All Chapters of 雪が降り、君はもういない: Chapter 21 - Chapter 30

32 Chapters

第21話

優弥は静かにひよりを見つめていた。顔に表情はなく、ただ視線だけが逃げ場を与えまいと、鋭く彼女を射抜いている。その視線を受けた瞬間、ひよりの笑顔が固まった。周囲にいた友人たちも優弥の存在に気づき、声を失う。店内の空気が一気に張り詰めた。「ゆ、優弥さん……来るなら連絡してくれればよかったのに」ひよりは腕の中の男を慌てて離し、視線を彷徨わせながら立ち上がった。服の乱れを整えながら、どこか落ち着かない様子で笑顔を作り、両腕を広げて優弥に近づく。「無事で本当によかった。昨日の夜は心配で全然眠れなくて……どうしていいか分からなかったから、ここで少し飲んでただけなんです」だが優弥は、そんな言い訳に耳を傾けるつもりはなかった。返事の代わりに、背後に立っていたボディーガードへちらりと視線を送り、合図をする。次の瞬間――乾いた音が店内に響いた。ひよりの頬が横にはじかれる。誰も動けず、その場の空気が凍りつく。頬を押さえたまま、ひよりは信じられないものを見るような目で優弥を見上げる。「……優弥さん?どうして……?」優弥の視線は冷えきっていた。「どうして、だって?」彼は嫌悪を隠そうともせず、冷たく言い放つ。「君のような人間を懲らしめるのに、わざわざ俺が手を出す必要はない。君に触れたら、こっちの手が汚れる」その一言で、ひよりの顔色がさっと変わった。すぐに目に涙が浮かぶ。「私……何かしましたか……?」そして突然、思いついたように言葉を重ねた。「まさか――上杉さんが戻ってきたんですか?また何か言われたんですよね?あの人がおじいさまを突き飛ばした犯人なんですよ?優弥さんだって、そう思ってたはずでしょう?情に流されて信じちゃだめです。あの人の言うことなんて――」美琴の名前が出た瞬間、優弥の視線がさらに冷えた。「その名前を……君が口にする資格はない」優弥は一歩だけ近づいた。「聞きたいことは一つだけだ。どうして祖父を突き飛ばした?」ひよりは一瞬言葉を失う。だがすぐに笑顔を作った。「え……何を言ってるんですか?それは上杉さんが――」言い終わる前に、優弥はスマートフォンを差し出し、証拠写真を突きつけた。それを目にした瞬間、ひよりの体が大きく震え、顔から一気に血の気が引いていく。目に浮かんだ焦りを
Read more

第22話

ひよりは、その場で言葉を失った。優弥も同じだった。気づけば、彼はひよりとの触れ合いも嫌うようになっていた。そこで優弥はようやく理解する――ひよりは、自分をあの影から解放してくれる特別な存在などではなかった。自分を支えていたのは、ずっと美琴だったのだ。美琴がそばにいてくれたから、どこかで安心していた。何があっても戻れる場所があると、信じていられた。けれど、その戻れる場所は、もうない。そう悟った瞬間、今まで心の支えとなったものが音を立てて崩れていった。目の前では、床に膝をついたひよりが取り乱したまま泣きじゃくっている。その姿を見下ろしながら、優弥は胸の奥に、どうしようもない空虚さを覚えていた。――これが、自分の選んだ相手なのか。嫉妬に駆られれば、自分の身内にさえ手を上げた。自分が危機に晒されれば、ただ泣き叫び、己の保身だけを考えていた。しばらくして、優弥はようやく口を開いた。その声に、疲れが滲む。「これまで、一緒にいてくれたことには感謝してる。だが、やっぱりしばらくの間距離を置こう。お互いに、頭を冷やす時間が必要だ」それだけ言うと、優弥は背を向け、振り返らずにバーを出た。……誰もいない別荘に戻ると、優弥はそのままソファに身を投げ出した。頭に浮かぶのは、美琴の顔ばかりだった。あの日、美琴の家を訪ねたときに向けられた、あの冷えきった視線。あのときは、ただ怒っているだけだと思っていた。まさか――あれが、心が完全に離れてしまったときの目だったなんて。優弥はスマートフォンを手に取り、美琴とのメッセージの履歴をひたすら遡っていく。読み返せば読み返すほど、ある事実に気づかされる。昔にさかのぼるほど、自分の言葉は柔らかく、話題も多かった。――いったい、自分はいつからこんなふうになってしまった?白橋家を立て直してからか。それとも、白橋家が名実ともに頂点に立ってからか。自分でも、答えは見つからないままだった。気づけば、夜はすっかり更けていた。張りつめていた糸が切れたように、優弥はそのまま眠りに落ちていく。意識がはっきりするかしないかの間――ふと、リビングの空気が揺れたような気がした。気のせいだろう、と寝返りを打つ。その瞬間――鋭い殺気が、全身を包み込んだ。優弥ははっと目を開くと、ソファの前に数人
Read more

第23話

――守神。そうだ。敵ですら見抜いていたことなのに、自分だけが見えていなかった。胸の奥が、また鋭く痛む。だが今は――悔やんでいる場合じゃない。優弥は無理やり思考を引き戻し、目の前の男たちと向き合った。「金が目的なら、いくらでも払う。望むだけ用意する」「金だと?」先頭の男は、冷たく笑った。「俺たちが欲しいのはな――あんたの命だ」言い終わるや否や、男は短剣を振りかざし、一直線に優弥の胸を狙って突き込んできた。優弥の瞳が大きく見開かれる。とっさに体が動いた。美琴に教え込まれた護身術が、反射のように体を動かしたのだ。紙一重で、致命の一撃をかわす。昔、万一に備えて、美琴は優弥に最低限の護身術を叩き込んでくれていた。けれど、白橋家を立て直したあの日以来、守られる側の生活に慣れきった優弥は、ろくに鍛錬を続けていなかった。数合も打ち合わないうちに息が上がり、命を賭けて襲ってくる連中に、太刀打ちできるはずもない。気づけば、体にはいくつもの裂傷が増えていた。――ここまでか。そう思った、そのときだった。突然、別荘の警報装置がけたたましく鳴り響いた。男たちの表情が一斉に変わる。「退くぞ!」逃げる直前、先頭の男は最後の一撃を放ち、優弥の太ももを深く斬り裂いた。焼けつくような激痛が走り――優弥はそのまま意識を失った。……再び目を覚ましたとき、優弥は病院のベッドに横たわっていた。体に巻かれた何重もの包帯を見下ろした瞬間、涙が音もなく頬を伝う。痛い。十一年ぶりにこんな大怪我をしたのだ。そうか。これが、「痛み」だったのか。美琴が十七歳の時、九歳の優弥を人身売買組織の手から救い出したあの日から、十一年が経った。彼女は三度も銃弾を受け、数え切れないほどの傷を負ってきたが、優弥だけは一度たりとも怪我をしたことがなかった。美琴はまるで一枚の壁のように、優弥をすべての危険から守ったのだ。なのに――優弥は自らの手でその壁を壊した。しかも今日こうして生き延びているのだって、結局は美琴が教えてくれた護身術のおかげだ。「自分の守神を遠ざけた」という男の言葉が、胸の奥に突き刺さる。……本当に、その通りだ。自分はいったい、何をしてしまったのだろう。あのとき確かに約束したはずだった。もう
Read more

第24話

退院してすぐ、優弥は部下をすべて動員し、美琴の行方を探させた。だが、どれだけ手を尽くしてでも、手がかり一つすら掴めなかった。美琴も、その兄の安彦も、まるで世界から消えてしまったかのように、わずかな痕跡すら残していなかった。そのときになって、優弥はようやく理解した。美琴がまだ自分についていこうとしていた頃は、どれだけ突き放しても、彼女は決して離れようとしなかった。けれど――本気で去ると決めた彼女を、たとえ世界の隅々まで探したとしても、もう見つけ出すことはできないのだと。その後、ひよりとも別れた。彼女を秘書の職から外し、子会社へ異動させた。顔を合わせなければ、心を乱されることもない。そして優弥は――あれ以来、あの手の危険なアクティビティには二度と手を出していなかった。美琴がいない今、自分にはもう踏み出すだけの勇気すら残っていないと分かっていたからだ。そうして時間だけが、静かに過ぎていった。……気づけば、三年が経っていた。この三年で、優弥はまるで別人のように変わっていた。かつての奔放さもわがままも影を潜め、行動には隙がなくなり、判断も容赦なく鋭くなった。その手腕によって、白橋グループはかつてない高みへと押し上げられていた。けれど――彼が笑う姿を見た者は、もう誰もいなかった。そんなある日、優弥は特別ゲストとして、とあるレセプションに出席していた。会場の壇上で、主催者が一人の特別パートナーを紹介する。「それでは――盛大な拍手でお迎えください。千の顔を持つ人気女優、若林瑞月さんです!」割れんばかりの拍手の中、一人の女性がゆっくりとステージへ姿を現した。体のラインに完璧に沿うオートクチュールのドレス。すっと伸びた姿勢。ランウェイモデルすら霞むほどの存在感。その姿を見た瞬間、優弥の体が凍りついた。手にしていたシャンパングラスが床に落ち、乾いた音を立てて砕け散る。けれど、周囲の視線など気にしている場合じゃなかった。彼の視界にあるのは、ただ一人――壇上の彼女だけだった。若林瑞月(わかばやし みずき)。――違う。あれは、美琴だ。記憶の中にいた、体が細く、いつも影に潜んでいたボディーガードはもうどこにもいない。均整の取れた身体はしなやかに布を押し上げながらも、内側に確かな力を秘めている。そして、顔には余裕の
Read more

第25話

三年前まで名乗っていた名前を呼ばれた瞬間、私は思わず振り返った。――優弥だった。少し離れた場所に立つ彼は、仕立てのいいスーツに身を包み、今もなお人混みの中でひときわ目を引く存在だった。けれど、その表情は――私がこれまで一度も見たことのないほど、苦しげだった。視線には驚きが混じり、そしてそれ以上に、深い後悔がにじんでいる。……それでも。もう胸は痛まなかった。いや、もしかしたら、長く痛み続けすぎて、とうに感覚がなくなってしまっただけかもしれない。少なくとも、この三年間の海外での暮らしは――穏やかだった。穏やかすぎて、かつて「上杉美琴」という女が、泥の中を這い回るようにして必死に生きていたことさえ、忘れかけていたほどに。海外に渡って最初の一年は、ほとんどを療養に費やした。体の傷だけじゃない。心の傷も、同じだけ深かったから。体内に埋め込まれていた毒虫が取り除かれたとき、長く背負っていた枷が外れたようで――同時に、魂の一部まで抜け落ちたような感覚も残った。その後、兄の視力が完全に回復するまで支え続け、彼が事業を始めるのを見届けてから、私は海外の小さな町に身を落ち着けた。釣りをして、本を読んで、「普通の人間」として暮らす練習を、少しずつ始めた。これまでボディーガードとして身につけてきた、人に言えないような手段とも距離を置こうと決めた。まったく別のやり方で、生き直そうと思ったからだ。――けれど。心の奥は、空っぽのままだった。十一年間の護衛生活は、気づかないうちに私を深く傷つけていたらしい。いつの間にか、普通の人の暮らしにうまく溶け込めない人間になっていた。そんなある日、兄がテレビでアクション映画を見ながら、ふと画面を指さした。無表情な女殺し屋が、静かに銃を構えている場面だった。「美琴、こういうの、やってみたらどうだ?潜入や変装、格闘も、あなたなら全部できるだろ?あなたは本来、誰かの影の中じゃなくて、光の下で生きる人間だ。だから、もう誰かのために生きるのはやめろ。自分の得意なことを使って――今度は自分のために生きてみたらどうだ?」その言葉は、思っていた以上に胸に響いた。私は十一年ものあいだ、誰かの影として生きてきた。だから今度は、光の中を歩いてみたいと思った。そうして私は、映画のオー
Read more

第26話

あれから――寡黙で、いつも手袋をはめ、優弥の背後に静かに立っていたボディーガードの上杉美琴のことを、思い出す人はいなくなった。私自身でさえ忘れかけていた。けれど今日、優弥にその名前を呼ばれた瞬間、気づいてしまった。忘れていたわけじゃない。ただ――心のいちばん深い場所に、そっと沈めていただけだったのだと。我に返って、改めて優弥を見た。少し痩せた気がする。顎の線は以前より鋭くなり、あの頃の奔放な輝きは消え、代わりに拭いきれない疲労が滲んでいた。そして――彼の隣に、ひよりの姿はなかった。けれど、もう、どうでもよかった。「若林さん、次のインタビューの準備をお願いします」主催者の声が響く。私はそのまま視線を外し、静かに背を向けた。……インタビューを終え、控室に戻った直後だった。扉が勢いよく開き、優弥が飛び込んできた。目は赤く充血している。「……美琴」名前を呼ぶ声は、震えていた。私は振り向いたが、ただ静かに彼を見つめるだけだった。「白橋さんですよね?すみませんが、人違いです。私は若林瑞月といいます」優弥は言葉を失った。それでも唇を噛みしめ、首を振る。「違う……君は美琴だ。間違えるはずがない。目も、顔も……忘れるわけがない。ずっと待ってたんだ。俺たちは、まだ――」言いかけて、彼自身が言葉を失った。そうだ。再会できたとしても、もう、何も取り戻せない。二人の間には、とっくに越えられない亀裂が横たわっているのだ。私は小さく息を吐き、眉間を指先で押さえた。「白橋さん。他に用件がないなら、お引き取りください。少し休みたいので」「用件ならある!」即座に遮られる。「美琴……ごめん。本当に悪かった……あのときは俺が間違ってた。全部、勘違いだったんだ……」そして、焦るように続ける。「ひよりは嘘をついてた。おじいさまを突き飛ばしたのもあいつだったし、あいつは、白橋家を陥れようとしてた。だからもう会社からも追い出したんだ!」私は黙って聞いていた。心は、何ひとつ動かない。――それが、どうしたというの?視線だけを向けて、静かに言う。「誰をどう処分しようと、それはあなたの問題です。私には関係ありません」その言葉が刺さったのか、優弥の表情が歪む。「関係ないわけがないだろう!全
Read more

第27話

私の言葉を聞いて、優弥の顔色が、見る見るうちに白くなっていく。「やめてくれ……頼む、もう言わないでくれ。俺が悪かった……だから、戻ってきてくれないか?ちゃんと償うから……」必死に言葉を重ねる。「今は女優なんだろ?俺が支える。白橋家の力で最高の環境を用意する。白橋グループの株も半分やる。いや……全部でもいい!」彼は懇願するように、お金や利益で私に振り向かせようとした。けれど、胸に響くものは何もなかった。「償う?」私は静かに問い返す。「何で償うつもりですか?兄の人生を、あなたは取り戻せますか?それとも、私があなたのために尽くしてきた十一年を返せるとでも?十七歳からあなたの盾になった上杉美琴を二十八歳で切り捨てた罪を、本当に償えると思っているのですか?」言葉を重ねながら、彼の蒼白な顔を見つめ、はっきりと告げた。「上杉美琴はもう三年前に死にました。ここにいるのは、若林瑞月です。そして、私はあなたのことは知りません。もう関わらないでください」その瞬間、優弥は力を失ったように床へ崩れ落ちた。声にならないほど泣きじゃくりながら叫ぶ。「じゃあ……俺はどうすればいい?どうしたら許してくれるんだ?」涙に濡れた顔で、縋るように見上げてくる。昔なら――この表情を見ただけで、私は何でも差し出してしまっただろう。けれど今、私はただ静かに彼を見下ろすだけだった。「何もいりません。私はただ、兄を守りたいだけです。兄が一生、穏やかに笑って暮らせること。それが――これからの私のすべてです」それだけ告げて、私は背を向けた。だが、背後から声が追いかけてくる。「美琴!俺たちは十一年も一緒にいたんだ!命からがら逃げたこともあった。裏切り者を一緒に処分したこともあった……俺たちは家族みたいなものだっただろう?なのに、俺のたった一度の過ちで全部を終わらせるつもりなのか?もう一度チャンスをくれたっていいじゃないか?」私は振り返らず、足も止めなかった。――上杉美琴の物語は、もう終わったのだから。これから始まるのは、若林瑞月の物語だ。……けれど私は、優弥の執着を甘く見ていた。あるいは――彼の「諦めの悪さ」を。帰国後、最初に決まったのは大作映画への出演だった。クランクイン前の顔合わせの席で、思いがけない人物の姿があった。
Read more

第28話

その言葉が落ちた瞬間、現場にいた全員の視線が一斉にこちらへ向いた。この作品の主演が、ずっと前から私に決まっていたことは、誰もが知っている。それなのに優弥は、資金を盾に突然制作へ介入し、主演交代まで口にした。――私に思い知らせるためだ。まだ自分の影響力から逃れられないのだと。だから頭を下げて戻ってこい、と。けれど、彼は一つ、決定的に読み違えていることがある。私はもう――彼の言いなりになる美琴ではない。優弥を見つめながら、私は静かに微笑んだ。「山田監督。白橋さんにご意見があるのでしたら――こうしましょう。ここで斉藤さんと私で、同じ場面を演じます。どちらが役にふさわしいかは、皆さんに判断していただけませんか?」その提案に、現場の空気が目に見えて緩んだ。ただ一人――ひよりの顔色だけが、さっと青ざめた。優弥は眉をひそめる。空気を読まない私の態度が気に入らなかったのだろう。だが、この場で強く出るわけにもいかず、黙って頷くしかなかった。結果は――最初から決まっていたようなものだった。私はたった一度だけ視線を落とし、そして、たった一言台詞を口にしただけで――家族を皆殺しにされ、心を閉ざしたままの主人公がその場に生き生きと現れた。対して、ひよりは感情のない声でセリフを読み上げていた。視線が宙をさまよい、動きも硬く、ぎこちなかった。場の空気が冷えていくのが、誰の目にも明らかだった。優弥の表情さえ、見ていられないほど硬くなっていく。監督とプロデューサーは、その場で即決した。主演は、私で確定だと。優弥の顔から余裕が消えた。そしてついに、感情を抑えきれなくなったように言い放つ。「……なら、白橋グループの出資は引き上げる」それで私を揺さぶれると思ったのだろう。けれど次の瞬間、背後から、澄んだ男の声が静かに響いた。「出資を引き上げるのですか?」場の視線がそちらへ向く。「構いません。この作品には、私が出資します。なんなら、その倍の額で補填しましょう」私は声の主――兄を振り返った。彼は黒いサングラスをかけ、黒服のボディーガードたちに囲まれながら、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。優弥の表情が固まる。兄の視力が回復していることに、今さら気づいたのだろう。けれど次の瞬間には、薄く笑った。「……お前
Read more

第29話

兄の言葉が落ちた瞬間、優弥は雷に打たれたようにその場で動きを止めた。彼にとって兄は、暗くて無口で、ただ守られているだけで何もできない盲目の青年だった。そんな人物が、わずか二年間で自分を追い詰められるほどの競合に成長したなど、信じられるはずがない。「……ありえない。そんなはずがない!」私は静かに彼を見据えた。「ありえなくはないんですよ。この三年間で、兄は自分の力で会社を築きました。もし数年間も視力を失うことがなければ……今頃は、もっと高い場所に立っていたはずです」優弥は何も言い返せなかった。言葉を失ったまま立ち尽くし、そして――最後の切り札を持ち出した。「……美琴、忘れるな!白橋家に引き取られていなければ、君たちはとっくに路頭に迷っていたはず!今の君がいるのは、全部――白橋家のおかげだ!なのに、恩を仇で返すと?」その一言が、十一年間も押し殺してきた、私の最後の怒りに触れた。「……白橋家のおかげだと?」そう言って、私は兄のカバンから一冊の書類を取り出し、優弥の胸元へ投げつけた。「白橋家が、私たちに何をしたのかをちゃんと確認してください」書類が床に散らばる。一番上にあったのは――最新の事故調査報告書だった。優弥は震える手でそれを拾い上げる。内容を一目見た瞬間、瞳が大きく揺れた。「これは……」「両親が巻き込まれた事故の最新調査報告書です。読めばわかる通り、白橋グループはコスト削減のため、基準を満たさない鋼材を違法に仕入れていた。その結果、タワークレーンが倒壊した。――あなたたちは、そのわずかな利益のために、私たちの両親を殺したんですよ。それなのに、白橋家が私たちに恩があるだと?」「……違う」優弥は首を振り、声がかすれていく。「おじいさまがそんなことをするはずがない。きっと何かの誤解だ……」私は小さく笑った。「誤解?なら、あなたの大好きな祖父に聞いてみてください。この報告書に書かれていることが、果たして真実かどうかを」そのとき、撮影スタジオの入口がざわめいた。振り向くと、執事に支えられながら、康二がゆっくりと歩いてくる。三年という歳月は、彼からさらに多くを奪い去っていた。顔色は青白く、体は痩せ細り、その姿を見れば、彼の余命が長くないことは誰の目にも明らかだった。床に散らばった書類を一目
Read more

第30話

その「すまなかった」という一言に、優弥の心が完全に打ち砕かれた。彼はその場に崩れ落ちるように座り込み、声を押し殺すこともできないまま泣き出した。その姿を見つめながらも、私の胸には、もう何も残っていなかった。十一年間、私は忠誠を尽くして守り続けてきた相手は、まさか両親を死に追いやった黒幕だったなんて。皮肉すぎて笑ってしまいそうだ。私は静かに口を開いた。「謝罪は受け入れられません。あの事故については、すでに弁護士を通して再訴の手続きを進めています。白橋家が罪を犯し、私たち兄妹を苦しめたことは――法の力を借りて、すべて償ってもらいます」言い終えると、私は兄の手を取って、そのまま歩き出した。もう二度と、大切な人を傷つけさせない。絶対に。……騒動のあと、優弥は魂を抜かれたような様子で、白橋家の本邸へ戻った。美琴の両親が白橋家のせいで亡くなったという事実を、どうしても受け入れられなかったのだ。かつて、自分は美琴と安彦を引き取った家のことを誇りに思っていた。だが――その引き取り自体が、祖父の罪悪感から始まったものだったなんて。そして、美琴と過ごしてきたすべての時間が――血に濡れた真実の上に築かれていたものだったなんて。あまりにも残酷だった。思考が追いつかない。気がつけば、自分が壊れていくような感覚だけが、頭の奥で鈍く響き続けていた。それから数日間、優弥は部屋に閉じこもり、誰とも会おうとしなかった。ひよりからは何度も電話がかかってきたが、一度も出なかった。届いたメッセージも、最初は心配する言葉だったが、やがて苛立ちへと変わっていく。【優弥さん、何があったんですか?どうして電話に出てくれないんですか?やっぱり、上杉さんのことが忘れられないんですか?】【三年前は私を追い出して、今度は撮影現場で恥をかかせて……いったいどういうつもりなの?】画面に並ぶ文字を見ているだけで、吐き気が込み上げてきた。優弥はためらうことなく、彼女の連絡先を削除した。もう――それどころではなかった。白橋グループが、崩れ始めていたのだ。安彦の率いる星川エンターテインメントが海外市場で勢力を広げたあと、今度は国内市場へと本格的に参入してきた。そして、そこから白橋グループへの攻勢が始まった。株価への仕掛け、大型案
Read more
PREV
1234
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status