「仕方ないから、結婚して“あげる”わ」そう口にした瞬間、部屋の空気がわずかに張りつめた。九条玲司は一瞬だけ視線を上げ、ほんのわずかに眉を動かす。だが、それも束の間だった。すぐに口元を歪め、鼻で笑う。「随分と偉そうだな。 まぁいい。君が“財閥令嬢”であることに価値があるのは事実だ」その言葉は、淡々としているのに、妙に冷たかった。綾乃の胸の奥で、氷の欠片が落ちるような感覚がする。(この人は……人を、条件でしか見ないのね)感情を表に出すことはできなかった。ここには祖母がいる。相手の祖父もいる。鷹宮家と九条家、二つの家の歴史と体面が、この場を縛っていた。祖母の澄江が、そっと綾乃の手を握る。しわの刻まれた手は、小さく震えていた。「綾乃、お願い。おばあちゃんの、最後のわがままだと思って……」“最後”という言葉が、静かに胸に刺さる。綾乃は目を伏せ、短く息を吐いた。逆らえなかった。逆らう選択肢を、最初から持たされていなかった。結婚は、驚くほど事務的に決まった。感情の入り込む余地など、最初からなかったかのように。顔合わせから三か月後。式は身内だけで簡素に済まされ、披露宴は企業合同のパーティー扱い。祝福の言葉よりも、名刺交換の音の方が耳に残った。結婚後、九条邸で最初に交わされた言葉も、やはり事務的だった。「夫婦としての時間は、基本的に必要ない」淡々と告げられ、綾乃は思わず視線を上げる。「君は東亜リンクス商事での仕事を続けろ。 こちらも、君の父との関係維持には君が必要だ」「……私を、“駒”として使うのね」思わず漏れた言葉に、玲司は初めて真正面から綾乃を見た。「お互い様だろう。君も、この結婚で立場を守っている」正論だった。否定できないからこそ、腹の奥が熱くなる。しかし――結婚から半年が過ぎた頃、その均衡は静かに崩れ始めた。東亜リンクス商事の大型案件。海外エネルギー開発プロジェクトに、不正の噂が立った。資料を追ううち、綾乃の顔色は失われていく。その中心にいたのは、彼女の直属の上司であり、九条ホールディングスとも深く関わる人物だった。「……これ、表に出たら、会社が潰れる」深夜の書斎で、震える指先を押さえながら呟いたその時。背後で、扉の開く音がした。「気づいたか」振り向くと、九条玲司が立っていた。「……
Last Updated : 2026-02-17 Read more