追憶の霧、届かぬ約束 のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

22 チャプター

第11話

3日後、凜のもとに一通の宅配便が届いた。封筒はひどく薄い。開封すると、中から一枚のブラックカードが滑り落ちた。あの日、彼が一夏に手渡したものだ。凜はカードを手に取り、長い間見つめていた。それからスマホを取り出し、銀行へ電話をかけた。「このカードの利用履歴を調べてくれ」「......こちらのカードには最近の利用履歴は一切ございません」凜は電話を切った。彼女は一銭も使っていなかった。試すことすら、しなかった。彼はオフィスチェアに深く腰掛け、窓外のどんよりとした空を眺めた。急に、言いようのない苛立ちが込み上げてきた。だが、彼は何もせず、ただ車のキーを掴むと、再びあの古い家へと向かった。今回は階段を上がらなかった。そのまま管理事務所へ行き、責任者に告げた。「302号室を、買い戻したい」責任者は困惑した表情を浮かべた。「伊礼様、あの部屋は昨日名義変更が終わったばかりでして......」「十倍出す」責任者は言葉を失った。30分後、契約書が凜の前に置かれた。彼は署名し、鍵を受け取った。再びあのドアを開けた時、部屋の中はすでにもぬけの殻だった。あの若いカップルは立ち去り、一夏が残していった物もすべて片付けられていた。部屋は磨き上げられたように清潔で、まるで最初から誰も住んでいなかったかのようだった。凜は中へ入り、リビングの中央に立った。窓から差し込む陽光が、床の上に四角い光の斑点を落としている。さまざまな記憶が、濁流のように押し寄せた。3年前、ここに引っ越してきた日のことを思い出した。狭くて古く、壁紙も剥がれかけていた。それなのに一夏は、はしゃいで彼の手を掴んで言ったのだ。「凜、ここが、私たちの家だよ!」その夜、二人は床に直接寝そべり、あの古い毛布を被った。彼女は彼の胸の中で丸くなり、小さな声で囁いた。「これからの生活が、もっと良くなりますように」「ああ、きっとな」その後、生活は本当にどんどん良くなっていった。初めてまとまった金を手にした時、彼は彼女をもっと良い場所へ連れて行こうとした。けれど彼女は首を振った。「ここがいいの。ここには、私たちの思い出がたくさん詰まっているから」彼は彼女をバカだと言って笑ったが、結局は彼女
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第12話

夢乃がオフィスのドアを開けたとき、凜は窓の外を眺めてぼんやりとしていた。彼女の声は柔らかく、絶妙な甘さを帯びていた。「凜、来月はいよいよ結婚式ね。一緒にウェディングドレスの試着に行ってくれない?」凜はカレンダーに目をやった。婚礼の日取りは祖父が決めたもので、招待状はすでに発送済みだ。彼は不意に、その日付が目に刺さるように感じた。「ああ」彼は短く応じ、上着を手に取った。ドレスショップは市街地で最も高級な通りにあり、三階建てのビル丸ごとが純白の世界だった。夢乃が試着をしている間、凜は待機場所のソファに座っていた。店員が恭しく茶を運んできたが、彼は一口もつけなかった。更衣室のカーテンの隙間から、華やかなドレスを身にまとい、鏡の前でくるくると回る夢乃の姿が見える。店員たちが彼女を取り囲み、称賛の声を浴びせていた。「こちらのドレス、本当によくお似合いです!」「伊礼様は本当にお幸せですね!」夢乃は鏡越しに彼を見つめ、優しく微笑んだ。「凜、どう思う?」凜は顔を上げた。掃き出し窓から午後の光が差し込み、夢乃を照らしている。ドレスにあしらわれたダイヤモンドの粒がキラキラと輝いていた。本当に美しかった。名家の令嬢、気品ある立ち居振る舞い、釣り合いの取れた家柄。けれど、凜はそのドレスを見つめながら、頭に浮かべていたのは別の光景だった。3年前の北部、鉱山地帯に急造されたステージの上。その日は新年会で、気温はマイナス二十度。仮設住宅は至るところから隙間風が吹き込んでいた。一夏は作業員たちに囃し立てられ、ステージに押し上げられて歌を歌わされた。彼女は洗濯して色が落ちた古いダウンジャケットを着て、顔には石炭の粉がつき、鼻の先を真っ赤に凍らせていた。途中で歌詞を忘れてしまい、顔を赤らめて彼に向かって笑った。客席の作業員が冷やかした。「伊礼さんの嫁さん、可愛いな!」あの時、自分はどう返しただろうか。彼は言ったのだ。「ああ、ありがとう」声は大きくなかったが、全員に聞こえていた。ステージ上の一夏は彼を見つめ、その瞳は星のように輝いていた。後でステージを降りると、彼女は彼の胸に飛び込み、小さな声で囁いた。「本当に凜のお嫁さんになれたらいいな」彼は彼女の冷た
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第13話

凜は路肩に車を止め、ハンドルを握りしめた。その指先は力が入りすぎて白くなっている。花屋の店員の言葉は鈍色のナイフのように、彼の心臓を何度も執拗に切り裂いた。あんなに早く。あんなにも早くから、彼女はすべてを知っていたのだ。それなのに、彼女は何も言わなかった。問い詰めることも、泣き喚くことも、激高して取り乱すことさえもしなかった。ただ静かに、自分の3年間が他人の功績にすり替えられるのを、彼が別の女の前で膝をつくのを、見つめていた。そして、静かに去っていった。凜は、それからの日々を思い返した。彼女が家を売ると言ったとき、彼は金に困っているのだと思った。彼女が傷ついて立ち去ったとき、彼はへそを曲げているだけだと思った。彼と夢乃がキスをするのを見て、彼女が「もう、どうでもいい」と言ったとき。彼女があまりに冷静すぎて、愛していたようには見えないとさえ彼は感じていた。今ようやく分かった。あれは冷静さなどではなかった。心が、完全に壊れたのだ。凜はスマホを取り出し、画面の上で指を長く止めた。結局、彼はアシスタントに電話をかけた。「もしもし?」「あらゆるリソースを使って、一夏を捜せ」凜の声はひどく沈んでいた。「代償もコストも問わない。彼女がどこにいるのか突き止めろ」「それは......社長、それには多くのコネを動かす必要がありますし、ご当主の方が......」凜はそれを遮った。「責任は俺が取る。やれ」電話を切ると、凜はシートに深く背を預けた。窓の外の街は相変わらず繁栄を極め、車の流れが編み物のように行き交っている。ふと、3年前の熱帯の南部での出来事を思い出した。当時、彼はマラリアに感染し、四十度の高熱を出して臨時診療所の板張りのベッドに横たわっていた。一夏は20時間も列車に揺られて駆けつけ、3日間一睡もせずに彼を見守った。熱で朦朧とする中、彼は彼女の手を握って尋ねた。「俺が死んだら、一夏はどうするの?」彼女は瞳を赤くしながらも、しっかりとした声で言った。「凜は死なないよ。私が、ずっとそばにいるから」その後、彼の病は癒え、彼女は疲れ果てて彼の腕の中で眠りについた。そのやつれた顔を見て、彼は心に誓ったのだ。一生、彼女を大切にすると。それなの
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第14話

夢乃から電話がかかってきたとき、凜はアシスタントから送られてきたフライト記録に目を通していた。一夏が発ったあの日、彼女の故郷へ向かう便は一つしかなかった。エコノミークラス、窓側の席。凜はその座席番号を見つめ、彼女がそこに座って窓の外を眺めていた姿を想像した。「凜!」受話器越しに、夢乃の泣きそうな声が響く。「どうして私をドレスショップに置き去りにしたの?丸三時間も待ったのに!」凜はこめかみを揉んだ。「急用ができたんだ」「ドレスの試着より大事?」夢乃は声を詰まらせた。「来月は結婚式なのよ。なのに凜、全然乗り気じゃない......お店の人たちに笑いものにされたよ......」凜は彼女の言葉を遮った。「結婚式は中止だ」電話の向こうが、不意に静まり返った。死のような沈黙。数秒後、震える夢乃の声がした。「......え?いま、なんて?」「海外の権威ある心臓外科医を見つけた。来週には到着する」凜は淡々とした声で告げた。「手術の手配は済んだ。結婚式を挙げる必要もなくなった」「嫌よ!」夢乃が悲鳴を上げた。「約束したじゃない!私と結婚するって!一生面倒を見るって言ってたのに!」「それは君の病気を治すためだ。今はもっといい治療法がある」「治療なんていらない!」夢乃は泣き叫んだ。「私は凜に結婚してほしいの!ひどいよ、凜......私、何年も凜のことを待っていたのに、そんな......」彼女の泣き声を聞きながら、凜は言いようのない苛立ちを覚えた。ふと、一夏のことを思い出す。胃の痛みで一晩中眠れなかったのに、彼を起こすのをはばかり、一人でリビングに座っていた彼女。三十九度の熱があるのに無理をして朝食を作り、「今日は大事な会議があるんだから、お腹を空かせちゃダメよ」と言った彼女。彼のためにしてきたことすべてを、彼女はいつも黙って耐え、少しでも彼に迷惑をかけることを恐れていた。最後、去り際でさえ、彼女は静かだった。泣き言も言わず、何の補償も求めなかった。それに比べて、夢乃は......凜は背もたれに寄りかかり、目を閉じた。ようやく理解した。夢乃への感情は、決して愛などではなかった。それは責任であり、執着であり、若かりし頃の約束に過ぎない。本
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第15話

診断書がデスクの上に広げられている。白紙に黒々と書かれた文字は、あまりに明瞭だった。【患者:下川夢乃。心機能は完全に正常。器質的病変は認められず。3年前に行われた心室中隔欠損閉鎖術後の経過は極めて良好である】凜はその数行を、ただじっと見つめていた。窓の外の空が、明るい色から薄暗い色へと移り変わるまで。「調べろ」ようやく開いたその声は、ひどく乾いていた。「彼女のこの3年間の行動をすべてだ。特に海外での記録を重点的に」アシスタントが頷く。「承知いたしました」調査結果は3日後に届けられた。分厚い書類の束には、夢乃が海外で過ごした3年間が記録されていた。凜は一ページずつ、ゆっくりと捲っていく。一年目、彼女はヨーロッパの北西部で大学院に通っていた。成績は平凡だったが、かなり活発な交友関係があった。二年目、彼女は男と交際を始めた。相手の家柄は悪くないが、名家というほどではない。写真の中の夢乃は、爛漫な笑みを浮かべていた。海のほとりで恋人と口づけを交わし、クリスマスマーケットでホットワインを楽しんでいる。3年目の初め、彼女は妊娠した。その四ヶ月後、彼女は一人で病院を訪れている。手術記録には、冷徹にこう記されていた。――人工妊娠中絶。その後、恋人の浮気が発覚した。相手は外国人のモデルだった。夢乃は別れを告げ、大学院を退学し、帰国の航空券を買った。時期は、ちょうど三ヶ月前。帰国した翌日、彼女は「心疾患の再発」を訴え、伊礼家が手配した私立病院に入院した。凜はファイルを閉じた。指先が氷のように冷たい。夢乃が帰国したあの日、目を潤ませて自分を訪ねてきた時のことを思い出す。「凜、また心臓の調子が良くないの......先生は長期の療養が必要だって言うけれど、あっちでは一人きりで、すごく不安なの......」あの時、自分は何と言ったか。「なら、俺が面倒を見てあげる」滑稽極まりない。「心疾患」も、「助けが必要」だという訴えも、そして「幼馴染みの情」さえも。すべてが嘘だった。捨てられた女が、引き受けてくれる人を探して戻ってきただけのこと。なのに自分は、それを盲信した。そのために、自分を真に愛してくれた人を失った。凜は車のキーを掴み、そのまま夢乃の
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第16話

リビングには死のような静寂が広がっていた。夢乃はソファの傍らに立ち、その身体を微かに震わせていた。長い沈黙の後、彼女はようやく口を開いた。その声は消え入りそうに細い。「......ええ、そうよ。凜を騙していたわ」彼女は顔を上げ、大粒の涙をこぼした。「でも、私にどうしろって言うの?海外で男に捨てられ、子どもを降ろし、たった一人きりで......私には、もうあなたに頼るしかなかったの」彼女は一歩踏み出し、凜の手を掴もうとした。「私たちは幼い頃から一緒に育ってきたじゃない。あの時凜は『ずっと守ってあげる』って言ってくれたんだよね......?たった一度嘘をついたからって、私を捨てるなんてできないはずよ......」凜はその手を無情にかわした。「あのときの約束は、あのときの夢乃に向けたものだ」彼の声はひどく淡々としていた。「今のお前はもう、あの頃の彼女じゃない」夢乃は呆然と立ち尽くした。「今の凜が愛しているのは、あの何一つ取り柄のない一夏なの?」彼女は突然、歪んだ笑みを浮かべて笑い出した。「彼女のどこがいいの?田舎育ちの娘で、家柄もなければ学歴だって――」「お前が持ってないものを、彼女はたくさん持っているんだ」凜は彼女の言葉を遮った。「どん底にいた俺を支え続けた勇気、俺のためにすべてを投げ打つ覚悟。どれもお前には持ち合わせていないものだ」彼は夢乃を見つめた。その瞳には、微塵の温度も宿っていない。「なのにお前は......都合のいい時だけ戻ってきて、嘘と涙で俺を縛り付けようとしただけじゃないか」「それは......」「今日から、お前と伊礼家はもう無関係だ。伊礼グループでの役職も、こちらで適切に処理させる」夢乃は目を見開いた。「私を追い出すつもり?そんなことしたら、下川家だって黙っていないわ!」「勝手にしろ」凜は背を向け、外へと歩き出した。「凜!」夢乃は彼を阻もうと駆け寄った。凜は身をかわして避ける。「触るな」その冷徹な眼差しに、夢乃はその場に釘付けになった。「これは自業自得だ。せいぜい大事にするんだな」ドアが開き、そして閉まった。夢乃はその場にへたり込み、声を上げて泣き崩れた。その頃、凜はすでにエレベーターの中にいた。壁に背を
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第17話

南部の小さな街。午後の陽光がプラタナスの葉の間からこぼれ落ちている。一夏はカフェの窓際の席に座り、ぼんやりと外を眺めていた。ここは彼女の故郷だ。ひどく静かな街で、生活のリズムは緩やか。人々の話し言葉には、どこか柔らかい余韻が混じる。「鐘ヶ江さん」穏やかな男の声が響いた。一夏は我に返り、向かいの席に視線を向けた。男はシンプルなシャツをまとい、銀縁の眼鏡をかけていた。背が高く、その顔立ちは一夏を少し驚かせるほど整っている。おばさんから紹介された、「海外帰りのエリートエンジニア」である長谷部瑞己(はせべ たまき)だ。「すみません、ぼうっとしてしまって」一夏が静かに言った。「構いませんよ」瑞己はふっと微笑んだ。「ここのコーヒーはなかなかいい。試してみてください」彼は物静かで、口数は多くない。だが、細部への配慮が実に行き届いていた。一夏のために椅子を引き、注文の際には彼女が「甘すぎるのは苦手」と言っていたのを覚えており、コーヒーが運ばれてくるとカップの温度を手で確かめた。「熱いので、気をつけてください」とても細やかな人だ。凜とは違う。凜はこうしたことに気を留めたことなど一度もなかった。彼はいつも「そんなことまで気にしてどうするんだ」と言い捨て、自分の仕事に没頭するか、電話にかじりついていた。けれど、そんな「こと」の積み重ねが、彼女の期待を少しずつ削り取っていったのだ。「考え事ですか?」瑞己が尋ねる。一夏は首を振った。「いえ、別に。そういえば、来週から会社に戻られるとおっしゃっていましたね?」「ええ、この近くの支社に異動になりまして。これからは、ずっとこちらに腰を据えることになります」彼は言葉を区切り、一夏を見つめた。「鐘ヶ江さんも安定した仕事を探していると聞きました。もしよろしければ、私の方でも当たってみますが」「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫です」一夏は言った。「今は、少しの間ゆっくり休みたいんです」瑞己は頷いた。「疲れた時は、休むべきですよ」彼は距離感の取り方が絶妙だった。なぜ帝都を離れたのか、なぜ急に戻ってきたのか、なぜこれほどまでに疲れ切った顔をしているのか。そんなことを問い詰めたりはしなかった。
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第18話

確かな報せが届いたとき、凜は会議の真っ最中だった。スマホが震え、画面に【居場所を特定しました】という文字が躍る。彼は即座に立ち上がり、報告の途中だった部門マネージャーの言葉を遮った。「今日の会議はここまでだ」会議室の面々は顔を見合わせたが、誰も何も聞けなかった。凜は上着を掴むなり、外へと飛び出した。アシスタントが後を追う。「社長、午後はまだ......」「すべてキャンセルだ」車はひたすら走り続け、帝都から南部のあの小さな街へと向かった。8時間を超える道のりだったが、凜は一分たりとも止まらなかった。頭にあるのは、ただ一点。――彼女に会う。どうしても会わなければならない。夕暮れ時、車は街に入った。ナビに導かれ、たどり着いたのは街外れの山の麓だった。アシスタントから送られてきた位置情報によれば、一夏はここにいる。凜は車を止め、石畳の道を山の方へと登っていった。山は高くないが、道は静まり返っている。夕日の残光が木の葉を通り抜け、地面に斑な影を落としていた。彼は急ぎ足で進む。心臓が激しく鼓動していた。彼女が去ってから今日まで、もうすぐ三ヶ月になる。一日が一年ほどにも長く感じられた。ようやく、角を曲がった先で、あの見覚えのある後ろ姿が目に入った。一夏は、野花が咲き乱れる中に立っていた。シンプルなワンピースをまとい、髪は緩くまとめられ、こめかみには薄紫の小さな野花が添えられている。夕日の光を浴びた彼女の横顔は、夢のように穏やかだった。彼女はカメラに向かって微笑んでいた。そして、カメラを構えている男。凜は目を細めた。――長谷部瑞己だ。帝都の社交界では、目立たないことで有名な長谷部家の次男。なぜ、あいつがここにいる?凜の足が、不意に止まった。瑞己がカメラを下ろし、一夏のそばへ歩み寄るのが見えた。ごく自然な動作で、彼女のこめかみにかかった後れ毛を整えてやる。一夏はわずかに首を傾けたが、避けることはしなかった。あの角度、あの表情。かつて彼にだけ見せていた、あの無防備な姿だ。凜の心臓を、何かが鋭く突き刺した。彼は深く息を吸い込み、再び歩き出す。足音に気づき、二人がこちらを振り向いた。一夏の視線が彼を捉えた瞬間、その顔から
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第19話

凜は、その小さな街に腰を据えた。一夏の家の向かいにあるホテルに長期滞在の部屋を取り、毎朝窓辺に立って、あの古い家を見つめていた。一夏の生活は、実に行儀正しく、規則正しかった。7時に起き、庭の花に水をやる。8時に買い物へ出かける。10時に帰宅すると、一日のほとんどを家の中で過ごす。時折、瑞己が訪ねる。果物の袋を提げていることもあれば、一束の生花を抱えていることもある。彼は来るたびに2時間ほど滞在する。凜は数えていた。最も長かったのは、3時間と7分だった。彼はホテルの窓際に立ち、絶え間なく煙草をくゆらせた。3日目、彼はついに耐えきれなくなった。買い出しから戻る一夏を、道で待ち伏せして引き止めた。「一夏」掠れた声で彼は言った。「10分でいいから話を......」一夏は買い物かごを提げたまま、彼を見つめた。「すみません、見ての通り、忙しいので」「10分だけでいいから」凜は譲らなかった。「話済んだらすぐ行くから......!」一夏は数秒の沈黙の後、小さく頷いた。「......分かりました」二人は路肩のベンチに腰を下ろした。日差しは心地よく、身体を温めてくれる。だが凜は、ただ寒気を感じるばかりだった。「夢乃のことは、全部知ったよ」彼は重苦しい声で切り出した。「彼女は俺を騙していた。病気はずっと前に完治していて、海外での手術も成功していたんだ」喉の奥が締め付けられる。「本当にごめん......あの時の俺が、ひどいことを......」一夏の声は、どこまでも穏やかだった。「でも、傷ついたという事実は消えない。加害者側が後から後悔したところで、受けた痛みが消えるわけではないから」「償うつもりだ」凜は必死に食い下がった。「一生をかけて償うと誓うから」「必要ない」一夏は立ち上がった。「私は今、とても幸せです。欺瞞も、裏切りも、ここには存在しないから」彼女の瞳は、山の泉のように澄み切っていた。「もう私を解放してください。あなたも、自分を自由にしてください」言い終えると、彼女は買い物かごを手に、一度も振り返ることなく去っていった。凜はベンチに取り残され、遠ざかっていく彼女の背中を見つめていた。陽光が目に眩しい。手をか
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第20話

婚約パーティーは、この街で一番のホテルで行われた。規模は大きくなく、招かれたのは数十人の客だけだった。そのほとんどが一夏の親戚や、瑞己を紹介してくれたおばさんの友人たちだ。一夏はシンプルなドレスをまとい、髪を結い上げ、真珠のピアスをしていた。慎ましやかだが、息をのむほど美しかった。その隣には、濃色のスーツを着た瑞己が穏やかな微笑みを浮かべて立っている。そこへ、凜が無理やり押し入ってきた。シャツはしわくちゃで、髪は乱れ、その目は真っ赤に充血していた。「一夏!」静かな会場に、彼の声がひどく耳障りに響き渡る。参列者の視線が一斉に彼に注がれた。一夏が振り返り、彼を見た瞬間に眉をひそめた。彼女の声は氷のように冷たい。「ここは伊礼社長が来る場所ではありません。お引き取りを」「一夏、こいつと結婚しちゃダメだ!」凜は彼女の目の前まで詰め寄った。「あいつのことをちゃんと知ってるのか?」一夏は彼を見ようともしなかった。「知っています。彼は私の婚約者です」凜は声を張り上げた。「帝都の長谷部家の次男が、なぜこんな地方に現れて、君を選んだのか、君は本当に知ってるのか?!」その言葉が落ちた瞬間、会場は騒然となった。親戚たちは顔を見合わせ、ひそひそと囁き合う。瑞己が一歩前に出、一夏をかばうように立ちはだかった。「伊礼さん、お引き取りください」凜は笑った。苦みの混じった笑いだ。「去るべきはお前だ、長谷部。何の目的で一夏に近づいた。知ってるんだぞ。長谷部家が今狙っているあのプロジェクト、伊礼グループのリソースが必要だってこと」彼は一夏に向き直った。「一夏、こいつは君を心から愛してなんていない。君を利用して、俺に、伊礼家に近づこうとしているだけなんだ!」一夏の顔から、みるみる血の気が引いていった。彼女は瑞己を見上げ、消え入りそうな声で尋ねた。「......彼の言っていることは、本当なの?」瑞己は数秒間、沈黙した。そして彼は向き直り、参列者全員に向かって、はっきりと力強い声で告げた。「......そうです。私はあの長谷部家の者です。ですが、一夏と一緒にいることに、家族の思惑など一切関係ありません」彼は一夏の手を取った。「私は、伊礼凜さんよりもずっと前から彼女
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