All Chapters of 不仲と噂された財閥夫婦ですが、今夜も愛されています: Chapter 71 - Chapter 80

114 Chapters

第72話  “静かに狩りを始める”

九条ホールディングス本社。最上階の大会議室には、異様な緊張が漂っていた。取締役全員。主要株主。法務、内部監査、情報セキュリティ責任者。玲司は、会議の中央席に座り、資料も見ずに静かに口を開いた。「本日は、九条ホールディングスに対して行われた組織的な信用毀損行為について、事実確認と、対応方針を決定するための場です」スクリーンが点灯する。最初に映し出されたのは――音声データの解析結果だった。「こちらは、外部に流出した“九条に不正献金を示唆する音声”です」専門部署の責任者が説明を引き継ぐ。「改ざんは、非常に高度です。単なる切り貼りではありません」波形が拡大される。「実際には別々の会話を、“母音の残響”と“呼吸音”を調整することで、一続きの自然な会話に再構成しています」取締役の一人が息を呑む。「さらに、九条・献金・了承といった単語だけ、人の聴覚が印象づけやすい周波数帯に寄せられている」「聞いた人間が、“あったはずだ”と脳内で補完するよう誘導する構造です」玲司が静かに言った。「プロの仕事だ。個人ではない」次に映されたのは、東亜リンクス商事の不正送金記録。「不正送金自体は、事実として存在します」法務責任者が続ける。「しかし、送金ルート、決裁権限、承認者――いずれにも、九条…鷹宮綾乃の名前は一切存在しません」画面には、決裁フロー図。「彼女は、意図的に“関与しているように見える位置”に置かれただけです」「結果として――」玲司が淡々と補足する。「妻は解雇されなかった。だが、エネルギー部課長の職は外された」会議室が静まり返る。「これは、偶然ではない。社会的信用を削るための最適解だ」次に、グラフが表示される。九条ホールディングスの株価推移。「不正献金疑惑と、夫婦不仲説が同時に流された三日間で、株価は7.8%下落」数字が示される。「時価総額換算で、損害額は――約三百二十億円」株主の一人が低く唸った。「ここまでが、“九条に与えられた被害”です」玲司は一拍置き、次の資料を映した。会員制ラウンジでの録音。酒に酔った男の声。――「綾乃は、そのうち俺のものになる」――「九条玲司? 怖くない。ちゃんとバックがある」編集痕なし。加工痕なし。「神崎和真本人の肉声です」玲司は、そこで初めて視線を上げた。「以上
Read more

第73話 切り捨てられる側

異変は、朝の定例報告から始まった。神崎財閥本社――高層ビルの上層階、いつもと同じ時刻、同じ顔ぶれ。役員たちはコーヒーを手に、形式的な数字の確認をするだけのはずだった。だが、経営企画部の若い社員が、資料を手に硬直したまま立っている。視線は泳ぎ、唇はわずかに震えていた。「……九条ホールディングスからの契約解除通知です」その一言で、会議室の空気が変わった。ひとつではない。資料をめくるたびに、ページの端に並ぶ「解除」「終了」「見直し」の文字。資本提携、共同開発、物流ライン、海外ファンドを介した取引――一斉に、しかも例外なく。理由はどれも同じ文言だった。《経営判断による契約見直し》静まり返った室内で、紙を置く音だけがやけに大きく響く。「ふざけるな……!」役員の一人が、机を叩いて声を荒げた。九条との関係は、神崎財閥の対外信用そのものだった。それを、理由もなく、一方的に切るなど――あり得ない。即座に、九条側へ問い合わせを入れた。秘書を通し、担当役員を探し、複数のルートを使った。だが返ってきたのは、形式的な受領通知のみ。理由説明も、交渉の場も、一切、設けられない。まるで、扉そのものを閉ざされたかのようだった。「……切られた、ということか」誰かが呟いたその言葉に、会議室が沈黙した。否定する者はいない。否定できなかった。その日の午後。和真は、父に呼び出された。重厚な扉の向こう、応接室に入った瞬間、空気が凍りついているのが分かる。カーペットの柔らかささえ、今日は足に伝わらない。「座れ」短い命令。父は、書類から目を上げない。「お前、何をした」その声は低く、感情が削ぎ落とされていた。「……」言葉が出ない。否定も、弁明も、今は意味を持たないと直感していた。「九条には手を出すなと、あれほど言ったはずだ」和真は、言い返せなかった。胸の奥で、何かが崩れる音がした。「九条が動いたということは、もう“警告段階”じゃない」父は低く言った。それは、経営者としての冷静な判断だった。「お前は、謹慎だ。一切の対外活動から外れる」「父さん……」思わず漏れた声は、情けないほど弱かった。「これは、処罰じゃない。守ってやっているんだ」その言葉が、和真の胸に冷たく突き刺さった。守る――それは同時に、切り離すという意味でも
Read more

第74話 沙耶が「玲司は来ない」と誤信する最後の夜

南條財閥にも、異変は同時に起きていた。朝から社内はざわつき、秘書たちの足音がいつもより早い。九条からの取引が、一件残らず停止されたのだ。長年続いてきた案件も、将来を見据えた大型プロジェクトも、まるで最初から存在しなかったかのように。理由は、ない。問い合わせても、返答はない。電話は丁寧だが冷たく、メールは既読すらつかない。「調べなさい。すぐに」南條家当主の命令で、内部調査が始まった。会計、法務、海外部門――総動員で洗い出しが行われた。数時間後。一つの名前が浮かび上がる。一条財閥・一条竜星。海外ファンドを経由した不自然な資金移動。帳簿上は正規だが、実際には架空のコンサル費として流された金。表に出れば、確実に問題になる流れだった。その指示系統の末端に――南條沙耶。竜星の“指導”のもと、取引データの改ざんに関与した形跡。直接の署名はない。だが、操作ログと指示の時系列は、言い逃れを許さないものだった。だが、その夜。沙耶はまだ、余裕の笑みを浮かべていた。高級ラウンジの柔らかな照明の下、グラスを傾けながら、どこか退屈そうに言う。「玲司は、何も言って来ない」――玲司が、本気で自分を切るはずがない。そう、信じ切っていた。南條家の娘である自分を、九条が無視するなど、あり得ないと。そして――綾乃を呼び出した。「会社を巻き込むのは卑怯よ」沙耶は、まっすぐに言った。その目には、当然の理屈だとでも言いたげな色がある。「あなたが玲司と別れてくれたら、手を引いてあげる」それは交渉でも提案でもなく、“与えてあげる”という態度だった。綾乃は、静かに息を吐く。「会社なんて、関係ないわ」その言葉に、沙耶は一瞬、理解できないという顔をした。「私は――玲司とは、別れない」はっきりと。沙耶の眉が吊り上がる。思い通りにならないことに、苛立ちが滲む。「……あなた、本当に分かってないのね。私は南條よ。守られる立場なの」その言い方が、綾乃の神経を逆撫でした。席を立つ綾乃を、沙耶は追いかけ、腕を掴んだ。「何もできないくせに、あんたなんか、おとなしくしておけばいいのよ!」その瞬間。パァン――乾いた音が、夜に響いた。「誰がおとなしいって決めたのよ!!私だって、社会に出て働いていたんだから、あんたなんかに負けないわ!! 玲司
Read more

第75話 南條財閥 崩壊の引き金翌朝。

南條財閥の本社ビルには、異様な緊張が漂っていた。重厚な会議室の長机に、九条ホールディングスから届いた正式通知の資料が並べられる。・改ざんされた音声データの解析結果・共有サーバーへの不正アクセス履歴・沙耶と和真が画策していた写真・会員制ラウンジでの沙耶と和真の会話音声一枚一枚、淡々と説明されていく。どれも単体では「疑惑」に過ぎないはずのものが、時系列と関係性によって、一本の太い線で繋がっていた。そして、それは――すでに、ネット上に流出していた。「……株が」役員の一人が、震える声で呟く。モニターに映し出された株価チャートは、目を疑うような角度で下落していく。南條財閥。神崎財閥。寄り付きから売りが殺到し、値幅制限に張り付く寸前まで落ち込む。反発の兆しは、ない。「……止まりません」「買いが入らない……」市場は、完全に不信を突きつけていた。その日の株式市場は、下げ止まりで終了したが、両社の株価は、暴落したまま……回復の兆しを見せなかった。同時刻。南條家の私室で、当主は電話口に立っていた。相手は、一条竜星。「……これは、どういうつもりだ」低く抑えた声で詰問する。「娘を使い、ここまで事態を悪化させておいて」一条竜星は、動じた様子もなく応じた。『誤解です。ですが……』一拍置いて、含みのある声になる。『もし、沙耶をもう一度、私の妻にできるのなら――この騒動の終息に、私も一役買いましょう』その言葉に、当主は唇を噛んだ。取引として差し出される“娘”。それを許してしまったのは、他ならぬ自分だ。――甘やかしすぎた。南條家の名に守られているという驕りを、正す機会を、何度も見逃してきた。その夜。沙耶は、父に呼び出された。広い部屋に、二人きり。父の表情は、怒りよりも疲労に満ちていた。「お前は、しばらく外に出るな」静かな声。「お父様、なぜ私が罰を受けなければいけないんですか?」沙耶は、平静を装い、南條当主に問いかける。「沙耶!!九条玲司に執着するな。アイツはお前ではなく、鷹宮の娘を選んだんだ。いい加減、大人になれ!!」沙耶はキッと父親を睨み「お父様が、政略結婚でもなんでも、理由をつけて、玲司の元へ嫁がせてくれればよかったのよ」沙耶は、父親に向かって吐き捨てるように言う。南條当主は娘の顔を見つめ「違う
Read more

第76話  「自分だけが切られた」と知る

軟禁三日目の朝。南條邸の自室で、沙耶はベッドに腰掛けたまま、スマートフォンを強く握りしめていた。窓の外は、いつもと変わらない静かな庭。鳥の声さえ、今日はやけに遠く感じる。何度リロードしても、画面に表示されるニュースは変わらない。南條財閥と神崎財閥の不祥事は、連日、大手経済紙から週刊誌、ネットニュースに至るまで、見出しを占拠していた。「信用失墜」「内部不正」「財閥令嬢の関与」刺激的な言葉が、無遠慮に並んでいる。だが――「……?」沙耶の指が、ふと止まった。神崎和真。彼の名前が、どの記事にも出てこない。何度スクロールしても、どんな関連ワードで検索しても、出てくるのは“神崎財閥”“組織改編”“若手役員の処分”といった、ぼかされた表現ばかりだ。神崎財閥は「経営判断の失敗」として責任の所在を曖昧にし、一部役員の更迭と組織改編を発表していた。和真は、表向きは“療養中”という扱いで、完全に姿を消している。――やられた。その事実が、じわじわと沙耶の神経を逆撫でする。一条竜星も同じだった。海外拠点に移ったという噂だけが、業界内で囁かれている。名前は出ても、「直接的な責任追及」は、どこにもない。――私だけ?沙耶の胸に、冷たいものが落ちた。自分の名前だけが、「南條沙耶」「財閥令嬢」「不正関与」そうした言葉と並んで、はっきりとネットに残っている。まるで、最初から“生贄”として用意されていたかのように。「……そんなはず、ない」震える声で呟く。私は、利用されただけ。指示された通りに動いただけ。和真も、竜星も、同じことをしていた。同じように、九条玲司と鷹宮綾乃を追い込もうとしていたハズ……なのに――切られたのは、自分だけ。守られるはずの立場が、最後の盾になるはずだった“南條”の名が、今は、真っ先に矢を集めている。「……なんで……私だけ……」その瞬間。スマートフォンが震えた。画面に表示された名前を見て、沙耶の呼吸が、一瞬止まる。――一条竜星。迷う暇もなく、通話を取った。『やっと現実が見えてきたか?』電話口の声は、驚くほど落ち着いていた。すでに、すべてを把握している者の声だ。「……どういうこと?あなたも、和真も……」『九条玲司とは、もう話はついている』その一言で、沙耶の世界が音を立てて崩れた。『今
Read more

第77話 和真がすべてを吐く夜

その夜。神崎家の別邸は、異様なほど静まり返っていた。外灯の淡い光だけが、重厚なカーテンの隙間から床を細く照らしている。和真は、その暗い部屋で一人、グラスを傾けていた。氷はすでに溶け、酒はぬるく、喉を焼くだけだったが、それでも彼は煽るように流し込む。父から言い渡された謹慎命令。それは表向きは“守るため”の措置だった。だが、和真にはわかっていた。これは保護などではない。“隔離”だ。切り離され、外の世界から遮断されるための。テーブルの上で、スマートフォンが微かに震えた。その音だけが、静寂の中でやけに大きく響く。表示された名前を見て、和真は口元に苦い笑みを浮かべた。――沙耶。出るつもりはなかった。出てしまえば、もう何も取り繕えなくなる気がしたからだ。やがて通話は切れ、留守電に切り替わる。スピーカーから流れてきたのは、震えを必死に抑えた声だった。『……どうして、私だけなの?ねえ、和真……あなたも関わってたでしょう……?』その声を聞いた瞬間、和真の中で、何かが完全に折れた。胸の奥で張り詰めていた糸が、音もなく切れる。「……ごめん」誰もいない部屋で、そう呟く。謝る相手がここにいないことは、わかっていた。彼は、すでに知っていたのだ。九条玲司が動いた時点で、“切られる順番”は最初から決まっていたことを。一条竜星は逃げる。神崎財閥は守られる。そして――南條沙耶だけが、すべてを背負う。グラスを置いた指が、かすかに震える。ふと、脳裏に浮かんだのは、幼い頃の記憶だった。まだ何も知らなかった頃の、綾乃の笑顔。小さな手で無邪気に笑いかけてきた、あの顔。――鷹宮財閥と神崎財閥。いつか、綾乃は自分の妻になる。そんな妄想を、本気で信じていた子供時代。守られ、与えられ、当然のように未来が約束されていると思っていた。その慢心のまま成長し、気づけば和真は、女を選び、遊び、捨てる側になっていた。散々、いろんな女と遊んできた。信じるふりをして、信じられることを笑っていた。綾乃も、そうだった。自分を疑いもせず、まっすぐな目で見てきた彼女を、内心ではどこか滑稽に思っていた。――どうせ、最後に残るのは俺だ。そんな傲慢さを、疑いもしなかった。だが、九条玲司は違った。感情を表に出さず、常に冷静で、堂々としていた。威圧
Read more

第78話 玲司が“最終手”を打つ

夜明け前。九条ホールディングス最上階。フロア全体を包む静寂の中、玲司は床から天井まで続くガラス窓の前に立っていた。眼下には、まだ眠りきらない都心の夜景が広がっている。ネオンは弱まり、代わりに白み始めた空が、ゆっくりと夜を押し退けていた。彼の手元にあるタブレットには、神崎和真から提出された詳細な供述書と、それを裏付ける新たな証拠データが整然と並んでいる。日時、金額、指示系統。誰が何を知り、どこまで関与していたのか――すべてが、曖昧さを許さない形で可視化されていた。「……揃ったな」低く、独り言のように呟く。感慨はない。ただ、予定されていた駒が、予定された位置に収まったという事実だけがあった。南條沙耶。神崎和真。一条竜星。誰が主犯で、誰が従属だったのか。誰が逃げ、誰が切られたのか。混線していた利害と嘘は、すべて整理され、“意図通り”に並び直されていた。玲司はタブレットを操作し、次の資料へと目を走らせる。神崎財閥――和真が全面的に協力したことで、凍結されていた契約のうち、約半分にあたる取引が段階的に再開されることが決まっていた。全面解除ではない。だが、存続には十分な条件だ。神崎側にとっては、これ以上望めない“落としどころ”だった。一方で、南條財閥は違う。既に、司法ルートは避けられない段階に入っている。その証拠に、数時間前――南條当主本人から、九条の秘書室へ電話が入っていた。「……謝罪をしたい。直接、九条玲司殿に」その言葉と共に、正式な面会予約が入れられている。交渉ではない。取り繕いでもない。追い詰められた者が選ぶ、最後の礼儀だった。玲司は、タブレットを閉じ、電話を手に取る。「予定通りだ。南條家には、司法ルートを。神崎には、追加条件を提示する」声は淡々としていた。感情を挟む余地はない。指示を受けた側も、それを当然の流れとして受け止める。通話を切った直後、今度は別の着信が入った。表示された名前を見て、玲司は一瞬だけ、視線を細める。――一条竜星。「沙耶は俺の元へ帰ってくる。謝罪とお詫びをしたい」電話越しの声は、強がりと焦りが混じっていた。主導権を握っているつもりで、実際には何も握れていない声だ。玲司は、それには答えなかった。否定も肯定もせず、ただ通話を終える。返答そのものが、彼に
Read more

第79話 空港

出発ロビーのガラス越しに、滑走路を眺めながら、沙耶は立ち尽くしていた。行き交う人々の足音や、アナウンスの声は耳に届いているはずなのに、どこか遠い。巨大な窓の向こうで、航空機がゆっくりと動くたび、自分の人生もまた、抗えない力で運ばれていくように感じられた。一条竜星の元へ行けば、守られる。少なくとも、表向きは。財閥の名、肩書、住まい、生活――何一つ困ることはないだろう。だが、胸の奥にあるのは、安堵ではなかった。言葉にできない重たい沈黙が、心臓のあたりに居座っている。父親の南條当主の声が、否応なく蘇る。「お前では九条の嫁は勤まらん。それが、なぜわからんのだ。一条くんのところへ行け。少なくとも彼なら、お前を愛してくれる。大切にしてもらって、子どもでも産め。お前にできるのは、それぐらいしかない」一切の迷いも、情もない断言だった。娘を思っての言葉だと、自分に言い聞かせようとしても、どうしてもできなかった。沙耶にとって、それは“愛情”ではなく、切り捨ての宣告にしか聞こえなかったからだ。一条竜星……政略結婚だった。それは、南條家が望んだものではなく、一条家から申し出があった話だと聞かされている。条件は良かった。家同士の釣り合いも、世間体も、すべて整っていた。けれど、沙耶は嫌だった。九条玲司を、どうしても諦められなかった。幼い頃から、当たり前のように隣にいた存在。いつか自分の隣に立つのは、彼なのだと、疑いもせずに生きてきた。だが、一条竜星と結婚して一年後、自分が長年想い続けた九条玲司が、自分の幼馴染の、鷹宮綾乃と結婚したと聞いた。その知らせを受けた瞬間、頭の中が真っ白になった。怒りとも、悲しみともつかない感情が、一気に込み上げてくる。――玲司にとって、自分は無価値だったのか。そう思った途端、無性に腹が立った。胸の奥に溜め込んでいた想いが、すべて嘲笑われたような気がした。衝動的に、沙耶は竜星の元を飛び出した。その頃、沙耶は思っていた。玲司は、南條の家と鷹宮の家を天秤にかけたのだと。より強く、より有利な方を選んだだけなのだと。だが………今、こうして一人で立ち尽くしていると、その考えが揺らぎ始める。自分は逃げたのか、それとも捨てられたのか。選ばれなかったのか、最初から選ぶ資格すらなかったのか。その答えを考えること
Read more

第80話 後悔

 神崎家別邸。 夜の静けさが、広い部屋に重く沈んでいた。 天井の高いリビング。 磨き上げられた床に、間接照明の淡い光が落ちている。 外庭の木々を揺らす風の音さえ、今夜はやけに遠い。 神崎和真は、テーブルの上に置かれた空になったグラスを、ただ見つめている。 氷は溶け切り、グラスの内側には、かつて注がれていた酒の名残だけが薄く残っていた。 指先で縁をなぞると、ぬるい水滴がつく。 もう一杯、注ぐ気にはなれなかった。 自分だけは守られた。 財閥も、立場も、名も。 外から見れば、失ったものなど何一つないように映るだろう。 神崎家の跡取り。 傷ひとつ負わず、騒動からも距離を置いた男。 だが、胸の奥にぽっかりと空いた穴の大きさに、和真は今さら気づいていた。 失ったのは、形のあるものではない。 取り戻すことのできない、何か決定的なものだった。 和真は、ふと目を閉じる。 子どもの頃の記憶が、否応なく浮かび上がってきた。 綾乃と沙耶と自分。 そして、九条玲司。 玲司だけは、少し年上だったが、財閥同士の集まりには、必ず一緒だった。 大人たちの重たい会話の合間で、子どもたちは解放されたように走り回っていた。 庭園の芝生。 長いテーブルの端でこっそり食べたデザート。 叱られながらも、笑い合った記憶。 和真は、綾乃を気に入っていた。 笑顔がかわいくて、明るくて、 自分の話を、まっすぐな目で聞いてくれる。 将来は絶対に自分の奥さんになるんだと、疑いもしなかった。 それは恋というより、当然の未来のように思っていた。 しかし、高校生の頃。 あるパーティーに行った先で、九条玲司に初めて会った。 子どもの頃の「少し年上の兄」の印象とは違い、 そこに立っていたのは、落ち着いた、大人の男だった。 言葉は多くなく、態度も静かで、 その存在感だけで場を支配しているように見えた。 そして―― 冷静沈着な瞳が、いつも綾乃の姿を追いかけていたことにも、和真は気づいていた。 あの視線。 何も語らないのに、すべてを知っているような目。 それを見た瞬間、胸の奥に生まれた違和感を、 当時の自分は、決して認めようとしなかった。 自分が綾乃に執着したのは、ただのヤキモチだったのか。 それとも、初恋の失恋の痛手を癒すためだったのか。 今とな
Read more

第81話 水面下

表では崩れ、裏では支えられる。 報道や世間の視線では、南條財閥、神崎財閥、一条家―― 三つの名家はいずれも大きく傷を負ったように映っていた。 ワイドショーでは連日、憶測と批判が飛び交い、 経済紙は「勢力図の変化」と煽り立てる。 株価は一時的に揺れ、スポンサー企業は慎重な姿勢を見せた。 だが実際には、致命傷は避けられている。 三つの家は、ぎりぎりのところで“財閥としての体裁”を保っていた。 その微妙な均衡を、誰が整えていたのか。 答えは一つだった。 九条玲司。 すべての調整は、九条ホールディングスの名の下に、水面下で行われていた。 表向きは強硬な取引停止。 だが裏では、影響が連鎖しないよう緻密なラインが引かれている。 金融機関への根回し、関連企業への保証、 必要最低限の救済措置。 九条ホールディングスとして、南條や神崎といった国内の財閥と、真っ向からやり合っても得はない。 全面衝突は、勝った側にも必ず傷を残す。 それならば―― 『九条に助けられた』という恩を売っておくことは、決して損ではないだろう。 玲司は、感情ではなく、常に損益と未来で判断していた。 怒りも、憎しみも、意思決定には持ち込まない。 決着がついたと察した玲司は、翌日から、契約解除した取引について、綿密な調査を行った。 過去の不正、将来性、関係者の動き。 水面下で誰が何を動かしていたのか。 再発の可能性はあるのか。 すべてを洗い出したうえで、 いくつかの事業については「再開」させた。 切るべきものは切り、残すべきものは残す。 感情を挟まず、未来だけを見る。 その姿勢は、冷酷とも言える。 それは慈悲ではない。 誰かを救うための判断ではなく、あくまで合理性の結果だった。 だが、完全な破壊を選ばなかった理由が、玲司自身にもはっきりとあった。 それは、 自分が綾乃を失いかけた、その恐怖を知ったからだった。 財閥を潰せば、恨みは残る。 恨みは、いずれ刃になる。 そして、その刃は、いつか綾乃に向くかもしれない。 さらに言えば―― 自分たちの子供にも、それは及んでしまうだろう。 その可能性を、玲司は決して許容できなかった。 玲司は窓の外を見て、ふと、鷹宮正隆の言葉を思い出した。「子どもを二人作って、一人は鷹宮の跡取りにしてくれ」 
Read more
PREV
1
...
678910
...
12
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status