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誠実な愛には嘘は許せない

誠実な愛には嘘は許せない

Par:  山田奈々子Complété
Langue: Japanese
goodnovel4goodnovel
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藤原信夫(ふじわら のぶお)は記憶を失い、私、佐藤詩織(さとう しおり)のことをすべて忘れてしまった。 記憶は、彼が初恋を最も愛していたあの年で留まっている。 医者は治る見込みがあると言った。 それで、私は彼の治療に付き添ってきた。 三年もの間、私は何の立場もなく彼の世話をしてきた。 京西市の社交界では、やがてそれが誰もが知る笑い話となり、そして、私がいつ諦めるか、信夫がいつ思い出すかということが、賭けの種にされていた。 酔った彼を迎えに行った夜、偶然、彼と友人の会話を聞いてしまった。 「記憶喪失のふりとは、見事だな、信夫。夏目さんとも堂々といられるし、家には佐藤詩織って家政婦がいつまでも居座っている。 でもよ、夏目さんと結婚するんなら、佐藤をどうする?」 信夫は嘲笑った。 「あの女か?あいつはな……俺がいなきゃやっていけないよ。その時は、ちょっと甘い言葉で宥めて、橙子と結婚するのは記憶を取り戻すためなんだって説明すれば、絶対信じるさ。 あいつの性格からして、俺が離婚するのを待つなんて当然、たとえ橙子との間に子供ができたって、喜んで面倒を見てくれるんじゃないかな」 私は身動きが取れず、その場に立ち尽くした。 記憶喪失なんて、嘘だった。 全部、演技だったんだ。 まあ、これでいい。 これからは、彼は自由だ。 私も自由だ。

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Chapitre 1

第1話

藤原信夫(ふじわら のぶお)は記憶を失い、私、佐藤詩織(さとう しおり)のことをすべて忘れてしまった。

記憶は、彼が初恋を最も愛していたあの年で留まっている。

医者は治る見込みがあると言った。

それで、私は彼の治療に付き添ってきた。

三年もの間、私は何の立場もなく彼の世話をしてきた。

京西市の社交界では、やがてそれが誰もが知る笑い話となり、そして、私がいつ諦めるか、信夫がいつ思い出すかということが、賭けの種にされていた。

酔った彼を迎えに行った夜、偶然、彼と友人の会話を聞いてしまった。

「記憶喪失のふりとは、見事だな、信夫。夏目さんとも堂々といられるし、家には佐藤詩織って家政婦がいつまでも居座っている。

でもよ、夏目さんと結婚するんなら、佐藤をどうする?」

信夫は嘲笑った。

「あの女か?あいつはな……俺がいなきゃやっていけないよ。その時は、ちょっと甘い言葉で宥めて、橙子と結婚するのは記憶を取り戻すためなんだって説明すれば、絶対信じるさ。

あいつの性格からして、俺が離婚するのを待つなんて当然、たとえ橙子との間に子供ができたって、喜んで面倒を見てくれるんじゃないかな」

私は身動きが取れず、その場に立ち尽くした。

記憶喪失なんて、嘘だった。

全部、演技だったんだ。

まあ、これでいい。

これからは、彼は自由だ。

私も自由だ。

個室には、私と信夫だけが残った。

彼は次から次へと煙草を吸い、床には吸い殻が散らばっている。

「もう聞いちまったんだろう?なら隠す必要もないな。

俺は橙子と一緒になるために記憶喪失のふりをしてたんだ。でも、お前との付き合いも長いし、俺も……」

彼は顔をこちらに向け、赤くなった私の目を見つめる。

信夫の表情が一瞬で柔らいだ。

「もういい、こんな話はやめよう。

このことはなかったことにして、前みたいにやっていこう、な?」

彼の手を避け、私は冷たく告げる。

「別れよう」

信夫の笑みは瞬時にして凍り付いた。

彼は私の手を離し、煙草に火をつけて、少し疲れたように言う。

「俺は別れない」

「じゃあ、彼女と縁を切って」

信夫はじっと私を見つめ、長い沈黙のあとで口を開く。

「詩織、正直に話すよ。

俺が橙子と結婚しようと思ったのは、ただ意地みたいなものだ。

五年前、あの女は金のことで俺を捨てた。それが三年前、また金目当てで戻ってきた。

だから、あいつと結婚して、彼女が俺を愛するようになった時に、今度は俺が捨ててやろうと思ってな。あの時の俺の痛みを、思い知らせたかっただけだ」

彼は顔を上げ、私の表情を探るように見つめる。

「詩織、彼女への復讐が終わるまで待ってくれないか?」

復讐?

私を騙して、記憶喪失のふりをした。

名も立場もないまま、私は三年間も彼の世話をしてきた。

それなのに今度は、別の女と結婚するって?

それがただの復讐だと言うの?

胃酸が逆流するような不快感に襲われ、洗面所に駆け込み、こみ上げる吐気を押さえようとした。

「そんなに大げさに反応することないだろう」

信夫が後を追ってきて、そっと私の背中を撫でた。

「さっきも言った通り、あの女との結婚は一時しのぎに過ぎないんだよ。

俺が本当に愛してるのは、ずっとお前だけだ」

私は振り向いて彼を見る。

その目には心配の色がたたえている。

何年も愛し続けてきた、あのいつもの彼の姿。

なのに今では、胸がむかむかするほどの嫌悪しか湧いてこない。

「愛してる?本気でそう言うの?

愛してるっていうのに、記憶喪失のふりをして、この名もなき私に三年も尽くさせておいて!愛してるっていうのに、この都合のいい女を浮気相手にしようってこと?」

信夫は眉をひそめ、少し苛立ったように言う。

「そんな言い方するなよ。浮気なんて、ありえないだろ?橙子とのあれは全部芝居だ。本当に好きなのはお前だけなんだ。

確かにお前を騙した。でもな、お前がそれを気に食わないと思ったからだ。

本当に悪かった。だから、そんなに拗ねるなよ」

そう言って、彼は私の髪に触れようとした。

「触らないで!」

私は勢いよく彼の手を払った。

彼の手はそのまま宙に浮いて、動かなくなった。

この三年間、私は名分も立場もなく、彼に付き添い、世話をし、治療を支えてきた。

それでも、愛があれば乗り越えられると信じていた。

でも、今になってやっと気がついた。

これは、愚かな私のただの一人相撲だったのだ。

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裕子
裕子
まじ中途半端何が言いたいのかわからない
2026-04-23 15:34:26
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第1話
藤原信夫(ふじわら のぶお)は記憶を失い、私、佐藤詩織(さとう しおり)のことをすべて忘れてしまった。記憶は、彼が初恋を最も愛していたあの年で留まっている。医者は治る見込みがあると言った。それで、私は彼の治療に付き添ってきた。三年もの間、私は何の立場もなく彼の世話をしてきた。京西市の社交界では、やがてそれが誰もが知る笑い話となり、そして、私がいつ諦めるか、信夫がいつ思い出すかということが、賭けの種にされていた。酔った彼を迎えに行った夜、偶然、彼と友人の会話を聞いてしまった。「記憶喪失のふりとは、見事だな、信夫。夏目さんとも堂々といられるし、家には佐藤詩織って家政婦がいつまでも居座っている。でもよ、夏目さんと結婚するんなら、佐藤をどうする?」信夫は嘲笑った。「あの女か?あいつはな……俺がいなきゃやっていけないよ。その時は、ちょっと甘い言葉で宥めて、橙子と結婚するのは記憶を取り戻すためなんだって説明すれば、絶対信じるさ。あいつの性格からして、俺が離婚するのを待つなんて当然、たとえ橙子との間に子供ができたって、喜んで面倒を見てくれるんじゃないかな」私は身動きが取れず、その場に立ち尽くした。記憶喪失なんて、嘘だった。全部、演技だったんだ。まあ、これでいい。これからは、彼は自由だ。私も自由だ。個室には、私と信夫だけが残った。彼は次から次へと煙草を吸い、床には吸い殻が散らばっている。「もう聞いちまったんだろう?なら隠す必要もないな。俺は橙子と一緒になるために記憶喪失のふりをしてたんだ。でも、お前との付き合いも長いし、俺も……」彼は顔をこちらに向け、赤くなった私の目を見つめる。信夫の表情が一瞬で柔らいだ。「もういい、こんな話はやめよう。このことはなかったことにして、前みたいにやっていこう、な?」彼の手を避け、私は冷たく告げる。「別れよう」信夫の笑みは瞬時にして凍り付いた。彼は私の手を離し、煙草に火をつけて、少し疲れたように言う。「俺は別れない」「じゃあ、彼女と縁を切って」信夫はじっと私を見つめ、長い沈黙のあとで口を開く。「詩織、正直に話すよ。俺が橙子と結婚しようと思ったのは、ただ意地みたいなものだ。五年前、あの女は金のことで俺を捨てた。それが
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第2話
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第3話
「すぐに結婚しよう」私は何も言わず、ただ呆然と彼を見つめる。彼の身体から漂う見知らぬ香水の匂い、襟元についた見覚えのない口紅の色――それは、別の女の痕跡だ。目を閉じると、ただ虚無感だけが胸に沈んでいく。それでも信夫は、私に盛大な結婚式を挙げ、母に私の幸せな花嫁姿を見せようと繰り返し口にしている。私は頭を傾けて車窓にもたれ、返事をする気力さえもなかった。その後の半月、私は感情を殺したまま結婚式の準備を進め、母の看病を口実に病院に泊まり込み、信夫との接触を極力避けた。彼は怒ることもなく、完璧に約束を果たした。橙子と別れて、私のために、最も華やかな結婚式を準備しようとしていた。彼は仕事まで断って、病院で私と一緒に夜を明かした。まるで理想的な婿のように振る舞っていた。母の顔色も少し良くなり、私の手を握りながら彼に言う。「信夫さん、詩織のことをよろしくお願いします。これで安心できますわ」信夫はその言葉に応えるように私の手を取り、指をしっかりと絡めて、真摯な眼差しで言う。「お義母さん、俺は一生、詩織を大切にします」母の真剣な眼差しを見て、私は目を伏せ、小さくうなずいた。けれど胸の奥は、水をたっぷり吸い込んだ海綿のように重く沈んでいた。すべては、何も変わらぬ日常のはずだった。異変が起きたのは、ある午後のこと。信夫が急用で会社に呼び出され、私はひとりで病室へ向かった。扉を押し開けると、母の世話をしていた介護士が別の人に替わっていた。その顔を見た瞬間、私は息を呑んだ。夢の中でさえ忘れられない顔だ。信夫の初恋、橙子。彼女はちょうど母と話していた。「……彼氏とは本気で愛し合っているんです。でも、別の女性が過去の恩を盾に、結婚を要求してきて……もう……」母はそれを聞きながら、顔に同情の色を浮かべた。私は扉のところで立ち尽くした。全身の血が一瞬で凍りつくかのようだ。「詩織、来たの?」母が私に気づき、微笑んだ。「夏目さん、本当に気の毒ね……でもあの子もね、好きでもないのに、無理やり二人の間に割り込むなんて。どうしてああいうことができるのかしらね」私は引きつった笑みを浮かべ、母の言葉を遮る。「お母さん、お粥を持ってきたの。さあ、ちょっと食べてみて」それから橙子のほうを振
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第4話
「信夫……私はただ、おばさまが一人で寂しそうだったから、少しお手伝いして、お話し相手になってあげようと思っただけなの……どうして佐藤さんがそんなに怒っているのかわからないわ。いきなり私を叩くなんて……」彼女はすすり泣きながら、周囲の同情を引いた。先程まで私に吐き捨てるように話していた時の、あの刺々しい態度とはまるで別人のようだ。「先ほど、彼女が何を言ったのか、聞いてよ!」私は怒りに震え、信夫の手を振り払おうとした。信夫は眉間に深い皺を寄せ、橙子の腫れた頬を見つめる。そして興奮している私に視線を移し、その瞳には失望と苛立ちが浮かんでいた。「橙子は好意でお義母さんを見舞いに来ただけだ。何か問題があるっていうのか?たとえ何か言われたとしても、手をあげるなんて絶対に許せることではない!詩織、お前、いつからそんなに理不尽な人間になった?少し気に入らないことがあると、すぐ暴力をふるうのか?」「私が……理不尽だって?」思わず笑い出しそうになった。涙が自然と込み上げてきた。「信夫、理不尽なのはあなただわ!二股をかけなければ、私があの女と揉めることなんてあると思う?」「もういい!」信夫は眉間を押さえ、うんざりしたように言う。「詩織、俺はちゃんと約束しただろう。結婚するって。それなのに、まだ騒ぐのか?そんなことして楽しいのか?」その言葉を聞いた瞬間、力が抜けていくのを感じた。楽しい?楽しくなんてないよ。顔を上げ、涙を無理やり押し戻す。「……いいわ。式にはちゃんと出席してね」かつて、私は信夫と結婚できることを心から願っていた。けれど今は、これがただの形で、むしろ幸運だと思う。芝居が終われば、幕が閉まるだけだ。結婚式の日、まぶしいほどの陽射しが降り注いだ。母は無理を承知で、私の式に立ち会ってくれた。「詩織、こうして自分の目であなたの花嫁姿を見られて、もう本当に心残りはないわ」涙をこらえながら、私は母を支えて席に案内した。「お母さん、そんな縁起でもないこと言わないで。絶対に長生きしてよ」母は微笑みながらうなずいた。そして、私と信夫の手をそっと重ね合わせた。司会者がステージで祝辞を述べた。信夫も私の手をしっかりと握り返してくれた。こうしてすべてが順調に進んでいた。
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第5話
母が倒れた時、周囲で一斉に悲鳴が上がった。私は駆け寄ると、母の手は氷のように冷たくなっている。その体は驚くほど軽く、まるで枯れ枝のようだ。彼女の後頭部を支える私の手だけが震えている。「救急車を呼んで!」と叫ぶ者もいれば、慌てて電話をかける者もいる。しかし、すべての音は厚いガラス越しのように遠く、かすかにしか感じられない。けれど、母の口元はほのかに笑っている。完全に意識を失う直前、最後に私を見たそのまなざしには怨みも責めもなく、ただ深い慈しみだけに満ちている。まるで「詩織、泣かないで」と言っているようだ。私はステージのそばに膝をつき、母を抱きしめる。母の手には、口紅の跡がついている。それは、出かける前にどうしても塗ってほしいと、母が頼んでいた口紅だ。「年を取ると顔色が悪くなるから、娘に恥をかかせるわけにはいかない」と笑いながら言っていた。「お母さんは、世界一きれいだよ」私がそう言うと、母は笑いながら、「口が上手ね」と、私をからかった。あれは二時間前のことだ。救急車が来た。担架も来た。人々は避難させられる。藤原家の人々が手伝いを申し出てくれたが、私は首を振り、一言も返さなかった。数時間に及ぶ救命処置の後、母はICUに運ばれていった。父は廊下に立っている。着ているのは、箪笥の奥に仕舞ってあった古いスーツ。一昨年の正月、母が「娘の結婚式用に」と言って買ってくれたものだ。彼は背を丸め、まるで十歳老けて見える。「……信夫は?」父がかすれた声で尋ねる。私は答えなかった。翌日の未明、母が他界された。直接の原因は、強い精神的ショックと、がんの転移に伴う多臓器不全だったと、医師から説明があった。長時間にわたる蘇生措置も及ばず、そのまま逝ってしまった。私は一晩中母のそばに付き添い、次第に冷たくなっていく手を握りしめながら、何度も何度も「ごめんね」と繰り返した。母にはもう、その声は届かないだろう。葬儀の日、信夫が姿を見せた。黒いスーツの彼は、式場の入口に立ち尽くしていた。参列者はまだ来ておらず、ひっそりとした葬儀式場の中では、私と父だけが待ち構えている。彼は祭壇前で焼香をすると、しばし合掌し、深く頭を垂れた。私は座布団の上で俯き、彼を見ないようにした。「……橙子はもう
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第6話
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第7話
けれど、彼は記憶を失ってなどいなかった。ただ、私のことを思い出したくなかっただけなのだ。荷物は、来たときと同じ、スーツケースが二つだけ。玄関棚に鍵を置き、その隣の腕時計の上にそっと重ねた。最後にドアを閉めた瞬間、ふと三年前のことが脳裏をよぎった。あの日は激しい雨が降っていて、彼は車の中にいた。窓が少しだけ下がり、疲れ切った半分の顔が見えた。「医者は、俺が記憶喪失だと言っている」と彼は言った。「お前は俺の恋人だと聞いたけど、思い出せない。本当にすまない」「大丈夫、私が覚えているから」と私は答えた。それが新しい始まりになると思っていた。けれど、あれがもう終わりだったのだ。実家へ帰る切符は夜八時の新幹線。七時にはすでに駅に着いた。二つのスーツケースを引きながら、待合室の椅子に腰を下ろし、ぼんやりと時間を過ごしている。構内の放送が何度も列車番号を告げ、人波が絶え間なく行き交っていた。帰路を急ぐ人もいれば、新たな旅へと踏み出す人もいる。けれど、私だけが、今向かっているのが帰路なのか新たな旅なのか、さっぱり分からない。スマホが長い間振動し続けて、やっとのことで通話ボタンを押した。信夫の声には、押し殺した怒りが込められている。「今どこ?家の鍵、どういうことだ?」私は静かに答える。「返したのよ」「えっ?どういうこと?」「もう、帰らないってこと」電話の向こうが、数秒ほど沈黙した。彼の声のトーンが、ほんの少し和らいだ。「詩織、お前がまだ怒ってるのはわかってるよ。でもよ、俺たちもう結婚したんだ。式は最後まで挙げられなかったけど、ちゃんと入籍した。法的な手続きも全部済んでる。お前は俺の妻なんだ。俺たちは家族なんだよ――」「信夫」彼の言葉を遮った。「婚姻届、提出しなかったわよ」彼は一瞬、呆然とした。「どういう意味だ?」「証人はあなたのお母さんが手配した人よ。司会もお母さんの段取りだった。彼女は本気で私たちを結婚させたかったし、私もその時は確かに同意していたわ」私は少し間を置いて言い続ける。「でも、私は署名していないの」電話の向こうで、何かが床に落ちる音が聞こえる。「橙子についてのあの会話を聞いた夜から、もう本気であなたと結婚するつもりなんてなかったの」「詩織……」
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第8話
別に焦ることもない。毎朝店を開け、夜に閉めて、花の世話をしながら、ゆったりと時を過ごす。父は時々店に顔を出しては、花に水をやり、あまり多くは語らない。冬になって、大雪が降った。花屋にはほとんど客が訪れず、私はレジカウンターの後ろで小説を読んで日々を過ごしている。扉が開き、風鈴の音がした。私は顔も上げずに言う。「いらっしゃいませ」足音が入ったところで止まった。顔を上げると、信夫が立っている。肩に雪を載せ、ずいぶん痩せ込んでいる。目の周りが窪んで、無精髭も生やしている。薄手の黒コートの下では、革靴は雪解け水に濡れている。まるで遠いところから走ってきたかのようだ。「……詩織」彼の声はかすれていて、まるで別人のようだ。私は何も言わなかった。彼はドアのところに立ち尽くし、それ以上一歩も前へ踏み出せないかのようだ。「この三ヶ月でな」彼は口を開いた。「全部、片付けたんだ。橙子はアメリカに戻った。会社の方はプロのマネージャーに任せた。京西市の家も売却した」彼はコートの内ポケットから一束の書類を取り出した。雪で端が濡れて滲んでいる。それを私の前に差し出す。「こちらが株式譲渡契約書。こちらの書類は、不動産の名義変更に関するもの。そして……これが、俺名義の全資産のリストだ」私はうつむいて一瞥した。レジカウンターの上には、客の予約した百合の花束が置いてある。まだ受け取りに来ていない。私はハサミを手に取り、枝葉を整え始める。「用事は?」彼は一瞬、言葉を詰まらせた。「……お前を探しに来たんだ」「もう見つけたし、帰っていいよ」「詩織……」「遅かったわよ」私はハサミを置き、ようやく顔を上げて彼を見つめる。「三ヶ月前、私が一番あなたを必要としていた時、あなたは病院で夏目のそばにいた。母が最期の数日を過ごしていた時、あなたは一度も見舞いに来なかった。葬儀の日でさえ、十分もいないうちに、夏目からかかってきた電話に三回も出た。この三年間、私は名分も立場もなくあなたのそばにいた。その間、あなたはずっと、初恋への復讐をどう果たすかばかり考えていたんでしょ?」私が一言発するたびに、信夫の顔色は少しずつ蒼白になっていった。「信夫、彼女がいないと生きていけないって言ったわね。じゃあ、私は?」
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第9話
「結局あなたは、記憶を失っていたあの時、誰かに世話をしてほしかっただけなのね。しかも、その記憶喪失は――演技だった」彼は口を開いたが、言葉は一つも出てこなかった。私は背を向け、レジカウンターへ戻り、ハサミを手に取って百合の花束の枝を整え始める。彼は長いこと立ち尽くしていた。窓の外の雪が細くなり、やがて止んだ。百合の花の手入れがすべて終わった。そして、花瓶に水を足し、花を生けた。「詩織」彼の声はかすかで、まるで夢を壊すのを恐れるようだ。「最後に、一つだけ聞いてもいい?」私は顔を上げなかった。「もし、時間を巻き戻せるとすれば……あの日、式場を立ち去らず、お前との結婚式を最後まで済ませていたなら……お前は、今も俺の妻でいてくれただろうか」ハサミが空中で止まった。いつの間にか窓の外の雪は止み、雲間からこぼれる陽光が窓辺に落ちていた。私はうつむいたまま、花を生け続ける。「ない」彼は去っていった。ドアの風鈴が、長く鳴り響いた。私は顔を上げようとしなかった。その足音が雪の上に消え、空の色が薄れていく間も、父が夕食に呼びに来るまで、ずっと俯いていた。父は何も聞かず、売れ残った花を奥の部屋へ運ぶのを手伝ってくれた。私はがらんとした店の真ん中に立ち、ガラスの扉に残る雪の跡が少しずつ溶けていくのを見つめている。ふと、母が最後に言った言葉を思い出した。結婚式のあの日、母は私の手を握りながら言った――「詩織、お母さんはね、あなたが幸せでいることだけを願っているの。もし、いつか辛いことがあったら……いつでも家においでね」私は額を冷たいガラス扉にそっと押し当て、小さくつぶやく。「お母さん、ただいま」翌年の春、花屋の商いはようやく軌道に乗り始めた。交差点にある「詩織花屋」は、町の人たちに広く知られている。若くて美しい店主は口数が少ないが、店に並ぶ花はどれも見事に手入れが行き届いている。ある日、客が尋ねた。「こんなに若いのに、どうしてこの町で花屋を?」私は答えた。「母と一緒にいたくて。去年、母が亡くなって…この店は、母の願いだったんです」客は少し黙り、やがて一番高価な薔薇の花束を買ってくれた。ある夕暮れ、一人の少女が店に訪れた。十五歳くらいだろうか。ポニーテールを揺らしなが
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