Todos os capítulos de 誠実な愛には嘘は許せない: Capítulo 1 - Capítulo 9

9 Capítulos

第1話

藤原信夫(ふじわら のぶお)は記憶を失い、私、佐藤詩織(さとう しおり)のことをすべて忘れてしまった。記憶は、彼が初恋を最も愛していたあの年で留まっている。医者は治る見込みがあると言った。それで、私は彼の治療に付き添ってきた。三年もの間、私は何の立場もなく彼の世話をしてきた。京西市の社交界では、やがてそれが誰もが知る笑い話となり、そして、私がいつ諦めるか、信夫がいつ思い出すかということが、賭けの種にされていた。酔った彼を迎えに行った夜、偶然、彼と友人の会話を聞いてしまった。「記憶喪失のふりとは、見事だな、信夫。夏目さんとも堂々といられるし、家には佐藤詩織って家政婦がいつまでも居座っている。でもよ、夏目さんと結婚するんなら、佐藤をどうする?」信夫は嘲笑った。「あの女か?あいつはな……俺がいなきゃやっていけないよ。その時は、ちょっと甘い言葉で宥めて、橙子と結婚するのは記憶を取り戻すためなんだって説明すれば、絶対信じるさ。あいつの性格からして、俺が離婚するのを待つなんて当然、たとえ橙子との間に子供ができたって、喜んで面倒を見てくれるんじゃないかな」私は身動きが取れず、その場に立ち尽くした。記憶喪失なんて、嘘だった。全部、演技だったんだ。まあ、これでいい。これからは、彼は自由だ。私も自由だ。個室には、私と信夫だけが残った。彼は次から次へと煙草を吸い、床には吸い殻が散らばっている。「もう聞いちまったんだろう?なら隠す必要もないな。俺は橙子と一緒になるために記憶喪失のふりをしてたんだ。でも、お前との付き合いも長いし、俺も……」彼は顔をこちらに向け、赤くなった私の目を見つめる。信夫の表情が一瞬で柔らいだ。「もういい、こんな話はやめよう。このことはなかったことにして、前みたいにやっていこう、な?」彼の手を避け、私は冷たく告げる。「別れよう」信夫の笑みは瞬時にして凍り付いた。彼は私の手を離し、煙草に火をつけて、少し疲れたように言う。「俺は別れない」「じゃあ、彼女と縁を切って」信夫はじっと私を見つめ、長い沈黙のあとで口を開く。「詩織、正直に話すよ。俺が橙子と結婚しようと思ったのは、ただ意地みたいなものだ。五年前、あの女は金のことで俺を捨てた。それが
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第2話

信夫はこめかみを押さえ、我慢の限界といった様子で言う。「もういい、今夜は一旦落ち着こう。詩織、ちょっと考えてみてくれ。こんな些細なことで、俺たちが積み上げてきた時間も、思い描いてきた未来も、それにお前の両親の期待にまで背くっていうのか?本当にここで終わらせていいのか?」ドン、と扉が閉まる音が響いた。私は抑えきれずにえずいた。背中は弓のように反り返っているのに、何も吐き出せない。涙と鼻水がぐちゃぐちゃに混ざり、見るも無惨な顔だ。泣き終えたあと、ようやく迷いが吹っ切れた。タクシーを拾って帰り、荷物をまとめる。かつては期待に胸をふくらませて引っ越してきたこの家を、今は惨めな姿で去っていく。思わず、自嘲気味に笑った。ちょうどその時、スマホの通知音が突然鳴り響いた。夏目橙子(なつめ とうこ)がSNSに投稿したものだった。キャプションにはこう書かれている。【独身で迎える最後の年越し】写真の背景は海辺だ。信夫が片膝をつき、橙子にプロポーズしている。胸の奥が、鋭く痛んだ。画面を消すと、そこに映ったのは血の気の引いた自分の顔。その後、荷物をまとめる手さえ震えていた。もういい、これで終わりにしよう。 実は滑稽な話だけど、京西市で信夫の治療に付き添ったこの三年間、私は仕事を捨て、交友関係も断ち、唯一頻繁に連絡を取っていたのは記憶喪失の治療をしてくれる医師だけだ。私の世界は、信夫を中心に回っていた。彼が別の女性に夢中になっていた時でさえ、私は彼を庇う理由を探していた。私はいつも自分に言い聞かせていた。彼は病気なんだ、ただ覚えていないだけ。きっと思い出して、元通りになると。けれど、すべては演技だった。突然、電話が鳴る。父からだ。「詩織、信夫さんのほうから聞いたんだが……ちょっと揉めたのか?」「……うん」喉が詰まった。ちょっともめたなんかじゃない。父に伝えたかった。彼と別れるつもりなのだと。「お父さん、私……」けれど、口の中が綿で塞がれたように、言葉が出てこない。どう言えばいい?信夫がずっと記憶喪失のふりをしていたなんて?すべては別の女と結婚するための芝居だったなんて?「詩織、本当は言うつもりなんてなかったんだ……でも、言わなくちゃいけない」私
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第3話

「すぐに結婚しよう」私は何も言わず、ただ呆然と彼を見つめる。彼の身体から漂う見知らぬ香水の匂い、襟元についた見覚えのない口紅の色――それは、別の女の痕跡だ。目を閉じると、ただ虚無感だけが胸に沈んでいく。それでも信夫は、私に盛大な結婚式を挙げ、母に私の幸せな花嫁姿を見せようと繰り返し口にしている。私は頭を傾けて車窓にもたれ、返事をする気力さえもなかった。その後の半月、私は感情を殺したまま結婚式の準備を進め、母の看病を口実に病院に泊まり込み、信夫との接触を極力避けた。彼は怒ることもなく、完璧に約束を果たした。橙子と別れて、私のために、最も華やかな結婚式を準備しようとしていた。彼は仕事まで断って、病院で私と一緒に夜を明かした。まるで理想的な婿のように振る舞っていた。母の顔色も少し良くなり、私の手を握りながら彼に言う。「信夫さん、詩織のことをよろしくお願いします。これで安心できますわ」信夫はその言葉に応えるように私の手を取り、指をしっかりと絡めて、真摯な眼差しで言う。「お義母さん、俺は一生、詩織を大切にします」母の真剣な眼差しを見て、私は目を伏せ、小さくうなずいた。けれど胸の奥は、水をたっぷり吸い込んだ海綿のように重く沈んでいた。すべては、何も変わらぬ日常のはずだった。異変が起きたのは、ある午後のこと。信夫が急用で会社に呼び出され、私はひとりで病室へ向かった。扉を押し開けると、母の世話をしていた介護士が別の人に替わっていた。その顔を見た瞬間、私は息を呑んだ。夢の中でさえ忘れられない顔だ。信夫の初恋、橙子。彼女はちょうど母と話していた。「……彼氏とは本気で愛し合っているんです。でも、別の女性が過去の恩を盾に、結婚を要求してきて……もう……」母はそれを聞きながら、顔に同情の色を浮かべた。私は扉のところで立ち尽くした。全身の血が一瞬で凍りつくかのようだ。「詩織、来たの?」母が私に気づき、微笑んだ。「夏目さん、本当に気の毒ね……でもあの子もね、好きでもないのに、無理やり二人の間に割り込むなんて。どうしてああいうことができるのかしらね」私は引きつった笑みを浮かべ、母の言葉を遮る。「お母さん、お粥を持ってきたの。さあ、ちょっと食べてみて」それから橙子のほうを振
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第4話

「信夫……私はただ、おばさまが一人で寂しそうだったから、少しお手伝いして、お話し相手になってあげようと思っただけなの……どうして佐藤さんがそんなに怒っているのかわからないわ。いきなり私を叩くなんて……」彼女はすすり泣きながら、周囲の同情を引いた。先程まで私に吐き捨てるように話していた時の、あの刺々しい態度とはまるで別人のようだ。「先ほど、彼女が何を言ったのか、聞いてよ!」私は怒りに震え、信夫の手を振り払おうとした。信夫は眉間に深い皺を寄せ、橙子の腫れた頬を見つめる。そして興奮している私に視線を移し、その瞳には失望と苛立ちが浮かんでいた。「橙子は好意でお義母さんを見舞いに来ただけだ。何か問題があるっていうのか?たとえ何か言われたとしても、手をあげるなんて絶対に許せることではない!詩織、お前、いつからそんなに理不尽な人間になった?少し気に入らないことがあると、すぐ暴力をふるうのか?」「私が……理不尽だって?」思わず笑い出しそうになった。涙が自然と込み上げてきた。「信夫、理不尽なのはあなただわ!二股をかけなければ、私があの女と揉めることなんてあると思う?」「もういい!」信夫は眉間を押さえ、うんざりしたように言う。「詩織、俺はちゃんと約束しただろう。結婚するって。それなのに、まだ騒ぐのか?そんなことして楽しいのか?」その言葉を聞いた瞬間、力が抜けていくのを感じた。楽しい?楽しくなんてないよ。顔を上げ、涙を無理やり押し戻す。「……いいわ。式にはちゃんと出席してね」かつて、私は信夫と結婚できることを心から願っていた。けれど今は、これがただの形で、むしろ幸運だと思う。芝居が終われば、幕が閉まるだけだ。結婚式の日、まぶしいほどの陽射しが降り注いだ。母は無理を承知で、私の式に立ち会ってくれた。「詩織、こうして自分の目であなたの花嫁姿を見られて、もう本当に心残りはないわ」涙をこらえながら、私は母を支えて席に案内した。「お母さん、そんな縁起でもないこと言わないで。絶対に長生きしてよ」母は微笑みながらうなずいた。そして、私と信夫の手をそっと重ね合わせた。司会者がステージで祝辞を述べた。信夫も私の手をしっかりと握り返してくれた。こうしてすべてが順調に進んでいた。
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第5話

母が倒れた時、周囲で一斉に悲鳴が上がった。私は駆け寄ると、母の手は氷のように冷たくなっている。その体は驚くほど軽く、まるで枯れ枝のようだ。彼女の後頭部を支える私の手だけが震えている。「救急車を呼んで!」と叫ぶ者もいれば、慌てて電話をかける者もいる。しかし、すべての音は厚いガラス越しのように遠く、かすかにしか感じられない。けれど、母の口元はほのかに笑っている。完全に意識を失う直前、最後に私を見たそのまなざしには怨みも責めもなく、ただ深い慈しみだけに満ちている。まるで「詩織、泣かないで」と言っているようだ。私はステージのそばに膝をつき、母を抱きしめる。母の手には、口紅の跡がついている。それは、出かける前にどうしても塗ってほしいと、母が頼んでいた口紅だ。「年を取ると顔色が悪くなるから、娘に恥をかかせるわけにはいかない」と笑いながら言っていた。「お母さんは、世界一きれいだよ」私がそう言うと、母は笑いながら、「口が上手ね」と、私をからかった。あれは二時間前のことだ。救急車が来た。担架も来た。人々は避難させられる。藤原家の人々が手伝いを申し出てくれたが、私は首を振り、一言も返さなかった。数時間に及ぶ救命処置の後、母はICUに運ばれていった。父は廊下に立っている。着ているのは、箪笥の奥に仕舞ってあった古いスーツ。一昨年の正月、母が「娘の結婚式用に」と言って買ってくれたものだ。彼は背を丸め、まるで十歳老けて見える。「……信夫は?」父がかすれた声で尋ねる。私は答えなかった。翌日の未明、母が他界された。直接の原因は、強い精神的ショックと、がんの転移に伴う多臓器不全だったと、医師から説明があった。長時間にわたる蘇生措置も及ばず、そのまま逝ってしまった。私は一晩中母のそばに付き添い、次第に冷たくなっていく手を握りしめながら、何度も何度も「ごめんね」と繰り返した。母にはもう、その声は届かないだろう。葬儀の日、信夫が姿を見せた。黒いスーツの彼は、式場の入口に立ち尽くしていた。参列者はまだ来ておらず、ひっそりとした葬儀式場の中では、私と父だけが待ち構えている。彼は祭壇前で焼香をすると、しばし合掌し、深く頭を垂れた。私は座布団の上で俯き、彼を見ないようにした。「……橙子はもう
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第6話

介護士が箱を私に差し出し、何か言いたげに口を開きかけては閉じた。歩き出そうとしたとき、彼女が私を呼び止めた。「佐藤さん……一つ、お話ししていいのか迷ったんですが……」「ええ、どうぞ」「お母さまが入院なさっていた間、夏目さんが何度かいらっしゃいました。ご不在の時もあれば、藤原さんとご一緒の時も……」彼女は顔色をうかがいながら、恐る恐る言葉を続けた。「お母さまと何かお話しされていたようですが、中身までは存じ上げません。ただ、夏目さんがお帰りになった後は、お母さまはお顔を曇らせていらっしゃいました」箱を抱えたまま、指先に冷たさがじわりと広がっていくのを感じた。「……分かりました。お知らせくださり、ありがとうございます」箱を抱えて階段を下り、入院棟の出口で、真正面から人とぶつかりそうになった。その相手は橙子だった。彼女は患者衣に、ニットのカーディガンを羽織っている。左手首には、分厚い包帯が巻かれている。その横を、信夫が彼女の腕をガッチりと支えている。三人は病院の自動ドアの前で、立ちすくんだ。一瞬、周りの雑音が消え、三人の時間だけが止まった。信夫が先に口を開く。「詩織、どうしてここに?」私は答えなかった。彼の肩越しに視線を送り、橙子の顔に目を留める。前に会ったときよりもずっとやつれていて、肌は血の気を失い、目の下にははっきりと隈ができている。それでも、あの目にはわずかな得意げな表情を巧みに隠している――まるで敗者を見下すように私を見ている。「佐藤さん……ご愁傷さま」彼女はかすかにそう言った。私は箱を抱える手に力を込める。信夫が一歩前に出て、二人の間に立ちはだかった。「詩織、橙子はまだ本調子じゃないから、ちょっと送っていくよ。話は……日を改めよう」「あなたのお母さまのこと、伺いました」橙子がふいに口を開いた。声は相変わらず柔らかい。「本当に……残念でした」彼女は私の目を見つめ、唇の端をわずかに上げた。「佐藤さん、きっと後悔してるんでしょう?あの時、あんなに乱暴されていなければ、私だってここまで追い詰められて、こんなことなんて、しなかったのに……」「橙子!」信夫が低く怒鳴った。その口調には明らかな警告が込められている。橙子はうつむいて、泣きじゃくるような声で言う。
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第7話

けれど、彼は記憶を失ってなどいなかった。ただ、私のことを思い出したくなかっただけなのだ。荷物は、来たときと同じ、スーツケースが二つだけ。玄関棚に鍵を置き、その隣の腕時計の上にそっと重ねた。最後にドアを閉めた瞬間、ふと三年前のことが脳裏をよぎった。あの日は激しい雨が降っていて、彼は車の中にいた。窓が少しだけ下がり、疲れ切った半分の顔が見えた。「医者は、俺が記憶喪失だと言っている」と彼は言った。「お前は俺の恋人だと聞いたけど、思い出せない。本当にすまない」「大丈夫、私が覚えているから」と私は答えた。それが新しい始まりになると思っていた。けれど、あれがもう終わりだったのだ。実家へ帰る切符は夜八時の新幹線。七時にはすでに駅に着いた。二つのスーツケースを引きながら、待合室の椅子に腰を下ろし、ぼんやりと時間を過ごしている。構内の放送が何度も列車番号を告げ、人波が絶え間なく行き交っていた。帰路を急ぐ人もいれば、新たな旅へと踏み出す人もいる。けれど、私だけが、今向かっているのが帰路なのか新たな旅なのか、さっぱり分からない。スマホが長い間振動し続けて、やっとのことで通話ボタンを押した。信夫の声には、押し殺した怒りが込められている。「今どこ?家の鍵、どういうことだ?」私は静かに答える。「返したのよ」「えっ?どういうこと?」「もう、帰らないってこと」電話の向こうが、数秒ほど沈黙した。彼の声のトーンが、ほんの少し和らいだ。「詩織、お前がまだ怒ってるのはわかってるよ。でもよ、俺たちもう結婚したんだ。式は最後まで挙げられなかったけど、ちゃんと入籍した。法的な手続きも全部済んでる。お前は俺の妻なんだ。俺たちは家族なんだよ――」「信夫」彼の言葉を遮った。「婚姻届、提出しなかったわよ」彼は一瞬、呆然とした。「どういう意味だ?」「証人はあなたのお母さんが手配した人よ。司会もお母さんの段取りだった。彼女は本気で私たちを結婚させたかったし、私もその時は確かに同意していたわ」私は少し間を置いて言い続ける。「でも、私は署名していないの」電話の向こうで、何かが床に落ちる音が聞こえる。「橙子についてのあの会話を聞いた夜から、もう本気であなたと結婚するつもりなんてなかったの」「詩織……」
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第8話

別に焦ることもない。毎朝店を開け、夜に閉めて、花の世話をしながら、ゆったりと時を過ごす。父は時々店に顔を出しては、花に水をやり、あまり多くは語らない。冬になって、大雪が降った。花屋にはほとんど客が訪れず、私はレジカウンターの後ろで小説を読んで日々を過ごしている。扉が開き、風鈴の音がした。私は顔も上げずに言う。「いらっしゃいませ」足音が入ったところで止まった。顔を上げると、信夫が立っている。肩に雪を載せ、ずいぶん痩せ込んでいる。目の周りが窪んで、無精髭も生やしている。薄手の黒コートの下では、革靴は雪解け水に濡れている。まるで遠いところから走ってきたかのようだ。「……詩織」彼の声はかすれていて、まるで別人のようだ。私は何も言わなかった。彼はドアのところに立ち尽くし、それ以上一歩も前へ踏み出せないかのようだ。「この三ヶ月でな」彼は口を開いた。「全部、片付けたんだ。橙子はアメリカに戻った。会社の方はプロのマネージャーに任せた。京西市の家も売却した」彼はコートの内ポケットから一束の書類を取り出した。雪で端が濡れて滲んでいる。それを私の前に差し出す。「こちらが株式譲渡契約書。こちらの書類は、不動産の名義変更に関するもの。そして……これが、俺名義の全資産のリストだ」私はうつむいて一瞥した。レジカウンターの上には、客の予約した百合の花束が置いてある。まだ受け取りに来ていない。私はハサミを手に取り、枝葉を整え始める。「用事は?」彼は一瞬、言葉を詰まらせた。「……お前を探しに来たんだ」「もう見つけたし、帰っていいよ」「詩織……」「遅かったわよ」私はハサミを置き、ようやく顔を上げて彼を見つめる。「三ヶ月前、私が一番あなたを必要としていた時、あなたは病院で夏目のそばにいた。母が最期の数日を過ごしていた時、あなたは一度も見舞いに来なかった。葬儀の日でさえ、十分もいないうちに、夏目からかかってきた電話に三回も出た。この三年間、私は名分も立場もなくあなたのそばにいた。その間、あなたはずっと、初恋への復讐をどう果たすかばかり考えていたんでしょ?」私が一言発するたびに、信夫の顔色は少しずつ蒼白になっていった。「信夫、彼女がいないと生きていけないって言ったわね。じゃあ、私は?」
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第9話

「結局あなたは、記憶を失っていたあの時、誰かに世話をしてほしかっただけなのね。しかも、その記憶喪失は――演技だった」彼は口を開いたが、言葉は一つも出てこなかった。私は背を向け、レジカウンターへ戻り、ハサミを手に取って百合の花束の枝を整え始める。彼は長いこと立ち尽くしていた。窓の外の雪が細くなり、やがて止んだ。百合の花の手入れがすべて終わった。そして、花瓶に水を足し、花を生けた。「詩織」彼の声はかすかで、まるで夢を壊すのを恐れるようだ。「最後に、一つだけ聞いてもいい?」私は顔を上げなかった。「もし、時間を巻き戻せるとすれば……あの日、式場を立ち去らず、お前との結婚式を最後まで済ませていたなら……お前は、今も俺の妻でいてくれただろうか」ハサミが空中で止まった。いつの間にか窓の外の雪は止み、雲間からこぼれる陽光が窓辺に落ちていた。私はうつむいたまま、花を生け続ける。「ない」彼は去っていった。ドアの風鈴が、長く鳴り響いた。私は顔を上げようとしなかった。その足音が雪の上に消え、空の色が薄れていく間も、父が夕食に呼びに来るまで、ずっと俯いていた。父は何も聞かず、売れ残った花を奥の部屋へ運ぶのを手伝ってくれた。私はがらんとした店の真ん中に立ち、ガラスの扉に残る雪の跡が少しずつ溶けていくのを見つめている。ふと、母が最後に言った言葉を思い出した。結婚式のあの日、母は私の手を握りながら言った――「詩織、お母さんはね、あなたが幸せでいることだけを願っているの。もし、いつか辛いことがあったら……いつでも家においでね」私は額を冷たいガラス扉にそっと押し当て、小さくつぶやく。「お母さん、ただいま」翌年の春、花屋の商いはようやく軌道に乗り始めた。交差点にある「詩織花屋」は、町の人たちに広く知られている。若くて美しい店主は口数が少ないが、店に並ぶ花はどれも見事に手入れが行き届いている。ある日、客が尋ねた。「こんなに若いのに、どうしてこの町で花屋を?」私は答えた。「母と一緒にいたくて。去年、母が亡くなって…この店は、母の願いだったんです」客は少し黙り、やがて一番高価な薔薇の花束を買ってくれた。ある夕暮れ、一人の少女が店に訪れた。十五歳くらいだろうか。ポニーテールを揺らしなが
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