「誰も、ちゃんと労わってくれないのね」 玲司は、視線を上げない。 だが、何も言わないということは、追い返さないということでもあった。(いい反応) 沙耶は、さらに一歩、距離を詰める。 香水の香りが、わずかに届く位置。「ねえ、玲司」 声を、ほんの少しだけ落とす。「今夜……私が一緒に居ましょうか?」 その言葉に、玲司の指が、ほんの一瞬止まった。「……何のつもりだ」「癒しよ」 沙耶は、ためらいなく答える。「あなた、疲れきっているわ。奥様のことで、世間からも、社内からも……」 言葉を切り、わざと視線を逸らす。「――孤独でしょう?」 その一言は、刃のように正確だった。 沙耶は、ゆっくりと、デスクの脇に回り込む。 玲司の肩越しに、書類を覗き込むふりをして、距離を詰める。 背中に、柔らかな感触が、ほんの一瞬触れる。「……沙耶」「大丈夫」 彼女は、玲司の背中に、そっと手を置いた。 撫でるでもなく、抱くでもなく。 逃げ場を塞ぐような、触れ方。「何も、決めなくていいの」「今夜だけ。話さなくてもいい」 沙耶は、囁く。「あなたが黙っているのなら、私が、黙ってそばにいる」 それは、献身の仮面を被った、侵
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