LOGIN私と川島幸治(かわしま こうじ)は幼なじみで、大人になると両家の間で婚約が決まった。 あの日から、私はずっと結婚の日を指折り数えて待っていた。 けれど幸治は、それを不公平だと言った。 「他のやつらは一生のうちに何度も恋愛するのに、なんで俺だけ生まれてから死ぬまでお前一人じゃなきゃいけないんだ。 お前も何人かと付き合ってみろよ。損するな」 彼は言ったことを、本当にそのままやった。 婚約してから、たった一年の間に、幸治は七人も恋人を替えた。 相手が替わるたび、私は笑って平気だと言った。どうせ最後には、彼は私のもとに戻ってくるのだからと。 でも、八人目の恋人を川島家のパーティーに連れてきたとき、すべてが終わった。 その女は彼の腕にしがみつきながら、「幸くん」と甘えた声で呼んでいた。 私は箸を置き、両家の親族が見ている前で、婚約書をテーブルの真ん中へ押し出した。 「幸治、あなたの言うとおりね。一途でいるなんて、たしかに損だわ」 そのあと私は、大倉家の一人息子の手を取り、もう一度、彼の前に立った。 幸治はその場でグラスを叩きつけ、生まれて初めて目を赤くした。 「藤屋蛍(ふじや ほたる)、お前、どういうつもりだ?!」 私は笑って言った。 「私にも他の人と付き合ってって言ったんでしょう?試してみたわ。思ったより、ずっとしっくりきたの」
View More司は何も言わず、ただ傘を少し私のほうへ傾けた。「あの年の川島家のパーティーで、私は急にそっちへ行って、あの芝居に付き合ってって頼んだ。あなた、何も聞かずに引き受けてくれた」雨粒が傘を叩き、細かな音を立てていた。「私に利用されるかもしれないとか、怖くなかったの?婚約を解消されたあとで、また彼のところへ戻るかもしれないって、思わなかった?」彼はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。「怖かった」「じゃあ、どうして引き受けたの?」彼はどんよりとした空の向こうを見つめたまま、ゆっくりと言った。「だって、君が俺のところに来てくれたからだ。俺は二十二年、君を待っていた。あれが、君が初めて自分から俺のほうへ来てくれた瞬間だった」私は言葉を失った。「君が七歳のとき、初めて大倉家に来た。ピンクのワンピースを着て、二つ結びにして、庭で蝶を追いかけてた。俺は階段の陰から君を見て、この子、すごく可愛いなって思った。君が十八で幸治と婚約した日、俺は部屋で一晩中、一人で座ってた。そのあと、君の学校の近くに部屋を買った。母さんには、投資だって言った。本当は違う。もし君に何かあったら、すぐ行けるようにしたかっただけだ。あの日、君が突然うちへ来て、芝居に付き合ってほしいって言った。そのとき、やっと自分にも機会が来たって分かった」彼は顔をこちらへ向け、私の目を見た。「ようやく、君が自分から俺のほうへ来てくれた。たとえ一時的に利用されるだけでも、君のそばに立ちたかった。たとえ一度きりでも」雨はまだ降り続いていた。傘の布を打つ音が、ぱたぱたと響いていた。「蛍」「なに?」そのときの彼のまなざしは、これまでのどんなときよりも真剣だった。「今日がいい日じゃないことくらい分かってる。今、君がどんな気持ちでいるかも分かってる。でも、もうこれ以上待ちたくない」彼は少し言葉を切った。「結婚してほしい。芝居じゃない。本気だ」私はただ、ぼうっと彼を見つめた。雨音は大きかったのに、彼の声は一言一言、はっきりと私の耳に落ちてきた。「今すぐ答えなくていい。一日考えてもいいし、一か月でも、一年でもいい。でも、君に知っておいてほしい。君を待ってる人がいるってことを。その人は二十二年、ずっと君を待ってきた。こ
その日は残業で、かなり遅くなった。会社を出たときには、もう十一時を回っていた。司は急な用事ができて、あとで迎えに来るから先にオフィスで待っていてくれと言った。私は大丈夫、自分で下に降りて車を出すからと答えた。外はひどい雨だった。私は傘を差し、足早に駐車場へ向かった。雨粒が傘を激しく打ちつけて、ぱらぱらという音にかき消され、ほかの音はほとんど聞こえなかった。車のそばまで来て、ちょうどキーを取り出したそのとき、背後から突然、人影が飛び出してきた。「藤屋蛍!」振り返ると、雨の中に瑠衣が立っていた。髪はぐしゃぐしゃに顔へ張りつき、まるで水の中から引き上げられたような姿だった。その手にはナイフが握られていた。刃先が街灯の下で冷たく光っていた。「あんたのせいで全部壊れたのよ!」彼女は一歩前へ出た。「父はニュースを見て怒りのあまり倒れて入院したし、今はネット中で叩かれてる!私、もう何も残ってない!全部あんたのせいよ!」私は後ずさりしながら、スマホを探りつつ言った。「白川さん、落ち着いて」「落ち着く?」彼女は笑った。「どうやって落ち着けっていうのよ!?私がどんな毎日を送ってるか、あんたに分かる?!みんなから罵られるって、どんな気持ちか分かる!?」彼女は突然、刃物を振りかざして突進してきた。私は背を向けて走った。けれど彼女のほうが速く、バッグをつかまれた。私はバランスを崩して地面に倒れ、スマホは遠くへ弾き飛ばされた。彼女は私に覆いかぶさり、刃先を突きつけてきた。雨が容赦なく私たちに降り注ぎ、視界を滲ませた。「死んでよ!」彼女がナイフを振り上げた。私は目を閉じた。次の瞬間、鈍いうめき声が聞こえた。目を開けると、誰かが私の上に覆いかぶさっていた。幸治だった。ナイフは彼の胸に刺さっていた。傷口から血があふれ出し、雨水と混ざりながら流れ落ちて、私の頬に滴った。温かくて、生臭い甘さがあった。瑠衣は呆然と立ち尽くした。彼女はナイフの柄から手を放し、二歩ほど後ずさった。顔は真っ白だった。幸治は胸に刺さった刃を一度見下ろし、それから私を見た。彼の唇が動いた。何かを言おうとしていた。でも雨音が激しすぎて、私には聞き取れなかった。彼はそのまま倒れ込み、私の上に崩れ落
週末、私は司と一緒にショッピングモールへ行き、婚約パーティーで配る引き出物を選ぼうとしていた。館内は大勢の人でにぎわっていて、私は彼の腕に手を添えたまま、ゆっくり見て回っていた。何もかもいつもどおりだった。中庭に差しかかるまでは。誰かに見られている気がした。最初は一人、二人だった。私の顔をちらりと見て、それから顔を寄せ合って何か囁いている。けれど次第に人が増えていった。その視線は針のように突き刺さってきた。私は落ち着かなくなり、足を速めた。中庭の真ん中まで来たとき、私は足を止めた。そこには大勢の人だかりができていた。幾重にも取り囲むように。その中心から、泣き声が聞こえてきた。「本当に知らなかったんです。彼に婚約者がいるなんて、一度も聞かされてなくて……」「あとで知って、身を引こうと思ったんです。でもあの人があちこちで私を潰しにかかってきて、うちの会社は倒産して、父は入院して……」「私、もう何も残ってないんです……」聞き覚えのある声だった。私は人の輪をかき分けた。やはり、そこにいたのは瑠衣だった。彼女はカフェの前に立ち、目元を赤く腫らし、涙を止めどなく流していた。やつれ方がひどくて、見ているほうがぎょっとするほどだった。周りの人たちはみな同情の目で彼女を見ていた。誰かが尋ねた。「その藤屋家のお嬢さんって、藤屋蛍のこと?」彼女はうなずき、いっそう激しく涙をこぼした。「そうです……」その言葉が落ちた途端、誰かが私に気づいた。「あの人だ!」とその人が叫んだ。私は瑠衣と真正面から目が合った。彼女は私を見た瞬間、その目の奥に得意げな色をひらめかせた。そして甲高い声で叫んだ。「まだ私に何かするつもりなの!?」周囲のスマホが一斉に私へ向けられた。「この人が例の女か、人の彼氏を奪ったって……」「実家がお金も権力もあるから、弱い人をいじめてるんでしょ……」「見た目はちゃんとしてそうなのに、最低……」司が眉をひそめ、一歩前に出ようとしたけれど、私はそれを止めた。私は瑠衣の前まで歩み寄り、その目を見据えた。「もう言いたいことは全部言った?」彼女は一瞬、言葉を失った。私はスマホを取り出し、ある録音を開いて音量を最大にした。流れてきたのは瑠衣の声だ
二か月後、私は一枚の結婚式の招待状を受け取った。幸治からのものだった。新婦の欄に書かれていたのは瑠衣ではなく、聞いたこともない名前だった――小島玲奈(こじま れいな)。瑠衣は?私は少し驚いた。隣で司が言った。「川島家が決めた縁談らしい。小島家は実業系の家で、両家の結びつきは川島グループにとって利益が大きいんだ」私は招待状を置いて言った。「そう」「行くのか?」「行かない」彼はふっと笑い、それ以上は何も言わなかった。幸治の結婚式は盛大だった。ニュースはどこもかしこも「川島グループの御曹司、盛大な挙式」といった見出しであふれていた。私は開いて見なかったけれど、スマホを流し見しているうちに写真だけは目に入った。彼は黒いスーツを着て、その隣には白いウェディングドレスの女性が立っていた。穏やかな笑みを浮かべていた。その写真を見たとき、ふと、昔彼が私に向けていた笑顔を思い出した。三か月後、私は司と一緒にあるビジネスレセプションに出席した。会場に入ってすぐ、幸治と玲奈の姿が目に入った。玲奈は彼の腕に手を添え、笑顔で周囲に挨拶していた。幸治はその場に立ち、礼儀正しい笑みを浮かべていたけれど、その目には何もなかった。そして彼は私を見た。その一瞬、彼の目に光が差した。けれどすぐに消えた。玲奈も何かを察したのか、顔を上げて彼を見た。彼は彼女に何か一言ささやき、彼女は笑ってうなずいた。だがその笑みは、明らかに少し硬かった。私は視線を外し、司と一緒に別のほうへ歩いていった。すれ違うとき、私は彼を見なかった。でも、彼の視線がずっと私を追っているのは分かった。レセプションの途中、私はバルコニーに出て息をついた。外は静かで、植物を揺らす風のさやさやという音だけが聞こえていた。私は手すりに手を置き、遠くの夜景を見ながら、長く息を吐いた。背後から足音がした。振り返ると、幸治が立っていた。「蛍、少し話したい」「話すことなんてないわ」私はまた前を向き、夜景へ視線を戻した。彼は一歩前に出て、私との距離を詰めた。「少しだけでいい」私は振り返って、彼を見た。彼はひどく痩せていた。まるで身体のどこか大事なものをそっくり失ってしまったようだった。「これは家が決