LOGIN過労死した草壁美波(くさかべ みは)が目覚めると、そこはなんと獣人の世界を描いた小説の中だった。 元の体の持ち主は、部族を持たない単独獣であった父親が無理やり連れてきた五人の獣人たちと、番いになる契約を結んでいた。しかし、彼らは美波に虐げられる日々を送っていたため、すぐに皆闇堕ちし、最後には美波が惨殺される運命だった。 生き残るため、美波は徹夜で計画を練った。作中最強の戦力を持つ父親を頼り、反逆寸前の夫たちとは契約を解いて、きっぱりと関係を清算することにした。 そして、父親から貰った不思議なネックレスの「アイテムボックス」の能力を活用し、獣人たちの力の結晶である魔石を集めたり、食料を育てたりして、生き残ることに必死になっていたら、敵に回るはずだった獣夫たちから向けられる視線が、日に日に熱を帯びていく―― 夫の一人、猛毒を持つ俺様系の白蛇の獣人は尻尾を美波に巻きつけながら、甘く囁く。「美波、お前が生きてる限り、俺との契を終わらせられると思うなよ?」 絶世の美貌を誇る人魚族の獣人は、美波の腰を抱き寄せ、誘うような声で言った。「歌を歌ってあげる。だから、どこにも行かないで」 誇り高き黒い鬣を持つ獅子の獣人は美波に顔を近づけると、頬をすり寄せた。「美波、お前がそばにいてくれるというなら、この命など惜しくはない」 そして、妖艶な仕草で、艶やかな吐息を吹きかけながら囁くのは狐の獣人。「前、僕にしてきた仕打ち、たっぷりお返しさせてもらうからね」 美波を覗き込み、「君が誰で、どこから来たかなんてどうでもいい。君が私の唯一の女だってことに、変わりはないのだから」と言ったのは、冷徹な神官である鶴の獣人だった。 美波は唖然とした。「え?みんな、私と契約を結ばされたこと、恨んでたんじゃないの?契約を解いてあげるって言ってるのに、なんで嫌がってるのよ!」
View More美波は顔を上げて幽弦を見た。そしてその視線は、幽弦の腕にある緑ランクの輪紋に移る。緑ランクの獣人はかなり強く、緑ランクの魔獣なら問題なく対処できるはずだから、一緒に川へ入ってもらえれば安全は安全だった。しかし、昨日の鰐の魔獣の襲撃のときに、蒼瀾がふと見せた躊躇がずっと頭から離れないのだ。水場を得意としている彼が、なぜあのような反応を見せたのか?あの一瞬の迷いは、まるでわざと魔物に自分を殺させようとしているようにも見えた。そう考えた美波の顔色は、さっと青ざめた。反射的に溪の方を振り返る。蒼瀾はもう桶から出て、浅瀬で静かに水浴びをしていた。尾びれをときどきゆったりと動かし、のんびりしているように見えるけれど、なぜか安心できない。しかし、岸辺に置かれた空の桶を見て、美波はぱっと顔を輝かせた。水の中が危険なら、桶を使って岸で体を洗えばいい!そうと決めた彼女は、幽弦に言った。「川には入らなくて大丈夫。水浴びは桶を使ってするから」幽弦は美波の視線の先にある空の桶を見て、すぐに彼女の懸念を察した。昨日の一件が、ひどいトラウマになってしまったようだ。幽弦は何も聞かず、ただうなずくと桶を手に取って川辺まで行き、きれいに洗って清らかな水を並々汲んでから、日陰の涼しい場所まで運んできてくれた。さらに、桶の傍に柔らかな獣皮まで敷く心遣いをみせる。美波は幽弦の細やかな気遣いを見て心が温まり、急いでこう言った。「ありがとう。ねえ、これから私の代わりに五回お水を用意してくれたら、一回だけ血をあげるっていうのはどう?」喜んでくれるかと思ったのだが、意外なことにも幽弦は少し目を細めると眉間にしわを寄せた。嬉しそうな様子は微塵もなく、それどころかどこか浮かない顔をしている。どういう感情なのだ?もしかして、五回では多すぎたのか?美波はあわてて説明する。「泉輝も五回分の食事で血を一回あげることになってるんだけど、それに比べたらお水を用意するほうがずっと楽じゃない?それに、五回で一回分なら、決して多くないと思うんだ……」しかし、美波の言葉が言い終わらないうちに、幽弦は不機嫌そうに背を向けて木陰のほうへ歩いていってしまった。美波は言葉を飲み込む。彼の背中を見つめながら、心のざわつきを感じていた。どうやら五回は多すぎたようだ。三回に減らしてみる
幽弦の声で思考を遮られた美波が顔を上げると、暗紅色の瞳と視線がぶつかった。今の季節はかなり暑い。正午の太陽が地面を焼け付くほどに熱しており、「寒い」などという感覚とは無縁のはずだった。ただ、幽弦は変温種の獣人である。彼に抱かれていると、まるで天然の氷袋を抱え込んでいるようで、このうだるような暑さの中ではむしろ快適だった。美波はアイテムボックスについての考えを一旦胸の奥にしまい込むと、幽弦に言った。「大丈夫、寒くないよ。休憩できる場所まで、あとどれくらいかかりそう?」幽弦は視線を前方の森に向けると、蛇の尾で瓦礫をどかしながら答える。その声は、先ほどよりももっと柔らかな響きを帯びていた。「あの先のオークの森を抜ければ小川が見えてくるはずだ。川辺には日差しを遮れる大きな岩もいくつかあるから、そこで休むことにしよう。そんなにはかからない」美波は頷いた。休憩の合間、あのアイテムボックスの空間にある奇跡の泉をもう一度調べ、一体どんな効力があるのか探ってみるつもりだった。切り傷を負った指は手当してもらったものの、まだ完治には程遠い。それに、もしあの泉に傷を癒やす力が本当にあるのなら、今後この厳しい獣人世界で生き延びるうえで、この上ない強力な保険となる。しかし、あの泉の水がほんの少ししかないことを思い出すと、美波はどうしても「空間のレベルアップ方法」について考えずにはいられなかった。美波の視線は無意識のうちに、再び幽弦の唇へと引き寄せられていく。そして、あの突拍子もない推論がまたしても頭をよぎった。キスをすれば……アイテムボックスのレベルが上がる?昨日、キスをした後にあの空間が激変したのは紛れもない事実だが、それが単なる偶然だったという可能性も否定できない。美波が考えを巡らせていると、突然、幽弦がスッと目線を下げて彼女の顔を覗き込んできた。その暗紅色の瞳には、美波の考えていることを、探ろうとする色が浮かんでいる。美波は心臓が跳ね上がるのを感じ、慌てて視線を逸らした。自分は、今一体何を考えていたのか!危険すぎる。この男が冷酷非情な悪役だってことを、忘れかけてしまうなんて。彼らは表向きこそ従順に見えるが、それはすべて契約に縛られているからに過ぎない。いったん契約が解ければ……自分は容赦なく酷い目に遭わされることになる。空間
こんな獣人化もありなのか?幽弦が蛇の尾をゆらりゆらりと動かしながら前へ進む様子を、美波は横目で見ていた。その速度は他の獣人たちと遜色なく、むしろ尾が地面を擦るわずかな音を除けば、焔牙の背中よりも安定している気がする。前に視線を戻そうとした時、ふと幽弦の腕が目に入り、驚いた。昨日までは黄色ランクで、縁しか緑ではなかった輪紋が、今では深い緑色の光を放っている。緑ランクの魔石を吸収でき、ランクアップしたのだ。美波は、発情期の名残で少し火照った幽弦の頬を見て、一つの推測が頭をよぎった。本来発情期ではないこの時期に、突然としてその兆候が出たのは、もしかしたらランクの急上昇に関係があるのではないか。獣人世界でオスがランクアップをする際、体内のエネルギーが乱れ不安定になりやすい。それに発情期のタイミングまで重なったせいで、理性を制御できなくなったのだろう。まだ発情期の症状が完全に治っていない幽弦の意識は、腕の中に抱きしめている彼女に向けられていた。美波は自分の胸元に大人しく身を寄せている。伏せられた長いまつ毛は蝶の羽のように震え、その何を考えているのか分からない様子が、ひどく可愛らしく見えた。幽弦は思わず、美波を抱きしめる腕の力を少し強め、彼女を守れるようにと体に引き寄せた。その時、蛇の尾が突起した石に触れて幽弦が少しだけバランスを崩すと、腕の中の美波が反射的に彼の首に手を回した。温かい息が、首筋にふわっとかかる。「すまない。足元の石に気づかなかった」幽弦はかすれた声でそう言い、辺りに散らばる凸凹した石を見つめた。「ここは少し足場が悪い。落ちると危ないから、しっかり捕まってろ」美波も地面に視線を落とす。確かに、大小さまざまな石が散らばっているし、さっきも危うく落ちるところだった。美波は小さく頷き、幽弦の首に回した手にぎゅっとしからを入れた。幽弦は自分の首筋に当たる、美波の柔らかな感触を感じた。後ろからついてくる獣夫たちは、一斉に複雑な視線を幽弦に向ける。焔牙は驚いていた。幽弦、今のわざとか?しかし、幽弦が石の多い道をわざと選んだのは、メスを困らせるために選んだのとは、何かが違っていた。幽弦は一体どうしてしまったのだ?発情期を迎えて、脳までいかれてしまったのか?泉輝は鼻で笑っていた。幽弦のあからさまな手口が気に
美波の瞳に宿る喜びと、そのキラキラと揺れる笑みを見た瞬間、幽弦の心の硬い殻が音を立てて崩れた。今まであった戸惑いはふわりと解け、胸の奥で温かなときめきが跳ねる。幽弦は喉仏をわずかに動かし、少し掠れた声で言った。「ああ、お前に作ったんだ。大きさはどうだろうか?」美波が足を入れてみると、大きさはぴったりで、革も柔らかくしなやかに馴染んでいた。以前のブーツとは比べものにならないほど快適で、歩いても痛いところはひとつもない。彼女は立ち上がって数歩歩き、幽弦に向かってとびきりの笑顔を見せた。「ぴったりだよ!ありがとう、幽弦!」発情の抑制へのお礼にせよ、意識して機嫌を取ろうとしたにせよ、幽弦が靴を作るために時間をかけてくれたのは確かだ。この靴を心から気に入った美波の顔は、笑顔でいっぱいだった。その小柄なメスが眩いほどに微笑む姿を見て、動揺したのは幽弦だけではなかった。焔牙は三日月のように細められた美波の目から目を逸らせず、持っていた皮の袋を落としそうになる。今、幽弦に礼を言った?しかも、靴を素直に受け取ったというのか?少し離れた場所にいた司も、眉間にしわを寄せ、幽弦が作った靴を凝視していた。蒼瀾の表情は変わらなかったが、その指先は無意識に胸の紋印をなぞり、先ほど美波が赤く染めていた耳を思い出しながら、心に得体の知れない感情が渦巻くのを感じていた。しかし数秒で、我に返った彼らの表情には、厳しい色が浮かんでいる。美波の幽弦に対する態度が、明らかに以前とは違うものになっていることに、誰もが気づいていた。彼女は本当に心から靴を喜んでいるのか?それとも……別の狙いが?しかし、幽弦は彼らの視線など気にもせず、袋から止血用の草を取り出すと、石ですり潰しペースト状にした。清潔な皮の包帯に塗ると、それを血の滲む美波の指にそっと巻く。美波は不意を突かれたが、彼が丁寧に手当してくれる姿を見つめながら、自分がした約束を思い出した。「これで二回目……ってことは、あと一回手当してくれたら、血をあげなきゃだよね?私、約束したことは守るから」幽弦の動きが一瞬止まった。眉を寄せ、複雑な色を湛えた暗紅色の瞳で美波を一瞥する。しかし、何も言わずに包帯を巻く手を早めただけだった。何だかよく分からない反応に、美波は首を傾げた。なにがそんなに不満なのだろうか