All Chapters of 街を濡らす雨に、叶わぬ想いを葬って: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

川島家のパーティーには、私はこれまで何度も来たことがあった。でも今日が初めてだった。私はもう、「川島幸治(かわしま こうじ)の婚約者」という立場でこの門をくぐったわけじゃなかった。「あれ、藤屋蛍(ふじや ほたる)?どうして……」「あの人が手をつないでるの、誰?大倉家のあの人?」「幸治さんのそばにいるのはまた誰だ?どういう状況だよ……」幸治が立ち上がった。あまりに勢いがよく、椅子の脚が床を引っかいて耳障りな音を立てた。彼の目は赤くなっていて、大倉司(おおくら つかさ)を指さした。「てめえ、こいつが俺の婚約者だって分かってんのか?」司は一度うつむいて私を見た。自分が口を出すべきかどうか、うかがうように。私はほんのわずかに首を横に振った。幸治の母は笑みを浮かべ、場を取りなすように言った。「蛍ちゃん、きっと何か誤解があるのよ。幸治はまだ若くて遊びたい盛りなだけで、心の中ではちゃんとあなたのことを――」私は幸治の母を見て、同じように笑った。「おばさま、この一年、彼は好き勝手して、相手を七人も替えました。でも私は、一言も言わなかったんです。今日は川島家のパーティーなのに、彼は八人目を連れてきました。ここで私がまだ黙っていたら、次は九人目のために席まで譲れってことですか?」幸治の父の顔色はこわばり、幸治をきつくにらみつけた。幸治が何か言おうとしたけれど、私は手を上げてそれを遮った。「幸治、あなたの言うとおりね。一途でいるなんて、たしかに損だわ。だからこの婚約、こちらから破棄する」私はその婚約書をテーブルの真ん中へ押し出し、振り返って父を見た。父の顔からは怒りも喜びも読み取れなかった。私と三秒ほど視線を合わせ、それから立ち上がった。「川島、子どもたちのことに、俺たち大人が口を挟むつもりはない。だがこの婚約は、蛍ちゃんが解消したいというなら、俺は賛成する」幸治の父の顔はさらに沈み込み、幸治に向かって怒鳴った。「お前は出ていけ!」幸治は追い立てられるように書斎へ追いやられ、扉越しにも物を叩きつける音が聞こえてきた。幸治の母は最後まで何も言わず、そのまま書斎へついて入っていった。白川瑠衣(しらかわ るい)は一人その場に立ち尽くしていた。周囲から向けられる視線に居たたまれなくなったのか、うつ
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第2話

婚約を解消して一週間後、私は郊外の茶房へ商談に向かった。ここは庭園風の造りで、門をくぐると小さな中庭があり、青石の敷かれた小道の両脇には竹が植えられていた。中庭を抜けて奥へ進むと、そこで瑠衣の姿が目に入った。彼女は廊下沿いのテーブルに腰かけ、目の前にはお茶と菓子が並べられ、何か楽しそうに話していた。そして、彼女の向かいに座っていたのは幸治だった。先に私に気づいたのは瑠衣だった。ぱっと目を輝かせたものの、すぐに表情を引っ込めて、何事もないように話を続けた。店員が人数を尋ねに来たので、私は待ち合わせだと答え、隅の席へ案内された。その席は幸治たちのテーブルからそう遠くなく、会話が聞こえてきた。座ったばかりのとき、瑠衣の声が耳に入った。「幸くん、あの日の藤屋さんの婚約解消の件、そのあとどうなったの?」私は茶碗を持ち上げた手を、わずかに止めた。幸治の声が聞こえてきた。「どうもこうもないだろ。婚約を解消したのはあいつのほうだ。俺が頼み込むとでも?」瑠衣は笑った。「でも、あんなふうにみんなの前でされたら、面目が立たないでしょう?」幸治もそれにつられるように鼻で笑った。「あいつ、婚約解消で俺を脅せると思ってるのか?婚約は両家で決めたことだ。あいつ一人の一存で決まるもんじゃない」私は茶碗を持ったまま、ゆっくりひと口飲んだ。今年の新茶だった。味は悪くない。瑠衣がまた尋ねた。「じゃあ、これからも藤屋さんに会うの?」「会うって何のために?」幸治の口調は気のないものだった。「今の俺にはお前がいる」瑠衣の甘えた声が聞こえてきた。「じゃあ、いつ私をお嫁さんにしてくれるの?」向こうが二秒ほど静かになった。それから、幸治の声が響いた。「もうすぐだ。この時期を乗り切ったら、お前と結婚する」私はそのひと口を飲み込み、さらに自分の茶碗に茶を注いだ。茶は熱く、立ちのぼる湯気が顔に当たって、少し湿っぽく感じた。瑠衣はまだ何か話していたけれど、もうほとんど耳に入らなかった。頭の中では、あの一言だけが何度も繰り返されていた。――「この時期を乗り切ったら、お前と結婚する」この時期を乗り切ったら。私はふいに笑いたくなった。私は彼が振り向いてくれるのを、一年も待ち続けた。それなのに彼は
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第3話

プロジェクトのキックオフ会議の日、私は初めて受注側の立場で幸治の向かいに座った。幸治はきっちりとスーツを着こなし、いかにも公私をきっちり分けた仕事モードの顔をしていた。瑠衣はオフィスカジュアル姿で、彼の隣に座っていた。私はパソコンを開き、企画案の説明を始めた。話し始めて五分ほどしたところで、瑠衣が手を上げて私を遮った。「藤屋部長、このポジショニング、問題があるんじゃないですか?」私は話を止め、彼女を見た。「ポジショニングレポートは事前調査をもとに決めたものです。その時点で、そちらでもサインして確認済みでしたよね」瑠衣はふっと笑った。「それは前の話です。今はこのプロジェクト、私が担当ですから。私が不適切だと思うなら、修正してもらわないと」幸治が隣でうなずいた。「瑠衣の言うとおりだ。持ち帰って直してくれ」私は一拍置いてから言った。「分かりました」そして、また説明を続けた。さらに十分ほど経ったところで、瑠衣がまた口を挟んだ。「この動線設計も駄目です。回りくどすぎます。企画を作るとき、ちゃんと現地を見に行ったんですか?」私は答えた。「現地には三回行っています。動線設計はそれを踏まえて――」瑠衣が途中で遮った。「その分析レポートは拝見しましたけど、データソース自体が全部おかしいです。作り直してください」幸治はまたうなずいた。「彼女の言うとおりに修正してくれ」彼の視線が一瞬だけ私の顔に落ちた。けれどすぐに逸れ、そのままスマホに目を落とした。私は深く息を吸った。「分かりました」その後も、瑠衣は五分おきに話を遮ってきた。指摘はどんどん理不尽になっていった。会議室の中では、皆が顔を見合わせていたけれど、誰一人として口を開かなかった。説明を終えると、私はパソコンを閉じた。瑠衣は笑顔で言った。「藤屋部長、お疲れさまでした。企画案は持ち帰ってしっかり修正してくださいね。また次回、お会いしましょう」会議が終わったあと、廊下で彼女に呼び止められた。その笑みはやわらかかった。「藤屋部長、これからは私がこの案件の窓口ですから、たくさんやり取りしましょうね」彼女は声を落とし、少しだけ身を寄せてきた。「幸くんが言ってました。この案件がうまくいくかどうかで、今後藤屋
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第4話

司が歩み寄ってきて、袋を私に差し出した。「近くを通ったついでに、何か食べるものでもと思って」私は袋を開けた。中には湯気の立つうどんと、ミルクティーが入っていた。私は顔を上げて彼を見た。「司くん、もしかして私に監視カメラでも仕掛けてる?」彼は真面目に少し考えてから言った。「監視カメラを仕掛けるのは違法だ」「じゃあ、どうして私がご飯を食べてないって分かったの?」彼はふっと笑っただけで、答えなかった。私はうつむいてうどんを食べた。熱いスープが胃に落ちていって、身体の芯から温まっていく気がした。彼は隣に立ったまま、何も言わなかった。ただそのまま、静かに立っていた。私はふいに吹き出した。彼が私を見る。「何がおかしい?」私は言った。「別に。ただ、こんなふうに笑ったの、なんだかすごく久しぶりな気がして」彼は私の目を見つめた。その視線はとてもやわらかくて、まるで何かをそっと気遣っているかのようだった。私はそれ以上、何も言わなかった。その夜、私は家に戻って、企画案の九稿目を仕上げた。深夜二時、提出した。翌朝八時、返信が来た。【承認します】プロジェクトの中間報告を兼ねたレセプションは、市内中心部にある五つ星ホテルの宴会場で開かれた。会場に入った途端、そばからひそひそ話が聞こえてきた。「藤屋蛍って、前は川島家と婚約してたんじゃなかった?なのに今は、なんであんなに川島家から当たりが強いの?」「婚約解消したらしいけど、詳しいことは分からないな」「今、幸治さんの隣にいる白川瑠衣って、かなり気に入られてる感じだし、もうすぐ結婚発表なんじゃない?」そんな言葉が一つずつ耳に流れ込んできても、私の顔には何の表情も浮かばなかった。八時ちょうど、瑠衣が幸治の腕に手を回して入場してきた。彼女は今日は真っ赤なドレスをまとっていて、肌の白さと美しさがいっそう際立ち、全身が晴れやかに輝いて見えた。幸治は仕立てのいいスーツをきっちり着こなし、顔には非の打ちどころのない笑みを浮かべていた。誰かが思い切って尋ねた。「幸治さん、藤屋家との婚約は解消したって聞きましたが、本当ですか?」その場にいた全員が幸治を見て、それから私を見た。幸治が口を開こうとした、その前に、私はグラスを置いた。
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第5話

司がそう言い終えるや否や、幸治が突進してきた。私はまるで反応が追いつかず、ただ人影が横からかすめていくのが見えただけだった。次の瞬間には、幸治の拳が司の顔面に叩き込まれていた。司はよろめき、たちまち口元から血がにじんだ。だがすぐに拳を振り返し、その一撃を幸治の頬骨にまともに叩き込んだ。二人はそのまま、レセプション会場の中央でもみ合いになった。「やめて!」誰かが悲鳴を上げた。「早く引き離して!」グラスの割れる音、テーブルクロスが引きはがされる音、女たちの悲鳴、男たちの怒声――全部が入り混じっていた。私は人波に押されて、二歩ほど後ろへよろけた。そのまま、幸治が正気を失ったみたいに、何度も何度も司の顔を殴りつけるのを見ているしかなかった。彼の目は真っ赤だった。私はようやく腕をつかまれていた相手を振りほどき、駆け出して司の前に立ちふさがった。「もうやめて!」自分でも驚くほど大きな声だった。幸治の拳が空中で止まった。私の顔まで、あと数センチしかなかった。彼は肩で荒く息をしながら、私を食い入るように見つめていた。その目には、信じられないものを見るような色があった。「この人は、私の婚約者よ」私はそう言った。彼は凍りついたように動きを止めた。その三秒の静寂の中で、彼の目の奥にあった光が少しずつ消えていった。燃え尽きた炭火に水をかけられて、すっと冷えていくみたいに。それから彼は笑った。全身が震えるほどの笑い方だった。彼は激しく唾を吐き捨てると、踵を返して歩き出し、通りがかった椅子を蹴り倒し、そのまま大扉を突き飛ばして夜の闇へ消えていった。私はその場に立ったまま、激しく脈打つ心臓を感じていた。背後で司がそっと私の腕を引き、そこでようやく我に返った。「大丈夫?」私は振り向いて彼を見た。彼は口元の血をぬぐい、首を横に振って私に笑ってみせた。「平気だよ」でも、その笑みで傷口が引きつったのか、彼は眉をわずかにひそめた。周りではまだひそひそと囁く声が続き、スマホを掲げて私たちを撮っている人もいた。私は司を支え、低い声で言った。「行こう」私たちは人ごみを抜けて、ホテルを後にした。夜風が吹きつけてきて、そのとき初めて、自分の手のひらが汗でぐっしょり濡れている
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第6話

幸治の父の顔色は、その瞬間、さっと青ざめた。そのとき、書斎の扉が開いた。幸治の母が入口に立っていた。手にはお茶を載せたトレーを持ち、顔色は雪みたいに真っ白だった。三人はそのまま、その場で凍りついたように動けなかった。幸治の母はトレーを置くと、何も言わずに背を向けた。扉は彼女の後ろで静かに閉まった。その音は、どんな乱暴な戸の閉め方よりも胸にこたえた。幸治の父は数秒立ち尽くしたあと、手を振り上げて幸治の頬を打った。乾いた音が鋭く響き、幸治の顔が横に弾かれた。口元にはすぐに血がにじんだ。彼はゆっくり顔を戻し、手を上げて唇の端の血をぬぐった。「この一発は、覚えておく」そう言って彼は踵を返し、扉を開けて出ていった。彼は車を川辺まで走らせ、そのまま車内で夜明けまで一人きりで過ごした。川向こうの灯りは明滅し、水面に映って、まるで別の世界のようだった。彼は子どものころのことを思い出していた。父がいつも家に帰ってこなかったこと。母が一人で居間に座り、帰りを待っていたこと。そしてあの頃、耳にした数々の陰口。「幸治の父には外に女がいる」「奥さんなんて、ただのお飾りだ」彼は父を憎んでいた。けれどそれ以上に、自分が父のような人間になるのが怖かった。だから反抗した。次々に恋人を替えることで、自分は誰かに決められた操り人形じゃないと証明しようとした。自分で選べるのだと。誰と一緒にいるかも、いつ終わらせるかも、自分で決められるのだと。自分は、結婚に縛られて抜け出せなくなったあの男とは違うのだと。けれど結局、彼は一番失いたくなかった人を失った。彼は額をハンドルに押しつけ、目を閉じた。一週間後、幸治は父に会社のオフィスへ呼び出された。今度の態度は前回よりずっと穏やかだった。幸治の父はデスクの向こうで椅子にもたれ、まるで世間話でもするような落ち着いた口調で言った。「藤屋家の件はもう終わった。お前には新しい縁談を用意した。小島家の令嬢だ。来週会え」幸治は彼を見て、尋ねた。「俺が望んでるかどうか、聞いたことはあるのか?」幸治の父は言った。「お前のためだ」幸治は笑った。「いいよ。会う」その日の夜、彼は瑠衣をカフェに呼び出した。瑠衣は念入りに身支度をしていた。新しく買っ
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第7話

二か月後、私は一枚の結婚式の招待状を受け取った。幸治からのものだった。新婦の欄に書かれていたのは瑠衣ではなく、聞いたこともない名前だった――小島玲奈(こじま れいな)。瑠衣は?私は少し驚いた。隣で司が言った。「川島家が決めた縁談らしい。小島家は実業系の家で、両家の結びつきは川島グループにとって利益が大きいんだ」私は招待状を置いて言った。「そう」「行くのか?」「行かない」彼はふっと笑い、それ以上は何も言わなかった。幸治の結婚式は盛大だった。ニュースはどこもかしこも「川島グループの御曹司、盛大な挙式」といった見出しであふれていた。私は開いて見なかったけれど、スマホを流し見しているうちに写真だけは目に入った。彼は黒いスーツを着て、その隣には白いウェディングドレスの女性が立っていた。穏やかな笑みを浮かべていた。その写真を見たとき、ふと、昔彼が私に向けていた笑顔を思い出した。三か月後、私は司と一緒にあるビジネスレセプションに出席した。会場に入ってすぐ、幸治と玲奈の姿が目に入った。玲奈は彼の腕に手を添え、笑顔で周囲に挨拶していた。幸治はその場に立ち、礼儀正しい笑みを浮かべていたけれど、その目には何もなかった。そして彼は私を見た。その一瞬、彼の目に光が差した。けれどすぐに消えた。玲奈も何かを察したのか、顔を上げて彼を見た。彼は彼女に何か一言ささやき、彼女は笑ってうなずいた。だがその笑みは、明らかに少し硬かった。私は視線を外し、司と一緒に別のほうへ歩いていった。すれ違うとき、私は彼を見なかった。でも、彼の視線がずっと私を追っているのは分かった。レセプションの途中、私はバルコニーに出て息をついた。外は静かで、植物を揺らす風のさやさやという音だけが聞こえていた。私は手すりに手を置き、遠くの夜景を見ながら、長く息を吐いた。背後から足音がした。振り返ると、幸治が立っていた。「蛍、少し話したい」「話すことなんてないわ」私はまた前を向き、夜景へ視線を戻した。彼は一歩前に出て、私との距離を詰めた。「少しだけでいい」私は振り返って、彼を見た。彼はひどく痩せていた。まるで身体のどこか大事なものをそっくり失ってしまったようだった。「これは家が決
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第8話

週末、私は司と一緒にショッピングモールへ行き、婚約パーティーで配る引き出物を選ぼうとしていた。館内は大勢の人でにぎわっていて、私は彼の腕に手を添えたまま、ゆっくり見て回っていた。何もかもいつもどおりだった。中庭に差しかかるまでは。誰かに見られている気がした。最初は一人、二人だった。私の顔をちらりと見て、それから顔を寄せ合って何か囁いている。けれど次第に人が増えていった。その視線は針のように突き刺さってきた。私は落ち着かなくなり、足を速めた。中庭の真ん中まで来たとき、私は足を止めた。そこには大勢の人だかりができていた。幾重にも取り囲むように。その中心から、泣き声が聞こえてきた。「本当に知らなかったんです。彼に婚約者がいるなんて、一度も聞かされてなくて……」「あとで知って、身を引こうと思ったんです。でもあの人があちこちで私を潰しにかかってきて、うちの会社は倒産して、父は入院して……」「私、もう何も残ってないんです……」聞き覚えのある声だった。私は人の輪をかき分けた。やはり、そこにいたのは瑠衣だった。彼女はカフェの前に立ち、目元を赤く腫らし、涙を止めどなく流していた。やつれ方がひどくて、見ているほうがぎょっとするほどだった。周りの人たちはみな同情の目で彼女を見ていた。誰かが尋ねた。「その藤屋家のお嬢さんって、藤屋蛍のこと?」彼女はうなずき、いっそう激しく涙をこぼした。「そうです……」その言葉が落ちた途端、誰かが私に気づいた。「あの人だ!」とその人が叫んだ。私は瑠衣と真正面から目が合った。彼女は私を見た瞬間、その目の奥に得意げな色をひらめかせた。そして甲高い声で叫んだ。「まだ私に何かするつもりなの!?」周囲のスマホが一斉に私へ向けられた。「この人が例の女か、人の彼氏を奪ったって……」「実家がお金も権力もあるから、弱い人をいじめてるんでしょ……」「見た目はちゃんとしてそうなのに、最低……」司が眉をひそめ、一歩前に出ようとしたけれど、私はそれを止めた。私は瑠衣の前まで歩み寄り、その目を見据えた。「もう言いたいことは全部言った?」彼女は一瞬、言葉を失った。私はスマホを取り出し、ある録音を開いて音量を最大にした。流れてきたのは瑠衣の声だ
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第9話

その日は残業で、かなり遅くなった。会社を出たときには、もう十一時を回っていた。司は急な用事ができて、あとで迎えに来るから先にオフィスで待っていてくれと言った。私は大丈夫、自分で下に降りて車を出すからと答えた。外はひどい雨だった。私は傘を差し、足早に駐車場へ向かった。雨粒が傘を激しく打ちつけて、ぱらぱらという音にかき消され、ほかの音はほとんど聞こえなかった。車のそばまで来て、ちょうどキーを取り出したそのとき、背後から突然、人影が飛び出してきた。「藤屋蛍!」振り返ると、雨の中に瑠衣が立っていた。髪はぐしゃぐしゃに顔へ張りつき、まるで水の中から引き上げられたような姿だった。その手にはナイフが握られていた。刃先が街灯の下で冷たく光っていた。「あんたのせいで全部壊れたのよ!」彼女は一歩前へ出た。「父はニュースを見て怒りのあまり倒れて入院したし、今はネット中で叩かれてる!私、もう何も残ってない!全部あんたのせいよ!」私は後ずさりしながら、スマホを探りつつ言った。「白川さん、落ち着いて」「落ち着く?」彼女は笑った。「どうやって落ち着けっていうのよ!?私がどんな毎日を送ってるか、あんたに分かる?!みんなから罵られるって、どんな気持ちか分かる!?」彼女は突然、刃物を振りかざして突進してきた。私は背を向けて走った。けれど彼女のほうが速く、バッグをつかまれた。私はバランスを崩して地面に倒れ、スマホは遠くへ弾き飛ばされた。彼女は私に覆いかぶさり、刃先を突きつけてきた。雨が容赦なく私たちに降り注ぎ、視界を滲ませた。「死んでよ!」彼女がナイフを振り上げた。私は目を閉じた。次の瞬間、鈍いうめき声が聞こえた。目を開けると、誰かが私の上に覆いかぶさっていた。幸治だった。ナイフは彼の胸に刺さっていた。傷口から血があふれ出し、雨水と混ざりながら流れ落ちて、私の頬に滴った。温かくて、生臭い甘さがあった。瑠衣は呆然と立ち尽くした。彼女はナイフの柄から手を放し、二歩ほど後ずさった。顔は真っ白だった。幸治は胸に刺さった刃を一度見下ろし、それから私を見た。彼の唇が動いた。何かを言おうとしていた。でも雨音が激しすぎて、私には聞き取れなかった。彼はそのまま倒れ込み、私の上に崩れ落
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第10話

司は何も言わず、ただ傘を少し私のほうへ傾けた。「あの年の川島家のパーティーで、私は急にそっちへ行って、あの芝居に付き合ってって頼んだ。あなた、何も聞かずに引き受けてくれた」雨粒が傘を叩き、細かな音を立てていた。「私に利用されるかもしれないとか、怖くなかったの?婚約を解消されたあとで、また彼のところへ戻るかもしれないって、思わなかった?」彼はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。「怖かった」「じゃあ、どうして引き受けたの?」彼はどんよりとした空の向こうを見つめたまま、ゆっくりと言った。「だって、君が俺のところに来てくれたからだ。俺は二十二年、君を待っていた。あれが、君が初めて自分から俺のほうへ来てくれた瞬間だった」私は言葉を失った。「君が七歳のとき、初めて大倉家に来た。ピンクのワンピースを着て、二つ結びにして、庭で蝶を追いかけてた。俺は階段の陰から君を見て、この子、すごく可愛いなって思った。君が十八で幸治と婚約した日、俺は部屋で一晩中、一人で座ってた。そのあと、君の学校の近くに部屋を買った。母さんには、投資だって言った。本当は違う。もし君に何かあったら、すぐ行けるようにしたかっただけだ。あの日、君が突然うちへ来て、芝居に付き合ってほしいって言った。そのとき、やっと自分にも機会が来たって分かった」彼は顔をこちらへ向け、私の目を見た。「ようやく、君が自分から俺のほうへ来てくれた。たとえ一時的に利用されるだけでも、君のそばに立ちたかった。たとえ一度きりでも」雨はまだ降り続いていた。傘の布を打つ音が、ぱたぱたと響いていた。「蛍」「なに?」そのときの彼のまなざしは、これまでのどんなときよりも真剣だった。「今日がいい日じゃないことくらい分かってる。今、君がどんな気持ちでいるかも分かってる。でも、もうこれ以上待ちたくない」彼は少し言葉を切った。「結婚してほしい。芝居じゃない。本気だ」私はただ、ぼうっと彼を見つめた。雨音は大きかったのに、彼の声は一言一言、はっきりと私の耳に落ちてきた。「今すぐ答えなくていい。一日考えてもいいし、一か月でも、一年でもいい。でも、君に知っておいてほしい。君を待ってる人がいるってことを。その人は二十二年、ずっと君を待ってきた。こ
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