All Chapters of 不仲と噂された財閥夫婦ですが、今夜も愛されています: Chapter 61 - Chapter 70

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第62話

鷹宮財閥、私邸。 東京の夜景を見下ろす高台に建つその屋敷は、要塞のように静まり返っていた。 財界の重鎮が住まうにふさわしい威圧感が、門をくぐった瞬間から訪問者を押し潰す。九条玲司は、広い玄関ホールの中央に立ち、背筋を張ったまま動かなかった。 磨き上げられた大理石の床、天井高く吊るされたシャンデリア、壁に並ぶ名家の系譜を誇示するかのような美術品。 ここは「個人の家」ではない。 鷹宮財閥という一大権力の、象徴そのものだ。――気を抜けば、喰われる。 玲司は自分に言い聞かせていた。執事に案内され、以前にも通された豪奢なリビングへ入る。 重厚なソファに深く腰掛けているのは、鷹宮正隆。 その視線は、挨拶の前からすでに玲司を値踏みしていた。「夜分に申し訳ありません」玲司は礼を尽くす。しかし、正隆は一切の社交辞令を切り捨てる。「座りなさい」低く、逃げ場のない声だった。 玲司が腰を下ろした瞬間、正隆は唐突に切り出す。「世間の噂とは怖いものだな」それは雑談ではない。 ――“理解しているぞ”という宣告だ。「私の落ち度です。申し訳ありません」玲司は迷わず頭を下げた。 誇りよりも、守るべきものを優先する覚悟は、すでに固まっている。顔を上げ、はっきりと言う。「経緯の報告と、このあと、綾乃を迎えに行きます」南條財閥、神崎財閥。 沙耶と和真の思惑。 東亜リンクス商事の不正という名の罠。 それらがどのように絡み合い、綾乃に嫌疑が向けられたのか。 玲司は感情を排し、事実だけを積み上げていった。正隆は一言も挟まない。 沈黙そのものが、圧力だった。「南條と神崎の目的は? なぜそんなことが起こったんだ?」試すような問い。 玲司は一瞬、視線を伏せる。 この答え次第で、九条は“切られる”可能性すらある。「私と綾乃が結婚をしたことです」正隆は微動だにしない。 続きを促す視線だけが鋭く光る。「南條の娘とは、以前から噂があったことは知っておられると思いますが、私は全く興味がありませんでした。 そして、綾乃と婚姻をしました。南條沙耶は、少し前に一条財閥と婚姻をしていたのですが、私たちの婚姻の話が出ると、急に離縁をして、綾乃を陥れるように企みました」財閥の婚姻は感情ではない。 だが、感情が絡めば、より醜く、より危険になる。「そこには、
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第63話 綾乃を迎えに行く

 雨が降り始めていた。 最初は気づかないほどの、細い雨だった。 街灯の光にかすかに浮かび上がるほどの、静かな雨。 都会の夜のざわめきに紛れてしまうような、弱い降り方だった。 会員制ラウンジの重いドアの向こう側で、 綾乃は、動けずに立ち尽くしていた。 ドアは完全には閉じていない。 ほんのわずかな隙間から、室内の空気が流れ出してくる。 耳に残るのは、笑い声。 酒のグラスがぶつかる音。 低く流れる音楽。 そして、楽しげな会話の断片。 その中に、聞き慣れた声があった。 ――神崎和真。 次の瞬間。「どこのあばずれかわかんない女より、鷹宮財閥の令嬢なら、オレの家柄とも合うだろ」 胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。 今まで積み上げていた何かが、 静かに、しかし確実に崩れ落ちる感覚。 否定してほしかった。 冗談だと、悪ふざけだと、誰かが言ってくれるのを待っていた。 聞き間違いだと笑ってくれる誰かを、 どこかで期待していた。 けれど、続いたのは歓声と嘲笑だけだった。 軽い笑い声。 酒に酔った男たちの無責任な声。 それが、すべてを肯定していた。 足が、勝手に後ずさる。 ドアノブに触れた指が、冷たい。 金属の冷たさが、現実を突きつける。 ――聞いてはいけない言葉を、聞いてしまった。 ドアを押し開けた瞬間、外の雨音が一気に流れ込んできた。 まるで、閉ざされていた世界が急に開いたように。 綾乃は走った。 ヒールが濡れた石畳に滑り、何度も体勢を崩しながら、 それでも立ち止まらなかった。 街灯の光が、濡れた地面に反射する。 靴音が、雨音に紛れて響く。 視界が滲む。 それが雨なのか、涙なのか、自分でもわからない。「……っ、」 息が苦しい。 胸が、締め付けられる。 心臓が早く打ちすぎて、呼吸が追いつかない。 ――私は、何を信じていたの? ――誰を、信じようとしていたの? その問いが、頭の中で何度も繰り返される。 そのときだった。「――綾乃!!」 雨音を切り裂くような声。 強く、はっきりとした声だった。 振り返るより先に、 強く、腕を掴まれた。「放して……!」 反射的に振り払おうとして、 その手の力に、止められる。「放さない!!」 低く、震えた声。 その声に、綾乃は顔を上げる。 そこ
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第64話 まだ、何も失っていないと思っている者たち

 神崎和真は、上機嫌だった。 会員制ラウンジの個室。 重いドアの向こうでは、まだ賑やかな笑い声が続いているが、この部屋の中だけは静まり返っている。 さっきまでの騒ぎが嘘のように静まり返った空間で、 彼はソファに深く腰を沈め、グラスの氷を揺らしていた。 薄暗い照明の下で、琥珀色の酒がゆっくりと揺れる。 氷が当たる乾いた音が、小さく響いた。「……まあ、こんなもんだろ」 独り言のように呟き、口元を歪める。 今夜の出来事を思い返しても、特別な後悔はない。 むしろ、思ったよりも順調だとすら感じていた。 綾乃が途中で姿を消したことなど、 大した意味を持たないと思っていた。 ――気分を害した? ――少し、聞こえちゃいけない話を聞いた? それくらいだ。 少し感情的になっただけ。 しばらくすれば、落ち着く。 どうせ、すぐに戻ってくる。 あるいは、あとで連絡を寄こす。 これまでだって、そうだった。「繊細すぎるんだよな」 そう言って、鼻で笑う。 綾乃は、素直だ。 優しくすれば、頼ってくる。 困った顔をすれば、放っておけない性格だ。 だからこそ、扱いやすい。 それを、和真は“理解しているつもり”だった。「九条玲司が迎えに来る? はは……」 ありえない。 九条玲司。 あの男は、いつも遅い。 決断も、言葉も、覚悟も。 頭は切れるくせに、感情に関してはいつも後手だ。 だからこそ、今まで綾乃を縛れなかった。 隙があったから、入り込めた。 ――俺のほうが、上手くやれる。 そう信じて、疑っていなかった。 携帯を手に取り、画面を眺める。 通知は、いくつか来ている。 だが、その中に綾乃の名前はない。 綾乃からの着信はない。「ま、そのうちだな」 気にも留めないように呟く。 グラスを空にし、和真は立ち上がった。 ジャケットを整え、軽く肩を回す。 今夜の相手をさせる女を、一人連れて、ラウンジを出て行く。 笑顔で軽口を叩きながら。 自分が、 もう選ばれる側ではないことに、 まだ、まったく気づかないまま。 ―――― 一方、 南條沙耶は、別の場所で、静かに微笑んでいた。 高層マンションの窓際。 足元から天井まで広がる大きなガラス窓の向こうに、夜の街が広がっている。 夜景を背に、ワイングラスを指先で回す。
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第65話 淡いピンク色のアルバム

 雨は、静かになりつつあった。 先ほどまで降り続いていた激しい雨脚は弱まり、空気の中にはまだ湿った冷たさが残っている。  街灯の下では、細かな雫がゆっくりと落ちていた。 それでも、九条玲司と共に九条邸へ戻るまでの道のりで、綾乃の体から冷えは抜けきらなかった。 濡れた髪。  震えの残る指先。 車を降りてから屋敷の玄関に入るまでの短い距離でさえ、体温が戻ることはなかった。 玄関を抜け、長い廊下を進む。 広い屋敷は、夜になるとひどく静かだった。  足音だけが、磨き上げられた床にかすかに響く。 玲司は無言のまま、だが確かな手つきで綾乃を支え、初めて自分の寝室へと導いた。 これまで綾乃が入ったことのない部屋だった。  夫婦でありながら、一度も足を踏み入れたことのない場所。 部屋に入るなり、濡れた上着を脱がされる。 指先は迷わない。 乱暴ではない。けれど、迷いのない動きだった。「……シャワーで温まって来い」 それだけ言うと、玲司は背を向け、寝室を出て行った。 引き止める言葉も出ないまま、綾乃は一人、浴室へ向かう。 扉を閉め、シャワーをひねる。 シャワーの湯が、肩を打つ。 最初は熱ささえ感じなかった。  冷え切っていた体が、少しずつほぐれていく。 髪を濡らしながら、鏡を見る。 鏡に映った自分の顔は、ひどかった。 目は赤く、まつ毛は濡れ、唇は震えている。 泣き疲れた顔。 それでも、もう、泣かなかった。 もう、十分に泣いたから。 シャワーを止め、タオルで髪を拭きながら外へ出る。 浴室を出ると、きちんと畳まれた自分のバスローブが置かれていた。 いつものもの。 見慣れたものなのに、ここにあるだけで、胸の奥が熱くなる。 誰かが用意した。  自分のために。 それが、わかるから。 バスローブを羽織り、寝室へ戻る。 部屋へ戻ると、テーブルの上には、湯気の立つスープ。 小さな灯りの下で、静かに湯気が立ち上っていた。 何も言わず、用意されたそれが、胸に沁みた。 結婚してから―― こんなふうに、気遣われたことは一度もなかった。 必要なものは与えられていた。  だが、こうした温度のある行為はなかった。 ソファに腰を下ろし、カップを手に取る。 一口飲むと、思わず息が漏れた。(……あったかい) 優しい味だった。
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第66話

 九条玲司と綾乃は、昨夜、初めて本物の夫婦になった。 長い時間をかけて、すれ違い、遠回りをしてきた二人だった。 同じ屋根の下で暮らしていても、心の距離は遠かった。 けれど昨夜―― ようやく、その距離が静かに埋まった。 やっと愛を確かめ合うことができた。 言葉だけでは足りなかった想いが、 触れ合う温度の中で、少しずつ形になっていった夜だった。 綾乃は玲司の愛の深さを、初めて知り、玲司に全てを預けることができた。 それは突然の感情ではなかった。 長く抑えられていたものが、ようやくほどけたような感覚だった。 これまで見えなかったもの。 気づかなかったもの。 玲司がどれほど自分を想っていたのか。 それを、ようやく知った。 心も体も。 すべてを預けてもいいと思えた瞬間、 胸の奥にあった不安や孤独は、静かにほどけていった。 玲司の腕の中は、 思っていたよりも、ずっと温かかった。 そして二人は、そのまま深い眠りについたのだった。 長い夜のあとに訪れた、 穏やかで静かな眠りだった。 ―――― その頃。 神崎和真は、自分の部屋で天井を睨んでいた。 部屋の灯りは落とされ、薄暗い空間にスマートフォンの光だけが浮かんでいる。 ベッドに仰向けに寝転びながら、 何度目か分からないほど同じ画面を見ていた。 ――おかしい。 ラウンジのあと、綾乃から連絡がない。 時計を見る。 もう、かなり時間が経っている。 怒っているにしても、拗ねているにしても、いつもなら、もう少し反応があるはずだった。 既読の通知。 短いメッセージ。 どんな形でも、何かしらの反応があった。「……既読もつかない、か」 スマホを握る指に、力が入る。 画面には、送ったままのメッセージ。 その横に並ぶ、既読のついていない文字。 胸の奥に、微かなざらつき。 それは、はっきりとした不安ではない。 だが、無視できない小さな違和感だった。 それが何なのか、和真はまだ言葉にできない。(俺が、何か間違えた?) 一瞬だけ浮かんだその考えに、 和真は眉をしかめる。 すぐに、その考えを振り払う。 違う。 自分は、うまくやってきた。 綾乃の心の隙間に入り込むことも、 頼らせることも、 全部、計算通りだった。 綾乃は、ちゃんと、こちらを向いていたはず
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第67話 “想定外”

南條沙耶は、いつものように鏡の前でリップを引いていた。 大きなドレッサーの前。 整えられた照明が、顔を均一に照らしている。 そこに映る自分の姿は、いつ見ても完璧だった。 髪は艶やかに整えられ、メイクは一切の乱れもない。 誰が見ても、隙のない令嬢。 リップスティックを静かに滑らせる。 完璧なライン。完璧な色。 わずかな歪みも許さない。 鏡の中の自分は、いつも通り美しかった。(計画は、もう完成している) そう信じて疑わなかった。 唇の輪郭を指先で軽く整えながら、沙耶はゆっくりと微笑む。 ここまでの流れは、すべて思い描いた通りだった。 九条玲司は綾乃を疑い、傷つき、疲弊している。 あの冷静な男も、さすがに心を揺らさずにはいられないはずだった。 そして、神崎和真は綾乃を囲い込みつつあり、噂も世間も、すでに綾乃を追い詰めている。 孤立した女は、弱い。 守ってくれる男がいなければ、なおさらだ。 沙耶はその構図を、冷静に作り上げてきた。 少しの情報操作。 少しの噂。 そして、男たちの自尊心。 それだけで、人間関係など簡単に崩れる。 あとは、玲司がこちらに縋ってくればいい。 疲れた男は、支えを求める。 その瞬間を、沙耶は待っていた。 自分が差し出す手に、玲司が縋る瞬間を。 ――だが。 部屋の扉が、静かにノックされた。 続いて、秘書が、硬い表情で入ってくる。 いつもは冷静な男だったが、どこか緊張した様子だった。「沙耶様……九条ホールディングスから、正式な通知が届いています」「通知?」 沙耶は眉をわずかに上げる。 交渉の打診か。 あるいは、牽制か。 どちらにしても想定の範囲内だと思った。 封筒を受け取り、ゆっくりと封を切る。 紙を開く。 そして、その瞬間。 沙耶の眉が、わずかに動いた。 それは、警告でも、牽制でもなかった。 断罪だった。 そこに並んでいたのは、簡潔で冷たい文章。 ・南條財閥が関与した一連の情報操作 ・東亜リンクス商事との資金の流れ ・神崎和真との接触履歴 すべてが、整理され、淡々と書き連ねられている。 感情は一切ない。 ただ、事実だけが並んでいた。「……どういうこと?」 声が、わずかに掠れた。 こんな形で来るとは、想定していなかった。 “話し合い”でも、“交渉”
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第68話

 九条玲司は、会議室の中央に立っていた。 広いガラス張りの会議室。 長いテーブルを囲む役員たちの視線が、一斉に彼へと向けられている。 窓の外には、朝の光を浴びた都市の景色が広がっていた。 だが、その景色を眺める者は誰もいない。 この場の空気は、張り詰めていた。 その中心に立つ玲司の表情には、迷いも、躊躇もない。 あるのは、冷静に研ぎ澄まされた決意だけだった。 長い沈黙のあと、玲司は口を開く。「南條財閥への取引停止を、即時実行する」 その言葉は、静かだった。 だが、会議室の空気を一瞬で変えるには十分だった。 役員の一人が、息を呑む。「……全面ですか?」 慎重に確認するような声。 九条ホールディングスにとって、南條財閥は決して小さくない取引先だった。 長年の関係もある。 普通なら、段階的な処置を取る。 それが常識だった。 だが――「全面だ」 即答だった。 迷いも、ためらいもない。 その一言で、室内の空気がさらに重くなる。 玲司は続けた。「神崎財閥についても同様だ。関連企業、出資先、すべて洗い出せ」 短く、はっきりとした指示。 資料をめくる音すら止まる。 だが―― 誰も、異を唱えない。 言葉を挟む者はいなかった。 玲司の声には、感情がない。 怒りも、焦りも、苛立ちも。 何一つ見えない。 だからこそ、逆らえなかった。 冷たい刃のような静けさが、そこにあった。 これまでの玲司は、会社を守るために動いていた。 利益、株価、関係企業。 すべてを天秤にかけ、最適解を選び続けてきた男だ。 だが、今は違う。 頭の中に浮かぶのは、ただ一つの光景だった。 ――奪われかけた。 それだけで、十分だった。 理屈も、損得も、もう関係ない。 玲司はゆっくりと視線を上げる。 そして、静かに言った。「奴らは、俺の妻に手を出した」 その言葉は、小さかった。 だが、会議室の全員が背筋を伸ばす。「それだけで、もう“情状酌量”は終わりだ」 空気が凍る。 神崎和真の名前を口にすることすら、もうしなかった。 理由は単純だった。 駒にすぎないからだ。 玲司の視界に入る価値すらない。 会議は、それ以上の議論を必要としなかった。 決定は、すでに下されている。 数分後、役員たちは静かに席を立ち、部屋を出ていく
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第69話 追い詰められて

南條沙耶は、静かな部屋で一人、スマートフォンを握りしめていた。 高層マンションの広いリビング。 いつもなら落ち着きを与えてくれるはずの間接照明が、今夜は妙に冷たく感じられる。 窓の外には夜景が広がっている。 整然と並ぶ街の灯りは、どこまでも穏やかで、何も起きていないかのようだった。 だが、この部屋の空気は違った。 何度リダイヤルしても、呼び出し音のあとに返ってくるのは無機質な留守電だけ。 短い電子音。 そして、機械的な音声。 それが終わるたび、沙耶はすぐにもう一度かけ直す。 だが結果は同じだった。「……出なさいよ、玲司」 声は低く、震えていた。 呼びかけている相手は、九条玲司。 これまでなら、こうして無視されることはなかった。 少なくとも、完全に遮断されることは。 だが今は違う。 九条ホールディングスからの取引停止。 南條財閥への圧力。 味方だと思っていた企業からの、相次ぐ距離の取り方。 昨日まで普通だった関係が、今日になって突然変わった。 電話に出ない。 会う約束も取れない。 周囲の態度まで、どこかよそよそしい。 すべてが、一夜にして変わった。(どうして……?) 沙耶は、ソファに腰を下ろし、爪を噛みそうになるのを必死で堪えた。 そんな癖、今まで出たことがない。 自分はいつも冷静だった。 感情に振り回される側ではなかった。 これまで、計画は完璧だった。 和真を使い、噂を流し、綾乃を孤立させ、玲司を追い詰める。 誰がどこで動くか。 誰がどの感情で揺れるか。 全部、計算していた。 ――なのに。 結果は真逆だった。「……綾乃」 その名前を口にした瞬間、 胸の奥から、どす黒い感情が一気に噴き上がる。「あの女が……!」 テーブルの上のグラスを掴む。 強く握りしめ、そのまま壁に叩きつける。 乾いた音とともに、ガラスが床に散らばった。 透明な破片が、ライトの光を反射する。「私の方が先だった……!」「私の方が、玲司を知ってた!」「私の方が、ふさわしいのに……!」 叫びは、誰にも届かない。 広い部屋の中で、ただ虚しく反響するだけだった。 沙耶が欲しかったのは、愛ではない。 選ばれることでも、寄り添うことでもない。 ――支配。 玲司の感情。 判断。 人生。 すべてを、自分の
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第70話 嫉妬が生んだ“決定的な証拠”

――そして、和真は沙耶を恐れ始める南條沙耶は、もう引き返せない場所に立っていた。部屋の明かりを落とし、ノートパソコンの画面だけが、彼女の横顔を照らしている。表示されているのは、いくつものフォルダ。「KJプロジェクト」「裏取引」「音声加工/最終版」どれも、本来なら“使う可能性があるかもしれない”その程度で、眠らせておくはずのものだった。だが今の沙耶に、温存という選択肢はなかった。(全部、奪われた)玲司の余裕。綾乃を迎えに行ったという事実。それだけで、沙耶の中の理性は、音を立てて崩れた。「……だったら、壊すしかないでしょ」沙耶は、ヘッドホンを耳に当て、ひとつの音声ファイルを再生する。――『今回の条件、表には出せないな』――『帳尻は、別の契約で合わせる』――『問題にならなければ、それでいい』九条玲司の声。低く、落ち着いた、どこにでもある“経営者の会話”。それ自体は、何の違法性もない。企業間の、よくある水面下の調整。だが――沙耶は、別ウィンドウを開く。そこには、同じ声質、同じ話速で構成された“存在しない会話”が並んでいた。――『資金は、海外口座を通せ』――『表の契約書は、後で差し替えればいい』――『監査? 形だけだ』音声の継ぎ目は完璧だった。息継ぎ。間。語尾の癖。すべて、何十時間も玲司の音声を解析して作られたもの。(……誰が聞いても、本人。当り前よね、いくら払ったと思ってるの)沙耶は、薄く笑った。これは、単なる録音ではない。“企業不正を示唆する一連の音声データ”。しかも、・日時・相手企業名・実在するプロジェクト名それらが、実際の取引履歴と矛盾しないよう、丁寧に組み立てられている。「これが出たら――」九条玲司は、説明責任を逃れられない。事実かどうか以前に、“疑惑”だけで、すべてが止まる。そこへ、スマートフォンが震えた。和真からの着信。「……なに?」声を作る余裕は、もうなかった。『沙耶、お前……何を考えてる?』和真の声は、明らかに違っていた。軽さがない。いつもの余裕もない。『九条側が、動き始めてる』『証拠を洗ってるらしい』沙耶は、ゆっくりと椅子にもたれた。「それで?」『お前、まさか……玲司を直接潰す気じゃないだろうな』一瞬の沈黙。その“間”で、和真は悟っ
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第71話 ほころびに気づく者、異常に触れてしまった者

九条ホールディングス本社。役員フロアの一室で、玲司は無言のまま音声を聞いていた。――『資金は、海外口座を通せ』――『表の契約書は、後で差し替えればいい』低く、落ち着いた声。自分のものだ。「……もう一度」玲司の指示で、音声は巻き戻される。法務顧問、内部監査責任者、情報セキュリティ部門の責任者。誰も、口を挟まない。三度目の再生が終わったところで、玲司はようやく口を開いた。「この音声、違和感がある」「違和感、ですか?」法務顧問が慎重に言葉を選ぶ。「内容自体は、確かに問題がありますが……声紋解析でも、ご本人と高い一致率が出ています」「声の“質”じゃない」玲司は、静かに首を振った。「言葉の選び方だ」全員が、息を詰めた。「俺は、“海外口座を通せ”とは言わない」一瞬、空気が止まる。「言うなら、『送金経路を分ける』『リスクを分散させる』だ」監査責任者が、はっとした顔をする。「……確かに」玲司は続けた。「それに、この“間”」音声の途中で、一時停止する。「ここ。不自然に、呼吸が浅い」情報セキュリティ責任者が、画面を覗き込んだ。「……編集痕、ですか?」「恐らくな」玲司は、淡々と言った。「これは“録音”じゃない。“構成された音声”だ」部屋の空気が、張り詰める。「作られた証拠だ。しかも、相当、俺の話し方を研究している」――誰が。その答えを、玲司は口にしなかった。だが、ひとつだけ確信していた。(和真じゃない)あれほどの精度で、“俺という人間”を再現できるのは――「出どころを洗え」玲司は、即座に指示を出す。「共有フォルダ、アクセス履歴、音声元データ、加工履歴。全部だ」そして、静かに付け加えた。「……これは、個人の感情で作られているが、プロの仕業だ。」怒り。執着。そして、ここまでやるためには、相当の恨みがあるだろう。「さっそくログの解析を始めます。結果はすぐに」そう言って情報セキュリティの責任者は、社長室を飛び出していった。一体だれが………(南條沙耶)その名が、玲司の脳裏をよぎった瞬間だった。同じ頃。綾乃は、カフェの窓際の席で、南條沙耶と向かい合っていた。「久しぶりね」沙耶は、整った笑みを浮かべている。それは“親しみ”ではなく、計算された角度の表情だった。(……距離を測られてい
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