All Chapters of 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚: Chapter 501 - Chapter 510

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第501話

凛はただ、驚いただけだった。こんな大手企業の社長が、自分に雑炊を作ってくれるとは思ってもみなかったから。それに、智也との食卓には、雑炊が並ぶことすらなかった。智也が嫌いだったというわけではないのだが、ただ智也の食習慣に雑炊というものがなかったのだ。とはいえ、海斗も智也もA市で生まれ育った人間。食の好みにそこまで大差はないはずだ。「凛さん、お水どうぞ」と、美穂子が凛にグラスを渡す。半分ほど飲み干した凛は、口元を拭ってから海斗に聞いた。「どうしてこれを作ろうと思ったの?」「君に食べさせるためだ」あまりにも真っ直ぐな答え。凛は一瞬言葉に詰まり、そしてなぜだか、この場から逃げ出したいという衝動に駆られた。洞察力の鋭い海斗は、彼女の足先がわずかに出口の方向を向いたことに気づく。驚かせたか……海斗は少し間を置いて、もう一度口を開いた。「君が手のひらサイズのパンを作ってくれただろ?だから、その礼として準備したんだ。俺が言ったこと、忘れたのか?」少し考えたが、凛は何のことだか本当にわからなかった。「あなたが私に言ったことは多すぎて、何のことだか覚えてない」そばにいた美穂子が小さく呟く。「海斗様に対して言うことが多すぎるなんて言う人は初めて見ました。やっぱり相性ってあるんでしょうか」その声は小さく、二人の後ろに立っていたため、海斗と凛には聞こえていなかった。海斗が言う。「思い出せ」「うん」この話は、海斗が以前言ったどの言葉に繋がっているのか考えている間に、凛の先ほどまであった、この場から逃げ出したいという気持ちは、いつの間にか薄れていた。海斗が再び腰を下ろし、雑炊の器に視線を向ける。「もっと食べるか?」凛もレンゲを持ち直して、「食べる」と答えた。食べ進めていると、いつの間にか頭の中はこの雑炊のことでいっぱいになっていった。海斗が作った雑炊……それが、意外なほど美味しいのだ。具材の大きさが均等なところを見ると、もしかしたら、切るところから海斗が全部自分でやったのかもしれない。それに、海斗は雑炊を作るだけではなく、夜の屋台で芋を買ったり、激辛の焼き鳥を食べたりする……「海斗」凛はふと海斗に尋ねた。「前の焼き鳥、本当にお腹壊さなかった?」海斗は驚いた表情で凛を見つめる。この雑炊で、1週間
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第502話

夕食を終え、美穂子が食器を片付けている間も、凛はそばにいた。すると美穂子がふと思い出したように言う。「海斗様が誰かのために料理を作ったのは初めてなんですよ。隆様も瑶子様も、日和様も、まだ海斗様の手料理を食べたことがありません」またあのいつもの感覚を感じ、凛は美穂子を見つめた。「それなら、瑶子さんたちにも雑炊を作ってあげたらいいかもしれませんね」まだ帰っていなかった海斗は振り返り、凛に視線を向けながら言う。「ああ、そうだな」こうして……翌朝、美穂子は3人分の雑炊を保温ジャーに詰め、これまでにないほど嬉しそうな顔で竹内家本邸へ向かった。ダイニングでは、ちょうど瑶子と隆が朝食をとっていた。「隆様、瑶子様、おはようございます。海斗様から、お二人に朝食をお届けするようにと頼まれたんです」その一言だけで、二人は驚いた。息子がわざわざ美穂子に届けさせるほどの朝食とは、一体何なのか?しかし、美穂子が保温ジャーをテーブルに置き、続けて放った言葉に、二人はさらに固まった。「海斗様お手製の雑炊です。具材や出汁の材料、さらにはお米の種類まで……全て海斗様がお選びになり、ご自身で厨房に立たれたんですよ」瑶子と隆は顔を見合わせ、言葉を失った。先に隆が口を開く。「あいつ、俺を手伝っていたから、野菜の選別くらいはできたと思うが、いつから雑炊なんか作れるようになったんだ?そんなに雑炊が好きだったのか?もうすぐ年末で、会社も忙しいだろうに、あいつのどこにそんな時間があるんだろうな」怪訝そうな表情を浮かべている隆に、美穂子は微笑みながら答えた。「もちろん、忙しい仕事の合間を縫って作られたのですよ」すると、瑶子が言った。「あの子がこの料理を覚えたのって、私たちのためじゃないわよね?」「確かに、お二人のために覚えたわけではありませんが、凛さんが海斗様にご両親に作ってあげたら、とおすすめになったんです」二人は同時に納得した。瑶子が呟く。「凛さんのためだったのね」隆も感慨深そうに目を細めた。「伴侶で人生は変わるからな」その隆の言葉には、妙な説得力があった。自分の息子が、父親と母親のために朝食を作る日が来るなんて。隆は目を潤ませながら、瑶子に言った。「うまいな」微笑みを浮かべた瑶子。この父と息子は、性格が似すぎていたからこそ、互い
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第503話

海斗の目が鋭く光った。谷口さんは精神的な衝撃が大きく、意識が朦朧とした状態が続いている。それに、小林さんは流産による入院証明と、絶対安静が必要だという医師の診断書を提出してきた。だから、裁判所はすでに1週間の延期を認めたんだ」しばらく沈黙した海斗。「わかった。伝えておく」電話を切ると、海斗は拓海を呼んだ。「柊病院へ行き、谷口と小林の容態を確認してきてくれ」拓海は即座に向かった。1時間後、拓海から連絡が入る。「どうだ?」「病院の診断では、谷口さんは大きな精神的ショックと過度のストレスによって意識を失い、神経性の痛みも出ているそうです。小林さんの方は……流産だけではなく、もう子供を授かれない体になってしまった、と。それと、もう一つ分かったことがあります。血液検査の結果から、小林さんが梅毒に感染していることが判明しました」報告していた拓海も、思わず顔をしかめた。幸いHIVではなかったものの、ただ、この結果が出たことで、柚葉の処置に関わった医師や看護師たちは院内で検査を行い、必要な予防対応を取ったという。しかし、海斗に驚きはなかった。拓海が少し考えてから言う。「小林さんが感染しているなら、谷口さんにも可能性は……」「自業自得だ」「凛さんにも検査を受けてもらいますか?」「凛はすでに検査を済ませているから問題ない」拓海はほっと安堵の息をついた。海斗が拓海に指示を出す。「谷口が小林を押した時の監視カメラ映像を確認しろ。手に入れたらすぐ戻れ」電話を切ったあと、海斗は時間を作って研究室へ向かった。近くにいた研究員に尋ねる。「凛はどこにいる?」「今はおそらく、凛さんに会えないと思います。凛さんは研究室にこもって、データ処理をしていて、全部終わるまで出てこないはずですから」「どれくらいかかる?」「私には分かりません」先週G県へ行っていたため、仕事が山積みなのだろう。海斗自身も仕事が残っていたため、一度社長室に戻り、凛が出てきたらすぐに知らせるよう、研究室の人間に指示を出した。夜の8時を過ぎても、連絡はまだ来ていない。海斗が再び研究室に向かうと、ちょうど克哉と梓が研究室から出てきた。この二人は別々のプロジェクトを担当しているが、凛は総責任者のため、二人の報告した問題にも対応しているはずだ。
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第504話

二人が研究室を出た瞬間、冷たい風が容赦なく顔に吹きつけた。袖口から入り込んだ冷気が服の中を這い、凛は思わず身震いし、コートの襟を抱き寄せた。今年の冬は、例年より寒い気がする。海斗は何も言わずに自分のコートを脱ぎ、凛の肩にかけた。「葛城から連絡があった。裁判が1週間延期になったそうだ」凛はもともとコートを着ていたため、さらに一枚重なって少し動きづらい。それでも、温かさは増した。海斗のコートからは、ほのかなウッディ系の香りがする。「延期?」裁判延期と聞いた瞬間、凛の足がわずかに止まり、彼女はそのまま海斗を見上げた。「ああ、被告人二人が入院して出廷できなくなったんだ。弁護士による代行やオンライン審理だと、反論する機会を失うから、二人にとって不利になる。だから、小林の弁護士が診断書を提出して、強制的に延期させたんだ」二人は肩を並べて歩く。凛は言った。「小林さんの弁護士、かなりやり手なんだね」詳しい事情を、すでに謙介から聞いていた海斗。「宮本先生って言うらしい。B市じゃ結構名の知れた弁護士らしいぞ」「B市……」「紹介したのが、神谷か美雪なのかは分からない」その二人の名前を聞いた瞬間、凛の眉間に僅かだが皺がよった。海斗が尋ねる。「どうした?もしまた神谷が変なことを言ってきたら、俺が神谷家に言ってやるから安心しろ」凛は首を振った。「神谷弁護士じゃなくて、美雪さんなの。なんだか美雪さん、少し変というか……」「変?」海斗の記憶では、凛が誰かをそんな言葉で表現することはほとんどない。それに、「変」というのはかなり曖昧な言葉だ。車が二人の前に止まると、凛が先に乗り込み、海斗もその後ろに続いた。仕事を終えた二人は、今日も一緒に帰宅する。凛は話を続けた。「初めて美雪さんと会ったのはカフェなの。その時、私たちは不注意でぶつかってしまったんだけど、そうしたら、美雪さんが謝罪のために、どうしてもコーヒーを奢らせてくれって言ってきて。それから、二度目に会ったのはあなたの実家。モデルになってほしいなんて理由で連絡先を聞かれた。そして、施設で出会ったのが三度目になる。私たちより先に行ってて、何か撮影をしてた。でも、結局は撮影の途中で帰っちゃったらしいの。それも、私たちがK市を離れたその日に。それに……美雪さんは、私のことをい
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第505話

「急ぎで頼む」「承知いたしました」電話を切ると、海斗は手にしていたコートを強く握りしめ、顔を近づけた。そこからは、微かに凛のシャンプーの香りがした。海斗ははっとした。今、自分がしていることは、かなり気持ち悪い。それに今の自分は、昔心の底から軽蔑していた、恋に浮かれた若者そのものだった。海斗は静かにコートを下ろしたが、すぐには着ず、そのままにしておいた。本邸に入っても使用人には渡さず、椅子の背にそっと掛ける。瑶子がその様子に気づき、微笑んだ。「こんなに寒いのに、どうして着ないで持って帰ってきたの?」海斗は瑶子の方を向く。「凛を送ってきた」意味を理解した瑶子は、笑みを深めながら夫の隣へ腰を下ろした。隆が海斗に視線を移し、話し始める。「呼んだのは他でもない。今度、茂さんがA市に来ることになったんだが、ちょうど俺も母さんも草壁家に行かなくてはならない。だから、お前に接待してほしいんだ」瑶子も補足した。「挨拶をしてくれればいいだけだから。他には何もしなくていいわ」「いつ?来週は空いていない」隆が怪訝そうに尋ねる。「何かあるのか?」「凛の裁判が1週間延期になったんだ。凛の裁判が始まれば、俺も一緒に行く。凛を一人になんかできないから」最後の一言には、重みがあった。ちょうどその時、2階の手すりにもたれかかりながら、日和が携帯を握りしめて凛と電話をしていた。凛にも聞こえていたかは定かではないが、日和にはしっかりと聞こえていた。姿を現した妹に、海斗は少しだけ視線を上げたが、日和が凛と話しているとは知らなかったため、特に何も言わなかった。両親は、海斗が裁判に付き添うことに異論はないし、茂が来る日程もまだ確定していないので、時間が合えば対応するように、ということで話がまとまった。裁判だって夜まで続くわけではないのだから、都合はつくだろう。とりあえず了承している海斗だが、何よりも凛の件が優先だと、両親に念を押す。そんな中でも、携帯を耳にあて、2階でずっと黙っている日和。そんな日和に違和感を覚えた海斗は声をかけた。「降りてこい」「はーい」日和は1階へと降り、電話口の凛に別れを告げる。そのときになってようやく、日和が通話していたことに、皆が気づいた。「日和、誰と話してたの?」日和は海斗をちらりと見て答える
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第506話

翌日、凛は竹内グループのオフィスビル1階ロビーで、正人の姿を見かけた。谷口家の人間や柚葉が竹内グループに近づくことは禁じられていたが、正人は例外だった。望月家の御曹司という立場を名乗れば、受付も簡単には追い返せない。まずは上へ確認を取るしかなかった。正人も丁寧な口調で、受付に用件を告げる。自分は凛の友人で、どうしても会って話したいことがある、だから取り次いでほしい。その様子を見ていた凛は、ふっと鼻で笑った。すると、正人も凛に気づいたらしく、すぐに駆け寄ってきた。もう凛を「奥さん」とは呼べないし、かといって「谷口博士」と呼ぶのも違和感がある。結局、正人は直接本題に入ることにした。「智也は、最近いろいろあって倒れたんですけど、昨日ようやく意識が戻りました。意識がない間、ずっとあなたのことばかり呼んでいたんです。目を覚ましてからは何も言いませんが……本当は会いたがってると思うんです。一度だけでも顔を見に行ってあげてくれませんか?」先日は南山ヒルズ9号棟に胡桃が泣きながらやってきた。そして、今朝は正人まで……凛に対しては酷いことをしていた智也だったが、それ以外の人間にはよくしてきたため、彼のために動こうとする人間が、これほど多いのだ。しかし凛は表情一つ変えず、静かに聞き返す。「もしあなたが私の立場でも、同じことを言えますか?」正人は少し言葉に詰まったが、何とか話を続けた。「智也は十分反省してます。もう社会的制裁だって受けて、仕事も失って、この先が見えなくなりました。それに、彼のお母さんも脳腫瘍を患って、柚葉さんとの子どもも流れてしまって……もう、これ以上ないほど苦しんでいるんです」「私だって4年間、苦しい思いをしてきました。でも、キャリアが絶たれたわけでも、脳腫瘍を患ったわけでも、子どもを失ったわけでもないから……私の苦しみは足りないって言うんですか?苦しんでいる人のほうが正しいんですか?」正人は何も返せない。だって、非があるのは自分たちなのだから。凛の一言一言が、自分たちの身勝手さを容赦なく突きつけてくる。もちろん悔しかった。でも、怒ることなどできない。なにせ、ここは竹内グループ。海斗の縄張りで騒ぎを起こす度胸など、正人にはなかった。凛はそのまま歩き出す。最後に、正人は叫んだ。「智也が死んでもいいんですか?!智也
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第507話

こんなときに、英樹だって怒鳴りたくはなかった。だが、あまりにも失望する出来事だったのだ。妻帯者と関係を持ち、その相手からは20億を超える金を受け取り、訴えられたかと思えば、未婚のまま子供を妊娠していたなんて……自分が手塩にかけて育てた孫が、こんな恥ずべき人間になっていたとは思いもしなかった。隆平も柚葉をかばう。「お義父様、柚葉も反省して、十分に報いは受けました。それに、賠償問題も抱えていますし、今回の件で身体まで傷ついてしまったんです。もうこんなことは二度とありませんから」「体が傷ついた?」瞳が驚いて、柚葉を見た。「まさか……もう子どもが産めないってこと?」柚葉の顔から、さらに血の気が引く。こんな結末になるなんて、自分でも思っていなかった。「瞳さん……昔から私が松田家で暮らすのを快く思っていなかったのは知ってるけど、今そんなにはっきり言わなくてもいいじゃないですか……」瞳は口を閉じた。ここまで落ち込んでいる相手を、これ以上責める気にはなれない。英樹も、もう何を言えばいいのかも分からず、怒りと失望の入り混じった目で柚葉を見つめるだけだった。このまま怒りで、英樹が倒れてしまうのではないかと心配した周囲は、慌てて英樹を椅子に座らせ、お茶を出す。英樹は座ると、力なく吐き捨てた。「柚葉……お前は、本当にどうしようもないな」柚葉は青ざめた顔で呼びかける。「お爺様……」「わしのことを呼ぶな」しばらくして、英樹がすっと立ち上がった。何も言わずに病室を出ていく。来たときは怒りでどうにかなりそうだったが、今残っているのは深い失望だけ……その英樹の失望は、柚葉の胸を鋭く刺した。これまでの自分は、祖父に守られて生きてきた。だが今、これほどの問題を起こした以上、祖父が手を貸してくれなくなれば――もう二度と這い上がれない。英樹が立ち去ろうとするのを見て、柚葉は痛みをこらえてベッドから降りようとした。しかし両親が慌てて押しとどめる。柚葉の両親にとって今一番大切なのは、娘が健康でいてくれることだけ。借金を背負うのがどれだけ過酷でも、たった一人の娘を守りたかった。ここ数日泣き続けたせいで、柚葉の目はひどく腫れていた。そんな柚葉を見て、正人はかける言葉が見つからない。柚葉が真っ赤な目で正人に尋ねる。「智也に頼まれて来たの?
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第508話

柚葉は苦しそうな表情を浮かべ、身を横へ向けると、布団を頭まで引き寄せた。声も立てず、ただ静かに涙を流し続ける。正人は何も言えず、そのまま病室を後にした。柚葉の両親も、娘にどう接すればいいのか分からない。それに、看病に加え、家や車の名義変更、財産整理の手続きにも追われ、毎日息つく暇もなかった。「柚葉、お父さんとお母さんは少し用事を済ませてくるわ。病院で大人しくしていてね。すぐ戻るから」柚葉は背中を向けたまま頷いた。両親が出ていくと間もなく、担当医が柚葉のもとを訪ねてきた。医師は、検査で感染症が陽性だった件について話を切り出す。その瞬間、柚葉の瞳が大きく揺れた。「私……どうしてこんな病気になったのか分からないんです」必死に取り繕いながら、懇願する。「お願いです。このことは絶対に、家族には言わないでください」これは患者のプライバシーの問題でもあるため、医師もそれは承知の上だったが、やはり、パートナーにも検査を受けさせた方がいいと、柚葉に促した。「それは駄目です!」思わず大きな声を上げてしまった柚葉。医師が落ち着いた口調で諭す。「現実から目を背けてはいけません。もし相互感染しているなら、早く分かったほうが治療もしやすいですし」柚葉は目を泳がせながら答えた。「か、彼は……大丈夫です。感染なんて、してないはずですから」医師は内心でため息をつく。こういう患者は珍しくない。自分の感染を隠すため、恋人にも知らせようとしない、まして検査を受けさせるなど、あり得ないに等しかった。柚葉は体調が悪いから少し横になると言って、医師を追い返す。病室のドアが閉まっても、激しく打つ鼓動はなかなか治まらなかった。既に感染が確定している以上、感染源は間違いなく宏明だろう。海外で身体を許したあの時にもらってしまったのだ。帰国後、智也とキスをし、肌を重ね、子供までできた。だから、智也も……おそらく、感染している。恐怖で柚葉の手は震え始めた。震える指を口へ運び、人差し指を強く噛む。どうすればいいのか分からなかった。智也に検査を受けてもらうべきだろうか?だが、そんなことを言えば絶対に怪しまれるし、そしてもし検査結果が陽性なら――間違いなく、自分が感染源だと断定される。性感染症。世間では、病気そのものよりも偏見のほうが人を追い詰め
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第509話

「利明……」柚葉は堪えていた涙を、もう抑えきれなかった。今度ばかりは、紛れもなく本心からの涙。「お腹の子が……いなくなっちゃったの……」利明と美雪は、呆気にとられた。ずっと問題なかったのに、なぜこんなことに?利明の表情が険しくなる。「誰がやったんだ?凛さんか?」柚葉は首を横に振った。「違う」美雪も驚いたように尋ねる。「じゃあ誰?」柚葉は答えず、ただ涙を流し続けるだけ。その目には悲しみが溢れていた。その感情が本物なのか、それとも演技なのか、今回ばかりは美雪ですら判断がつかなかった。それか、本物と偽物……半々といったところだろう。利明がふと、一人の名前を口にする。「谷口さん?もしかして、あの男は子どもを望んでいなかったのか?」その瞬間、柚葉の表情が大きく揺れた。それだけで十分だった。「話を聞いてくる」「行かないで!」柚葉は利明の腕をつかんで言った。「行かないで、利明。智也もわざとじゃないの。エスカレーターでうっかり私を押して……それで……」最後はもう言葉になっていなかった。美雪もその話を聞いて気の毒に思った。しかし、これが兄と柚葉の二人の距離を縮めるチャンスだと思い、用事があるふりをして一度部屋を出た。ドアを閉めたあと、しばらく廊下で待ち、そっと中を覗く。利明の首にしがみつき、声を上げて泣く柚葉に、彼女を抱き寄せ、優しく慰める利明。美雪は病室の脇に立ったまま、ぼんやりとその光景を見つめていた。やがて泣き声が収まった頃、注文していた果物が届き、美雪は果物籠を提げて病室へ戻った。「お兄ちゃん、心配で慌てて来ちゃったから、お見舞いも買えなかったの」美雪は果物籠を掲げて微笑む。「どれ食べたい?むいてあげる」柚葉は美雪が本当に良くしてくれると感じた。しかし、かつての胡桃という前例がある以上、彼女を心から信用することはできない。少し距離を置いたまま、丁寧に断る。「ありがとう。でも大丈夫」美雪は笑った。「じゃあ、私が適当にむいたものを食べて」美雪は果物を洗いながら、病室内の二人の様子を窺っていた。どうしても智也に事情を聞きに行くと言って譲らない利明を、柚葉が止めている。ただ、柚葉の言い方は、引き止めるというより火に油を注いでいるようにも見えた。美雪には、その意図がはっきり見えていたが、あえて何
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第510話

胡桃が答えようとしたその時、正人に支えられながら智也が戻ってきた。利明の姿を見つけた二人は揃って動きを止め、正人が先に口を開く。「神谷家の……急にどうされたんですか?」法曹界では弁護士としても知られている利明だったが、名家の人間からすれば、「弁護士」よりも「神谷家の長男」というふうに、利明を認識していた。智也は利明を見つめ、何かを思い出したように言う。「柚葉の代理人を引き受けたのか?」「代理人とは?」利明は、この兄妹が話す金銭の話や依頼といった内容が全く理解できず、困惑した。利明がここへ来た理由は、あくまで流産について確かめるためだったのに。「柚葉の中には、まだあなたへの気持ちがありますから、訴えるなんてことはしないと思いますよ。彼女を、そこまで酷い人間だと思わないでください」智也は眉間にしわを寄せた。「流産の件はわざとじゃないし、子供がいなくなってしまったことは、俺も申し訳なく思っているから、できる限り償うつもりだ」「子どもはもう戻らないっていうのに、どうやって償うっていうんですか!」真っ赤に目を腫らし、泣き崩れていた柚葉の姿を思い出した利明は、苦しげに言った。「谷口さん、柚葉はあなたのせいで子供を失ったんです」智也は苦しげに目を伏せる。自分にだって、罪悪感がないわけではない。やがて利明をまっすぐ見返し、静かに言った。「柚葉が望むなら、結婚したっていい」「それは駄目!」真っ先に異を唱えたのは胡桃だった。「お兄ちゃん、何でも自分のせいにしないでよ。そんなことしたら、ショックでお母さんの病気がもっと悪化しちゃうかもしれないでしょ!」胡桃は勢いのまま言葉を続ける。「そもそも、本当にお兄ちゃんの子どもだったの?他の誰かの子だったかもしれないでしょ!」そう言って、胡桃は利明を指さした。利明の顔色が一瞬で変わる。「馬鹿なこと言わないでください。谷口さん、妹さんへの教育はどうなっているんですか?」「教育?非常識なのはどっちですか?人の家庭を壊して不倫した女が被害者ぶって!彼女が結婚前に妊娠したのまで正当化する気ですか!」まだ完全に回復していない智也には、胡桃を叱る余裕もなかった。最終的に正人が間に入る。「落ち着いてください。ここは病院なんですから、ね?それに、こうなってしまった以上、過去のことを掘り返したって解
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