All Chapters of 雪が降り、君はもういない: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

これまで優弥の電話に美琴が出なかったことなど、一度もなかった。たとえ深夜の三時でも四時でも、優弥からの着信と分かれば、彼女は必ずすぐに応答した。だからこそ――今日だけ応答がないという事実が、かえって現実味を持たなかった。美琴はいったい、どこで何をしている?優弥は半ば意地のように、もう一度電話をかけた。だが結果は同じだった。呼び出し音だけが空しく続き、やがて通話は切れた。優弥は顔をしかめ、苛立ちを隠そうともせず言った。「どういうことだ……美琴は俺のボディーガードだぞ。あれだけ給料を払ってるのに、連絡ひとつ取れないってどういうつもりだ?こんな仕事の仕方するなら、もうボディーガードなんて辞めてもらう」孫の愚痴を聞いた康二は、ただ静かに長いため息を吐いた。そのため息に生命力でも奪われたように、彼は一気に老け込んだように見えた。「お前が辞めさせるまでもない。どうやら……あの子はもう出ていったようだ」――出ていった?その言葉は細い針のように優弥の胸を刺した。自分でも気づかないうちに、体がわずかに震えていた。だがすぐに、いつもの傲然とした態度を取り戻す。「あり得ない。美琴は俺のボディーガードだ。生涯をかけて俺を守るのは彼女の役目。そんな彼女が、俺の許しがない限り、どこにも行くはずがない」そう言いながら、何かを思い出したように口元を緩める。「おじいさまも覚えてるだろ。前に競合の会社が二十億出して彼女を引き抜こうとしたことがあった。あのときも、美琴は即座に断った。それに、俺が毎年払ってる給料だって十分高い。この界隈で俺が出した以上の条件なんてまずない。彼女が俺のそばを離れるわけがないんだ」「給料?」康二は驚いたように優弥を見ると、ゆっくり首を振った。「彼女がお前についてきたのはお金のためだと、本気で思ってるのか?」少し間を置いて、康二は続けた。「あの日、美琴が私のところへ来たのは、護衛任務を解除して欲しいと依頼するためだ。そして私は――すでに護衛任務解除届に署名した」その言葉を聞き、優弥の顔から余裕が消えた。代わりに浮かんだのは、隠しきれない焦りだった。次の瞬間、彼は康二の入院着を掴んで、上ずる声で問いただす。「おじいさま、今なんて言った?署名したっていつの話だ?」康二は失望した顔で優弥を見ながら
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第12話

その言葉を聞いた瞬間、優弥の思考が止まった。――あのときだったのか。まさか、美琴は自分が切り捨てられると勘違いしたのか?頭の中に様々な思いが押し寄せる。考えがまとまらないまま、胸の奥が乱れていく。ただ数回わがままを言っただけのつもりだった。それだけで、美琴が自分のそばを離れたのか?その事実に耐えきれなくなり、優弥は思わず声を荒げた。「おじいさま、美琴は俺のボディーガードだぞ!どうして俺に断りもなく了承した!」康二は冷たく鼻を鳴らした。顔をそむけたまま言う。「今さら何を言っても、もう遅い。あの子はもういないんだ」さらに静かに続けた。「むしろ出ていって正解だったのかもしれない。こんなお前を、あの子が守り続ける理由なんてないし……これまで尽くしてくれたことに、お前が見合っていたとも思えない」祖父にそこまで言われた瞬間、優弥の胸の奥が大きく揺れた。本当に、自分が間違っていたのか?美琴が出ていく前に、どうして一言も相談してくれなかった?だが――今さら答えを考えても意味はなかった。優弥は震える指でスマートフォンを取り出し、すぐに美琴へメッセージを送った。【美琴、今どこにいる】一分。十分。三十分が経っても、画面は沈黙したままだった。いつもならすぐにつく「既読」の表示も現れない。これまで一度も欠かさなかった返信が、まるで海に沈んだ石のように戻ってこない。その様子を見ていた康二は、窓の外へ視線を向けながら静かに言った。「……あの子がいなくなれば、白橋家は危ういだろう。あれほどの人材は、本来この家にとって最大の幸運だった。だが、お前がそんな彼女を自分自身の手で追い出した。結局――うちにはあの子を引き留めるだけの器がなかったということだ。本当に……あの子に申し訳ないことをしたな」その直後、康二の呼吸が乱れ、体がふっと傾き、再び意識を失ってしまった。病室は一瞬で騒然となった。医療スタッフが駆け込み、機器の警報音が鳴り響く。その中で優弥だけが、スマートフォンを握ったまま立ち尽くしていた。頭の中では、祖父の言葉が何度も繰り返されている。自分を愛し、どれほど傷つけても離れなかった彼女。どんな危険があっても盾になってくれた彼女。銃口の前に立つことさえ迷わなかった彼女。影のように、
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第13話

――毒虫の呪術だ。優弥の脳裏に、ある確信がよみがえった。自分の手で美琴の体に植え付けた毒虫。あれが生きている限り、彼女は自分から離れることはできない。なぜなら、体内に親虫を飼っている自分と距離が離れれば、美琴は胸が引き裂かれるような激痛に襲われるから。だから、彼女は本当にいなくなったわけではない。きっと、ただ拗ねてどこかに隠れているだけだ。そう思った瞬間、張り詰めていた体の力がふっと抜けた。胸の奥にあった焦燥も、いつもの傲然とした自信に塗り替えられていく。優弥は振り返り、駆けつけてきた医師に静かに言った。「おじいさまは少し興奮しただけです、あとは頼みます。俺は美琴を迎えに行ったから、心配しなくていいと、目を覚ましたら伝えてください」そう言い残すと、彼は何事もなかったかのように病室を出た。廊下を歩きながら、独り言を呟く。「美琴、君はヤキモチして、俺のことを怒ったから、わざと姿を隠して探させようとしているんだろ?こんなやり方で俺に仕返ししようとしてるのなら、ほんと子どもじみている。この街は広くもない。本気で探せば、君が逃げ切れるはずがない。地の底に潜っていたって、必ず見つけ出してやるよ」部下に美琴の捜索を命じたあと、優弥はひとまず自宅へ戻ろうとした。だが病院の玄関を出たところで、雨が降り始めていたことに気づく。冷たい雨粒が頬に当たり、思わず顔をそらしながら、いつもの癖で口が動いた。「美琴、傘を――」そこまで言って、言葉が止まった。返ってくるのは、細かい雨音だけだった。どんなときも、真っ先に傘を差し出してくれたあの人は、もうここにはいない。いつも彼のほうへ傘を傾け、自分の肩が濡れようとも、彼には一滴の雨も当たらないようにと気を配っていたあの人は――もう隣に立っていないのだ。胸の奥が、ふいに空いたような気がした。言葉にできない寂しさが、静かに広がっていく。だがすぐに、優弥は小さく笑った。――傘くらいなくても問題ない。美琴がいなければ、雨に打たれて死ぬわけでもない。そう思い直し、スマートフォンを取り出すと、ひよりへ短いメッセージを送った。【今どこにいる?俺は病院を出たところだ。雨が降ってる、迎えに来てくれ】だが、返信は来なかった。優弥は眉をひそめ、電話をかけた。だが、ひよりは出なかった
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第14話

美琴は、いつだって優弥の変化に一番に気づいていた。気温が下がれば、車の後部座席には必ず、彼女が洗って整えておいたカシミヤのブランケットが置かれていた。優弥の胃の調子が悪そうな日には、何も言わなくても、温かいおかゆをスープジャーに入れ、ちょうど彼が必要とする時間に合わせて届けていた。優弥が嫌な思いをした日にも、気の利いた慰めの言葉を並べることはなく、ただ静かに事情を調べ上げ、彼に手を出した相手には、二度と同じことができないほどの代償を払わせていた。そして――彼女は、一度約束したことを破ったことがない。助けると言ったときは、本当に命がけで助けた。守ると言ったときは、どんな危険からでも守り抜いた。そして、白橋家を立て直すと言ったときも同じだった。数百億規模の契約を取り、家を立て直しただけではなく、かつてない高みまで押し上げた。そこまでしてくれた人だったのに――自分は突き放したのか。優弥はどうしようもない後悔に襲われた。そして、今になってようやく気づく。自分は子どもの頃からずっと、美琴に守られて生きてきたのだと。彼女の不器用な優しさも、言葉にならない献身も、当たり前のものとして受け取っていた。そして、誰でも同じことができると、どこかで思い込んでいた。だが違った。ひよりのように、太陽みたいに明るい人間でも、自分の欲しいものをすべて先回りして用意してくれるわけではない。自分の小さな変化や、言葉にならない感情にまで気づいてくれるわけでもない。あんなふうに、視線のすべてを自分だけに向けてくれる人は――美琴しかいなかった。なのに、自分はその人を――手放してしまった。優弥はようやく、病室で康二が言っていた言葉の意味が理解できた。自分は、本当に間違えたのかもしれない。……優弥はそのまま、病院の前でひよりを待ち続けた。空が白み始めたころ、通りの向こうから一台の赤い車が近づいてきた。窓を開けたまま運転していたひよりは、髪が乱れ、まだ眠そうな顔をしている。病院の扉に寄りかかっている優弥を見るなり、彼女は車を止め、驚いたように声を上げた。「えっ……優弥さん?まだここにいたんですか?もう帰ったと思ってました……」優弥は何も答えず、ただ静かに彼女を見た。「一晩待ったぞ。メッセージ、どうして返信しなかった?」
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第15話

優弥ははっきりと覚えている。雨の日になるたび、美琴はいつも傘をこちらへ傾けていた。彼はまったく濡れないのに、彼女の肩だけは必ず濡れていた。それでも美琴は、平然とした顔で「自分は昔から丈夫だから大丈夫」だと言い、それ以上何も説明することはなかった。優弥もまた、それが当たり前だと思い、気にしたことはなかった。だが、あれは当然なんかじゃなかった。骨の奥まで染み込んだ、静かな愛情だったのだ。確かにひよりは明るい。そばにいると空気が軽くなる。冗談も言うし、甘い言葉もためらわない。だがその明るさは、誰にでも向けられる光だった。優弥の弱さも、言葉にならない不安も、何を求めているのかも、ひよりは知らない。一方で美琴は、口数が少なく、無口な人に見えてしまうこともあったが、彼女は己の行動で優弥への愛を語っていた。その愛を、優弥は当たり前だと思い込んでいた。見返りを求めず、ただ自分だけを愛することは、誰にでもできることだと思っていたのだ。だが、そうではなかった。その事実に気づいた瞬間、優弥は胸の奥が急に落ち着かなくなり、視線を逸らして冷たく言った。「もういい、車を出してくれ。家に帰る前に、美琴の家を寄っていく」ひよりは理由を聞かず、ただ黙って車を走らせた。車内の空気は、以前とはまるで違っていた。かつては何でも話していたはずなのに、今は言葉が出てこない。まるで知らない者同士が相乗りしているようだった。ひよりは何度か話しかけようとしたが、優弥はただ窓の外を見たまま答えなかった。――美琴にはどのように謝罪すればいいんだろう。優弥はずっと、そのことだけを考えていた。白橋家が立ち直ってからというもの、誰かに頭を下げる機会など、一度もなかった。相手が十一年間も自分を守り続けてきた人となると、どう切り出せばいいのかなおさら分からない。それでも、謝らなければならないと思った。やがて車は、見慣れた通りに入った。優弥は深く息を吸い、ちゃんと話そうと覚悟を決め、車を降りた。だが、家の扉をノックしても、返事がなかった。ひよりも戸惑って優弥に声をかける。「……上杉さん、留守でしょうか?」
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第16話

優弥はドアノブに手をかけたが、鍵がかかっていないことに気づいた。違和感を覚えながらそのままドアを開けると、目の前の光景に思わず立ち尽くす。部屋の中はどこかがらんとしていて、妙に寂しく見えた。周囲を見渡して――ようやく異変に気づく。美琴の荷物だけではない。自分が彼女に贈ったプレゼントや、二人で使っていたものまで、すべて消えていたのだ。胸騒ぎがして、優弥は家の中を探し回ったが、当然どこにも美琴の姿はない。仕方なく庭に出たとき、ふと長いあいだ使われていない焼却炉のほうへ視線が向いた。何かが燃やされた跡があった。近づいて確かめると、灰の中から、自分が美琴に贈ったネックレスがかすかにのぞいていた。優弥の喉から、かすれた声が漏れる。「美琴……どうして燃やしたんだ?これらは全部、俺たちの大切な思い出だったはずじゃないのか……」いくら呼びかけても返事はない。ただ雨音だけが静かに響いていた。それでも優弥の頭には、この家で過ごした日々がはっきりとよみがえっていた。十七歳の美琴が、ぎこちない手つきで自分の服を洗ってくれていたこと。手を取って、名前の書き方を教えてくれたこと。そして、自分が悪夢で目を覚ますたび、彼女はいつも扉の外に座り、自分が眠り直すまで黙って見守ってくれていたこと。ここで、自分は子ども時代を過ごし、美琴と長い時間を共にしてきたのだ。そのときになって、ふと思った。あの頃の美琴だって――ただの女の子だったのだと。誰にも守られず、誰にも優しくされたことがなかったのに、それでも必死に学び、必死に自分を支えてくれていた。なのに自分は、彼女の無知を嫌い、やり方が荒いと責めてばかりいた。優弥は、ようやく理解する。美琴はすべてを差し出して自分を守り抜き、白橋家さえ立て直してくれたのに、それでも彼女を見下し、卑怯だと蔑んでいた自分は――あまりにも傲慢で残酷だったのだと。そう思えば思うほど、胸の奥が強く締めつけられ、息ができないほど心が痛んだ。そのとき、背後からひよりの声が響いた。「なにこれ……もう、危うくつまずくところだった」ひよりは鼻をつまみながら、足元にあった何かを蹴り飛ばす。黒く焼け焦げた塊が、泥水の中へ転がった。優弥の視線がそこに吸い寄せられる。そして次の瞬間、弾かれたように駆け寄り
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第17話

「優弥さん、それ……拾ってどうするんですか?そんなの、ただのゴミ――」言い終わる前に、優弥が鋭く遮った。「黙れ!」次の瞬間、彼は泥にまみれたそれを、高価なスーツの袖で少しずつ丁寧に拭い始めた。現れたのは、掌に収まるほどの小さな石で、長い時間をかけて磨かれたらしく、表面は驚くほど滑らかだった。そしてその上に、「白橋」という少し歪んだ文字が刻まれている。その石は、ゴミなんかじゃない。美琴が優弥のために作ったお守りだった。かつて仇に追われて逃げ続けていた頃、二人は金がなく、食べる物も足りず、眠る場所すら安定しなかった。そのせいか、優弥は毎晩のように悪夢を見ていた。眠るのが怖く、目を閉じたら、誰かに連れ去られ、殺される気がしていたのだ。そんなある日、美琴は石を拾ってきた。そして別の硬い石を使って、昼も夜も関係なく、ただひたすらその石を削り続けた。皮膚が裂け、血がにじみ、水ぶくれができてもやめなかった。そして半月後、美琴はその石を優弥の手に握らせながら言った。「優弥様、ご安心ください。この石が割れない限り、あなたは危険な目に遭ったりはしません。私が命をかけても、必ずお守りします」その言葉は、今でも耳に残っているが、そう約束してくれた人は、もうどこにもいない。その事実を思った瞬間、優弥の胸の奥に怒りが燃え上がった。――こんな大事なものまで捨てるなんて、美琴はひどすぎる。彼女を一刻も早く見つけ出し、話を聞かなければ。……それから三十分が経った頃、優弥のスマートフォンが震えた。部下からだった。美琴の行方が分かったのだと思い、自分でも気づかないほど声が微かに震えていた。「美琴はどこだ?」だが返ってきた声は、妙に歯切れが悪かった。「社長……その、上杉さんは……もう海外へ旅立ちました」優弥は一瞬ぼーっとすると、声を荒げる。「……何だって?あり得ない!毒虫がまだ彼女の体内にいる、親虫のほうも何も反応がなかったんだぞ!」だが電話の向こうの声は、ためらいながらも続けた。「本当なんです。昨日の午後、海外行きの便に……上杉さんの名前が乗客名簿にありました」
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第18話

優弥は眉を強く寄せたまま、体内の親虫に意識を向け、それを頼りに美琴を探そうとした。いつもなら、細い糸のような感覚が確かに伝わってくるはずだったが――今は何も感じられない。美琴を繋ぎ止めていたはずのものが、完全に切れてしまったのだ。どういうことだ?まさか、美琴は自分に黙って、呪術を解いたのか?その瞬間、優弥の胸に今まで感じたことのない恐怖が走った。彼は思わず声を荒げる。「捜索を続けろ!あいつの兄も見つけ出せ!彼がいる限り、美琴は必ず戻ってくる!」安彦を確保すること。それが優弥にとって最後の希望だった。だが電話の向こうの声は、そのわずかな希望さえも消し去る。「社長……上杉さんのお兄さんも……同行されています。それと……病室に社長宛ての伝言も残されていました。『妹が受けた屈辱は、三年以内に必ず百倍にして返す』――と」そこまで聞いた瞬間、スマートフォンが優弥の手から滑り落ちた。優弥はその場に立ち尽くしたまま、ようやく現実を理解する。美琴は自分の世界から姿を消し、もう二度と戻ってこないのだと。その沈黙を埋めるように、ひよりがそっと声を出した。「優弥さん……ごめんなさい。全部、私のせいです。私がいたから、上杉さんが怒っちゃって出ていったんだから、やっぱり私、離れたほうがいいですよね」そう言って背を向けようとする。優弥は反射的にその腕を掴んだ。――今、自分にはひよりしかいない。ひとりぼっちになってしまう恐怖が、無意識に手を動かしていた。ひよりはすぐに振り返り、安心したように抱きついてきた。「安心してください。上杉さんはきっと拗ねてるだけです。気分転換しようと、しばらくの間旅に出ただけだと思います。そのうち絶対戻ってきますから」ひよりは軽く笑ってから続ける。「彼女のことを考えて落ち込むより、何か楽しいことをしましょ?私、友達とパラグライダーの約束してるんですけど、一緒に行きませんか?優弥さんも、気分転換しないと」優弥は答えなかった。ただスマートフォンを取り出し、美琴にメッセージを送る。【戻ってこい】しばらく経っても、既読はつかない。胸の奥が、強く刺されたように痛んだ。美琴は、自分を見捨てたのだ。次の瞬間、逃げ場のない屈辱が込み上げ、優弥は歯を食いしばった。――そこまでするなら、こ
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第19話

身体がふっと浮くような感覚に襲われ、優弥は反射的に隣を飛ぶひよりへ視線を向けた。だが自分より、ひよりの悲鳴のほうがむしろ大きかった。頭を抱えて叫ぶばかりで、彼を助けられる状態ではない。そのまま制御を失った優弥の機体は大きく揺れ、次の瞬間、激しい衝撃とともに山腹の森へ叩きつけられた。ひよりは恐怖のあまり、優弥を振り返ることもなく、ただ遠くへ飛んで行く。そんな中、優弥がかろうじて顔を上げると、ひよりの機体が麓へ流されていくのが見えた。やがてその姿も木々の向こうに消え、森の中には自分ひとりだけが取り残される。しばらくして、ようやく身体の感覚が戻ってきた。起き上がろうとするが、全身がばらばらになったように痛む。何とか腕で地面を押して身を起こしたものの、足に力が入らず、その場から一歩も動けなかった。それだけではない。周囲を見回した瞬間、胸の奥が冷える。ここがどこなのかは、まったく分からなかったのだ。方向感覚が完全に狂い、山頂へ戻る道など、見当もつかない。ポケットに手を入れてスマートフォンを取り出すが、画面は粉々に割れ、電源すら入らなかった。直前まで降っていた雨のせいで、森の空気は湿り気を帯びて冷えきっている。優弥は近くの木にもたれかかり、息を整えながら、ただ救助を待つしかなかった。だが――二時間ほどが経ち、空が暗く沈みかけていても、誰も来ない。もしかしてひよりはあのまま逃げたのか?責任を取らせるのが怖くて、自分を置き去りにしたのではないのか?だが考えたところで、確かめる術はない。今の自分には、待つことしかできないのだ。どうして、くだらない意地でこんな場所に来てしまったのだろう。身体が冷えきり、空腹と渇きがじわじわと体力を削っていく。その感覚に、ふと既視感が混じった。こんなふうに、寒さと空腹に追い詰められたことが前にもあったのだ。九歳の頃、美琴とともに敵から逃げていたあの時期、二人は古い小屋に身を寄せていた。あのときも、同じように寒くて、腹が減って、優弥は泣きながら訴えた。家に帰って、温かいご飯が食べたいと。そのとき美琴は、何も言わずに自分の上着を脱ぎ、優弥の肩にかけた。そして懐から取り出したのは、ずっと大事に隠していたのだろう、乾ききって硬くなった餅だった。それが、彼女の最後の食べ物だったはずなのに―
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第20話

優弥は思わず腕を上げ、眩しい光から目をかばった。だが、光の向こうから現れたのは、待ち望んでいたあの人ではなかった。制服姿の警察官が数人、こちらへ歩いてくる。先頭に立つ警察官が足を止め、優弥の顔をじっと見据えた。「白橋優弥さんですね?」その瞬間、優弥の表情に浮かびかけていた安堵が、音もなく消えた。しばらく沈黙したあと、力なく手を下ろし、小さくうなずく。「この付近で行方不明の通報が入っています。まずは状況確認のため、署までご同行ください」そこで警察官は一度言葉を切り、証拠袋を取り出した。「それからもう一点――白橋さんには、別件でも事情を伺う必要があります。傷害事件についてです」優弥は眉を寄せた。「……傷害事件?」警察官は淡々と続けた。「ええ、被害者は白橋康二さん。あなたの祖父ですね。康二さんご本人から通報がありました。現場付近の防犯カメラ映像も確認済みです。死角はありましたが、ことの一部始終が写されていますし、物証もすでに押収済みです。現時点で確認されている証拠から推測すれば、犯人は間違いなく斉藤ひよりさんでしょう」優弥の思考が、一瞬で止まった。警察の言葉は、氷の矢のように胸を射抜く。証拠の前で、これまで自分が信じてきたことも、ひよりを必死に庇ったことも、すべて虚しく感じてしまった。祖父は嘘をついていなかった。騙されて、間違いを犯していたのは――自分のほうだった。今まで大切にしてくれていたあの人を厳しく罰し、遠ざけたのは、他ではない自分だったのだ。……警察署を出たときには、すでに翌日の午後になっていた。優弥の表情には感情の色がなく、近づく者を拒むような冷たい空気を纏っている。しばらくして、彼はようやくスマートフォンを取り出し、電話をかけると、短く命じた。「ひよりの居場所を調べろ」ほどなくして、折り返しの連絡が入った。「社長……斉藤さんは現在、『ヘヴン』というバーにいるようです。こちらに呼びましょうか?」優弥はわずかに目を細め、静かに首を振った。「いい、俺が行く」……三十分後、黒い車がバーの前で静かに停まった。優弥は車を降り、まっすぐ店内へ入っていく。ひよりは奥のソファ席に座っていた。数人の取り巻きに囲まれ、腕には若い男を抱き寄せながら、上機嫌で何かを語って
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