不仲と噂された財閥夫婦ですが、今夜も愛されています のすべてのチャプター: チャプター 51 - チャプター 60

114 チャプター

第52話 水面下で交わる視線

その店は、都心から少し外れた場所にあった。 表通りから一本入った静かな通りに、控えめな看板だけが掲げられている。知らなければ通り過ぎてしまうような場所だ。 会員制のラウンジ。 重厚な扉の向こうには、外界とは切り離されたような落ち着いた空間が広がっている。 外からは中の様子がうかがえず、照明も音も、すべてが控えめに設計されている。 間接照明が柔らかく壁を照らし、低く流れる音楽が空気に溶け込んでいる。 ここに集まる客たちは、誰も声を張り上げない。 秘密を守る場所という空気が、自然と人の振る舞いを静かにさせていた。 南條沙耶は、奥のソファに腰を下ろし、足を組み替えながら、グラスに入ったシャンパンを軽く揺らしていた。 淡い金色の液体が、グラスの中でゆっくりと波打つ。 艶のあるマニキュアを施した指先が、照明を反射する。 深い色合いのネイルは、完璧に整えられていた。 指先の動きひとつまで、計算されたように美しい。 沙耶は、ゆったりと背もたれに身体を預けながら、店内の静けさを眺めていた。 人の気配はあるのに、騒がしさはない。 こういう場所は、嫌いではない。 ほどなくして、男が現れる。 神崎和真だった。 ジャケットを軽く羽織り、店内の暗さに慣れるように視線を動かす。 やがて沙耶を見つけると、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。「遅れてごめん。こういう場所、久しぶりでさ」 軽い調子。 まるで気心の知れた友人に話しかけるような口ぶりだった。 いつも通りの、人当たりのいい笑顔。 沙耶は、ちらりと視線を上げただけで、すぐに指先へと戻す。「あなた、相変わらずね。 ……でも、今日は機嫌が良さそう」 和真は肩をすくめ、グラスを手に取った。 テーブルに置かれていたシャンパンを、自然な動作で口に運ぶ。「まあね。 もうすぐ――綾乃が、手に入りそうだから」 その言葉を、まるで天気の話でもするように、嬉しそうに言う。 沙耶の唇が、ゆっくりと弧を描いた。「奇遇ね。私もよ」 グラスを傾けながら、ささやく。「玲司が落ちるのも、時間の問題だわ」 和真は、楽しそうに笑った。「順調じゃない。……じゃあ、綾乃のこと、早くモノにしちゃってね」 沙耶は、そう言って、爪先を眺める。 照明の下で、マニキュアが滑らかな光を放っていた。 新しく塗ったマニキュ
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第53話 重ならない真実

昼下がりの街は、穏やかだった。 綾乃は、マンションのエントランスで一度だけ深呼吸をしてから、足を踏み出す。「無理に誘ったなら、ごめん」 そう言った和真の声は、相変わらず柔らかい。 カジュアルな服装。手ぶら。 “何も企んでいない”ように見える振る舞い。「……いえ」 綾乃は、首を横に振った。「少し、外の空気を吸いたいと思っていたところだったから」 和真は、ほっとしたように笑う。「じゃあ、軽くランチでも。 静かな店、知ってるんだ」 その言葉に、警戒心よりも先に、安堵が胸に広がる自分に、綾乃は気づいていた。 ――誰かと、普通に過ごす。 それだけのことが、こんなにも久しぶりだなんて。 店は、川沿いの小さなレストランだった。 窓際の席。 人目も少なく、騒がしくもない。「ここ、よく来るの?」 綾乃が尋ねると、「一人のときにね」 和真は肩をすくめる。「考え事したいときとか」 それ以上、踏み込まない。 聞き出そうともしない。 料理が運ばれ、会話は途切れがちになる。 だが、その沈黙が、不思議と苦ではなかった。「……玲司は」 綾乃が、ぽつりと言う。「何も、言い訳もしないの」 和真は、フォークを置いた。「それは……つらいな」 同情だけ。 評価も、誘導もない。「俺はさ」 和真は、視線を外に向けたまま言う。「綾乃が、自分を責めすぎるの、好きじゃない」 綾乃の胸が、微かに揺れる。「今日は、ただご飯食べて、歩いて、それだけでいい」 その言葉は、間違いなく“優しさ”だった。 少なくとも、今の綾乃には。 同じ頃。 九条ホールディングスの応接室では、南條沙耶が、静かに紅茶を口にしていた。「急にお時間をいただいて、ごめんなさい」 そう言いながら、謝罪の色はない。「用件は?」 玲司は、距離を取ったまま、ソファに腰掛けている。「大したことじゃないわ」 沙耶は微笑む。「ただ……綾乃さんのことが、少し心配で」 玲司の視線が、わずかに動く。「最近、外でお見かけすることが増えたの」 沙耶は、何気ない調子で続ける。「神崎和真さんと、ご一緒に」 沈黙。「誤解しないで」 沙耶は、すぐに言葉を重ねる。「何もなかったとしても…… 世間は、そうは見ないでしょう?」 玲司は、何も答えない。「綾乃さん、寂しいのよ」
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第54話 寄りかかる場所

 夜の部屋は、思ったより静かだった。 引っ越してから数日。 このマンションにも、少しだけ空気が馴染んできた気がする。 ソファに腰を下ろし、スマホを置く。 何も通知はない。 それなのに、画面を伏せたまま、指先だけが落ち着かずに動いていた。(……連絡、来ないかな) 自分で思って、苦笑する。 玲司からではない。 それは、もう分かっている。 頭に浮かんだのは、川沿いを歩いたときの、和真の横顔だった。「無理しなくていい」 そう言った声。 同情でも、説教でもない、あの言い方。 あの日以来、胸の奥に張り付いていた重たいものが、 少しだけ軽くなった気がしていた。 スマホが震えた。 ――和真。『ちゃんと帰れた?』 たったそれだけのメッセージ。 なのに、心臓が跳ねる。『うん。ありがとう』 すぐに返してから、 送信した自分を、少しだけ恥ずかしく思う。『無理してないか?』『……正直、ちょっとだけ』 打ってから、ためらう。 でも、消さなかった。『それでいいよ』 返ってきた言葉は、短い。『強いふりは、似合わない』 胸の奥が、きゅっと鳴った。 ――そんなこと、玲司には言われたことがない。 綾乃は、膝を抱えた。 部屋の灯りが、柔らかく影を落とす。『今日は、ありがとう』 そう送ると、少し間があって、『俺は、何もしてないよ』『でも、助かった』 素直にそう打った。 和真は、すぐには返さなかった。 既読がついて、しばらくしてから。『そう言ってもらえるなら、よかった』 それだけ。 余計な言葉は、ない。 期待させることも、突き放すこともない。 綾乃は、スマホを胸に引き寄せた。(……ずるい) そう思うのに、嫌な感じはしなかった。 ただ、少しだけ―― この人がいなかったら、 自分はもっと、早く壊れていた気がする。 それが、依存の始まりだと、 まだ、名前をつけられずに。 翌日。 仕事からの連絡は、最低限だった。 休職手続きは、滞りなく進んでいるらしい。 それを確認して、ふっと肩の力が抜ける。 その瞬間、また、和真の顔が浮かんだ。(……会いたい、かも) その気持ちに、綾乃は驚いた。 寂しいだけ。 きっと、それだけ。 自分にそう言い聞かせる。 だが、 「一人で耐える」よりも、 「誰かと話
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第55話 遅れて芽生えた覚悟

 夜の東京は、海外よりもずっと騒がしいはずなのに。 九条ホールディングス最上階の執務室は、異様なほど静まり返っていた。 玲司は、デスクに置かれたスマートフォンを、しばらく見つめたまま動けずにいた。 画面に表示されているのは、一枚の写真。 夜の街。 レストランの前。 綾乃と、神崎和真が並んで歩いている。 距離が、近い。 肩が触れ合いそうなほど。 ――誰かが、隠し撮りしたものだ。 送り主は、非通知。 悪意を隠そうともしない。(……もう、ここまで来ているのか) 喉の奥が、ひどく乾いた。 一条竜星との話は、すでについている。 東亜リンクス商事の不正の構図も、すべて把握した。 ――終わったはずだった。 盤上の整理は、完璧だった。 だが。 守るべき“最重要の一点”だけが、 音を立てて崩れ始めている。 玲司は、背もたれに深く身を預け、目を閉じた。 思い出すのは、ずっと昔のことだ。 まだ、綾乃が“鷹宮の娘”として、財界の席に顔を出し始めたばかりの頃。 誰よりも静かで、誰よりも周囲をよく見ていた。 笑わないわけじゃない。 ただ、感情を外に出さないだけだった。(……最初から、あいつしか見ていなかった) それは、事実だ。 家同士の釣り合い。 財閥同士の合理性。 表向きの理由はいくらでもあった。 だが、本当は違う。 綾乃が、 誰にも寄りかからずに立っている姿に、ずっと、目を奪われていた。 だからこそ、自分がそばに立てば、彼女は“守られてしまう”と思った。 強すぎる光を、覆い隠すように。(……大切にしすぎたんだ) 触れないことが、尊重だと勘違いしていた。 踏み込まないことが、優しさだと、信じていた。 ふと、思い至る。 ――抱きしめたことすら、なかった。 新婚初夜も。 その後も。 同じ家に住み、 同じ名字を名乗りながら。 彼女の体温を、 確かめたことすら、ない。 それなのに。(奪われる気がして、焦っている) 自嘲が、胸に刺さる。 自分で距離を作った。 自分で、手を離した。 それでも、 他の男の隣にいる姿を見ただけで、こんなにも息が詰まる。 スマートフォンを、強く握りしめる。 怒りではない。 支配欲でもない。 ――恐怖だ。 このまま、綾乃の世界から、完全に締め出されてしまう恐怖
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第56話 一手先にいる女

南條沙耶は、相手の表情よりも“間”を見る女だった。 言葉そのものよりも、その前後に生まれる沈黙や呼吸の変化。 ほんのわずかな躊躇や、視線が泳ぐ一瞬。 そうしたものの中にこそ、人の本音が潜むことを知っている。 だからこそ、彼女は焦らない。 相手が口を開くよりも先に、状況を読むことができるからだ。 九条ホールディングスのラウンジ。 最上階に設けられたその空間は、来客用というより、限られた人間だけが使う私的な場所だった。 磨き上げられたガラス越しに、昼の光が静かに差し込んでいる。 街の高層ビル群が遠くまで見渡せる。 けれど室内は、どこか静まり返っていた。 厚いカーペットが足音を吸い込み、柔らかなソファが空気を落ち着かせている。 沙耶はソファに腰を掛け、足を組み替えながら、スマートフォンの画面を一瞥した。 画面に表示されたメッセージ。 ――既読。 それだけで、十分だった。「……動いたわね、玲司」 小さく笑う。 感情のこもらない、薄い笑み。 九条玲司がどう動くか。 それは、ある程度予想できていた。 一条竜星との話がついた時点で、沙耶は察していた。 玲司は、遅かれ早かれ“戻る側”に舵を切る、と。 男はいつだってそうだ。 失いかけて、初めて焦る。 それまでは、当然のように手元にあると思い込んでいる。 沙耶は、マニキュアを塗り直した指先を眺めながら、記憶を辿る。 綾乃という女。 大人しくて、控えめで、誰かに寄り添うことを自然に選ぶタイプ。 前に出て主張することは少なく、争うことも好まない。 だが―― ――だからこそ、厄介。 守られることに慣れていない女ほど、 “優しく差し出された手”に弱い。 そして一度それを受け取れば、簡単には離さない。「和真、今が一番楽しい時期でしょうね」 そう呟いて、沙耶はスマートフォンを操作した。 画面に表示されたのは、数枚の写真。 街中で並んで歩く和真と綾乃。 人混みの中、自然に並ぶ二人の姿。 何気ない瞬間を切り取っただけの写真だ。 距離は近いが、決定的ではない。 肩が触れそうな距離。 だが、恋人だと断定できるほどでもない。 だからこそ、使える。「事実より、誤解の方が、早く広がるのよ」 沙耶は知っている。 真実は、説明が必要だが、 誤解は、放っておいても育つ。
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第57話 まだ気づいていないうちの優越感

正直、こんなにうまくいくとは思っていなかった。 神崎和真は、コンビニの袋を片手に、綾乃のマンションへ向かうエレベーターの中で、ひとり口元を緩めていた。 エレベーターの鏡に映る自分の顔を、何となく眺める。 いつもの、柔らかい笑顔。 人当たりがよく、安心させる顔。 昔から、この表情は得意だった。 温めたスープと、彼女が好きだと言っていたパン。 それだけで、十分だ。 大げさなことは必要ない。 むしろ、こういう“さりげない気遣い”の方が効く。 ――いや、正確には。 “それ以上”を、もう手に入れかけている。「……ほんと、ちょろいよな」 小さく呟いた声は、誰にも聞かれない。 エレベーターの機械音だけが、静かに響く。 綾乃は、警戒しているようでいて、肝心なところが甘い。 人を見る目がないわけじゃない。 ただ、信じることをやめない。 疲れている時ほど、誰かの善意を疑えなくなる。 それを、和真は知っていた。 だから、急がない。 焦らない。 優しさを、少しずつ積み重ねる。 エレベーターが止まり、静かな廊下に出る。 足音が、柔らかく床に吸い込まれていく。 インターホンを押すと、少し間があってから、ドアが開く。「和真? どうしたの」 驚いた顔。 でも、嫌そうじゃない。 その表情を見た瞬間、和真の中で小さな確信が強くなる。「近くまで来たからさ。ちゃんと食べてるか気になって」 用意していた言葉を、自然に差し出す。 これも、慣れだ。 押しつけがましくない優しさ。 偶然を装った訪問。 どれも、計算のうちだった。 部屋に入ると、綾乃は少し申し訳なさそうに笑った。「気、遣わせてごめんね」「いいって。俺がしたくてしてるだけ」 本音と嘘の、ちょうど真ん中。 完全な嘘ではない。 だが、純粋な善意でもない。 和真は、ソファに腰を下ろしながら、室内を見回す。 まだ生活感の薄い、新しい部屋。 家具は最低限で、空間がどこか広く感じる。 引っ越してきたばかりなのだ。 ――ここには、玲司はいない。 それが、妙に心地よかった。(あいつ、今ごろ何してるんだろうな) 九条玲司。 海外だか、仕事だか。 理由なんて、どうでもいい。 重要なのは、今、綾乃の隣にいるのが自分だという事実だ。 それだけで十分だった。「ねえ、綾乃
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第58話 静かに牙を剥く夜

それは、何の前触れもなく届いた。 玲司のスマートフォンに表示されたのは、無機質なアイコンの匿名アカウント。 メッセージは短く、説明もない。ただ、数枚の写真が添付されているだけだった。 指先で画面をなぞり、表示された一枚目を見た瞬間、胸の奥が静かに冷えた。 ――綾乃。 そして、その隣に立つ、神崎和真。 マンションのエントランス。 夜の街灯に照らされた二人は、必要以上に近く、あまりにも自然に並んでいた。 感情が揺れ動くより先に、玲司は動いた。 画面を閉じ、即座に寺崎の連絡先を開く。「調べろ」 それだけを打ち、写真を転送する。 余計な言葉は、いらなかった。 数十分も経たないうちに、寺崎から折り返しが入る。 その早さが、事の重さを物語っていた。「匿名を使っていますが、やはり、南條沙耶でした。ただ……この、神崎和真と、奥様の写真は、作ったものではなく、本物のようで……」 寺崎の声は、どこか慎重だった。 言葉を選び、踏み込みすぎないようにしている。 玲司は、ソファに深く腰を下ろしたまま、視線を落とすこともなく言った。「かまわない、言え」 一切の感情を含まない声。 それが、かえって場の空気を張り詰めさせる。「はい。奥様と神崎和真は、ここ最近、よく一緒にいらっしゃるようで、奥様が購入したマンションに、神崎和真が出入りしているようです。でも、滞在時間は、ごく短く………」 寺崎が言葉を濁した瞬間、玲司の声が割って入る。「余計な私情は挟まなくていい」 遮るように放たれた一言に、寺崎は背筋を正し、すぐに続けた。「先日、南條沙耶と神崎和真が、郊外の会員制ラウンジで会っておりました。会話の内容はわかりませんが、二人は相当親しいようで、何かを企んでいると思えます。」 報告を聞き終えた瞬間、玲司はゆっくりと息を吐いた。 怒りでも、動揺でもない。 すべてが、想定の範囲内に収まったという、冷たい納得。「やはり、南條沙耶と神崎和真が結託しているということだな。寺崎」 寺崎は、次の指示を待つように、自然と背筋を伸ばした。「そろそろ、南條財閥と神崎財閥に、九条の恐ろしさを知らしめるときが来たようだ」 淡々と告げられた言葉の裏に潜むものを、寺崎は理解していた。 だからこそ、何も言わずに耳を傾ける。「お前は証拠を揃えろ。俺は、鷹宮財閥へ行っ
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第59話 盤面は、すでに完成している

 南條沙耶は、ワイングラスを指先で軽く揺らしながら、窓の外を眺めていた。 高層階の部屋から見える街は、すでに夜の色に染まっている。 昼間の喧騒が嘘のように遠く、窓越しに見える世界は、どこか現実感を失っていた。 赤いワインが、グラスの中でゆっくりと揺れる。 わずかに傾けるだけで、液体は滑らかに円を描いた。 夜景は美しい。 整えられた光の粒が、規則正しく並び、混乱などどこにもない。 車のライトが静かに流れ、ビルの窓が一定のリズムで輝いている。(……綺麗ね) まるで、自分が今、手の中に収めている状況そのものだと思った。 玲司。 綾乃。 和真。 それぞれが、それぞれの位置にいる。 誰も、盤面から外れていない。 ――もう、動かす必要はない。 沙耶はそう確信していた。 匿名アカウントから送った写真。 ほんの一押し。 疑心暗鬼という名の、最後のピース。 それが、静かに作用しているはずだった。 綾乃は、何も知らない。 和真が、どんな目で自分を見ているかも。 沙耶と和真が、どんな会話を交わしているかも。(可哀想だけど……仕方ないわ) 彼女は、少しだけ口角を上げる。 綾乃は“守られる女”でいた。 それが、すべての間違いだった。 守られるということは、選ばれる理由を持たないということ。 誰かに支えられている限り、 自分自身の力では立っていないということだから。(玲司も、愚かよね) 九条玲司。 彼は賢すぎた。 だからこそ、感情を後回しにした。 合理的な判断を優先し、必要な距離を保ち続けた。 だが、人間関係は計算だけでは保てない。 沙耶は知っている。 男という生き物が、 「安心」よりも「不安」に強く縛られることを。 失うかもしれないと感じた瞬間、 ようやく執着が生まれる。 和真は、その点、実に使いやすかった。 欲望に正直で、優しさを“武器”にできる男。 神崎和真。「もうすぐ綾乃が手に入りそうだ」 あの言葉を思い出し、沙耶は鼻で笑う。(あなたは、駒よ) だが、駒で十分だった。 綾乃の孤独を埋める存在。 玲司に“誤解”を与える存在。 たったそれだけでいい。 それ以上の役割など、必要ない。 そして、自分は――(玲司を、支配する) 愛情ではない。 必要とされることでもない。 彼女が欲し
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第60話 和真が墓穴を掘る夜

 神崎和真は、いつもと変わらぬ顔で、会員制ラウンジのソファに身を沈めていた。 外部の人間は決して足を踏み入れられない、選ばれた者だけの遊び場。 間接照明に照らされた室内には、上質な酒の香りと、笑い声が充満している。 集まっているのは、名だたる財閥家の御曹司たち。 そして、そのうちの何人かが連れてきた女たちだった。 モデル、女優の卵、インフルエンサー。 肩書は違えど、共通しているのは、容姿とスタイル、そして“慣れ”だ。 酒を飲み、大声で笑い、気に入った女を連れて帰り、一晩楽しむ。 それが、この仲間内では当たり前の慣例だった。 和真は、その輪の中心にいた。 グラスを傾けながら、余裕の笑みを浮かべている。 だが――どこか、いつもより神経質だった。 そんな中、同じく財閥育ちで、和真や綾乃と幼い頃から顔見知りの男が、からかうように声をかける。「なあ、和真。お前、綾乃を落とそうとしてるって聞いたけどさ。そろそろ、やっちゃった?」 その瞬間、周囲から「キャー!!」と、無責任な歓声が上がった。 女たちも、面白がるように笑う。 和真は、露骨に顔をしかめた。「おい、やめろよ」 苛立ちを隠しきれない声で言うと、彼はふと視線を落とし、腕時計を確認する。 パテック・フィリップのノーチラス。 無意識に身につけた、家柄と財力の象徴。「今日は綾乃も呼んでるんだ。そろそろ来るかもしれないだろ」 その言葉に、別の男が笑いながら割って入る。「綾乃は九時頃だろ? まだ大丈夫だって」 和真は答えず、グラスの中の氷を揺らした。 すると、少し空気を読んだようで読まない、別の一人が口を開く。「ていうかさ、なんで綾乃なんだ? 九条玲司が怖くないのか? あいつに逆らったら、親父たちもヤバイことになるんじゃ……」 一瞬、場の空気が静まる。 だが、和真は――笑った。 鼻で、軽く。「九条玲司なんか、怖くないさ」 その声には、根拠のない自信が滲んでいた。「ちゃんと、バックがいるからな」 そう言ってから、和真はわざとらしく間を置き、集まっている女たちをゆっくりと見渡す。「しかもさ」 口元を歪めて、続ける。「どこのあばずれかわかんない女より、鷹宮財閥の令嬢のほうが、オレの家柄とも合うだろ」 一斉に、笑いが弾けた。「わー!和真!!」「さすがクズだな!
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第61話 聞いてはいけない言葉を、聞いてしまった夜  

 綾乃は、ラウンジの前で足を止めていた。 指定された時間より、少しだけ早い。 和真に「無理しなくていい」と言われたのが、かえって気になっていた。 ガラス越しに見える柔らかな灯り。 聞こえてくる、賑やかな笑い声。(……騒がしいな) そう思いながら、ドアに手をかけようとして―― その瞬間、聞こえた。「お前、綾乃を落とそうとしてるって聞いたけどさ。そろそろ、やっちゃった?」 心臓が、強く脈を打つ。 聞き間違いだと思いたかった。 けれど、続く声が、それを否定した。「今日は綾乃も呼んでるんだ。そろそろ来るかもしれないだろ」 ――和真。 間違いなく、彼の声だった。 綾乃は、反射的に一歩下がり、ドアの陰に身を寄せた。 胸の奥が、ひやりと冷えていく。「なんで綾乃なんだ?九条玲司が怖くないのか?」 誰かがそう言うと、 和真は、笑った。「九条玲司なんか怖くないさ。ちゃんとバックがいるからな」 その言葉に、綾乃の指先が震える。(……バック?) 何の話をしているのか、理解したくなかった。 だが、次の言葉が、すべてを叩き壊した。「どこのあばずれかわかんない女より、鷹宮財閥の令嬢なら、オレの家柄とも合うだろ」 一瞬、音が消えたように感じた。 耳鳴りがして、視界が揺れる。(……私を、家柄で……?) 笑い声が弾ける。 「さすがクズだな」という声まで聞こえた。 それでも、和真は止めなかった。 得意げに、酒を煽る気配。 綾乃は、そこから一歩も動けなかった。 ――優しかった。 ――そばにいてくれた。 ――何も聞かず、何も責めず、手を差し伸べてくれた。 そのすべてが、 今、この数分で、別の意味を帯びていく。(……あれは、全部……) 善意ではなかった。 偶然でもなかった。 最初から―― “そういう目”で、見られていた。 喉の奥が、ぎゅっと締めつけられる。 声を出したら、壊れてしまいそうで、 綾乃は、ただ唇を噛みしめた。 ラウンジの中では、まだ笑い声が続いている。 自分の話題で、盛り上がっているとも知らずに。(……行けない) 今、このドアを開けたら、 泣いてしまう。 怒ってしまう。 すべて、悟られてしまう。 綾乃は、静かに踵を返した。 ヒールの音を立てないように、 一歩ずつ、廊下を離れていく。 
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