不仲と噂された財閥夫婦ですが、今夜も愛されています のすべてのチャプター: チャプター 41 - チャプター 50

114 チャプター

第42話 静かな逆流

南條沙耶が執務室を出て行ったあと、室内には、奇妙な静けさが残った。 ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた気がして、玲司は無意識に視線を落とす。 握っていたペンを、ゆっくりとデスクに置く。 そのまま、こめかみを軽く揉み、深く息を吐いた。 ――余韻だけを残して去っていく。 沙耶は、そういう女だ。 玲司は、インターホンに手を伸ばした。「寺崎を呼べ」 短く、それだけ告げると、立ち上がる。 窓際へ歩き、しばらく吸っていなかったタバコを取り出した。 火をつける指先は、わずかに硬い。 寺崎。 九条ホールディングスの“裏”を引き受ける、玲司の側近の秘書。 肩書は秘書だが、実際に玲司と行動を共にするのは、海外に行ったときだけだった。 公式の場に立つことはほとんどない。 だが、玲司が本当に信頼している数少ない男だ。 数分後、執務室のドアがノックされる。「入れ」 玲司の声に応えるように、ドアが静かに開いた。「社長、お呼びでしょうか」 長身で、鋭い目つき。 しかし、無駄のない洗練された所作。 寺崎は、視線を過不足なく保ったまま、室内に入ってくる。「寺崎、仕事だ」 その一言で、すべてを察したように、寺崎は黙って頷いた。「今回の件、最初からすべて調べて報告しろ」 玲司は、まっすぐに寺崎の目を見る。 探るでもなく、試すでもない。 命令だった。 寺崎も、同じように玲司の目を見つめ返し、「承知いたしました」 それだけを言うと、踵を返し、執務室のドアを出て行った。 説明はいらない。 確認も不要だ。 寺崎は、普段から九条ホールディングスと玲司の周囲の動向に、常に目を光らせている。 玲司が具体的に指示を出さなくても、今、何が必要かを理解できる男だった。 今回の調査も、同じだ。 ――東亜リンクス商事の不正は、どこから始まったのか。 ――九条ホールディングスに向けられた献金疑惑は、誰の手で流されたのか。 ――そして、そこに、綾乃はどう関わっているのか。 さらに言えば。 南條沙耶と、神崎和真。 二人が、裏で何をしているのか。 寺崎なら、すべてを洗い出してくる。 そう確信できた。 玲司は再び窓際に立つ。 もう一本、タバコに火をつけ、深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。 煙が、執務室の空気に溶けていく。(今の、俺たちのよ
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第43話 逃げ場のない静寂

部屋に戻った綾乃は、ベッドにも座らず、バッグを置いたまま立ち尽くしていた。 胸の奥に残るざらつきが、どうしても消えない。 やがて意を決したようにスマートフォンを取り出し、会社の同僚にメッセージを送る。『休職手続きをお願いします』 送信ボタンを押した瞬間、指先がわずかに震えた。 すぐに返信が届き、必要書類のデータがメールで送られてくる。 綾乃はパソコンを立ち上げ、黙々と必要事項を記入していった。 名前、部署、理由。 画面に並ぶ無機質な文字を見つめながら、感情を押し殺す。 最後に、『お騒がせしてすみません。よろしくお願いいたします』 そう一文を添え、データを添付して送信した。 作業が終わると、急に力が抜けたようにソファへ身を沈める。 深く、長いため息が漏れた。 自然と、昨夜の玲司の姿が脳裏に浮かぶ。 あの、執拗とも言える追及。 鋭い視線。 抑えきれない感情を隠そうともしなかった、あの表情。(……何だったの) 『夫婦生活は必要ない』 確かに、そう言ったのは彼だ。 なのに。 綾乃は、ソファの背にもたれながら、天井を見上げた。(九条の家に嫁いだ瞬間から、私は女を捨てなければならなかったのか……) まだ、三十そこそこ。 『夫婦生活は必要ない』と言われ、 ただ、同じ家に住み、 同じ苗字を名乗るためだけの婚姻。 それに、どんな意味があるのだろう。 ――跡取りは……? その考えが、胸を締めつける。 財閥の家では、跡取りについて強いこだわりを持つのが慣例だ。 鷹宮の家でも、自分以外に子どもがいなかったこともあり、 九条玲司との子どもを二人儲け、そのうち一人を鷹宮の跡取りに―― 父が冗談めかして、そう言っていたのを思い出す。 では、九条の家は? 玲司は、自分をただの飾りものの妻に据え、 他所で子どもを儲けようと考えているのだろうか。 そこまで考えた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。 無性に、悲しくなった。 頬に、冷たい感触が伝う。 一筋の涙。 それに気づいた途端、堰が切れたように、綾乃は泣き出した。 声を上げ、 涙を拭うこともせず、 ただ、ひたすら泣き続ける。 こんなふうに泣いたのは、いつ以来だろう。 思い出せないほど、遠い。 財閥家に生まれた時から、 感情をむやみに表に出すことは恥だと教えら
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第44話

その噂を耳にした瞬間、南條沙耶は思わず息を潜めた。 手元のスマートフォンを持つ指先が、わずかに止まる。 ほんの些細な情報のはずだった。財界の人間にとって、誰かの家庭事情など珍しい話ではない。だが、その内容は、彼女の胸の奥に鋭く刺さった。 ――綾乃が、家を出た。 それは、あまりにも予想通りで、そして決定的な一手のようにも思えた。 しかも、実家には戻らず、自分名義でマンションを購入したらしい。 誰かの庇護を受けるのではなく、自分の意思で“外に出た”という形。 その意味を理解した瞬間、沙耶の心臓が静かに高鳴った。 神崎和真から届いた簡潔な報告が、その事実を裏付けていた。 余計な感情も評価もない。ただ、起きた出来事だけを淡々と伝える文面。 短い文章。 無駄のない言葉。 それだけで、十分だった。 それが、かえって沙耶の胸を高鳴らせた。 事実だけが、静かに並んでいる。 感情を削ぎ落とした報告ほど、確かなものはない。 やはり、と思う。 九条玲司は、言い訳も弁解も一切しなかったのだろう。 あの男の性格を、沙耶はよく知っている。 説明することを好まない。 誤解を解くために言葉を尽くすこともない。 沈黙を選び、それを当然のように受け入れさせる人間だ。 それがどれほど女の心を追い詰めるかを、あの男は理解していない。 あるいは――理解した上で、気にも留めないのかもしれない。 綾乃は、きっと一人で考え続けたのだ。 夜の静かな時間に、誰にも相談できずに。 夫の沈黙を前に、答えのない問いを何度も繰り返しながら。 自分は飾り物の妻なのではないか。 跡取りは、別の女に産ませるつもりなのではないか。 その疑念は、一度芽生えれば止まらない。 小さな違和感が、次の違和感を呼び、やがてすべてが疑わしく見えてくる。 疑念は疑念を呼び、誰にも止められないほど膨らんでいったに違いない。 沈黙の中で育つ不安ほど、残酷なものはないのだから。 沙耶の予想通り、噂は瞬く間に広がった。 秘書課、関連会社、財界の内輪。 閉ざされた世界ほど、噂の伝播は速い。 廊下の端で交わされる小声。 会議の後に交わされる視線。 誰も大きな声では言わない。だが、確実に共有されていく。 「別居らしい」 「もう夫婦関係は破綻しているそうよ」 その言葉は、やがて“事
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第45話

 九条玲司が出張に出た―― その事実は、南條沙耶の胸に、じわじわと不快な熱を残していた。 はっきりとした怒りではない。だが、消えきらない棘のような違和感が、心の奥に残り続けている。時間が経つほどに、その感覚は静かに広がり、思考の隅々にまで染み込んでいく。 逃げた、とは思わない。 玲司はそんな男ではない。問題から目を背けるような性格ではないし、状況が混乱している時ほど冷静に動く人間だと、沙耶は知っている。 だが、避けられた可能性を否定できないことが、何より腹立たしかった。 もし本当に、自分と会うことを避けるための出張だったとしたら――。 そう考えるだけで、胸の奥に小さな火が灯る。 秘書の表情を思い出す。 オフィスの静かな照明の下で、感情を消したように整えられていたあの顔。 必要以上に丁寧で、余計なことを一切語らない、あの距離感。 表情の端々に滲んでいた、わずかな緊張。 あれは、事前に口止めされている顔だった。 社長の動きを余計に話さないよう、きちんと指示されている人間の顔。 ほんのわずかな違和感だったが、沙耶にはそれがはっきりと分かった。 沙耶は、自分の部屋に戻ると、ヒールを脱ぎ捨て、ソファに深く腰を下ろした。 高い天井と、整えられた室内。 柔らかな照明が落ちる静かな空間。 だが、その静けさは、かえって思考を止めてくれない。 頭の中では、何度も同じ問いが回る。 ――なぜ、今なの? 綾乃が家を出た直後。 世間が騒ぎ、九条家の内部が揺れているこのタイミングでの海外出張。 報道はまだ完全に収まっていない。むしろ、噂は少しずつ形を変えながら広がり続けている。 それは単なる偶然ではない。 沙耶は、ゆっくりとスマートフォンを手に取った。 テーブルの上に置かれていたそれを持ち上げ、画面を点灯させる。 画面に表示されるのは、神崎和真の名前。 短く呼び出し音が鳴り、すぐに通話が繋がる。「ねえ、和真。玲司の出張、行き先は?」 沙耶の声は落ち着いていた。 だが、その奥にはわずかな鋭さが混じっている。『まだ表には出てない。でも……』 和真は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。 通話越しに伝わる、そのわずかな沈黙。『九条家絡みの“火消し”だ。たぶん、綾乃絡みじゃない』 沙耶の指が、きゅっとスマホを握り締める。 無意識のう
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第46話 決断の夜

海外の夜は、東京よりも静かだった。 昼間は喧騒に満ちていたはずの街も、夜になると別の顔を見せる。車の流れはゆるやかになり、遠くのクラクションもほとんど聞こえない。高層ビルの窓からこぼれる光だけが、静かな海のように街を満たしている。 ホテルの高層階。 厚いガラス越しに広がる夜景は、どこまでも整然としていた。 窓の外に広がる街の灯りを前に、九条玲司はグラスを手に、じっと立っていた。 視線は街に向いているが、実際には何も見ていない。 思考は、ずっと遠く――東京に残してきたものへと向いている。 氷が溶ける音だけが、やけに大きく耳に残る。 静かな部屋の中で、その小さな音は妙に生々しかった。 出張という名目で、この場所に来た。 だが、商談そのものは、昼のうちにすべて片付いている。 必要だった会談は終わり、契約の方向性も固まった。 本来なら、ここで立ち止まる理由はない。 ――逃げたわけじゃない。 そう、自分に言い聞かせる。 この出張には意味がある。 会社のための仕事だ。 だが、綾乃と向き合う前に、距離を置いたことは事実だった。 それを否定する言葉は、どこにも見つからない。 ポケットの中で、スマートフォンが震える。 短く、規則的な振動。 取り出して画面を確認する。 表示されていたのは、寺崎からの報告だった。『奥様は、ご実家には戻られていません』 その一文だけでも、胸の奥に小さな緊張が走る。『ご自身名義で、都内にマンションを購入されたようです』 その一文を読んだ瞬間、胸の奥が、強く締めつけられた。 指先に、わずかな力が入る。 ――戻らない、という選択。 それは、あまりにも明確な意思表示だった。 綾乃は、九条の家でもなく、鷹宮の実家でもなく。 誰の庇護も受けない場所を、自ら選んだ。 守られた環境の中に留まることもできたはずだ。 家の名に頼ることも、実家に身を寄せることもできた。 それでも彼女は、そのどちらも選ばなかった。 それが、どれほどの覚悟を伴う行為か、玲司には痛いほどわかった。 財界の家に生まれた人間が、その庇護から外れるという意味。 それは単なる引っ越しではない。 孤立を選ぶということだ。 自分は、何をしていた? 噂を流し、世間を欺き、 「夫婦生活は不要だ」と切り捨て、 説明もしないまま、綾乃
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第47話 裏側で描かれた絵

インターホンが鳴った。 新しい部屋。 まだカーテンも完全には整っていない、綾乃一人のための空間。 画面に映った人物を見て、綾乃は息を呑んだ。「……どうして、あなたが」 そこに立っていたのは、想定していなかった顔だった。 だが、その来訪の意味を考えるより先に、綾乃は一度、モニターの電源を切った。 今は――誰とも向き合える状態ではなかった。  一方、海外。 九条玲司は、ホテルの応接スペースで寺崎と向かい合っていた。 時差も距離も関係なく、寺崎は必要な情報をすべて揃えてきている。「――調査結果の全容です」 寺崎は、タブレットを操作しながら淡々と話し始めた。「東亜リンクス商事の不正疑惑。最初に“構図”を描いたのは、南條沙耶です」 玲司の表情は動かない。「ただし、主導ではありません。彼女をそそのかした人物がいます」 画面に、一人の男の名前と経歴が表示される。一条 竜星(いちじょう りゅうせい) ――旧財閥・一条家の御曹司。 南條沙耶の元夫。婚姻期間は、わずか一年。「沙耶は、あなたへの感情を隠していなかった。一条は、それを知った上で結婚しています」「……愚かな話だな」「はい。結婚後、沙耶の心は一切こちらを向かず、一条は完全に“踏み台”として扱われた」 寺崎は、続ける。「離婚後、一条は“九条玲司を取り戻したいなら、まず妻を壊せ”と沙耶に吹き込みました」 綾乃を陥れ、 九条ホールディングスを揺さぶり、 その混乱を“南條財閥が救う”。 そうすれば、玲司は沙耶を見る。 ――あまりに稚拙で、あまりに短絡的な計画。「和真は?」「駒です。東亜リンクス商事の取締役連中も同様」 だが、と寺崎は一拍置いた。「神崎和真だけは、例外です」 玲司の視線が、鋭くなる。「以前から、綾乃様に執着がありました。今回の件は、彼にとって“好機”だった」 沈黙。 玲司は、すべてを理解した。 沙耶は、絵を描いた。 だが、筆を握らせたのは、別の男。 そして―― その絵の中心に、何も知らない綾乃が据えられていた。「だから、話に来た」 玲司が、低く言った。 寺崎が頷く。「一条は現在、こちらにいます。南條財閥とは距離を置き、自分の立場を守ろうとしている」 玲司は立ち上がった。「――会う」 商談という名の、交渉。 否、警告だ。 
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第48話 “想定外の訪問者”

 夜の帳が下りた頃、綾乃は新しいマンションのリビングで、一人きりの時間を過ごしていた。 都心から少し離れた、高層階。 必要以上に豪奢ではないが、財閥の娘として育った自分にとっては、むしろこの程度の簡素さが心地よかった。綾乃は、この物件を見た時、現金で即購入してしまった。相手の不動産屋は、目を丸くして驚いていたが、すぐに入居できるように、書類を揃え、鍵を渡してくれたのだった。 ――誰の顔色も、うかがわなくていい。 それだけで、胸の奥に溜まっていたものが、少しずつほどけていく気がした。 テーブルの上には、スーツケースから出した洋服類がいくつか残っている。 だが今は、片付ける気力もない。 ソファに身を沈め、スマートフォンを伏せる。 和真には、マンションを買ったことを伝えていた。 幼馴染として、相談相手として。 ――それ以上の意味はない、はずだった。 なのに。 インターホンが鳴った。 こんな時間に、誰だろう。 管理人? 宅配? モニターを確認しようとして、綾乃は一瞬、動きを止めた。 胸騒ぎ。 理由のない、不安。 それでも、意を決して画面を覗く。 映っていたのは―― 見覚えのある女だった。 艶やかな黒髪。 完璧に整えられたメイク。 夜の照明を味方につけた、計算された微笑。 南條沙耶。 綾乃は、息を呑んだ。(……どうして、ここが) 住所を教えた覚えはない。 誰にも、詳しい場所は話していないはずだった。 インターホンが、もう一度鳴る。 逃げたい。 居留守を使いたい。 そう思いながらも、体は動かなかった。 ――逃げ続けるのは、もう終わりにしたかった。 ロックを解除し、ドアを開ける。「こんばんは、綾乃さん」 沙耶は、まるで旧知の友人のように、自然に微笑んだ。「急に来てごめんなさい。でも……どうしても、あなたに会いたくて」 その声は柔らかく、敵意など微塵も感じさせない。 だからこそ、綾乃の背筋に、冷たいものが走った。「……何の用ですか」 できるだけ、感情を抑えて聞く。 沙耶は、ちらりと室内を見渡した。「素敵な部屋ね。玲司の家より、ずっと“あなたらしい”」 その一言に、綾乃の胸が、きしりと鳴った。「ここ、入っても?」 断る理由はいくらでもあった。 けれど、口から出たのは、別の言葉だった。
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第49話 海外での 玲司 × 一条竜星の対峙

空港から直行したそのビルは、夜の街に溶け込むように静かに佇んでいた。 高層ビルが立ち並ぶ通りの中では、決して目立つ建物ではない。外観はごく普通のオフィスビルで、ガラス張りの壁面に周囲のネオンが淡く映り込んでいるだけだ。 人通りも多くはなく、夜更けのオフィス街特有の、乾いた静けさが漂っている。 表向きは投資会社の支社。 海外資本を扱う小さな拠点という、いかにもありふれた看板が掲げられている。 だが、この場所が“裏の交渉”に使われていることを、九条玲司は最初から承知していた。 表に出せない資金の流れ。 企業同士の裏取引。 表向きの契約とは別に交わされる、もう一つの約束。 この街では、そうした取引が珍しくないことも、玲司は知っている。 ビルのエントランスを抜け、専用のエレベーターに乗る。 静かな機械音とともに、階数表示が上がっていく。 やがて到着したフロアは、灯りが落とされていて、人の気配がほとんどない。 夜間に使われる会議室は限られている。 玲司は迷うことなく廊下を進み、一つの扉の前で足を止めた。 会議室のドアを開けると、すでに一人の男が座っていた。 一条竜星。 端正な顔立ち。 年齢よりも若く見える整った輪郭と、落ち着いた佇まい。 だが、その目の奥には、常に計算が浮かんでいる。 笑っていても、決して油断していない目だった。 かつて南條沙耶の夫だった男。 テーブルの向こう側で、竜星は背もたれに軽く身体を預けている。 まるで旧友を迎えるような、気軽な姿勢だった。「久しぶりだな、九条」 竜星は、軽く笑って言った。「わざわざ海外までご足労とは。君も、相当追い詰められているらしい」 その声には、からかうような余裕がある。 玲司は、表情を変えない。 椅子に座ることもせず、テーブルの向こうにいる男を真っ直ぐ見据えた。「単刀直入に言う。一条竜星」 静かな声だった。「南條沙耶を使い、東亜リンクス商事を焚きつけ、九条ホールディングスを揺さぶった。その構図は、すでにこちらで把握している」 竜星は、一瞬だけ目を細めた。 ほんのわずかな反応。だが、その一瞬で、警戒が走ったのがわかる。「相変わらず、察しがいいな。だが……証拠は?」 口調は軽いままだった。「証拠の話をするために、ここへ来たわけじゃない」 玲司は、一歩踏み出
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第50話 和真が現れる(善意か、罠か)

夜のマンションは、静かだった。 まだ引っ越してきて間もないこの部屋には、人の生活の気配がほとんど残っていない。壁も床も整いすぎていて、まるで仮住まいのような空気が漂っている。 窓の外では、遠くを走る車の音がかすかに聞こえるだけだ。都心にあるはずのマンションなのに、夜になると意外なほど静まり返る。 綾乃は、ダイニングテーブルに向かい、一人で簡単な食事を済ませようとしていた。 まだ段ボールの残る部屋の中で、テーブルだけがぽつんと整えられている。 料理をする気力は、まだ戻らない。 冷蔵庫の中も、ほとんど空だった。 コンビニで買ったサラダとパン。 それだけでも十分だと思おうとしていた。 この数日、まともに食事をとった記憶が曖昧になっている。 空腹なのかどうかすら、よくわからない。 フォークを手に取ったそのとき、インターホンが鳴った。 静かな部屋に、突然響く電子音。 また、誰か。 胸がざわつく。 最近は、チャイムの音が鳴るたびに体がこわばるようになっていた。 取材かもしれない。 あるいは、好奇心だけの訪問者。 綾乃は、ゆっくりと立ち上がり、モニターの前へ向かう。 画面に映った顔を見た瞬間、わずかに息を止めた。 モニターに映ったのは――神崎和真だった。 紙袋を両手に抱え、困ったような笑顔。 いつもと変わらない、柔らかな表情。「急にごめん。ちゃんと、食べてないだろ?」 軽い口調。 責めるようでもなく、押しつけるようでもない。 綾乃は、少し迷ってから、ロックを解除した。 電子音が鳴り、エントランスの扉が開く。 数分後、玄関のチャイムがもう一度鳴った。 ドアを開けると、和真はほっとしたように笑った。 和真は、自然に室内へ入る。 まるで以前からこの部屋を知っているかのような、ためらいのない足取りだった。「ほら、温かいうちに」 そう言いながら、紙袋から容器を取り出していく。 テーブルに並べられたのは、手の込んだ総菜とスープ。 色とりどりの料理が、あっという間にテーブルの上に広がった。 香りだけで、空腹を刺激する。 温かい湯気が立ち上り、部屋の空気が少しだけ柔らかくなる。「……ありがとう」 綾乃は、小さく言った。 その言葉は、思っていたよりもかすれていた。「遠慮するなよ。こういうとき、誰かがそばにいるのは、
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第51話 静かに滲む違和感

マンションの朝は、思っていたよりも静かだった。 通勤ラッシュの時間帯を外れているせいか、外から聞こえるのは、遠くの車の音と、どこかの部屋で鳴る生活音だけ。 綾乃は、キッチンでマグカップを手にしたまま、ぼんやりと窓の外を眺めていた。 昨夜、和真が置いていった総菜の残り。 丁寧にラップがかけられ、冷蔵庫の中で整然と並んでいる。(……几帳面すぎる) そう思った瞬間、なぜか胸の奥が小さくざわついた。 昨日は、ありがたいと思った。 何も聞かず、踏み込まず、ただ「食べろ」「休め」と言って帰っていった。 あれは、確かに優しさだったはずだ。 それなのに。 綾乃は冷蔵庫を閉め、リビングを見渡す。 ソファの横。 クッションの向きが、少し変わっている。(私、ここ……直したっけ) たいしたことじゃない。 そう言い聞かせて、首を振る。 スマートフォンが震えた。 和真からのメッセージだった。『ちゃんと寝られた? 朝、冷えるから無理するなよ』 画面を見つめながら、指が止まる。(……どうして、冷えるって知ってるの) 昨夜、エアコンを切った話はしていない。 それに、この部屋は日当たりがよく、昼間はむしろ暖かい。 偶然。 きっと、偶然だ。 そう思いながら返信を打つ。『大丈夫。ありがとう』 送信した直後、既読がついた。『ならよかった。冷蔵庫のスープ、温めすぎないように。 あれ、沸騰させると味落ちるから』 綾乃の視線が、無意識に冷蔵庫へ向いた。(……そこまで、見てた?) 昨夜、和真がキッチンに立っていたのは、ほんの数分。 しかも、自分はダイニング側にいたはずだ。 胸の奥で、何かが小さく鳴った。 警報というほど大きくはない。 でも、無視していい音でもない。 午後。 買い物に出ようと玄関を開けたとき、綾乃は足を止めた。 ドアの外、共用廊下。 非常灯の位置を示すプレートの向きが、微妙にずれている。(……昨日、ここ通ったよね) 誰かが触った。 それだけのこと。 それなのに、頭の中に浮かんだのは、和真の顔だった。「考えすぎ……」 声に出して、自分を諭す。ちょっと神経質になり過ぎているのか。綾乃は自嘲気味に笑って、エレベーターへ向かって歩いて行った。 その夜。 テレビをつけたまま、ソファに座っていると、再びメッセー
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