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第7話

Author: 山田奈々子
けれど、彼は記憶を失ってなどいなかった。

ただ、私のことを思い出したくなかっただけなのだ。

荷物は、来たときと同じ、スーツケースが二つだけ。

玄関棚に鍵を置き、その隣の腕時計の上にそっと重ねた。

最後にドアを閉めた瞬間、ふと三年前のことが脳裏をよぎった。

あの日は激しい雨が降っていて、彼は車の中にいた。窓が少しだけ下がり、疲れ切った半分の顔が見えた。

「医者は、俺が記憶喪失だと言っている」と彼は言った。「お前は俺の恋人だと聞いたけど、思い出せない。本当にすまない」

「大丈夫、私が覚えているから」と私は答えた。

それが新しい始まりになると思っていた。

けれど、あれがもう終わりだったのだ。

実家へ帰る切符は夜八時の新幹線。

七時にはすでに駅に着いた。二つのスーツケースを引きながら、待合室の椅子に腰を下ろし、ぼんやりと時間を過ごしている。

構内の放送が何度も列車番号を告げ、人波が絶え間なく行き交っていた。帰路を急ぐ人もいれば、新たな旅へと踏み出す人もいる。

けれど、私だけが、今向かっているのが帰路なのか新たな旅なのか、さっぱり分からない。

スマホが長い間振動し続け
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    けれど、彼は記憶を失ってなどいなかった。ただ、私のことを思い出したくなかっただけなのだ。荷物は、来たときと同じ、スーツケースが二つだけ。玄関棚に鍵を置き、その隣の腕時計の上にそっと重ねた。最後にドアを閉めた瞬間、ふと三年前のことが脳裏をよぎった。あの日は激しい雨が降っていて、彼は車の中にいた。窓が少しだけ下がり、疲れ切った半分の顔が見えた。「医者は、俺が記憶喪失だと言っている」と彼は言った。「お前は俺の恋人だと聞いたけど、思い出せない。本当にすまない」「大丈夫、私が覚えているから」と私は答えた。それが新しい始まりになると思っていた。けれど、あれがもう終わりだったのだ。実家へ帰る切符は夜八時の新幹線。七時にはすでに駅に着いた。二つのスーツケースを引きながら、待合室の椅子に腰を下ろし、ぼんやりと時間を過ごしている。構内の放送が何度も列車番号を告げ、人波が絶え間なく行き交っていた。帰路を急ぐ人もいれば、新たな旅へと踏み出す人もいる。けれど、私だけが、今向かっているのが帰路なのか新たな旅なのか、さっぱり分からない。スマホが長い間振動し続けて、やっとのことで通話ボタンを押した。信夫の声には、押し殺した怒りが込められている。「今どこ?家の鍵、どういうことだ?」私は静かに答える。「返したのよ」「えっ?どういうこと?」「もう、帰らないってこと」電話の向こうが、数秒ほど沈黙した。彼の声のトーンが、ほんの少し和らいだ。「詩織、お前がまだ怒ってるのはわかってるよ。でもよ、俺たちもう結婚したんだ。式は最後まで挙げられなかったけど、ちゃんと入籍した。法的な手続きも全部済んでる。お前は俺の妻なんだ。俺たちは家族なんだよ――」「信夫」彼の言葉を遮った。「婚姻届、提出しなかったわよ」彼は一瞬、呆然とした。「どういう意味だ?」「証人はあなたのお母さんが手配した人よ。司会もお母さんの段取りだった。彼女は本気で私たちを結婚させたかったし、私もその時は確かに同意していたわ」私は少し間を置いて言い続ける。「でも、私は署名していないの」電話の向こうで、何かが床に落ちる音が聞こえる。「橙子についてのあの会話を聞いた夜から、もう本気であなたと結婚するつもりなんてなかったの」「詩織……」

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