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第6話

Author: スパイシーエビだん
幸治の父の顔色は、その瞬間、さっと青ざめた。

そのとき、書斎の扉が開いた。

幸治の母が入口に立っていた。手にはお茶を載せたトレーを持ち、顔色は雪みたいに真っ白だった。

三人はそのまま、その場で凍りついたように動けなかった。

幸治の母はトレーを置くと、何も言わずに背を向けた。

扉は彼女の後ろで静かに閉まった。その音は、どんな乱暴な戸の閉め方よりも胸にこたえた。

幸治の父は数秒立ち尽くしたあと、手を振り上げて幸治の頬を打った。

乾いた音が鋭く響き、幸治の顔が横に弾かれた。口元にはすぐに血がにじんだ。

彼はゆっくり顔を戻し、手を上げて唇の端の血をぬぐった。

「この一発は、覚えておく」

そう言って彼は踵を返し、扉を開けて出ていった。

彼は車を川辺まで走らせ、そのまま車内で夜明けまで一人きりで過ごした。

川向こうの灯りは明滅し、水面に映って、まるで別の世界のようだった。

彼は子どものころのことを思い出していた。

父がいつも家に帰ってこなかったこと。母が一人で居間に座り、帰りを待っていたこと。

そしてあの頃、耳にした数々の陰口。

「幸治の父には外に女がいる」

「奥
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