All Chapters of 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

「柚葉さんが戻ってきたんだって?奥さんはどうするんだよ?」家の前に着くと、ドアは少しだけ開いていて、夫の谷口智也(たにぐち ともや)と、彼の親友の声がかすかに聞こえてきた。仕事から帰ってきた谷口凛(たにぐち りん)は、思わずドアを開けようとした手を止めた。「柚葉さん」って?自分のプロジェクトに2週間前からアドバイザーとして参加している専門家・小林柚葉(こばやし ゆずは)も、同じ名前だったはず。なんて、偶然なんだろう。一方で、智也はその問いただしに対して何も答えなかった。「智也、言わせてもらうけどな。もう何年も柚葉さんのことが忘れられないんだろ?そのくせ、自分は質素な生活をして、毎月6000万円も彼女の研究費につぎ込んできたじゃないか。向こうは今じゃ立派になって、帰国してからは国家プロジェクトの特別専門家だぜ?彼女にちょっと競合の情報を流してもらえれば、ホシゾラ・テクノロジーでの社長の座も安泰ってわけだ」それを聞いて、凛はぱっと顔を上げた。その目には信じられないという色が浮かんでいた。彼女は何かの聞き間違いじゃないかと思った。6000万円?智也が毎月くれる生活費はたったの6万円なのに。他の女には、毎月6000万円も渡しているわけ?でも、家の中から聞こえる会話はあまりにも鮮明だった。その一語一句が耳に突き刺さり、そして、智也もその事実を否定しなかった。その一瞬、凛はショックで息ができなくなるほどだった。すると突然、智也が立ち上がり、腕時計に目を落とした。「もうこの話はよそう。柚葉を困らせたくないんだ。俺、今から柚葉を迎えに行かないと。テーブルはそのままでいいよ、どうせ凛が帰ってきたら片づけるだろうし」「おいおい、智也。奥さんは、すごくいい人じゃないか。家のことちゃんとやってるし、ご両親と妹さんの面倒まで見てくれるんだぞ。それでも何とも思わないのか?」智也の答えが知りたくて、凛は息を殺して、聞き耳を立てた。だが智也は冷たく言い放った。「俺が好きなのは、凛みたいな家庭に縛られてる女じゃない。昔からずっと、柚葉みたいに仕事にすべてを懸けて輝く女が、俺のタイプなんだ」その言葉は、ナイフのように凛の胸に突き刺さった。彼女の目はみるみる赤くなり、手も震えだした。「じゃあなんで最初、奥さんにアタックしたん
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第2話

梓は、凛が研究と自分の夫のこと以外に興味を示すのが珍しかったから、ブランド品のノベルティに関する裏ルールを夢中で話した。しかし、凛は上の空だった。頭の中は、昨夜智也が帰ってこなかったこと、そして今朝、ポケットから突然、包装もされていないスカーフを出したことでいっぱいだった。彼女はもう一度、柚葉が去っていった方向を見つめ、考え込むように言った。「小林さんのカバン、新品みたいだったわね」「当たり前ですよ。昨日の夜に買ったばっかりなんですから」と、梓はすぐに言葉を返した。凛は彼女の方を見た。克哉も尋ねた。「どうして知ってるんだい?」「お昼にちょうど松田さんが小林さんと話しているところに居合わせたんです。松田さんも彼女のバッグに気づいて、服装に気をつけるよう注意したら、小林さんは昨夜親友からもらったものだから、無駄にはできないって……数千万円もするバッグをくれる親友なんて、どこにいますか!」と梓はため息をついた。凛は、「親友」という言葉を口の中でそっと繰り返した。今朝、智也も同じことを言っていた。彼女はさらに尋ねた。「そのカバンを買うと、スカーフもついてくるの?」「それだけじゃないですよ、他にもたくさんついてきます。スカーフはその中の一つでしかありません。まあ、こういうスカーフは単品で買う人もいますけどね」と梓は言った。凛の心は、梓の言葉に浮き沈みした。「佐野先生、すみません、今夜の食事会は欠席します。家に用事ができましたので」克哉はためらいがちに尋ねた。「大変なことか?」「はい、大変なことです」世界が崩れ落ちるくらいには。克哉は凛を気遣った。「それなら仕方ないな。小林さんにはこっちから話しておくよ。家のことに集中して。プロジェクトも終盤だから、前ほど忙しくはない。これからは毎日研究所に来なくてもいいし、大事なことがあれば連絡するから」「はい」凛はマスクをつけて、一人でその場を去った。彼女は家には帰らず、タクシーでホシゾラ・テクノロジーのビルの前に来た。そこで、思いがけず智也と顔を合わせた。でも、智也は凛に気づかなかった。彼女がマスクをしていたからか、この時間は退勤する人が多すぎたからか、それとも智也が電話で忙しかったからか。でも、二人は4年も夫婦なのに……智也は凛の前を通り過ぎて行った。
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第3話

「同姓同名なだけだよ。彼女はただの、ごく普通の会社員だから」智也は、淡々とした口調で説明した。「でもまあ、プロジェクトにいる凄い人と同姓同名なんて、凛にとっても光栄なことじゃないかな」「ええ、本当に光栄だわ」柚葉はにっこりと微笑んだ。「私たちのプロジェクトの凛さんは、本当に優秀なんですよ」もっとも、優秀すぎて腹立たしいくらいですけど。プロジェクトの責任者であることを盾に、自分を歓迎しないどころか、中心業務にも一切関わらせてくれないんです。やっぱり、「谷口凛」という名前の人はどうも気に食わない。凛は、柚葉をまっすぐに見つめて言った。「小林さんは、どんなプロジェクトを?」柚葉が答える前に、智也が割り込んできた。「お前には関係ない。下手に首を突っ込むなよ。国の機密プロジェクトだから、外部には言えないんだ」「機密プロジェクトなのに、どうしてあなたたちは内容を知っているの?」凛は冷ややかに聞き返した。柚葉はきょとんとし、凛を見る目がわずかに変わった。彼女は智也の方を向き、「凛さんって、なかなか面白い方なのね」と言った。智也は眉をひそめ、再び凛をないがしろにした。「わからないって言ってるだろ。しつこいな」凛の鼻の奥が、ツンとした。智也は彼女に目もくれず、ただ柚葉だけを見つめていた。柚葉は得意げに口角を上げたが、すぐに無理に笑顔を作って話題を変えた。「智也、あなたが結婚するって聞いた時……冗談かと思ったの」その言葉の裏には、切なさがにじんでいた。智也の表情が、再びこわばった。二人は黙って見つめ合った。周囲の空気は、ずしりと重くなった。「冗談なんかじゃない」と智也は言った。すると、再び沈黙してしまった。「私、少し後悔してるの」柚葉が、意味深に言った。凛は、隣に立つ智也の手が微かに震えているのを感じ取った。「凛さん、誤解しないで。智也が電話をくれたのに、あなたたちの結婚式に参加できなかったことが心残りで。あの時は、智也が私をからかっているだけだと思ってたのよ」柚葉は話している間、ずっと智也を見つめていた。安物の服で着飾ることもない凛のことなど、まるで目に入っていないかのようだった。凛はふと、智也と結婚した時のことを思い出した。あの頃、不思議に思いながらも理由が分からなかった
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第4話

智也は、凛が綺麗でスタイルも良いことを知っていた。たまにじゃれあうだけでも、抑えがきかなくなるほどだった。しかし凛と肌を重ねようとすると、心の底で初恋の人を裏切っているような罪悪感が芽生える。だから、この何年もずっと我慢してきた。でも……凛は法律上の妻だ。それに、今夜の彼女はあまりにも魅力的すぎた。凛は、智也に見つめられていることに気づいていた。だけど、初恋の人としか子供を作りたくない男が、自分に欲情するはずがないことも分かっていた。彼女は平然と智也の前を行ったり来たりして、ドライヤーを手に取った。智也は突っ立ったまま、目で凛の動きを追っていた。凛は智也に背を向けると、長い髪を片方に寄せた。すると、白く細いうなじがあらわになり、部屋にはしっとりとした甘い香りが漂った。智也はごくりと喉を鳴らした。その時、凛の腰が温かい手にぐっと掴まれた。「お前はずっと子供が欲しいって言ってたよな」智也は凛の手からドライヤーを取り上げると、後ろから彼女を抱きしめた。凛はたしかに愛する人との子供が欲しかった。でも、今この瞬間は、ただただ気持ち悪いとしか思えなかった。「もういらないわ」彼女は静かに言った。智也は眉間にしわを寄せた。そして、凛の顎をそっとつまむと、その柔らかな肌触りがたまらなく愛おしく感じた。彼の体も、反応し始めていた。凛は驚いて、わずかに目を見開いた。「最近、仕事と家事の両立で疲れてるんじゃないか?俺たちの子供を作ろう。そうすれば、お前は安心して専業主婦になれる。どうだ?」凛は、自分のために食事を作らなくなっただけじゃない。谷口家の用事も断るようになり、自分には理解できない考えを持つようになっていた。このままではまずい。自分には家事をこなしてくれる良き妻が必要だったし、谷口家にも、言うことをよく聞く嫁が必要だったのだ。凛が子供を欲しがっているなら、一人くらい作ってやっても大したことじゃない。むしろ、これで彼女を完全に家に縛り付けておける。たかがパートみたいな仕事の、何がそんなにいいのか。人に知られたら、自分の恥になるだけだ。キスが凛の唇に落ちてくる寸前で、彼女はとっさに顔を背けてそれを避けた。智也は一瞬で目を細めた。「どういうつもりだ?」「もういらないって言ったでしょ」凛は鏡に映
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第5話

「先生、どうしてか聞かないんですか?」凛は涙を拭うと、杏をソファに座らせ、お水を取りに行った。杏が言った。「智也から聞いたわ。子供のことで喧嘩して、昨夜は帰ってこなかったって。彼はまだ子供を欲しがらないの?」凛は首を振った。「今回は、私が欲しくないんです。彼は私に仕事を辞めて妊活に専念して、家で専業主婦をしろって言うんです」「私より考えが古いわね!」杏は腹が立って仕方がなかった。「あの男は出世して偉くなったから、あなたを見下してるの?よくもまあそんな態度がとれるわね。プロジェクトが発表されたら、どれだけの人があなたに会いたがると思ってるの。私の夫が手塩にかけた愛弟子を、使用人扱いするなんて!」凛は胸が締め付けられ、思わず本当の理由を話してしまった。「本当の理由は違います、先生。彼が愛しているのは私ではありません。小林柚葉という女を振り向かせるために、私と結婚したんです。でも結婚式の日に、結局、彼女は帰ってこなかっただけです」「誰?」杏はその名前に聞き覚えがあるようだった。二度ほど繰り返してから尋ねた。「英樹さんの、海外帰りの孫?」「はい」凛は頷いた。「どうしてそれを?」「聞いたんです」凛はあの日の盗み聞きの一部始終を話した。話が終わらないうちに、杏に手を引かれて外へ連れ出された。「人を馬鹿にするにもほどがあるわ!私が国内で一番の弁護士のところに連れて行ってあげる。離婚協議書を作らせて、さっさとサインさせる!」離婚協議書はすぐに出来上がった。印刷されたばかりの紙はまだ温かかった。けれど、凛の手にはひどく熱く感じられた。彼女は紙の上の文字を長いこと見つめ、やがてペンをとって自分の名前をサインした。法律事務所を出た後、凛は杏と買い物に行って服を買い、一緒に夕食も食べた。すっかり夜になってから、冷たい風の中、家路についた。家の窓には明かりが灯っていた。どうやら智也は家にいるようだ。いや、智也だけじゃない。谷口家の人たちも来ている。胡桃の怪我は軽く、入院するほどでもなかった。彼女は病院の消毒液の匂いが嫌で、出前の料理も口に合わないと言って、兄の家に泊まり込むことに決めた。凛に身の回りの世話をさせて、療養するつもりだった。家に着くなり智也の顔にある平手打ちの跡が目に入り、谷口家の人々は怒りを爆発させ
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第6話

「それで?彼に、私と離婚するように言ったの?」凛の問い返しは、柚葉の痛いところを正確に突いていた。この2週間、柚葉は何度もそれとなく話を振っていた。でも、智也は離婚するそぶりを見せない。それどころか、今まで通り、いえ、今まで以上に優しくしてくる。まるで自分が不倫相手みたいじゃない。愛されていない方が、邪魔者。よく言ったものだ。もともとは、凛の方が、自分と智也の間に割り込んできたのだ。大学の頃、智也はあんなに自分を愛してくれていた。それは誰の目にも明らかだったのに。それが、留学のことで喧嘩したのがきっかけで、智也がどこの馬の骨とも分からないような女と結婚するなんて、思ってもみなかった。自分にとっては、侮辱以外の何物でもなかった。あの日、病院で凛に会い、智也から彼の妻だと紹介されなければ、絶対に信じられなかっただろう。智也が、自分以外の女と結婚するなんて、あり得ない。何度も確かめた結果、智也が今も愛しているのは自分だとわかった。以前よりもっと深く、愛してくれている。欲しいものがあれば、どんなに高価でも、智也は必ず手に入れてくれた。少しでも体調を崩せば、智也はすぐに駆けつけてくれる。今では温かい飲み物も作れるようになったし、夜食まで作ろうとしてくれている。智也のお金も、愛情も、すべて自分のものだ。凛という哀れな女は、何も持っていない。妻という、その肩書き以外は。それも、ほとんど誰にも知られていない肩書きだ。今、その肩書も、自分が取り戻す。柚葉は深く息を吸い込むと、微笑んで言った。「彼は、あなたと離婚するわ」「それはどうも」凛としては、一刻も早く智也に離婚協議書にサインしてほしいくらいだった。同じ家で二人のいちゃつく姿を見るなんて、息もできない。まさかそんな反応が返ってくるとは思わず、柚葉はその場でぽかんとした。すると、智也がキッチンから温かい飲み物の入ったお椀を手に現れた。凛の探るような視線とぶつかり、彼の心臓がどきりと跳ねた。「凛ちゃん、起きたのか……」智也のその呼び方を聞いて、柚葉の胸に嫉妬の念がこみ上げた。「柚葉の具合が悪くて、でも病院には行きたくないって言うから、家に連れてきたんだ」智也は言い訳に夢中で、手に持った温かい飲み物を置こうともしない。彼の指が
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第7話

「凛さん、何を見ていらっしゃるんですか?」「今、あっちから誰かに見られていた気がします」「え?」と理恵がそちらを見たが、人影はなかった。「もうエレベーターに乗ったみたいです」と凛は言った。「エレベーターって、あっちの?」理恵が指差すと、凛は頷いた。それを見た理恵は、緊張した面持ちでゴクリと喉を鳴らした。あそこは社長専用のエレベーターなのだ。理恵のオフィスのドアの前に来ると、凛はドアプレートに、「人事部ヴァイスプレジデント」と書かれているのを目にした。昇進したんだ。凛はにっこり笑って言った。「中村さん、御昇進おめでとうございます」「ありがとうございます」理恵は凛の先ほどの言葉を思い出して、冷や汗を拭った。さっきは丁寧に対応したから、失態はなかったはずだ。オフィスに入ると、凛はすぐに切り出した。「中村さん、今日は退職の手続きに来ました」「退職?」理恵は、凛が形式的に手続きを踏みに来ただけだと察し、彼女の意向を尋ねた。「どれくらいで処理すればいいですか?」「通常の手続きで大丈夫です」「通常の手続きですと、正社員は1ヶ月前に退職届を出すことになってるんです。でも、引き継ぎさえちゃんと済ませれば、あなたの職位なら数日で終わると思います」コンコン――ノックの音がした。「どうぞ」入ってきたのが社長の側近だと気づくと、理恵はすぐに立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。「森田さん」「中村さん、社長がお呼びです」特別補佐の森田拓海(もりた たくみ)は言った。ついに来たか。理恵は厳しい表情になった。竹内グループでは上半期に数億円規模の横領が発覚した。犯人は役員の親族で、社長は厳罰に処し、最近はグループ内の縁故採用を厳しく調査していたのだ。自分の元の上司も、社長によって懲戒免職になった。それで、人事部ヴァイスプレジデントのポストが自分に回ってきたのだ。この椅子に座ってまだ日も浅いというのに……まさか、自分が採用した人間の中にもコネ入社がいたんだろうか?でも、思い当たるのは凛、ただ一人だ。しかし、凛は竹内家からの紹介で入社したのだ。その上、凛は役職も低く、社員情報にはわずかな月給が記載されているが、実際には一度も給与は支払われていない。「凛さん、ちょっとお待ちいただけますか?」理恵は凛の
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第8話

凛が家に帰ると、もう夜の8時だった。智也はソファに座り、暗い目つきで彼女を見つめていた。「なんでこんなに遅いんだ?」「あなたは、なんでこんなに早いの?」凛は不思議に思った。智也は毎日、柚葉を職場まで迎えに行っているはずなのに。智也は眉をひそめた。「俺が最近、帰りが遅いことを責めてるのか?」「まさか」凛がカバンを置くとすぐに、智也が仕事をやめる件について聞いてきた。「退職届は出したわ」彼女は自分に水を一杯注ぎ、ゆっくりと飲んだ。「引き継ぎとかの手続きに、1ヶ月はかかるの」「お前の仕事に、引き継ぎで1ヶ月もかかるような内容があるのか?」智也は凛の痩せた横顔を見ながら、何度も眉をひそめた。「俺をだましているんじゃないだろうな」「あなただってサインしたじゃない。私があなたをだましてどうするの。大きい会社は手続きが面倒なのよ、仕方ないでしょ」凛はコップを置くと、部屋に入ろうと背を向けた。しかし智也が、彼女の服のすそを掴んだ。「腹が減った」智也の視線が、凛からキッチンへと移る。凛は彼を振り返り、その顔をじっと見つめた。今までどうして気づかなかったのだろう。このセリフを言う時の智也が、こんなにも偉そうだったなんて。以前の自分は、ただ智也にお腹を空かせてはいけない、ということしか考えていなかった。彼は胃が弱く、決まった時間に食事をとらないと、すぐに胃が痛くなってしまうからだ。「分かったわ」そう言って部屋に向かう凛。智也は、掴んでいた服のすそが手からすり抜けていくのを見ると、すぐに立ち上がり、大股で彼女に近づき、その手首を掴んだ。智也は不満そうに言った。「『分かった』って、どういう意味だ?」「聞こえたって意味よ」凛は顔を上げて、智也の怒りに満ちた目を見つめた。かつての、あれほど優しかった夫は、まるでシャボン玉の中の夢のよう。指で軽くつつけば、すぐにはじけて消えてしまう。「夕飯を作れ。今日はあら汁が飲みたい」「家に新鮮な魚なんてないわ」凛は冷蔵庫に目をやったが、ここ数日、何も買い足していなかった。智也は彼女を引っ張った。「今から買いに行け」「もうこの時間じゃ、どこも開いてないわ」凛が腕を振りほどこうとすると、智也はさらに強く掴んだ。そして、探るような目で彼女の顔を何度も見つめた。「意地を張っ
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第9話

今から豚バラのブロックなんて、どこで手に入れろって言うのよ。凛は、柚葉がわざと自分を困らせようとしているのが分かった。「私は大丈夫だから、二人で食べて」凛も、その意図に気づかないふりをした。智也のさっきまでの優しげな雰囲気は、一瞬で消え去った。「そうじゃなくて、今夜豚の角煮を作って、柚葉が帰ってくるのを待っててやれって言ってるんだ」「私は使用人じゃないわ、智也」凛の言葉に滲む悲しみに、智也は胸を突かれた。智也は慌てて口を開いた。「違うんだ」「……そう」「でも、柚葉の怪我はお前のせいだろ。ちゃんと治るまで面倒を見るのが筋だ」「何度も言ってるでしょ。私じゃない」凛は彼の目をまっすぐ見て、はっきりと告げた。これがただの同僚だとしても、ちゃんと事実確認をしてから、誰のせいか決めるものでしょ?自分たちは夫婦なのに。貧しいながらも、後ろから優しく抱きしめてくれて、二人で未来を語り合ったあの頃の智也はもういない。「貧乏でも二人なら平気だ。こうして一緒にいられるんだから」そう言ってくれた智也は……今の彼の目には、自分への信頼も、話を聞こうとする辛抱強さも、ひとかけらも残っていなかった。ただ、「今夜、豚の角煮を作れ」と繰り返すだけだった。あと、1ヶ月。そして、最後の1ヶ月。もう少しの辛抱よ。凛は自分にそう言い聞かせた。「分かったわ。迎えに行ってあげて。私はご飯の支度をしてるから」それでようやく智也は満足したのか、凛の後頭部をポンと撫でた。「じゃあ、頼むな」まるで、犬をあやすみたい。凛はうつむいて、長いまつ毛の影で、心に渦巻く感情を隠した。玄関のドアが閉まる音を聞くと、凛はゆっくりと顔を上げ、しばらくドアの方を見つめていた。そしてスマホを手に取り、デリバリーを頼んだ。「すみません、豚の角煮をひとつと、あとお店のおすすめを何品かお願いします」智也と柚葉が帰ってくる前に、頼んでいたデリバリーが届いた。凛は届いた料理をお皿に移し替え、容器などのゴミを捨てに外へ向かった。ゴミを捨てたちょうどその時、智也と柚葉の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。よほど面白い話だったのだろう。柚葉は片手で口元を隠し、体をのけぞらせて笑っていた。智也は彼女が倒れないように、とっさに手を伸ばした。その手が肩に
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第10話

柚葉はすごく嬉しそうに食べて、何度も褒めていた。「凛さん、お料理すごく上手なんですね。智也があなたのことを自慢するのもわかります!五つ星レストランのシェフが作ったって言われても、私なら信じちゃいますよ。智也のそばにあなたみたいな人がいてくれて、私も安心しました。乾杯しましょう」彼女はジュースのグラスを掲げ、心から嬉しそうな表情を浮かべていた。「今まで智也の面倒を見てくださり、本当にありがとうございます。彼が胃を悪くしてるのは知ってたんですけど、私は海外にいたから……まあ、昔の話はいいですよね。とにかく、感謝してます」そう言って、ジュースを飲んだ。凛は彼女を見つめて言った。「お礼は、その一杯だけなんですか?」柚葉は一瞬きょとんとしたが、笑顔で言った。「それってどういう意味ですか?じゃあ、どうやってお礼すればいいんでしょうか」智也は眉をひそめ、顔から笑みが消えた。「凛、どういう意味だ?俺たちは夫婦なんだぞ。妻が夫の面倒を見るのは当たり前だろ?柚葉、気にしないで。こいつはちょっと、物分かりが悪くて」智也もジュースのグラスをあげて、柚葉のグラスにこつんと当てた。凛の顔がどんどんこわばっていくのを見て、柚葉は優しく微笑んだ。「平気よ。ただ、夫婦の間柄でも、そんなふうに損得を考えるなんて、ちょっと予想外のことだっただけ」その一言で、智也の顔がまた曇った。智也は凛を横目でちらりと見た。「少しは笑えないのか?一日中、そんな暗い顔して」「私が愛想笑いしないのなんて、今に始まったことじゃないでしょ?」凛は席を立った。「もう、おなかいっぱい」「凛!」智也は顔を上げて怒鳴った。「何なんだ、その態度は!」「智也、やめて」柚葉は彼をたしなめた。「女の子をそんなふうに怒鳴っちゃダメだって、昔、言ったじゃない」智也は、なんとか怒りを抑え込んだ。「仕事をやめて家にいろって言ったら、すぐこれだ。不機嫌な顔ばっかりしやがって。あの仕事の何がそんなにいいんだか。まさか、俺より大事だっていうのか?」彼は、思い通りにならない凛への不満を募らせた。そして、子作りの計画を早く進めなければ、という思いを強くした。子供さえできれば、きっと凛を繋ぎ止められるはずだ。あいつは情に脆いところがあるから。「当たり前じゃない、あなたより大事
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