All Chapters of 悪役のメスに転生したら、まさかの溺愛ルート?!: Chapter 1 - Chapter 10

30 Chapters

第1話

ぼんやりとした意識の中で、草壁美波(くさかべ みは)は誰かが鞭で叩かれているような音を耳にし、ゆっくりと目を覚ました。まず視界に飛び込んできたのは、肩までかかる銀灰色の髪だった。その銀灰色の髪を持つ主は、床に跪いていた。褐色の背は、張り詰めた弓のようにしなやかに弧を描き、筋肉の一つひとつが力に満ちて盛り上がっている。だが、その背中は縦横に走る鞭の痕によって無残に裂かれ、見る者の目を覆いたくなるほどだった。裂けたばかりの傷口からはまだ血が滲み出ており、引き締まった筋肉の流れに沿ってゆっくりと滴り落ちる。血は腰のあたりで細い流れとなって集まり、やがて獣皮の短い腰布の縁へとぽたり、ぽたりと落ちていった。相手が顔を上げ、その暗紅色の瞳と目が合った瞬間、美波は心臓を毒蛇の牙で貫かれたような錯覚を覚えた。隠しきれない深い憎悪が渦巻いている、その冷たい瞳。彼は少しだけ顔を傾け、美波の手元に握られている鞭に視線を落とすと、口元をかすかに歪め、鼻で笑った。「終わりか?もう体力を使い切っちまったのかよ?」と、毒を含んだような、低く掠れた声で言う。美波の頭の中で、ズンと鈍い衝撃が走った。こめかみに激痛が走り、前世の記憶が洪水のように溢れ出す。社会人になったばかりだった美波は、不幸なことにも過労で、短い人生を終えたのだった。しかも、人生最後の瞬間、読みかけだった獣人の世界を舞台にした小説へと転生してしまった。それも、自分と同姓同名だった、救いようのない悪役へ……小説の中の美波の父親・草壁徹(くさかべ とおる)は、独り娘である彼女を溺愛していた。だからか、成人したばかりの美波に、五人のオスを強引に連れてきて、番いとして契約を結ばせたのだった。だが、その夫たちを毛嫌いした美波は、日々飽きることなく虐待を繰り返していた。目の前の男は、猛毒を持つ白蛇の獣人。非常に冷酷な性格で、小説の終盤には彼女の指を一本ずつ折り曲げていく役だった。美波は弾かれたように手を離す。鞭がパサッと音を立てて手から滑り落ちた。鞭の先についた血が彼女の足首に飛び散り、氷のような感触が全身に走った。幽弦(ゆうげん)の眉がわずかに動く。いつもなら、この極悪非道な女は鞭を振るう手を更に強めるか、赤く熱した焼きごてで、彼を痛めつけては喜んでいたはずなのに。それなのに
Read more

第2話

幽弦と焔牙が蒼瀾を探しに出かけた今、洞窟の中には泉輝と司が残っていた。居心地の悪さを感じた美波は、彼らに背を向けて洞窟内を見回す。原始的な作りとはいえ、入り口は太い木の幹や蔦で補強され、厳しい寒さを防ぐのには十分だった。洞窟の壁も綺麗に整えられ、床にだって干し草が厚く敷かれている。さらには、何枚もの獣の皮が重なっていた。これらはすべて、徹が作り上げたものだった。このたった一人の娘を守り抜くために、徹は紫ランクでありながら、常に群れを作らず単独で生活してきた。壁際には処理済みの獣皮が積み上がり、石の棚には干した獣肉や木の実が並んでいる。食べ物にも困らなそうだ。美波はふと陶器の水桶の中を覗き込んだ。そして、その水面に映る自分の姿に息をのむ。そこには、ゆるやかにウェーブのかかった紫の髪と、星空のように輝く漆黒の瞳を持つ美しいメスの獣人が映っていたのだ。嗜虐的な性格の元の持ち主が、まさかこれほど美しい見た目をしていたなんて。自分を恨むこの獣人たちと共にいればいつ殺されるか分かったものではない。だから、美波は徹を探しにいくことを決めた。自分を大切に思ってくれている紫ランクの徹を探し出し、この契約関係を終わらせてもらえれば、命だけは守れる。だが、ここは猛獣が溢れる過酷な獣人世界であるため、誰かに守ってもらわなければ生きていけないのも事実なのだ。また、この世界はオスが圧倒的に多くメスが極端に少なかったため、メスが複数のオスと番いの契約を結ぶのは常識だった。だから自分のような弱者は、強い彼らの力なしでは瞬く間に淘汰されてしまうだろう。「また、何か新しい遊びでも考えているの?」泉輝が鼻で笑いながら、美波に問いかける。美波が振り向くと、焚き火に照らされた泉輝が、顔の傷痕を指でなぞりながら、鋭い視線を向けていた。隣の司は目を伏せていたが、銀色の髪に隠れた表情からは彼が激しく苛立っているのが伝わってくる。彼らは美波がまた自分達を痛めつける方法を考えているのだと思っている様子だった。美波は溜息をついて言った。「すぐ分かるから」そのとき、入り口から激しい足音が響いてきた。幽弦と焔牙が帰ってきたのだった。彼らは溪水で満たされた大きな木桶を担いでおり、その中には蒼瀾が横たわっている。美波は言葉を失った。桶の中の
Read more

第3話

司の伏せられた目元がピクリと震え、銀色の長髪の間から見える琥珀色の瞳に、初めて動揺の色が浮かんだ。「本当にその気なら、もうとっくに契約を解いてるはずなのに、なぜ今さら?また何か新しい遊びでも考えたのか?」司は他の四人と少し違っていて、徹に連れてこられたのではなく、自分からここに来ていた。元の体の持ち主と司はもとから知り合いのようだった。しかし、契約が彼の同意の上だったのか否か、美波の記憶は定かではなかった。だが、今の言葉からすると、彼も契約をときたがっているのだろう。美波は将来、闇堕ちしてしまう司を見つめ答える。「さっきも言ったけど、私は父を探しにくのに付き添って欲しいだけ」そして、一度言葉を切ると、虫の息になっている蒼瀾をちらりと見て、司に言った。「司、あなたの能力で蒼瀾の傷を治してあげて。そうしたら、今すぐ血を一滴あげるから」祭司である司は能力が使えた。祭司の能力というのは、治癒能力から思念的なものを物質に変える攻撃能力までさまざまだったが、元の体の持ち主は、これまでその能力の使用を、彼自身が負った傷でさえも含め、一切禁じてきた。しかし今、その能力の使用を美波から言い出し、しかも紋印を消すための血一滴と交換するというのだ。司は美波の言葉を信用する気はさらさらなかったが、蒼瀾の傷が深刻なのは事実だったし、彼女が一体何を企んでいるのか確かめるつもりで、司は頷いて蒼瀾に歩み寄った。司の指先がかすかに白く光る。祭司が使える治癒能力の光だった。司が蒼瀾の尾にそっと手をかざすと、柔らかな光が傷口へ流れ込み、痛々しかった傷がみるみる塞がっていく。蒼瀾の紫水晶のような瞳から、心地よさげな溜息がこぼれた。強張っていた体が緩み、青白かった頬にも赤みが差していった。司の手の光が消えると、彼の銀色の髪に隠れていた額には薄っすらと汗がにじんでいた。能力を使いすぎたせいか、肩で息をしている。司は美波の方を向き、どうせ約束など果たさないのだろうという懐疑的な眼差しを向けた。美波は首にかけていたネックレスを外した。成年男性の指先ほどの大きさで、先が尖っている。何で作られているのかは不明だったが、徹が昔偶然見つけて、美波のお守りとして加工してくれたものだった。彼女はネックレスを握りしめ、深く息を吸い込んでから指先に先端を走らせる。
Read more

第4話

なるほど。機嫌を取ることによって血をもらい、さっさと契約を解きたいわけか。美波はすぐに状況を理解した。この獣人たちは皆、元の持ち主の束縛から一日も早く解放されたがっている。だが、これはこれで都合がいい。少なくとも彼らには、別の企みがないということなのだから。契約印の縛りがある以上、彼らは自分に危害を加えられない。先ほど抱いた毒入りかどうかの不安も、どうやら杞憂だったようだ。美波はそう自分の中で納得すると、張り詰めていた肩の力をようやく抜いた。とはいえ、そう簡単に契約を解除するわけにはいかない。こんな簡単に、泉輝に血を分けていたら、すぐに紋印は消えてしまうだろう。そうなれば、この執念深い狐のことだ、きっとすぐに自分の首に噛みついてくるはずだ。美波は顔を上げて泉輝の狡猾な瞳を見つめると、意味深な笑みを浮かべた。「肉一皿だけで、血と交換するつもり?」泉輝は表情を強張らせ、案の定皮肉を返してきた。「じゃあどうしろって言うの?」美波は手に持った肉をゆっくりと揺らし、「こういうのはどう?毎日五回、今日みたいに心のこもった食事を用意してくれたら、一滴ずつ血をあげる」と言った。美波は適当に言っただけで、はなから泉輝が応じるなどとは思っていなかった。食事五回で血を一滴。つまり、五十回食事を作れば自由になれる。泉輝は瞳を一瞬輝かせると、少し用心深く聞き返した。「本当?獣神に誓える?」この世界で獣神は絶対的な存在であり、嘘をつくことは許されず、誓いには強制力があった。美波は頭の中で計算した。五十回なら、父に会うまで十分持ちこたえられるはず。彼女はためらうことなく胸に手を当てた。「私、草壁美波は獣神に誓います。泉輝が食事を五回分用意してくれたら、血を分けて契約を解きます。絶対に嘘はつきません!」そう美波が誓うや否や、泉輝は瞳に狂喜の光を宿らせた。泉輝は心からの笑みを浮かべ、持っていた葉を差し出す。「さあ、召し上がれ。冷めると美味しくないから、早く食べてね」美波は肉を口に入れた。外はカリッと香ばしく、中からは肉汁が溢れ出してくるが、二口ほど噛むと眉をひそめた。味がまったくないのだ。「塩は?」思わず口に出す。泉輝の笑顔が薄れ、どこか皮肉めいた声が返ってきた。「忘れちゃったの?僕たちを折檻するための鞭を塩水に浸す
Read more

第5話

蒼瀾が容器の中をゆっくりと二回泳ぐと、尾びれが揺れて穏やかな水紋が広がり、半分ほど入っていた海水は目に見えて減っていき、水面が少しずつ下がっていった。ほんのしばらくの間に、容器の水はほとんど空になった。蒼瀾は動きを止めると、わずかに頭を持ち上げて喉仏を動かし、口から拳大のものを吐き出した。それは雪のように白く、キラキラと輝く塩の塊だった。美波はその様子を呆然と見ていた。これが人魚族の製塩術?しかし……塩は彼の口から出てきた。本当に食べれるのだろうか?そんな疑問が脳裏をよぎったが、先ほど食べた味気のない肉を思い出すと、お腹が正直に鳴り出す。どうやってできたかなんて関係ない。塩があるのなら使わなければ。美波はすぐに手を伸ばした。「その塩ちょうだい」だが蒼瀾は動こうとせず、ただ彼女を見下ろした。漆黒の瞳に感情はなく、淡々とした声で美波に言う。「先に血をちょうだい。そうしたら、塩をあげるから」美波が司に血を与え、獣神にも誓いを立てたことは見ていたが、この女に何度も裏切られた経験から、蒼瀾は美波の口約束を全く信じていなかった。蒼瀾が簡単には信じないことを悟り、美波は歯を食いしばってネックレスを外し、かさぶたになりかけた傷口を再び開いて血を垂らした。滴る血が蒼瀾の胸のサソリの印に触れると、深い紫色の模様はまるで水で薄まった墨のように、みるみるうちに薄くなり、縁がほんのりピンクに染まった。蒼瀾の睫毛が激しく震えた。その瞳に星が落ちたように、一瞬で繊細な光が弾け飛ぶ。彼は薄まった印をじっと見つめ、言葉を詰まらせていた。触ろうとしたようだが、その指は空中で止まっている。あまりに唐突な真実に、触れることすら恐ろしいようだった。美波が本当に血をくれた。これがあと九回続けば、完全にこの契約から解放される……指先で紋印の縁をなぞり、その目を一瞬輝かせたが、すぐにかげりを落とした。一度の血ではだめなのだ。あと九回重ねなければならない。しばらくしてようやく我に返ると、蒼瀾は手にした塩の塊を差し出した。美波が受け取ろうとした時、指先の傷口が塩の塊に触れてしまった。「っ……」突き刺さるような鋭い痛みに、思わず息を呑み、手元が狂って塩を落としそうになった。落下の直前、蒼瀾が素早くそれを受け止めた。痛みに耐え
Read more

第6話

美波が気持ちよく夢を見てるそんな時だった。不意に、首を力任せに締め上げられ、息を呑むような窒息感が怒涛の波のように押し寄せてきた。美波は必死にもがき、叫ぼうとしたが声を出せなかった。幸せな夢は黒い影へと変わり、全身から一気に力が抜け落ちていく。まぶたも接着剤でくっつけられたように重く、どうやっても目を開けることができなかった。「うっ……」と美波の喉からはかすかなうめきが漏れ、意識が深い闇の底で彷徨っていた。蒼瀾の大きな影が、洞窟内の焚き火に照らされ、ゆらゆらと揺れている。彼は目を伏せ、長いまつげに陰を落としていた。しかし、その瞳には明らかに憎悪が渦巻いていて、美波の首にかける指先に一層力が込められる。美波の顔の赤みは消え、次第に青ざめていった。唇が小刻みに震え、目尻からは溢れ出した涙が頬を伝い、耳の脇に流れていく。美波の意識が途切れる寸前、突然、蒼瀾の腕を何者かが、骨を折らんばかりの力で、思い切り引っ張った。蒼瀾の腕が何者かにより力づくで離されると、美波は糸の切れた人形のようにへなへなと崩れ落ちた。干し草の上で激しく咳き込み、胸を大きく上下させながら荒い息を吐く。「蒼瀾、お前正気か?」そう冷え切った声で、問いかけたのは幽弦だった。彼は蒼瀾を睨みつけ、暗紅色の瞳に怒りを宿した。「俺たち全員を道連れにする気か?」獣人世界には残酷な鉄の掟があった。契約した番いがいるメスが伴侶に殺されれば、その相手と契約したすべてのオスも紋印に飲み込まれ、その場で命を落とすのだ。蒼瀾は振り返らず、なおも激しく肩で息をする美波の背中を睨みつけていた。その瞳には深い冷酷さが宿っている。数秒後、彼は勢いよく幽弦の手を振り払うと、何も言わずに、洞窟の外へ大股で去っていった。足首の緑ランクの輪紋が、闇の中でうっすらと浮かび上がる。去り行く背中を見送る幽弦の眉間に、深い皺が刻まれていた。彼には蒼瀾の恨みが痛いほど分かった。無理やり剥がされた鱗の痛みに、尽きることのない苦しみ。自分でも同じ目に遭えば、取り乱したに違いない。だが、今日の美波は、普段とは何かが違うのだ。幽弦は振り返り、まだ咳き込んでいる美波を見つめた。美波の意識はまだ朦朧としているようだ。多分、蒼瀾の精神干渉の能力で、混乱の中に閉じ込められたせいだろう目尻の涙も乾かない
Read more

第7話

皆が皆、驚いたような表情をしているのを、美波は不思議そうに見てから、眉をひそめた。どういうことだ?まさか、自分が提示した条件は、そんなに魅力的ではないのか?三回手当するだけで、血を一滴もらえるのだ。泉輝の「食事五回で血一滴」よりずっと割が良いから、彼らも目を輝かせて喜ぶと思っていたのに。美波は瞬きをしてから、不審そうな顔で蒼瀾を見た。「もしかして……この条件、不満だった?」そう問いかけられて、ようやく獣人たちは我に返った。司が真っ先に伏し目がちに視線を逸らし、泉輝は引きつった笑みを浮かべたまま妙な表情をしている。焔牙はまだ、状況が飲み込めていないようだった。しかし彼らはすぐに悟った。美波は、自分の首の傷に気づいていないし、蒼瀾に絞め殺されかけたことも知らないらしい。気づいていないのなら、わざわざ教えるような馬鹿な真似はしない。蒼瀾はホッとした表情で幽弦を見ると、ポツリと言った。「手当てをしたのは僕じゃないよ」全員の視線が一斉に幽弦に集まる。幽弦は暗紅色の瞳を一瞬揺らし、美波の問いかけるような視線を受け止めた。「ああ、俺だ」美波はさらにわけが分からなくなった。蒼瀾に顔を向けて、「じゃあ、さっき何であなたがやったって言ったの?」と尋ねる。しかし、蒼瀾はただうつむき、紫の瞳に複雑な光を宿すだけで、何も答えなかった。他のオスが罰を受けてしまうのではないかと心配して、思わず名乗り出たなんて口が裂けても言えない。そんなことを言えば、美波に問い詰められるに決まっているのだから。「まあ、何でもいいよ。とにかく、手当てしてくれた人には、ご褒美をあげないと、ね?」美波は蒼瀾が答えないことを特に気にすることもなく、幽弦に真面目な顔を向けた。「この手当、すごいね。傷口がもうかさぶたになってるよ。今回はこれで一回分。あと二回手当てをしてくれたら血をあげるから」幽弦は指先をかすかに震わせながら、静かに頷いた。そんな美波を見て、泉輝が急に不満を口にする。「納得いかないよ!手当ては三回で血をくれるのに、僕の食事は五回?そんなのずるいって!」こんな口を利けば美波が怒ることは分かっていたが、泉輝はこの条件に異を唱えずにはいられなかったのだ。そして、これは探りでもあった。昨日から、彼女の様子はどこか奇妙だった。だから、一体何を考
Read more

第8話

急ぎだ。急ぎに決まっている!美波は間髪入れずに首を横に振った。とにかく一刻も早く徹を見つけないと、彼が危ないのだ。それに、今の美波にとって徹が唯一の頼みの綱だった。本来の物語の筋書き通りに、彼が災難に巻き込まれるなんて、想像したくもなかった。「だったら、獣の姿で移動しよう。早ければ早い方がいいからね」美波がそう言うと、彼らが急に沈黙した。美波は瞬きをしながら、きょとんとする。「どうしたの?何か問題でもあるの?」幽弦が半歩前に出て、暗紅色の瞳で彼女を流し見ながら、溢れんばかりの嘲りを込めて言った。「姿を変えて移動するのは構わない。だが、お前は一体誰の背中に乗るつもりなんだ?」その言葉が石のように美波の脳天に突き刺さった。元の体の持ち主が以前、彼らの獣としての姿を散々貶していたことを思い出す。かつて、元の体の持ち主は言った。幽弦の蛇の姿はヌルヌルしていて気持ち悪い。触るのも嫌だし、汚らわしいと。司の仙鶴の姿については、高貴なふりをして中身はただの木偶の坊。飛ぶたびに羽が風を巻き起こして目が回る。無駄に立派な羽があるだけだと、馬鹿にした。泉輝の赤狐の姿は陰険で狡猾。赤い毛が血に染まっているようで縁起が悪い、眉間に皺を寄せる。焔牙の獅子の姿は、見かけだけで中身は豚のように鈍くさい。鬣は枯れ草みたいに生え散らかし、走るたびに揺れる地面は、うるさくて敵わないと毒づいた。蒼瀾については、水から離れるとひどく不様で、鱗が剥げた姿は、まるで皮を剥がれた魚のようで醜い。川にいる雑魚の方がよほどマシだ、と吐き捨てていた。美波は立ち尽くし、喉の奥が締め付けられるのを感じた。これだけの侮辱を浴びせられた彼らが、快く自分を乗せてくれるとは思えない。今の状況で唯一の方法は、自分の血液と交換条件で乗せてもらうことしかないだろう。美波が口を開こうとした時、焔牙が前へ歩み出て、大きな体で彼女の前に立ちはだかった。「俺の背中に乗れ。鬣が長いから、掴まりやすいはずだ」それは感情の読み取れない、低く響く声だった。美波は目を輝かせた。まさか、向こうから名乗り出てくれるとは!気が変わっては困ると思い、美波は即座に頷く。「ありがとう!でも、ただ乗りなんかしないからね。二日乗せてくれたら血をあげる。絶対に!」焔牙は思わず呆気に取られた。まさ
Read more

第9話

蒼瀾は桶のそばまで行くと、尾を軽やかに振り、塩の入った小さな陶器を巻き取って獣皮の袋に収めた。準備が整うと、獣人たちは目を見合わせ、同時に獣の姿に変身する。幽弦は真っ白な巨大な蛇になった。鱗が日差しを反射して冷たく光り、とぐろを巻いた体は桶よりも太く、見る者を震え上がらせる。真っ白な仙鶴になった司。翼を広げると二メートルもあり、雪のような羽と金色のくちばしは、雲から舞い降りた神鳥のように気高い雰囲気を纏っている。燃えるような赤い毛並みと、大きな花のようにふわふわした尻尾がひときわ目を引いていたのは、赤狐の泉輝だった。焔牙の獅子の姿はもっとも勇ましく、普通の獅子より一回り大きく、立派な鬣が圧倒的な威厳を放っている。蒼瀾は人魚の姿のままだった。尾には傷跡があり、鱗が未だに再生せず、痛々しい痕が残っている。美波は、目の前のそれぞれ異なる姿の獣人たちを見て、思わず驚きの声を上げた。獣人世界のオスだけあって、獣の姿もかなり美しい。焔牙は美波の前にやってくると、軽く腰を落とし、乗るように促した。鬣は硬そうに見えたが、指で触れると柔らかく、思ったよりちくちくしなかった。美波は深く息を吸い込み、恐る恐る焔牙の背中に這い上がると、鬣をしっかりつかんだ。「しっかりつかまってろよ」と焔牙が言う。美波が頷いた途端、焔牙は足を踏み出し、黒い森の方へと駆け出した。先頭で幽弦が道を切り開き、空では仙鶴の司が周囲を警戒する。赤狐の泉輝は森を素早く駆け抜けて時折木の実を拾っては袋に放り込み、蒼瀾は水を入れた木桶に入り、幽弦の尻尾に支えられながら揺れていた。焔牙が駆け出した瞬間、激しい揺れを感じた美波は、とっさに彼の背に身を寄せ、鬣を必死につかんだ。焔牙の速度がわずかに緩まったが、すぐに元の速さに戻る。ただ、彼の走りには、彼自身も気づかないほどの硬さがあった。美波の柔らかい体温が直に伝わり、背中を熱い雲が覆っているような気分になるのだ。彼女の呼吸はほんのりと良い香りがし、紫の長い髪が時折首筋をかすめていくのが、たまらなくむず痒い。あまりに馴染みのない感覚で、どうしていいか分からなかった。焔牙は美波に少し痛い目を見せようと、わざと揺れる道を走った。初めて獅子の上に乗った美波は、かなりきつそうだった。なんとか姿勢を保ってい
Read more

第10話

美波は手に持った鞭をじっと見つめ、呆然と立ち尽くした。彼女は鞭を受け取ろうとはせず、不思議そうな顔で焔牙を見つめる。「あなたを?なんでそんなことをする必要があるの?」焔牙は信じられない言葉を聞いたかのように、瑠璃色の瞳を見開いて驚きを露わにした。半歩歩み寄り、その大きな体で美波に影を落とす彼の瞳には、今もまだ困惑の色が浮かんでいる。背中で揺られてひどく体調を崩したはずなのに。吐き気を催し、手も震えているのに、それでも打たないというのか?焔牙がしばらく待っても、美波が叩こうとする気配はなかった。彼は小さく眉を寄せる。「本当に打たないのか?」昔なら、叩かれないはずがなかった。軽くても塩水を染み込ませた鞭で打たれるか、熱した木の棒で焼き印を押されるのかのどちらかだったというのに。美波は、元の体の持ち主とは違う。人を傷つけて喜ぶ趣味などないのだ。それに、自分を殺しかねないほど自分を恨んでいる獣人たちだ。たとえ彼らが好んで鞭で打たれるような趣味を持っていたとしても、打つ気力など今の彼女には残っていなかった。美波は木の幹に背を預けて目を閉じ、力なく呟く。「疲れたから休みたいの。ちょっと静かにしてて」その言葉が途切れて間もなく、規則正しい呼吸音が聞こえてきた。あまりの疲れに加え、昨夜の悪夢のせいで寝不足だったのだ。緊張の糸が切れて、そのまま意識を失ってしまった。獣人たちは、木の根元で眠る美波を複雑な思いで見つめていた。あれほど強気だったメスが、オスの背中に揺られただけで青ざめてしまうとは。しかも、ここまで一度も罵ることもしなかった。最初、彼らは美波が怯えているだけで、焔牙の背中を降りたらすぐに暴れ出すだろう、と思っていた。だが、結局彼女は鞭で叩くこともせず、静かに木の根元で寝息を立てている。木漏れ日がその真っ白な顔を照らす。長い睫毛が落ちた影はあどけなく、少し淡くなった唇は、どこか壊れやすく守りたくなるような危うさを纏っていた。獣人たちは美波の周りに集まると、複雑な表情を浮かべた。焔牙は鞭を弄びながら、眉間に深いしわを寄せる。以前は鞭に塩水を含ませて打っていたというのに、今は鞭を触ることも拒み、なぜ打たなければならいのかと自分に聞き返してきた。幽弦は隣の幹にもたれかかり、暗紅色の瞳で美波の唇を見た。そ
Read more
PREV
123
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status