All Chapters of 追憶の霧、届かぬ約束: Chapter 1 - Chapter 10

22 Chapters

第1話

鐘ヶ江一夏(かねがえ いちか)は、伊礼凜(いれい りん)と共に北部の鉱山地帯から南の果ての熱帯地帯までを歩んできた。二人は互いの人生において、最も強く、揺るぎない支えだった。凜が家族に見捨てられた時、彼女はすべてを賭けて彼に寄り添った。彼が必ず勝つと信じて。一週間前、凜はついに勝利を掴んだ。伊礼家の当主が自ら彼を帝都へと迎え入れ、実権を握った彼の勢いは今や飛ぶ鳥を落とすほどだ。誰もが、泥沼から這い上がった二人の絆が、ようやく円満な結末を迎えるのだと考えていた。「一夏、おめでとう!」親友の小林千暁(こばやし ちあき)から届いたLINEのボイスメッセージは、震えるほど興奮していた。「一日も早く一夏を嫁にするために、伊礼さんは寝る間も惜しんで仕事を進めてたって、伊礼さんの友達が言ってたんだよ!」スマホを握る一夏の心に、温かな感情が広がっていく。彼女はふと、絆創膏が巻かれた自分の指先に目を落とした。それはここ数日、フラワーショップでラッピングの修行をしていた時にできた傷だった。今夜の祝勝会で、彼に手作りの花束を贈ろうと、一生懸命練習していたのだ。その時、半開きになった店のドアの向こうから、聞き慣れた愛しい声がした。凜だ。「一番新鮮なシャンパンローズをひと束」隙間から彼の声が聞こえてくる。「この指輪も、一緒に包んでくれ」一夏の鼓動が跳ね上がった。大きな幸福感と感動が彼女を包み込む。やはり彼も自分と同じように、今夜、相手を驚かせようと考えていたのだ。しかし次の瞬間、別の聞き覚えのある声が響いた。凜の幼馴染、庄野都木(しょうの とき)だった。「何年経っても、夢乃がシャンパンローズを好きだって覚えてるんだな」都木の声には感慨がこもっていた。「彼女もお前のために、わざわざ海外から駆けつけてくれたんだっけ。でも、今夜の祝勝会には鐘ヶ江も来るんだろ。夢乃にプロポーズして、あいつが騒ぎ出したらどうする?」外の空気が一瞬、凍りついたように静まった。やがて、一夏は凜の言葉を耳にする。それは彼女が一度も聞いたことのない、残酷なほど冷静なトーンだった。「知らせなければいい。適当な理由をつけて、来ないように言っておく」都木は数秒沈黙し、ため息をついた。「お前と3年間苦労を共
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第2話

華やかな通りを歩く一夏の足元で、ヒールがわずかに靴擦れを起こしていた。これは凜が金を稼げるようになってから贈ってくれたものだ。高価で精巧だが、彼女には最後まで馴染まなかった。二人の関係と同じだ。天と地ほどの差がつき、彼女にはもう、手が届かない場所へ行ってしまった。一夏は靴を脱ぎ、それを手に提げて裸足で歩き出した。凜の屋敷には戻らず、昔からの古びた賃貸アパートへ向かった。凜が起業に成功した際、大きな家をプレゼントすると言った。けれど、当時の彼女はこの部屋を指差してこう言ったのだ。「ここがいいの。ここには、私たちの思い出がたくさん詰まっているから」凜は彼女を「バカだな」と言って笑ったが、結局は折れて、この古くて狭い部屋を買い取り、彼女の名義にした。バッグの中でスマホが振動し、一夏は電話に出た。母親の、急かすような甲高い声が響く。「一夏、叔母がお見合い相手を見つけてくれたわよ。海外帰りのエリートエンジニアだって!来週帰国するから、さっさと準備して戻ってきなさい!いつも彼氏がいるって言ってるけど、3年間一度も見せたことがないじゃない。あんたの弟の結婚式も来月なんだから、200万円を準備しないと」母親の声がふと途切れる。「まともな彼氏を連れてくるか、さっさと帰ってお見合いするか、どっちかにしなさい」一夏は誰もいないガランとした部屋を見渡し、静かに答えた。「わかった。お見合いに行くよ」電話が切れた。彼女はもう一度、部屋を見渡した。リビングのテーブルには、いびつな形をした二つの陶器のカップが並んでいる。付き合って一周年の記念に、陶芸教室で作ったものだ。ソファは随分古びている。冬には二人で一つの毛布にくるまってホラー映画を観て、彼女が怖がって彼の腕の中に潜り込んだものだ。あの頃は、本当に貧しかった。けれど、あの頃の彼の瞳は輝いていた。彼女を見つめる瞳には、世界中の星が詰まっているようだった。一夏は寝室へ行き、スーツケースを引き出すと、自分の古い服を数着だけ詰め込んだ。それからスマホを取り出し、この部屋を不動産アプリに出した。相場を遥かに下回る価格。唯一の条件は「七日以内に全額一括払い」だ。一睡もできぬまま夜が明けた。翌日の午後、スマホが震えた。
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第3話

「凜、こんなところで何を......?」バルコニーの入り口から、夢乃の声が聞こえてきた。彼女の視線が一夏をかすめる。その笑みはどこまでも穏やかで上品だった。「......凜の会社の人かしら?ここは冷えるから、早く入りましょう?」一夏の指先が、体の脇で小さく丸まった。爪が手のひらに食い込む。彼が周囲に紹介している世界において、自分はただの、いてもいなくてもいい「会社の人」に過ぎなかったのだ。凜は向き直った。その口調には、どこか不自然さが混じっている。「夢乃こそ、どうして出てきたんだ?」夢乃は彼の腕に絡みつき、顔を上げて甘えるように言った。「ゲームでまた負けちゃったの。代わりにお酒、一杯だけ飲んでくれない?お願い」その声は柔らかく、甘ったるい響きで、彼への依存に満ちていた。それは、一夏がこれまで一度も口にできなかった言葉だった。彼女は自立しすぎていた。病気の時でさえ、彼に迷惑をかけるのを恐れて、一人で耐え抜いてしまうほどに。凜の視線が一夏の顔に注がれる。何かを言いかけようとした。夢乃は彼の腕をゆすった。「ねえ、いいでしょ?一杯だけ。それを飲んだら一緒に帰りましょう」「......わかった、一杯だけだぞ」凜は低く応じ、彼女に引かれるまま宴会場へと戻っていった。一夏はその場に立ち尽くし、寄り添い合う二人の後ろ姿を見送った。自嘲気味にふっと笑い、深く息を吸い込む。目頭に浮かんだ、滑稽なほど熱いものを無理やり押し戻した。一夏はロビーへ向かい、都木への誕生日プレゼントを置いた。それからタクシーを拾い、会社へと直行した。パソコンを立ち上げ、ファイルを整理し、退職届を印刷する。彼女がその書類を上司の五十嵐(いがらし)に差し出すと、五十嵐はそれを一瞥し、鼻で笑った。そして退職届を二つに引き裂き、ゴミ箱に放り捨てた。「どういうつもり?」鋭い声が響く。「伊礼さんの顔がなきゃ、あなたなんて面接だって通りゃしなかったのよ。ここまで育ててやって、伊礼さんも今や飛ぶ鳥を落とす勢い。あなたを窓口にして伊礼家と契約できると思ってたのに、結局、使い物にならない無能だったわけね!」五十嵐は一夏の目の前まで歩み寄り、一文字ずつ吐き捨てるように言った。「まあ、無理もないわ。こ
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第4話

一夏は、重いサンプル箱と契約書を抱えて伊礼グループの本社ビルへとやってきた。受付の女性は、マニュアル通りの完璧な微笑みを浮かべる。「どなたをお探しでしょうか?」「伊礼社長をお願いします」「伊礼社長はまだ出社されておりません。ご予約はございますか?」一夏は言葉に詰まった。――予約。かつて寝食を共にし、互いの呼吸の速さまで知り尽くしていた相手と、今や会うために列に並んで予約を取らなければならない。彼女は黙ってロビーの隅へと下がり、足元にサンプル箱を置いた。長いこと待っていると、ガラスドアの向こうにようやく見慣れた人影が現れた。凜は濃いグレーのスーツを纏い、その傍らには夢乃が寄り添っている。夢乃は顔を上げて何かを話し、目を細めて楽しそうに笑っていた。凜はわずかに顔を傾けて聞き入り、その横顔のラインは柔らかい。一夏は立ち上がり、重いサンプル箱を抱え直して歩み寄った。箱は重く、角が腕に食い込んで痛む。凜が彼女に気づき、足を止めた。一夏の手が震え、抱えていた箱がぐらりと揺れて落ちそうになる。夢乃がサッと手を差し出して支えた。「気をつけて」彼女の声は優しかった。手を離す際、一夏が抱えているものに目を留める。「この箱、結構重いわね。誰か運ぶ人を呼びましょうか?」凜はすでに手招きをして、アシスタントを呼び寄せていた。サンプル箱が引き取られ、一夏は空になった手でその場に立ち尽くした。指先がまだ微かに震えている。凜が彼女を見た。「どうしてここへ?」その口調は、まるで一般の訪問客に問いかけるように冷静だった。一夏はバッグから契約書を取り出し、淡々と答えた。「うちの会社が伊礼グループと進めたいと考えております、スマート掃除ロボットのプロジェクトです。今日はサンプルと契約書をお持ちしました。ご確認を」凜は契約書を受け取ると表紙を一瞥し、頷いた。「LINEで一言言ってくれれば済んだのに......」一夏は何も言わなかった。昨夜、メッセージを送ったのだ。でも彼は返さなかった。おそらく読みさえしなかったのだろう。三人はエレベーターへと向かう。前を行く凜と夢乃。一夏は半歩後ろを歩いた。夢乃が興味深そうに、アシスタントが持つサンプル箱を覗き込む。
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第5話

スマホが振動した。一夏が画面をスワイプすると、不動産アプリの通知が飛び込んできた。【掲載中の物件が成約しました。買主様より、3日後の一括支払いおよび引き渡し手続きの確認が取れました】3日後は、ちょうど彼女が帝都を去る日だ。一夏はスマホをしまい、署名済みの契約書を抱えて会社に戻った。五十嵐は電話中だったが、彼女が入ってくるのを見ると、視線で契約書を差し出すよう促した。一夏はフォルダーをデスクに置く。五十嵐は電話を切ると、契約書を開いて署名欄を確認し、口角を上げた。「いい仕事ぶりね。退職の手続きは人事に進めさせておくわ」「ありがとうございます、五十嵐さん」一夏が背を向けて立ち去ろうとしたその時、オフィスのドアが勢いよく開いた。千暁が目を真っ赤にして立っていた。「一夏......」一夏は足早に歩み寄る。「どうしたの?」千暁は彼女の手を掴み、声を震わせた。「全部聞いたよ......伊礼凜がそんな男だったなんて!それより一夏、仕事を辞めて、これからどこへ行くの?」「実家に帰るわ」一夏は少し間を置いて、続けた。「お見合いにいくの」千暁は驚きに目を見開いた。一夏は話題を変えた。「そんなことより、おばさんの具合はどう?手術の日はもう決まった?」千暁はうつむいた。「まだベッドが空くのを待ってて。それに、治療費が......ちょっと厳しくて」言い終わらぬうちに、受付の女の子が慌てて駆け込んできた。「小林さん、外で誰か呼んでます。その......借金の取り立ての人たちみたいで」一夏は眉をひそめた。二人が会社の入り口へ向かうと、刺青を入れた屈強な男たちが廊下を塞いでいた。リーダー格の男が煙草をくわえ、千暁の姿を見つけると下卑た笑みを浮かべた。「お、やっと出てきやがったか。俺たちの金、いつ返すんだ?」千暁は顔を真っ青にし、一夏の背後に隠れた。一夏は彼女を庇い、その男を睨みつけた。「彼女、いくら借りてる?」「利子込みで400万円だ。今日中に返せ。さもなきゃ......」男の視線が一夏に注がれた。ふと動きが止まり、その笑みが薄気味悪いものへと変わる。「あれ?どっかで見たことあると思ったら......あの鐘ヶ江一夏か?伊礼社長の元カノの?」隣の
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第6話

夜の九時、凜は本当にやってきた。古い家の前に立つ彼の左肩には、うっすらと包帯の膨らみが透けて見えている。一夏は身をかわして彼を中に入れた。凜の表情は穏やかで、その胸の内を読み取ることはできない。結局、先に口を開いたのは一夏の方だった。「その怪我......」「どうしてあんな連中と関わった?」言葉を言い終える前に、遮られた。一夏は口にしかけた気遣いを飲み込み、声を落とした。「千暁が闇金に手を出した。放っておけなかったの」「もうこんなことはするな」凜の口調はどこか刺々しかった。「女一人があんな連中と揉み合えば、外聞が悪い。それに話が広まれば、両社の提携にも影響が出るだろう」その言葉は冷たい雪のように、昼間の彼に守られたことで一夏の心に滲んでいたわずかな温もりを一瞬で覆い尽くした。彼は、彼女を心配していたのではない。提携に支障が出るだろうと、自身の面目を案じていただけなのだ。一夏は力なく口角を上げたが、何も言わなかった。凜はコートのポケットから一枚のブラックカードを取り出し、彼女の前に差し出した。「金が必要なら俺に言えばいい。あんな連中と関わる必要はない」カードの表面はひんやりと冷たく、一夏はそれを受け取ろうとはしなかった。凜は強引にそのカードを彼女の手に押し付けた。「持っておけ。あの借金は、君に返せる額じゃない」手のひらのカードを見つめながら、一夏は強い皮肉を感じていた。伊礼家のお坊ちゃんは、確かに出し惜しみはしない。けれど、彼女が欲しかったものは、そんなものではなかった。「今夜、君の会社と会食がある」凜は腕時計に目をやった。「支度をして、一緒に来い」一時間後、レストランの個室。凜と夢乃が並んで座っていた。五十嵐が数名の幹部を引き連れて同席し、千暁の姿もあった。テーブルには贅を尽くした料理が並び、五十嵐は愛想よく夢乃にお茶を注いでいる。「お二人、本当にお似合いですね」夢乃は控えめに微笑み、その視線は一夏をかすめてから五十嵐へと戻った。「五十嵐さん、褒めすぎですよ。そういえば、御社の清掃ロボットのプロジェクト、とても興味深いです。私も大学時代、似たような開発に携わったことがあるんです」五十嵐の目が輝いた。「本当ですか?下川様、そん
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第7話

古い家に戻り、一夏はシャワーを浴びた。熱い湯が肌を流れていくが、胸のつかえまでは洗い流せない。髪を拭きながら出てくると、突然ドアを叩く音がした。一夏は歩み寄り、ドアスコープから外を覗いた。そこに立っていたのは、凜だった。彼女は一呼吸置いてから、ドアを開けた。一夏は入り口に立ち、ひどく穏やかな表情を浮かべていた。一言も発さない。ただ淡々と彼を見つめるその瞳は、まるで他人を見ているようだった。凜が低い声で切り出した。「さっきのは......夢乃の情緒が不安定だったんだ。彼女は心臓が悪い。刺激するわけにはいかないから、あんなことを......」彼は言葉を区切り、続けた。「あのキスは、ただ彼女を落ち着かせるためのものだ」それを聞きながら、一夏はふと笑いが込み上げてくるのを感じた。他の女との接吻を、これほどまでにもっともらしく正当化できるとは。そのためにわざわざ説明しに来るなんて。「わざわざ説明しなくていいわ」彼女の声はひどく冷ややかだった。「もう、どうでもいいから」言い終えると、彼女はドアを閉めようと手をかけた。凜がドアの縁を掴んでそれを阻む。「一夏、怒っているんだろう?」一夏は彼を見上げた。この期に及んで、彼はまだ彼女が単に「怒っている」だけだと思っているのだ。少しなだめれば、すべてが元通りになると信じている。彼女はゆっくりと自分の手を引いた。「伊礼社長、今日はお疲れ様でした」ドアが静かに閉まった。ドア一枚隔てた向こう側で、彼が長い間立ち尽くしている気配がした。やがて、足音が遠ざかっていった。一夏はドアに背を預けたまま、ずるずると床に座り込んだ。顔に手を触れてみる。乾いていた。心が壊れた時というのは、本当に涙も出ないものなのだ。翌朝、一夏はスマホの振動で目を覚ました。カレンダーに目をやる。今日は彼女が帝都を去る日だ。画面には千暁から十数件の着信が入っていた。彼女は折り返した。「一夏!大変だよ!」千暁の声は、震えるほど焦っていた。「一夏がまとめ上げたあのプロジェクト、五十嵐さんと下川さんの共同プロジェクトになってる!今日の午後、発表会があるんだって!」一夏はスマホを握りしめたまま、何も言わなかった。心の中
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第8話

凜は一瞬、沈黙した。赤く腫れた彼女の目元に視線を落とし、声を低める。「そもそも君がこのプロジェクトを引き受けたのは、賞金を俺の資金繰りに充てるためだっただろう?」一夏の心臓が、目に見えない手に締め付けられたかのように、呼吸がわずかに止まった。彼は、覚えていたのだ。彼女が幾夜も徹夜したことも、賞金を手にした時のあのはしゃぎようも、カードを彼の手に押し付けたあの瞬間のことも。「今の俺には、もう君の支援は必要ない」凜は言葉を切り、淡々と事実を告げるような口調で続けた。「だからもう、無理をする必要はないんだ」一夏は彼を見つめながら、目の前の男が恐ろしいほど見知らぬ誰かに見えた。彼は彼女の献身をすべて覚えていた。苦楽を共にした細部も、彼のために心血を注いだ彼女の姿も。だが、覚えていたところで、それが何だというのか。彼はやはり、別の女を選んだのだ。彼女が最も大切にしていたものを、何でもないことのように他人に譲り渡した。「夢乃は入社したばかりで、周囲を納得させるだけのキャリアが必要なんだ」誰もいない廊下に、凜の声が響く。一文字一文字が明瞭で、そして残酷だった。「だからこのプロジェクトは彼女にとって重要だ。君以上にね」一夏の指先が氷のように冷たくなった。何かを言おうと口を開きかけたが、声が出ないことに気づく。3年の奮闘で手にした名誉、初めて自分の実力で得た評価、ようやく胸を張れると思った自分自身の証明......それらすべてが、夢乃の「必要」の前では、塵のように軽いものだった。一夏は静かに息を吸い込んだ。冷たい空気が、氷の礫を混ぜたかのように肺に刺さる。彼女は何も言わず、一歩、また一歩とその場を離れた。......古い家に戻ると、一夏は家中をひっくり返して探し回った。ロボット開発に携わっていた頃の、あらゆる資料を見つけ出したかった。それが彼女の生きた証だからだ。けれど、どこにもなかった。引き出しは空になり、ファイルボックスも空。パソコンのハードディスクにあった関連フォルダまで、跡形もなく消去されていた。一夏は床に座り込み、空っぽの棚を見つめながら、ふと笑いが漏れた。肩がかすかに震える。この家の鍵を持っているのは、自分以外には凜だけだ。彼女が大切
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第9話

記者会見が終わっても、拍手の余韻はまだ完全には消えていなかった。凜はステージ下の影に立ち、メディアに囲まれて微笑みながら手を振る夢乃を見つめていた。スポットライトを浴びる彼女のオフホワイトのセットアップが、目に刺さるほど眩しい。彼女は確かに輝いていた。家柄、学歴、立ち居振る舞い、どれをとっても非の打ち所がないほど完璧だった。しかし、ステージを見つめる凜の心は、ふと空虚に襲われた。三ヶ月前、一夏がチームを率いて徹夜で試作機の調整をしていた日のことを思い出したのだ。研究所へ彼女を迎えに行くと、彼女は目を開けていられないほど疲れ果てていたが、それでも興奮気味に彼の袖を掴んで言った。「やった!やっと成功したよ、凜!」あの時の彼女の顔には機械油がつき、髪はボサボサだったが、笑う瞳は星のように輝いていた。今、ステージの上にいる人物とは似ても似つかない。完璧なメイク、優雅な仕草、微笑みの角度に至るまで計算され尽くしている。凜は眉間を揉んだ。彼は何かに突き動かされるように、スマホを取り出した。一夏とのトーク画面を開き、少し迷ってから文字を打ち込む。【会見が終わった。まだ怒っているのか?】送信する。すると画面に、即座にエラー通知が表示された。【送信できませんでした】凜はその一文を見つめたまま、二秒ほど呆然とした。ブロックされたのか?もう一度送ってみる。やはり同じエラー通知。電話をかける。「おかけになった番号は、現在電源が入っていないか......」凜は眉をひそめた。スマホをしまい、アシスタントに手短に指示を出すと、そのまま車を走らせてあの古い家へと向かった。道中、信号待ちの間に再びダイヤルしてみたが、やはり繋がらない。車を路地の入り口に止める。凜がドアを開けると、遠くに建物の下にある物が積み上げられているのが見えた。近づいてみると、それはソファやテーブル、そして見覚えのあるあの古い毛布だった。すべてがゴミ捨て場の横に放り出されている。凜の足が止まった。彼はそれらすべてを覚えていた。ソファは3年前、リサイクルショップで見つけてきたものだ。古いが、とても柔らかかった。冬にはその上で寄り添って映画を観て、彼女が冷えた足を彼の胸に押し込み、彼が嫌そう
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第10話

千暁は古い団地に住んでいた。凜は建物の下に車を止め、階段を上がってドアを叩いた。長い間ノックを続けて、ようやくドアが細く開いた。彼だと気づいた瞬間、千暁の顔から温度が消えた。「......何か用?」「一夏はここにいるか?」凜の問いに、千暁は鼻で笑った。ひどく皮肉な笑みだった。「ご冗談を。伊礼社長には下川家のお嬢様がついているんでしょう?今さら一夏に何の用です?」「ブロックされたんだ」凜が言う。「電話も繋がらない」「繋がらなくて当然でしょ」千暁はドアを大きく開け、腕を組んで彼を睨みつけた。「彼女ならもう行ったわよ。どこへ行ったかは、私も知らない」「行った?」凜は彼女を凝視した。「どういうこと?」「この街を離れたってことよ」千暁は一文字ずつ噛み締めるように言った。「あんな仕打ちをしておいて、今さら心配してるふりなんて......ひどすぎるわ」凜の喉仏が動いた。「......彼女に連絡取れるか?話したい事が......」「話したい事?何を?」千暁が冷笑する。「彼女のプロジェクトを他人にプレゼントしたこと?下川さんとキスしたこと?それとも、彼女をただの社員か、都合のいい女みたいに扱ったこと?」凜の顔色がさっと白くなった。「それは......」「全部、事実でしょ」千暁が言葉を遮る。「言っとくけど。一夏が3年間あんたと苦労を共にしたのは、こんな風に踏みにじられるためじゃないから!」彼女はそのままドアを閉めようとした。凜が手を伸ばしてそれを阻む。「いつ発ったんだ?行く当ては?」「知らない!」千暁は力任せにドアを閉めた。「もう来ないで!」バン!音と共に、ドアが閉ざされた。凜はドアの前で、差し出した手を空中に止めたまま立ち尽くした。静まり返った廊下に、自分の呼吸音だけが聞こえる。彼はしばらくそこに佇んでいたが、やがて背を向けて階段を降りた。車に戻ると、彼は煙草に火をつけた。車内に煙が立ち込め、さまざまな記憶が蘇る。3年前、千暁に初めて会った日のこと。あの日、一夏に紹介された時、千暁は最初から最後まで彼に険しい視線を向けていた。仲良くなってから、千暁はこう明かした。「ただ、一夏が損をするじゃないかって
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