All Chapters of 我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

奈緒が病室を飛び出した瞬間、廊下にいた美紀とばったり出くわした。彼女はベビーシッターに車椅子を押してもらっていた。そして、美紀の腕の中では、裕弥が甲高い声を上げて胸が張り裂けそうなほど、泣きじゃくっているのだった。そこで、奈緒の姿を見ると、美紀の目にパッと光が宿った。まるで救いの神にでも会ったかのように、すぐにベビーシッターを急かし、奈緒の目の前まで車椅子を動かさせた。「奈緒さん、お願いします!裕弥に、おっぱいを少しだけ飲ませてあげてください!熱があるから私の母乳はあげられないし、ミルクも全然飲んでくれなくて……もう一晩中、泣き通しですよ!」美紀は今にも泣き出しそうな顔で、目の下には徹夜でできた濃いクマが浮かんでいた。奈緒は静かに彼女を見つめ、ゆっくりと口角を上げて嘲笑った。「いいわよ。じゃあ個室に行こう。人が多いと授乳しづらいし」美紀はぱっと顔を輝かせ、待ちきれないとばかりに腕の中の裕弥を奈緒に押し付けた。「奈緒さん、本当に優しいですね!それじゃあ、裕弥をよろしくお願いします!」奈緒は腕の中でぷくぷくと太った裕弥を一瞥した。この子が、本来なら黎のものだったはずの愛情をすべて奪ってしまったのだと思うと、胸に複雑な思いが渦巻いた。そして、彼女は裕弥を抱いたまま、くるりと自分の病室の方へ向き直った。その声は氷のように冷たかった。「美紀、あなたはこちらへ。他の人は、みんな出て行って」美紀は素直に「うん」と頷いた。蛍は、奈緒が何をしようとしているのかを察した。すぐに香織に目配せして黎を抱いて後を追わせると、さっとドアを閉めた。一方、奈緒の腕に抱かれた裕弥は泣き続けて、声はすっかり枯れてしまっている。とても可哀想に見えた。しかし、奈緒は無表情のまま、一向に服をまくり上げようとしなかった。それを見かねた美紀はいてもたってもいられなくなり、慌てて催促した。「奈緒さん、何をためらっていますか?早くおっぱいをあげて、裕弥がこんなに泣いているじゃない!」それでも奈緒は、ぴくりとも動かなかった。美紀は、さらに焦ったように叫んだ。「うちの裕弥は、みんなの宝物なんですよ!栗原家だけじゃなくて、青木家も、私の実家の佐野家も、みんなが目に入れても痛くないくらい可愛がっていますから。彼に何かあったら、絶対にあなたを許し
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第12話

それからも、充の決断力と責任感の強さに、奈緒は何度も救われた。この5年間、奈緒は心から充のそばにいて、彼を愛し、支え、尊敬してきた。充は奈緒にとって、世界の全てだった。でも今、血も涙もない真実が目の前に突きつけられた瞬間、奈緒はようやく理解した。自分が信じていた充の責任感というのも、彼の意地を張った結果だったなんて。彼は自分のことが好きだったわけじゃない。ただ、感情の拠り所として自分を利用していただけだった。そう思って、奈緒はゆっくりとまぶたを上げ、かすれた声で言った。「つまり、彼はあなたのことが好きで、あなたが別の人と結婚したから、その腹いせに私と結婚したってこと?」心の中ではもう答えは出ていた。それでも奈緒は、もう一度確かめたかった。すると、美紀は口元に笑みを浮かべ、高慢かつ高飛車な口調で言った。「当たり前でしょう。小さい頃から、充さんは私のことをそれはもう大事にしてくれました。私が仁哉と入籍した日、彼は涙目で仁哉を脅しました。『美紀を大事にしろ。さもないとただじゃおかないから!』って」そこまで言って、美紀はそっとため息をついた。「残念ですね。私たちは血が繋がっていないとはいえ、一応従妹ということになっていますから。そうでなかったら、あなたみたいな女に……こんな幸運が転がり込んでくることなんて、なかったでしょう」奈緒は黙り込んだ。腕の中の裕弥は声が枯れるほど泣いているのに、美紀は気にも留めない様子だった。それどころか、その目には得意げな色と嘲りが浮かんでいた。こんな女が、建築業界の二人の大物を夢中にさせているなんて。奈緒は、自分の捧げたこの5年という月日を、ますます虚しく感じていた。すると、彼女は思わず鼻で笑った。「どうやら、あなたが本当に好きなのは充の方みたいね。仁哉さんと結婚したのも、ただの意地っ張りだったんじゃない?」美紀はうつむいて、手首にはめられた真珠のブレスレットをじっと見つめた。奈緒の目はごまかせない。それは3ヶ月前、充がクローゼットにしまっていたものだと、すぐに分かった。充の服を整理している時にそれを見つけた奈緒は、自分へのプレゼントだと思って、そっと元に戻しておいたのだ。この数ヶ月、彼がいつサプライズでプレゼントしてくれるかと心待ちにしていたのに、まさか……
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第13話

そう言われ、美紀は表情をこわばらせ、甲高い声で叫んだ。「なんだって?なんて卑怯なの!すぐに消して!今すぐ!」さっきまでの弱々しさはどこへやら。彼女は突然襲いかかって、奈緒の手からスマホを奪い取ろうとした。そしてその可憐な顔は、傲慢に歪んでいた。「あなたが私に敵うはずなんてないわよ!仁哉は私を愛してるし、充さんなんて私がいないとダメなの!あなたなんかに、私をどうにかできると思ってるの?思いあがらないで!それに、私は佐野家のお嬢様なのよ。実の娘じゃなくても関係ない。両親には、私しか娘はいないんだから!私を怒らせるってことは、これらの名家を敵に回すってことよ!あなたの母は、ただの高級クラブのママでしょ?どうせ助けてもくれないわ。よく考えて!」だが、美紀は奈緒の胸ぐらを掴んだ。その目線は鋭く悪意に満ちていた。「裕弥の世話係になるのが嫌なら、この深津市から出て!3日以内に、充さんに頼んで、あなたとの離婚を成立させてやるから!これはあなたにとってチャンスなんだから、蔑ろにしないでよね。早く、スマホを渡して!」彼女は、声をひそめて言った。だが、奈緒はちらりと視線を上げると、あざけるように言った。「美紀。ずいぶん偉そうね」仁哉がいて、充もいて、佐野家まで味方してくれる。だからこんなに強気なのね。そう言われ、美紀は奈緒を見下し、勝ち誇ったように笑った。「私には、それだけの後ろ盾があるってことです。でもあなたは?あなたの母は深津中のセレブから後ろ指をさされる、高級クラブのママ。あなただって、青木家に嫁いだけど、誰からも認められていないじゃない!結婚式も挙げてもらえなかったんでしょ?」他の侮辱ならまだしも、「高級クラブのママ」という言葉は、奈緒の堪忍袋の緒をぷっつりと切った。そして美紀が反応するよりも早く、奈緒は行動に出ていた。奈緒は泣き疲れた裕弥をベッドに寝かすと、そのまま美紀の髪を掴み、床に引きずり倒した。奈緒は美紀に馬乗りになると、力の限り平手打ちを食らわせながら叫んだ。「私のことは何て言ったっていい!でも、母のことをバカにするのは許さない!母は泥棒もしてないし、誰も騙してない!自分の力で稼いできたの!あなたが言う、家族に頼って何不自由なく育ったセレブなんかより、よっぽど立派だわ!確かに、私には盛大
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第14話

奈緒はぶつけた腰を押さえ、ぶるぶると震えながらも、嘲笑うかのように唇の端を上げた。彼女は無意識に前に進もうとしたが、少し歩いただけで、体はぐらりと揺れて、目の前がくらっとしてそのまま倒れてしまった…………一方、充は美紀を病室まで送った。まもなく、翠が、栄養満点のスープを手にお見舞いにやってきた。部屋に入るなり、翠はにこやかに言った。「美紀ちゃん、体調はどう?使用人に特製の栄養ある食事を用意させたのよ……あら!その顔どうしたの?そんなに腫れちゃって!」翠はすぐに、美紀の顔に残る真っ赤な手の跡に気がついた。彼女はとても驚いて、駆け寄ると美紀の顔を両手で包み込み、心配そうにのぞきこんだ。「これ、叩かれたんでしょ?誰がやったの?教えてちょうだい、私が味方になってあげるから!」一方、美紀はやっと涙が止まったところだったが、その言葉を聞いてまたすすり泣きを始めた。「翠さん……」そう言いながら、彼女は悲しげに充を見つめた。その目を見ただけで、翠はすぐにすべてを察した。翠は振り返ると、鋭い目つきで充を睨みつけた。「奈緒がやったんでしょ?」充は反射的にごまかそうとした。「母さん、それは……」「もうわかってるわよ!」翠は冷たく話を遮った。「奈緒は裕弥くんの出産祝いで大騒ぎしたじゃない。それに水鏡ヶ丘に戻ったら今度は家を燃やしてしまうところだったし。あの女以外に誰がいるっていうのよ!やきもちで癇癪を起こすのも大概にしてほしいわ!美紀ちゃんはあなたの従妹で、仁哉の妻なのよ!いったい何がそんなに気に障るのかしら!」翠はもともと奈緒を気に入っていなかった。だから、今は怒りでどうにかなりそうだった。一方、美紀は鼻をすすり、小さな声でむせび泣いた。「翠さん、私は熱があって、裕弥に母乳をあげられなかったんです。それで、ただ奈緒さんに助けてもらおうと思って……そうしたら、殴られただけじゃなくて、そのうえ……」翠の顔がこわばった。「そのうえ、何があったの?美紀ちゃん、早く言って。私がなんとかしてあげるから!」美紀は、今にも泣き出しそうな悲痛な表情を浮かべた。「彼女は私の服を無理やり引っ張って、恥知らずって罵ったんです。それに……わざと私の声を録音したりしてるから……もしかしたら、私の声を使って悪い噂を流すつも
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第15話

昔の奈緒なら、充からの電話はどんな時でも、着信音が3回鳴る前に必ず出ていた。しかし今回は一度鳴っただけで、受話器の向こうからは機械的な音声が流れてきた。「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか……」呼び出し音の直後にこのアナウンスが流れるということは、十中八九着信拒否されているということだ。翠は瞬時にして怒りで震え出した。「充!見てみなさいよ!奈緒は一体どういうつもりなの?よくも私の電話を着信拒否したわね。今どこにいるの?絶対に見つけ出して、痛い目を見せてやるから!」「翠さん、怒らないでください。奈緒さんは出産したばかりで産後うつなのかもしれません。じゃないと、私を十数回も平手打ちにするなんてしないはずです」それを聞いて、翠は目を見開いた。「なんだって?あなたを十数回も叩いただって?美紀ちゃん、今までこんなに大切に育ててきて、一度だって傷つけたことがないのに。あの女、よくもそんなことできたわね!」美紀は鼻をすすり、悲しそうな声を出した。「いいんです。何と言っても彼女は充の奥さんですから」それを聞いて、堪忍袋の緒が切れた翠は、ついに病室で発狂しそうになった。「あなたがそう思ってても、あの女はそう思ってないわよ!本当に許せない!充、あんな女のどこがいいの?離婚して!」だが、充は威圧的な視線を向け、冷たい声で言い放った。「母さん、もういい加減にしてくれ」充と目を合わせた翠は、喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。彼女の夫は青木グループの代表だが、グループの真の実権を握っているのは充だ。だから、たとえ自分が母親であっても、充の前で軽はずみな振る舞いはできない。翠は腫れ上がった美紀の顔を見て、不憫な思いと怒りでいっぱいだった。「充、あなた今回ばかりは美紀ちゃんのためにあの女を謝らせないと。じゃないと、私たちも佐野家や栗原家に顔向けができないわ」だが、充は翠を冷ややかな目で見下ろした。その視線には凄まじい威圧感があった。すると、翠は途端に黙り込んだ。一方、充は電話を受けると、凍りついたような空気のまま病室を出て行った。病室の中では、翠が冷やしたタオルで美紀の顔を冷やしていた。「美紀ちゃん、つらい思いをさせたわね。でも、このことは絶対にご両親や仁哉には言っちゃダメよ」美紀は翠
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第16話

蛍は微妙な空気を察して、うなずいた。「分かった。ドアの外にいるから、何かあったらいつでも呼んで」蛍は部屋を出て、そっとドアを閉めた。すると、翠は冷たく鼻を鳴らした。「青木さん?ずいぶんな言い方をしてくれるじゃないの。よくも私にそんな風に口をきけるようになったわね?」奈緒は冷たい目で翠を見つめ返した。この5年間、どんなに彼女に気に入られようと努力しても、いつも冷たくあしらわれた場面ばかりが頭に浮かぶ。以前の奈緒なら、翠にどんなに嫌われても、礼儀正しく「お母さん」と呼び、へりくだって彼女の要求をすべて受け入れていただろう。でも今は違う。女の子が生まれたと知った途端、翠が背を向けて帰ってしまった日のことを思い出すと……「お母さん」どころか、「翠さん」と呼ぶ気にもなれなかった。「お母さんなんて呼ばないでって、ずっと言ってたじゃないですか?いざ呼ばなくなったら、今度はそれがお気に召さないんですか?」そう言われ、翠は言葉を失った。彼女は数秒言葉に詰まり、さらに怒りを増した。「その口の利き方は何なの、奈緒!」だが、奈緒はそれ以上回りくどい会話はしたくなかったので、彼女を冷たく一瞥して言った。「さっきの録音、聞いたでしょう。美紀はまだ充に未練があるって、自分の口で認めていました。もし私がこの録音を公開したら、どうなるか分かりますよね?」翠はもともとこの件を問い詰めるために来たのだ。まさか、奈緒の方から逆に脅されるとは思ってもみなかった。彼女はとっさに反応できなかった。「ど、どうなるかなんて……もちろん分かってるわよ。でも、美紀ちゃんはただ勢い任せで言っただけよ。あの子と充はいとこ同士で、やましいことなんて何もないんだから……」奈緒は話を遮った。「やましいことがないなら、何をそんなに焦ってるんですか?」翠は絶句した。そしてすこし黙り込んだあと、彼女はまたすぐに逆ギレした。「焦ってなんかないわよ!ただ、あなたが何で要らない波風を立てるのかって怒ってるの!奈緒、充と美紀ちゃんの名誉を傷つけるなんて許さないわ!録音を渡して!さもないと、充にあなたと離婚させるから!」だが、奈緒は全く動じず、落ち着いた口調で言った。「離婚、ですか。その言葉、この5年間で100回は聞きました。今回は、お望み通り。
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第17話

目の前の女は黎の祖母なのに、その顔からは慈悲の欠片も見えず、ただ冷淡な計算が透けて見えた。奈緒は青木グループに嫁いで5年になるが、生活費はすべて彼女自身の稼ぎから賄っていた。結婚祝いとして充からもらったカードも、翌日にはすぐに翠に取り上げられたのだ。彼女はずっと奈緒を泥棒扱いし、青木家の財産を狙っていると疑ってかかっていた。今や、実の孫娘に対してさえ同じ態度をとっている。そう思って、奈緒は唇の端を曲げてあざ笑いを浮かべた。「話したいのは、まさにそのことですよ。離縁の話とは別に、娘が受け継ぐはずの権利は一歩たりとも引くつもりはないから。充の資産を考えれば、慰謝料として娘へ60億円を支払うように要求させてもらうのは当然じゃないですか?」それを聞いて、翠は怒りで椅子の背を強く叩き、目の前がクラクラするようだった。「60億円だと?よくもそんな図々しいことを……銀行強盗にでもなる気か?」「60億円でも少ないくらいかもしれないわね。青木グループは巨大資産をお持ちですから、商業ビルやオフィスをいくつか娘に譲渡してもらいたいくらいです」すると、翠は憤りで気を失いそうになって、声も震えていた。「寝言は寝てから言いなさい!私がいる限り、青木家から1円もかすめ取らせはしない!充に近づいた時から下心があると思っていたけれど、まんまと彼を騙したのね!とうとう化けの皮が剥がれたわね。奈緒、あなたは今日この日を待っていたのね!」翠は得意げに立ち上がり、スマホを高く掲げた。「録音していたのは自分だけだとでも思ったの?奈緒、今の言葉、しっかり記録させてもらったわよ!これを充に送って、あなたの正体を知らしめてやるわ!」翠はスマホを操作しながら、奈緒の反応を冷ややかに窺った。彼女が録音されたと知ればうろたえ、命乞いをしてくるだろうと期待したからだ。ところが期待は裏切られた。奈緒は眉ひとつ動かさなかった。病室で落ち着き払う彼女の、憔悴しつつも整った顔立ちには、モナリザのような意味深な笑みが浮かんでいるのだった。まるで、そんな証拠など恐れてもいないかのように。翠は不安を覚え、指を止めると鼻で笑った。「5分やるわ。今ここで録音を削除し、全てをなかったことにするか、それとも……全部充に送りつけて、あなたの目当てが最初
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第18話

そう思って、奈緒は突然、翠に詰め寄り、これまでにない鋭い眼差しを向けた。「怖いものなんてありません。どうせ離婚するのに、今さら気を使う必要もないでしょう?」彼女は嘲るように口元を歪めた。「充に言えばいいですよ。私が欲しかったのは、最初から彼のお金だけですから。娘も産んだんだから、私とこの子に払われるべきものは、きっちり全額請求させてもらいますから。本人が目の前にいたって、同じことを言ってやります」奈緒は冷たく笑うと、矢のような鋭い視線を翠に突き刺した。一方、翠はあまりのことに呆然としながら、信じがたい表情を浮かべて、奈緒を上から下まで眺めた。子供を産んだだけで、こんなに人が変わるなんて。こ、これが……本当に、今まで自分の前でペコペコしていた、あの奈緒なの?その頃、病室のドアの前に、すっと伸びた黒い人影が、静かにたたずんでいた。奈緒の言葉は、一言一句、すべて彼の耳に届いていた。その深い漆黒の瞳には、驚きがありありと浮かんでいた。もし自分の耳で聞いていなければ、今の言葉が奈緒の口から出たとは、到底信じられなかった。気高くて、つつましやかで、ブランド物や宝石にも全く興味を示さなかった、あの女が……どうしてこんなことを言うんだ?一体、奈緒に何があったんだ?充の胸には、次から次へと疑問符が浮かんでくるのだった。彼が呆然としていると、病室の中から、突然悲鳴が聞こえてきた。顔を上げると、翠が奈緒に平手打ちをしようとしていた。しかし奈緒は、その手首を掴んで力強く引き寄せたから、翠の頭がベッドの柱にぶつかりそうになった。それを見て、充は慌てて駆け寄り、翠をぐいと自分の後ろに引き寄せた。そして彼は奈緒に視線を向け、怒りを露わにしたが、その怒りも、彼女の凍てつくように冷たい瞳を目にした瞬間、すぐに掻き消されてしまった。「奈緒……」充は驚きのあまり、思わず奈緒の名前を呼んだ。「美紀の録音データは消さないわ。ネットにばらまかれたくなかったら、私の口座に10億円振り込んで。そうしたら消してあげる」そう言って、奈緒は、充をまっすぐに見つめ返した。その冷たい瞳は、少しも揺らいでいなかった。充は氷のような表情で、刺すような威圧感を込めた視線を投げかけた。「奈緒、いくらなんでも言い過ぎだぞ!」一方、翠はすぐ
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第19話

それを聞いて翠は口元に微かな笑みを浮かべながら、わざとらしく充の肩を叩いた。「充、言葉を選んで。病院なんだから、人目につくような真似は控えて」そう言い放つと、彼女は奈緒を冷ややかな目でひと睨みし、優雅に病室を出て行った。そして、病室には静寂が広がった。翠との言い合いの際、奈緒が点滴をしている手に力が入り、針がずれて腫れ上がってしまった。それでも彼女は痛みを感じていないようだった。そして今、奈緒は視線を落としたまま、充のことを見ようとはしないでいた。あんなに命を懸けて愛していたはずなのに。今はもう、心の中には冷めた感情しか残っていない。かつての情熱は、二度と戻らないのだ。一方、奈緒の腫れた点滴痕に気づいた充は、眉をひそめてベッドサイドに座った。そして彼女の氷のように冷たい手を握り、ずれた針を直し、テープを貼り直した。それから、傷口にそっと息を吹きかけて、優しい声でこう言った。「痛いだろう。相変わらずうっかりしているな。点滴中くらい気をつけろ」いつもそうだ。彼はいつも怒っているのだろうと思えば、不意に優しさを見せてくるから、こっちの気持ちのぶつかり所がなくなってしまうのだ。そう思って、奈緒は反射的に手を引き、体を後ろにのけぞらせて距離をとった。「言いたいことがあるなら、さっさと言って。そういうの、いらないから」充は溜息をつき、静かな声で言葉を継いだ。「奈緒、俺たちは夫婦だろう。娘も産まれたばかりだというのに、どうしてそんなによそよそしい態度を取るんだ?」すると、奈緒は顔を上げ、彼が持つ深淵のような瞳を見つめた。かつては溺れるほど愛していたその優しさも、今では何も感じないように思えた。「こうなったのは私のせいじゃないわ。もう今さら、何も話すことはないの」充は呆れたように笑った。「夫婦喧嘩なんてよくあることだろう?どうして事態をここまで複雑にするんだ?簡単な問題を難しく考えすぎだよ」突然、彼が腕を伸ばし、無理やり奈緒を抱き寄せた。「わかったよ。10億円だろう?あとで経理に伝えて給与口座に振り込ませるから。もうこれで終わりにしてくれないか?これ以上、面倒な真似はしないでくれ」充は穏やかな口調で話し、その声は低く響きがよかった。かつての奈緒は、そんな充の成熟して頼りがいのある、甘やか
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第20話

数秒の沈黙の後、充はやっと我に返った。彼の穏やかな声は、急に焦りを帯びたものになった。「だめだ。俺の娘なのに、どうしてお前の苗字を名乗らせるんだ?」奈緒は鼻で笑うと、荒れ狂っていた感情が、逆にすーっと落ち着いていくのを感じた。「自分の娘だってこと、一応わかってはいるのね?裕弥くんは、もう何度も抱っこしてるんでしょ?でも黎は?生まれてから今まで、たった一度しかあなたに会ってない。そんな彼女が鬱陶しいわけ?彼女には父親はいないの?」そこまで言うと、奈緒は鼻の奥がツンとした。泣きたくないのに、涙が勝手にあふれてくるのだった。自分のことだったら、どんなに辛くても絶対に泣かなかった。逆にどうやって解決するか、を考えるだけだった。でも、ほんの少しでも娘が辛い思いをしていると思うと、もう耐えられない。胸が張り裂けそうになるのだ。だって、30歳で、命懸けで産んだ大切な、たった一人の大事な娘だもの。そんな娘が実の父親からこんな冷たい仕打ちを受けていると思うと、心がかきむしられるようだった。「違うんだ、俺は……」そう言って、充は数秒間呆然としていた。いつも冷静な彼の顔に、どうしていいか分からないという表情が浮かんだ。この時になって初めて、充は娘と奈緒をあまりにもないがしろにしすぎていたことに、ようやく気がついた。名前……いや、娘の名前はちゃんと考えていた。何日も、特別な思いを込めて、本をめくって考えていたはずだ。なかなか決められなかったのは、誰とも違う、特別な名前をつけてあげたかったからだ。「話を聞いてくれ、奈緒」充は少しずつ冷静さを取り戻すと、一歩前に出て奈緒の手を握った。「娘の名前は考えていた。ただ、まだ最終的に決めてなかっただけだ。娘を大事に思っていないわけじゃない。黎なんて名前はやめよう。なんだか縁起が悪い。俺たちの最初の子なんだから、もちろん俺の苗字を名乗るべきだろ?」そう言って充の声は再度優しく響き、彼は根気よく彼女をなだめた。そして奈緒が抵抗しないのを見ると、充は改めて彼女を強く抱きしめた。「約束する。今日中に出生届を出そう。出産祝いはちゃんとできなかったけど、百日祝いの日は盛大にやろう。深津市中の名士を招待して、娘のために、みんなが驚くくらい盛大で楽しいパーティーを開いてやる。それでいい
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