Masuk王女セリーナが連れ去られた。犯人は、貧しい村出身の二人の男。だが、彼らの瞳にあったのは憎しみではなく――痛みだった。 閉ざされた小屋で、セリーナは知る。彼らが抱える“事情”と、王国が見落としてきた現実に。 恐怖、怒り、そして理解。交わるはずのなかった三人の心が、やがて静かに溶け合っていく。 「助けてあげて」。母の残した言葉を胸に、セリーナは自らの“選択”を迫られる。 ――これは、王女として生きる前に、人としての答えを、彼女は見つけにいく。
Lihat lebih banyak――湿った風が吹く森の奥。人里離れた小屋の前で、三人の影が立ち止まった。 ガットが扉を押し開け、セリーナの肩を支えて中へ導く。目隠しをされたままの彼女は段差を見つけられず、わずかによろめいた。その瞬間、ガットの手がそっと背を支えた。 古びた木の匂い。閉め切られた空気に混じる、ほのかな潮の香り。小屋の中には、淡い灯火が二つだけ揺れている。 ベッドに腰を下ろさせると、コビーが前に回った。 「ごめんね、王女さん。少し我慢してね。」 彼は両手を、次いで足首をきつめに縛った。縄が擦れる音と一緒に、ためらうような息づかいが聞こえた。 「僕たちは王女さんを傷つけたりは絶対にしない。だから安心して。」 セリーナは小さくうなずく。 (どうしてだろ……全然怖くない……) ガットの声が低く響く。 「王女さん。俺たちは金が欲しいだけなんだ。あんたに危害を加えるつもりはねぇ。」 (お金……やっぱり誘拐……私なんかを誘拐しても……) ガットは外套を羽織り、帽子を深くかぶった。 「通った道をもう一度見てくる。王都の様子も見ておきたい。ここを頼む。」 「うん。小屋の周りは警戒しておくよ。」 扉が軋み、ガットの足音が遠ざかる。ほどなくして、コビーも外の見張りへ出た。 ――静寂。 残されたのは、縛られたままのセリーナ一人。耳だけが世界を探している。 ザァァ……ザァァ…… (波の音……?) (海沿い……?) 遠くのうねりが、ゆっくりと胸の奥にしみてくる。 (ほかには何も聞こえない……) どれほどの時間が経ったのかもわからない。口を塞いでいる布は呼気を吸って重くなり、湿った熱で頬に張りつく。息はできる。けれど、空気が薄く感じた。 (息が熱い……苦しい……) 灯火の明かりが肌の上をかすかに流れる。その温度の揺れだけが時間を刻んでいた。 ――ガチャーー。 扉が開く。 コツ……コツ……コツ…… 近づく足音。 (誰……?) 「口の布、外すね。」 その声に、セリーナはどこか安堵を覚える。 頬に指が触れ、布がほどける。 「はぁ……」 深く息を吐く。冷たい空気が肺の奥まで落ちていった。 「ごめんね。苦しかったよね。……ガットが帰ってくるまで待ってて。」 (ガット……もう一人の人……) カツン、カツン。火打石の音。しばらくして、パチ……パ
丘を越える風が、春の匂いを運んでいた。修道院の鐘の音が遠ざかり、王都へと続く街道を一台の馬車が進んでいく。 昼下がりの光は柔らかく、揺れる木漏れ日が馬車の内側に模様を描いていた。 セリーナは窓辺に頬を寄せ、淡く霞む空を見つめていた。草の香り、馬の息づかい、そして遠くで聞こえる鐘の余韻。いつもと同じ帰り道――そう思った。 けれど胸の奥に、どこか針のようなざらつきを覚えていた。 ――そのときだった。 街道の先、砂煙がひと筋。陽炎の向こうから、二つの影がゆっくりとこちらへ向かってくる。 影はやがて分かれた。一人は右から速度を上げ、馬車と並走する。もう一人は左後方に付き、馬車の死角へ滑り込む。 馬の足音が風を裂き、砂を跳ね上げた。二人の動きは、まるで呼吸のように噛み合っていた。 「……近づいてくる……」 そのつぶやきが空気を震わせたように、外がざわめいた。 「なんだ?」 「飛ばせ! 早く城へ!」 御者が手綱を叩く。馬がいななき、車輪が跳ねる。セリーナの体が少し浮いた、その刹那―― ボォン! 乾いた爆音。前方に白い煙が立ちこめ、視界を覆う。 「煙幕だ!」 煙が馬車の中へ入り込み、鼻を突く薬臭が満ちた。喉が焼け、息が詰まる。 「う……ごほっ、ごほっ……!」 続いてもう一発。前方にも煙が上がり、護衛の兵たちがそちらへ引き寄せられる。馬車の前方が混乱する隙を突き、左後方の影が動いた。 ガチャ―― 馬車の後ろが開き、冷たい外気が流れ込む。白煙の向こう、黒いフードを深く被った男の影が現れた。 「……!」 風が一気に抜ける。煙が晴れ、フードがめくれ上がった。その下から現れたのは鋭い眼差し――ガットの瞳だった。視線がぶつかる。一瞬、時間が止まる。 言葉もなく、彼は腕を伸ばす。ごつごつした掌がセリーナの手を掴み、力強く引き上げた。 「こい!」 視界が傾き、身体が宙に浮く。 「っ……!」 次の瞬間、風と共に胸の中へ抱き寄せられた。背に感じる硬い革の感触、熱い呼吸。世界が一瞬で遠ざかる。 ガットは無言のままナイフを抜き、馬車の柱に紙片を突き刺した。 ――王家への身代金要求。 その一枚だけを残し、馬を蹴る。 ガットはセリーナを前に抱きかかえた。馬が嘶く。蹄が土を蹴り、森の影へと飛び込んだ。背後で兵士の怒号が木
──ラクス大陸 東方。 果てしない草原を渡る潮風が、王都の塔をかすめてゆく。 この地を治めるは、ナビル王国。 穏やかな風と規律に包まれた国──その静寂の奥で、物語は動き始める。 丘の上。草の匂いと湿った風が、城下のざわめきを遠くへ押しやる。 「時間通りだな……」 大柄の男が革巻きの望遠筒を片手に、遠くの修道院を覗いた。 「そうだね。」 隣に立つ青年が静かに応じる。 「この日は必ず王女一人だ。」 「一週間のうち二日……そのうち王女一人なのはこの日……。」 大柄の男は望遠筒を外し、指で空に線を引くみたいに、視界の奥へ道筋をなぞる。 「出発時間……修道院までの道筋……帰城の時間……すべて同じだ。」 「そうだね。半年間、全部同じ。」 「ナビル王国は規則正しいからな。ま、そのほうが俺たちにとっては好都合だ。」 (馬車に乗り……) (外壁を回り……) (修道院へ……) 丘から見下ろす道を、紺色の天蓋を載せた馬車が滑るように進む。 車輪が石畳を踏み、規則正しい音を刻む。週に二度、同じ刻限、同じ揺れ。 舗道に開いた小さな窪みで、いつも同じ場所だけ少し強く弾む。 それすらも、この国の秩序の一部のようだった。 馬車の窓辺には王女セリーナ。 視線は外へ、さらにその向こうへ。 城壁の影、市場のざわめき、修道院へ続く並木道──どれも彼女の瞳を通り過ぎ、指先に触れないまま遠くへ流れていく。 頬の線は柔らかいが、瞳の奥にわずかな陰が落ちていた。 馬車が修道院に到着する。 扉が開き、セリーナは静かに降り立つ。 「セリーナ様。お待ちしておりました。」 門前の修道女が深く頭を垂れた。 「今日もよろしくお願いします。」 セリーナは微笑みながら、軽く会釈する。 二人は石畳を渡り、冷たい空気の通う回廊へと消えていった。 礼拝堂は朝の光をすりガラス越しに抱いている。 長椅子の列の間を風が抜け、蝋の香りが薄く漂った。鐘は鳴らない。 合図は、長机に置かれた白布の折り目と、静かな呼吸だけ。 セリーナは祭壇の前に進み、両の指を重ねる。 祈りの言葉は短く、声はほとんど聞こえない。 祈りは誰に向けるでもなく、ただ『今日も同じであること』を確かめる儀式のようだった。