All Chapters of 不仲と噂された財閥夫婦ですが、今夜も愛されています: Chapter 1 - Chapter 10

14 Chapters

プロローグ

「仕方ないから、結婚して“あげる”わ」そう口にした瞬間、部屋の空気がわずかに張りつめた。九条玲司は一瞬だけ視線を上げ、ほんのわずかに眉を動かす。だが、それも束の間だった。すぐに口元を歪め、鼻で笑う。「随分と偉そうだな。 まぁいい。君が“財閥令嬢”であることに価値があるのは事実だ」その言葉は、淡々としているのに、妙に冷たかった。綾乃の胸の奥で、氷の欠片が落ちるような感覚がする。(この人は……人を、条件でしか見ないのね)感情を表に出すことはできなかった。ここには祖母がいる。相手の祖父もいる。鷹宮家と九条家、二つの家の歴史と体面が、この場を縛っていた。祖母の澄江が、そっと綾乃の手を握る。しわの刻まれた手は、小さく震えていた。「綾乃、お願い。おばあちゃんの、最後のわがままだと思って……」“最後”という言葉が、静かに胸に刺さる。綾乃は目を伏せ、短く息を吐いた。逆らえなかった。逆らう選択肢を、最初から持たされていなかった。結婚は、驚くほど事務的に決まった。感情の入り込む余地など、最初からなかったかのように。顔合わせから三か月後。式は身内だけで簡素に済まされ、披露宴は企業合同のパーティー扱い。祝福の言葉よりも、名刺交換の音の方が耳に残った。結婚後、九条邸で最初に交わされた言葉も、やはり事務的だった。「夫婦としての時間は、基本的に必要ない」淡々と告げられ、綾乃は思わず視線を上げる。「君は東亜リンクス商事での仕事を続けろ。 こちらも、君の父との関係維持には君が必要だ」「……私を、“駒”として使うのね」思わず漏れた言葉に、玲司は初めて真正面から綾乃を見た。「お互い様だろう。君も、この結婚で立場を守っている」正論だった。否定できないからこそ、腹の奥が熱くなる。しかし――結婚から半年が過ぎた頃、その均衡は静かに崩れ始めた。東亜リンクス商事の大型案件。海外エネルギー開発プロジェクトに、不正の噂が立った。資料を追ううち、綾乃の顔色は失われていく。その中心にいたのは、彼女の直属の上司であり、九条ホールディングスとも深く関わる人物だった。「……これ、表に出たら、会社が潰れる」深夜の書斎で、震える指先を押さえながら呟いたその時。背後で、扉の開く音がした。「気づいたか」振り向くと、九条玲司が立っていた。「……
last updateLast Updated : 2026-02-17
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第2話 形だけの夫婦

九条邸での朝は、いつも静かだった。広すぎるダイニングに、人の気配はほとんどない。綾乃が席につくと、すでに玲司の姿はない。食事はきちんと用意されているが、向かいの椅子は空いたままだ。「本日、旦那様は六時にお出かけになりました」使用人の淡々とした報告に、綾乃は小さく頷く。同じ屋根の下に暮らしていても、生活の時間が交わることはほとんどなかった。夜、帰宅すると、家は静まり返っている。寝室は別。会話は必要最低限。連絡事項は、秘書を通じて。それでも世間には、“理想的な政略結婚”として映っているのだろう。(……笑える)夫婦という形だけを与えられた生活。その中で、綾乃は自分の居場所を、仕事の中に見出すしかなかった。だが――この冷え切った関係が、やがて互いの弱さと本音を暴き出すことになるとは、まだ、誰も知らなかった。綾乃自身も、なぜこうなったのかを、時折考える。恋をして結婚したわけではない。むしろ、選択肢のないまま、流れに乗せられただけだ。すべての始まりは、祖母・澄江の一言だった。「九条家のご長男が、まだ独身なの」それは、何気ない世間話のように聞こえた。だが、澄江の視線はどこか遠く、過去を見つめていた。九条玄雅(苦情げんが)――澄江が若い頃、唯一、結婚を考えた相手。だが家柄と事情に引き裂かれ、別れを選ばざるを得なかった男。「もう一度、あの家と縁が結ばれたら……」その言葉の続きを、澄江は口にしなかった。だが綾乃には、十分すぎるほど伝わっていた。同じ頃、父・鷹宮正隆の元にも話は持ち込まれていた。九条ホールディングス。国内インフラを支える巨大企業。その現社長・九条玲司は、辣腕で知られながらも独身を貫いている。「向こうも、結婚相手を探しているらしい」政略として、条件は申し分なかった。そして何より、綾乃自身が――東亜リンクス商事のエネルギー事業部課長として、九条ホールディングスと深く関わる立場にあった。「お前なら、釣り合う」父のその一言が、決定打だった。初めて顔を合わせたのは、九条家の応接間。重厚な調度品に囲まれた空間で、祖母の澄江と、九条の祖父・玄雅が並んで座っていた。互いに視線を交わす二人の表情は、穏やかで、どこか切なかった。紹介を受け、九条玲司が立ち上がる。背が高く、整った顔立ち。だが
last updateLast Updated : 2026-02-17
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第3話 玄雅という男

鷹宮澄江が、初めて九条玄雅と出会ったのは、まだ二十歳そこそこの頃だった。戦後の混乱がようやく落ち着き始めた時代。九条家は、すでにインフラ事業で頭角を現し、鷹宮家もまた、金融と物流で存在感を放っていた。両家の集まりは、社交という名の“品定め”の場でもあった。澄江は、その席で玄雅を見た瞬間、不思議な静けさを覚えた。派手な物言いをする男たちの中で、彼だけが、必要以上に前へ出ない。だが、誰もが無意識のうちに、彼の一言を待っている。「……九条家のご長男です」そう紹介され、玄雅は静かに一礼した。「九条玄雅と申します」低く、落ち着いた声だった。威圧感はない。だが、揺るぎのない芯があった。後日、二人は偶然を装って、何度か言葉を交わすようになった。庭園で、廊下で、時には書庫で。「あなたは、不思議な方ですね」澄江がそう言うと、玄雅は小さく微笑った。「そうでしょうか。私はただ、急ぐ必要がないだけです」その言葉通り、玄雅は何事にも焦らなかった。事業も、人間関係も、感情さえも。それが、澄江には心地よかった。恋は、静かに始まった。誰にも気づかれないように。けれど確かに、互いの存在が日常に溶け込んでいく。「もし、家のことがなければ――」ある日、澄江がそう口にすると、玄雅は視線を逸らし、答えなかった。沈黙が、すべてだった。やがて、現実が二人を引き裂く。九条家は、さらなる事業拡大のため、より強固な政略結婚を必要としていた。鷹宮家も同じだった。「家を背負う人間は、選べない」最後に会った日、玄雅はそう言った。「それでも……」澄江の言葉を、玄雅は静かに遮った。「忘れません。ただ、この想いを、持っていくことはできない」それが、別れだった。澄江は、別の家に嫁いだ。玄雅もまた、九条家の嫁を迎え、九条ホールディングスの礎を固めていく。だが、二人は決して、互いを悪く言わなかった。年月が流れ、玄雅は孫――九条玲司の成長を、静かに見守っていた。幼い玲司は、よく玄雅の書斎に入り浸った。多くを語らぬ祖父の背中を、ただ見つめていた。「感情で動くな。だが、感情を捨てるな」ある日、玄雅はそう言った。「判断は冷静に。覚悟は、熱く持て」玲司は、その言葉を、深く胸に刻んだ。玄雅は、孫に甘い祖父ではなかった。だが、厳しさの奥に、常に一
last updateLast Updated : 2026-02-17
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第4話 彼女を選んだ理由

九条玲司が結婚を決めた理由を、正確に知る者は少ない。世間にはこう語られている。鷹宮財閥との結束強化。エネルギー事業における盤石な連携。三十代後半を迎えた独身社長の体裁。どれも間違いではない。だが――それだけではなかった。玲司は、結婚式の翌朝も、いつもと変わらず六時に家を出た。広すぎる邸宅を振り返ることもなく、車に乗り込む。(感情で判断したわけじゃない)そう、何度も自分に言い聞かせる。彼は、祖父・玄雅の背中を見て育った。感情を抑え、選べないものを選ばず、その代わりに“守るべきもの”を決して手放さなかった男。「選ばなかったからこそ、守れたものがある」それが、玄雅の哲学だった。玲司は、その生き方を理解している。理解しているからこそ、同じ道を歩む覚悟もできていた。鷹宮綾乃と初めて向き合った日、彼女の目は、はっきりと怒りを湛えていた。だが、声は荒げない。姿勢は崩さない。感情を制御する術を、幼い頃から叩き込まれてきた人間の目だ。(……逃げない女だ)その瞬間、玲司は確信した。この女は、自分の横に立っても、壊れない。利用されるだけの存在で終わらない。だからこそ、あの言葉が出た。「俺が連れて歩いても、見劣りしない程度の容姿だ」試したのだ。怒るか、黙るか、あるいは、笑ってやり過ごすか。綾乃は、黙って自分を睨み返した。その沈黙に、玲司は懐かしさすら覚えた。祖父・玄雅が、かつて見せていた目と、よく似ていたからだ。結婚後、意図的に距離を取ったのも、理由がある。近づけば、情が生まれる。情は判断を鈍らせる。そして何より――自分が“選べなかった側の人間”だと、綾乃に知られるのが怖かった。だから、夫婦としての時間を拒んだ。だから、生活を交わさなかった。それでも、仕事の場では、否応なく彼女の名を目にする。東亜リンクス商事。エネルギー事業部課長・鷹宮綾乃。彼女の決裁は正確で、判断は速い。忖度しない。逃げもしない。(……祖父なら、気に入っただろうな)そう思った瞬間、玲司はわずかに眉をひそめた。不正案件の資料を、最初に掴んだのは玲司だった。握り潰すこともできた。むしろ、その方が簡単だった。だが、彼はそれをしなかった。(鷹宮の娘が、どう動くか)試したのだ。そして、結果は予想通りだった。綾乃は、震
last updateLast Updated : 2026-02-17
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第5話 信用しない理由

九条玲司を、綾乃は信用していなかった。それは感情的な拒絶ではない。むしろ、冷静に積み上げた判断の結果だった。結婚して半年。同じ九条邸に暮らしていながら、玲司がどんな一日を過ごし、誰と会い、何を考えているのか――綾乃はほとんど知らない。知ろうとしなかった、という方が正しいかもしれない。最初から、彼は一線を引いていた。「夫婦としての時間は、基本的に必要ない」そう言い切った男だ。距離を詰める気など、最初からなかったのだろう。朝はすれ違い。夜は不在。言葉は必要最低限。感情は、徹底して見せない。それでも、九条玲司は綾乃を“見ている”。それが、綾乃には不気味だった。――不正案件を知った夜。書斎で資料を読み込み、ページをめくる指が震え始めた頃、まるで待っていたかのように、玲司は現れた。「気づいたか」あの一言。今も、はっきりと耳に残っている。最初から知っていた。知ったうえで黙っていた。そして、綾乃がどう動くかを見ていた。試されたのだ。妻としてではない。会社の人間として。あるいは、駒として。「君がこの件にどう動くか、見たかった」その言葉を、どうすれば信頼に置き換えられるというのか。九条玲司という男は、常に一段高い場所に立っている。安全圏から状況を見下ろし、判断し、必要とあらば切り捨てる。そういう人間だと、綾乃は思っている。父も、祖母も、「九条家の人間は、感情よりも責任を取る」そう語っていた。称賛のように聞こえるその言葉は、綾乃には、別の意味に聞こえていた。――感情は、切り捨てるもの。そんな価値観の男を、どうして信用できるだろう。仕事の場で、綾乃は幾度も判断を下してきた。部下を守るために、上司と衝突したこともある。失敗すれば、自分の立場が危うくなる場面もあった。だからわかる。九条玲司は、「切る決断」ができる男だ。迷わず。躊躇なく。もし、綾乃が鷹宮の娘でなかったら。もし、この結婚が政略でなかったら。そう考えた瞬間、背筋を冷たいものが走る。だが――あの夜、綾乃が資料から目を逸らさなかったとき。「それでも、君は黙らないだろう」そう言った玲司の声は、記憶の中で、なぜか冷たく響かなかった。評価だったのか。期待だったのか。それとも――確認だったのか。綾乃は、はっきりと心の中で
last updateLast Updated : 2026-02-17
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第6話 同じ側に立つ

東亜リンクス商事の会議室は、朝から張り詰めていた。「海外エネルギー開発プロジェクトの件ですが――」上司の声を聞きながら、鷹宮綾乃は、静かに資料に目を落としていた。表向きは、順調。だが裏では、数字が合わない。説明のつかない送金。曖昧に処理された外注契約。綾乃の胸の奥で、警鐘が鳴り続けていた。(このまま進めば……必ず問題になる)そして、その影に、九条ホールディングスの名前があることも、綾乃はすでに把握していた。会議終了後、綾乃は直属の上司に呼び止められる。「鷹宮君、この件はこれ以上深入りしなくていい」柔らかな口調。だが、有無を言わせない圧があった。「確認は、課長としての職責です」綾乃がそう返すと、上司の表情が一瞬、硬くなる。「……君は、立場をわかっているはずだ」その言葉で、すべてを悟った。――これは、内部の問題ではない。――すでに、引き返せないところまで、来ている。その夜。九条邸に戻った綾乃を待っていたのは、書斎の灯りだった。珍しいことだった。「座れ」九条玲司は、立ったままそう言った。机の上には、綾乃が集めていたものと、“同じ内容”の資料が並んでいた。「……どこまで知っているの?」「君と、ほぼ同じだ」玲司は、淡々と答える。「この案件は、誰かを切れば済む話じゃない。切れば、必ず裏が暴れる」綾乃は、拳を握りしめた。「だから、黙っていた?」「だから、君を見ていた」はっきりとした答えだった。「この件を正面から処理するには、 東亜リンクス側に“中から切り込める人間”が必要だ」「……それが、私?」「他にいるか?」その問いに、綾乃は答えられなかった。「安心しろ。君一人に背負わせるつもりはない」玲司は、初めて一歩近づいた。「九条ホールディングス側の責任は、俺が引き受ける」その言葉は、命令ではなかった。宣言だった。綾乃は、ゆっくりと息を吐く。(逃げ場が、なくなった)だが同時に、一人ではないという事実が、わずかに胸を軽くした。「……条件があるわ」「言え」「情報は、すべて共有すること。隠し事は、しない」玲司は、少しだけ目を細めた。「それは、難しい要求だ」「できないなら、この話は降りる」数秒の沈黙。やがて、玲司は静かに頷いた。「わかった。だが覚悟しろ」「何の?」「知れば、
last updateLast Updated : 2026-02-18
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第7話 圧力と気配

異変は、予告もなく現れた。東亜リンクス商事のフロアに足を踏み入れた瞬間、綾乃は、空気がわずかに変わったのを感じた。挨拶が、短い。視線が、合わない。昨日まで普通に声をかけてきた部下が、妙によそよそしい。(……何かが始まった)会議室で配られた追加資料は、昨夜まで存在しなかったはずのものだった。数字は整っている。整いすぎている。「この修正、誰の指示ですか?」綾乃がそう問うと、部長は一拍だけ間を置いてから答えた。「上からだ。触るな」“上”。その言葉が、すべてを物語っていた。昼過ぎ。社外の取引先から、立て続けに連絡が入る。――九条ホールディングスとの関係を、どう考えているのか。――夫婦である以上、利益誘導ではないのか。まだ何も表に出ていない。それなのに、話は“出来上がって”いた。(情報が、漏れている)しかも、内部事情を知っている者の手口だ。その夜、九条邸。綾乃が書斎に入ると、玲司はすでに電話を切ったところだった。「東亜リンクス側にも、圧が来ているな」「……あなたのところも?」「ああ。金融機関が一斉に動いた」互いに視線を交わす。――外部からの圧力。だが、その動きは統制が取れすぎている。「内部に、いるわね」綾乃の言葉に、玲司は否定しなかった。「問題は、どこまで知っているかだ」机の上に置かれた一通の封筒。差出人不明。中には、写真が入っていた。綾乃と玲司が、並んで歩く後ろ姿。仕事用の資料を受け渡している場面。――完全に、“共闘”の証拠。「……撮られてる」「見せるために、な」脅し。同時に、誘導。“夫婦であること”を、武器にするか、それとも、弱点として突くか。相手は、こちらの関係性を試している。「もし、私が降りれば?」綾乃がそう言うと、玲司は、即答しなかった。「君が降りれば、疑惑は俺一人に集中する」「あなたが切られれば、私は“裏切った妻”になる」どちらも、致命的だ。夫婦という関係は、盾にもなる。だが同時に、一撃で貫かれる標的でもある。「……綾乃」玲司が、低く言った。「君を疑っていないと言えば、嘘になる」綾乃の胸が、わずかに痛む。「私もよ」静かな声だった。「あなたが、全部を握っている可能性を、捨てきれない」沈黙が落ちる。だが、その沈黙は、決裂ではなかった。互いに“
last updateLast Updated : 2026-02-19
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第8話 切り離せない関係

それは、私しか知らないはずの情報だった。だから、その名前を見た瞬間、指先から血の気が引いた。――鷹宮綾乃内部調査対象候補画面に表示された文書は、正式な社内フォーマットを装っているが、東亜リンクス商事のものではない。それでも、並べられた経歴、担当案件、交友関係は、あまりに正確だった。(ここまで把握されている……)調査対象候補、という言葉以上に、その下に添えられた一文が、胸を刺す。『九条ホールディングス代表取締役社長・九条玲司の配偶者』――そこだった。仕事ではない。能力でもない。夫婦であることが、私をここに引きずり出している。翌日。社内の空気は、さらに露骨に変わっていた。会議室で交わされる視線。名指しされない、だが確実に向けられる警戒。そして、私の隣に座った人物が、わざとらしいほど穏やかに言った。「鷹宮さん、この案件ですが……ご主人の会社との関係性、 誤解を招きかねませんよね」――裏切り者の“第一候補”。それは、今回のプロジェクトで、私を最初から支えていた人物だった。(この人が……?)確信はない。だが、偶然にしては出来すぎている。その夜。九条邸の書斎で、私は資料を机に置いた。「これ、あなたのところでも出回ってる?」玲司は、一瞬だけ視線を落とした。「……一部はな」その“間”が、すべてを物語っていた。「知ってたのね。私が、切られる側に回る可能性」責める声ではなかった。ただ、確認だった。「最悪の場合を想定していただけだ」「それを、私に言わなかった理由は?」玲司は、答えなかった。否定もしない。弁解もしない。その沈黙が、何より残酷だった。(信じたい。でも――)その瞬間、綾乃ははっきりと理解した。この人は、私を守ろうとしているかもしれない。同時に、切り捨てる覚悟も、持っている。数日後。外部監査チームの導入が正式に決まった。名目は「健全性の確認」。だが、誰もが分かっている。――狙われているのは、私たちだ。担当者の一人が、意味ありげに微笑んで言った。「ご夫婦で同じ案件に関わるのは、やはり問題ですね」その言葉は、確認ではなかった。脅しだった。会議室を出たあと、私は小さく息を吐く。(夫婦であることが、こんなにも重いなんて)守ってくれるはずの関係が、今は、首にかけられた鎖の
last updateLast Updated : 2026-02-20
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第9話 血筋という名の影

九条玲司という男は、感情を表に出さない。それは生まれつきの性格だと、綾乃はどこかで思い込んでいた。だが、それが“選んだ姿勢”なのだと知ったのは、 ある一通の古い資料を目にしたときだった。九条ホールディングス創業期の内部記録。 監査資料の付録として、偶然紛れ込んでいたものだ。(……祖父の代?)そこに記されていた名前。――九条 玄雅。玲司の祖父。 澄江が、決して多くを語らなかった相手。資料は、淡々と事実だけを並べていた。創業直後の急成長。 政界との距離。 ある年を境に、突然切られた共同事業。そして、その余白に、短く書き添えられた一文。『私情が、経営判断に影を落とした可能性あり』私情。たったそれだけの言葉が、 異様に重く感じられた。その夜、 綾乃は意を決して、玲司にその資料を差し出した。「……これ、知ってる?」玲司は、一瞥しただけで視線を伏せた。「知っている」即答だった。「じゃあ、これは?」綾乃は、指で一文をなぞる。『私情』「それが、何を指しているかも?」沈黙。書斎の空気が、静かに張り詰める。やがて玲司は、低く息を吐いた。「祖父は、恋をした」それは、あまりに率直な言い方だった。「相手は……私の祖母よね」否定はなかった。「玄雅は、あの時代の人間だ。家と会社が、人生そのものだった」淡々とした口調。 だが、その奥に、わずかな棘が滲む。「私情を優先すれば、会社が揺らぐ。会社を守れば、人を失う」玲司は、資料から視線を上げた。「祖父は、後者を選んだ」(だから、お婆さまは……)綾乃の胸が、きゅっと締めつけられる。「祖父は、その選択を正しいと思っていた。でも――」玲司は、そこで言葉を切った。「でも?」「……祖父は、最後まで笑わなかった」その一言が、過去を一気に近づけた。「父も、同じだった」今度は、父の話。「九条家では、“感情は判断を鈍らせるもの”だと教えられる」綾乃は、はっとする。(だから、この人は……)「結婚も、信頼も、情も。すべて、管理できる範囲に置けと」それは、教えであり、呪いだった。「……じゃあ、私との結婚も?」問いは、自然に口をついて出た。玲司は、綾乃を見た。まっすぐに。 逃げも隠れもしない目で。「最初は、そうだ」胸が、少し痛む。「だが今は違う」綾
last updateLast Updated : 2026-02-21
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第10話 決断前夜

夜の九条邸は、相変わらず静かだった。広すぎる廊下を歩きながら、 綾乃は、自分の足音がやけに大きく響くのを感じていた。(決断前夜……か)そんな言葉が、ふと頭をよぎる。明日、 外部監査チームによる本格的なヒアリングが始まる。名目は形式的な確認。 だが実態は、誰を切るかを決めるための場だ。その対象に、自分の名前が含まれていることを、綾乃は知っている。そして―― 九条玲司が、その事実を知っていることも。書斎の灯りが、ついていた。ノックをする前に、中から声がした。「入れ」扉を開けると、玲司は机に向かったまま、書類に目を落としていた。その背中は、いつもより少しだけ、重く見える。「……こんな遅くまで?」「習慣だ」そっけない返事。 だが、それでいい。今夜は、言葉の装飾はいらなかった。綾乃は、机の向かいに座る。「明日から、始まるわね」「ああ」短い応答。「私、呼ばれると思う」「呼ばれるだろうな」否定しない。 その事実が、胸に刺さる。「もし――」言いかけて、綾乃は一度言葉を切った。「もし、私が“切られる側”に回ったら」玲司の手が、止まった。「どうするつもり?」視線が合う。反らさない瞳。 だが、決意を測りかねている目。「あなたは、会社を守る?」問いは、静かだった。責めてもいない。 試してもいない。ただ、知ろうとしているだけだった。玲司は、すぐには答えなかった。代わりに、机の引き出しから一つのファイルを取り出す。「これは、最悪の場合のシナリオだ」差し出された資料。そこには、九条ホールディングスが被る損失、切り捨てるべき事業、 そして――「……私の名前」「そうだ」玲司は、淡々と頷いた。「君を切れば、被害は最小で済む」その言葉は、残酷なほど正確だった。「夫婦関係を解消し、案件から完全に外す。そうすれば、説明はつく」綾乃は、資料を閉じた。(やっぱり……)覚悟はしていた。 それでも、胸の奥が、少しだけ痛む。「でも、それは――」玲司が続ける。「祖父と同じ選択だ」その一言で、部屋の空気が変わった。「人を切って、会社を守る」静かな声。「正しい判断だ。経営者としては」綾乃は、息を吸う。「……あなたは?」問い返す。「あなた自身は、どうしたいの?」一瞬の沈黙。その沈黙は
last updateLast Updated : 2026-02-22
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