九条邸での朝は、いつも静かだった。広すぎるダイニングに、人の気配はほとんどない。綾乃が席につくと、すでに玲司の姿はない。食事はきちんと用意されているが、向かいの椅子は空いたままだ。「本日、旦那様は六時にお出かけになりました」使用人の淡々とした報告に、綾乃は小さく頷く。同じ屋根の下に暮らしていても、生活の時間が交わることはほとんどなかった。夜、帰宅すると、家は静まり返っている。寝室は別。会話は必要最低限。連絡事項は、秘書を通じて。それでも世間には、“理想的な政略結婚”として映っているのだろう。(……笑える)夫婦という形だけを与えられた生活。その中で、綾乃は自分の居場所を、仕事の中に見出すしかなかった。だが――この冷え切った関係が、やがて互いの弱さと本音を暴き出すことになるとは、まだ、誰も知らなかった。綾乃自身も、なぜこうなったのかを、時折考える。恋をして結婚したわけではない。むしろ、選択肢のないまま、流れに乗せられただけだ。すべての始まりは、祖母・澄江の一言だった。「九条家のご長男が、まだ独身なの」それは、何気ない世間話のように聞こえた。だが、澄江の視線はどこか遠く、過去を見つめていた。九条玄雅(苦情げんが)――澄江が若い頃、唯一、結婚を考えた相手。だが家柄と事情に引き裂かれ、別れを選ばざるを得なかった男。「もう一度、あの家と縁が結ばれたら……」その言葉の続きを、澄江は口にしなかった。だが綾乃には、十分すぎるほど伝わっていた。同じ頃、父・鷹宮正隆の元にも話は持ち込まれていた。九条ホールディングス。国内インフラを支える巨大企業。その現社長・九条玲司は、辣腕で知られながらも独身を貫いている。「向こうも、結婚相手を探しているらしい」政略として、条件は申し分なかった。そして何より、綾乃自身が――東亜リンクス商事のエネルギー事業部課長として、九条ホールディングスと深く関わる立場にあった。「お前なら、釣り合う」父のその一言が、決定打だった。初めて顔を合わせたのは、九条家の応接間。重厚な調度品に囲まれた空間で、祖母の澄江と、九条の祖父・玄雅が並んで座っていた。互いに視線を交わす二人の表情は、穏やかで、どこか切なかった。紹介を受け、九条玲司が立ち上がる。背が高く、整った顔立ち。だが
Last Updated : 2026-02-17 Read more