丘を越える風が、春の匂いを運んでいた。修道院の鐘の音が遠ざかり、王都へと続く街道を一台の馬車が進んでいく。 昼下がりの光は柔らかく、揺れる木漏れ日が馬車の内側に模様を描いていた。 セリーナは窓辺に頬を寄せ、淡く霞む空を見つめていた。草の香り、馬の息づかい、そして遠くで聞こえる鐘の余韻。いつもと同じ帰り道――そう思った。 けれど胸の奥に、どこか針のようなざらつきを覚えていた。 ――そのときだった。 街道の先、砂煙がひと筋。陽炎の向こうから、二つの影がゆっくりとこちらへ向かってくる。 影はやがて分かれた。一人は右から速度を上げ、馬車と並走する。もう一人は左後方に付き、馬車の死角へ滑り込む。 馬の足音が風を裂き、砂を跳ね上げた。二人の動きは、まるで呼吸のように噛み合っていた。 「……近づいてくる……」 そのつぶやきが空気を震わせたように、外がざわめいた。 「なんだ?」 「飛ばせ! 早く城へ!」 御者が手綱を叩く。馬がいななき、車輪が跳ねる。セリーナの体が少し浮いた、その刹那―― ボォン! 乾いた爆音。前方に白い煙が立ちこめ、視界を覆う。 「煙幕だ!」 煙が馬車の中へ入り込み、鼻を突く薬臭が満ちた。喉が焼け、息が詰まる。 「う……ごほっ、ごほっ……!」 続いてもう一発。前方にも煙が上がり、護衛の兵たちがそちらへ引き寄せられる。馬車の前方が混乱する隙を突き、左後方の影が動いた。 ガチャ―― 馬車の後ろが開き、冷たい外気が流れ込む。白煙の向こう、黒いフードを深く被った男の影が現れた。 「……!」 風が一気に抜ける。煙が晴れ、フードがめくれ上がった。その下から現れたのは鋭い眼差し――ガットの瞳だった。視線がぶつかる。一瞬、時間が止まる。 言葉もなく、彼は腕を伸ばす。ごつごつした掌がセリーナの手を掴み、力強く引き上げた。 「こい!」 視界が傾き、身体が宙に浮く。 「っ……!」 次の瞬間、風と共に胸の中へ抱き寄せられた。背に感じる硬い革の感触、熱い呼吸。世界が一瞬で遠ざかる。 ガットは無言のままナイフを抜き、馬車の柱に紙片を突き刺した。 ――王家への身代金要求。 その一枚だけを残し、馬を蹴る。 ガットはセリーナを前に抱きかかえた。馬が嘶く。蹄が土を蹴り、森の影へと飛び込んだ。背後で兵士の怒号が木
Last Updated : 2026-02-28 Read more