LOGIN「青木家の理想の妻」として5年間を過ごしてきた青木奈緒(あおき なお)は娘の出産祝いのパーティーの日にようやく気が付いたのだった。 夫の青木充(あおき みつる)は、初恋の人にはありったけの愛を捧げてきた。なのに、自分にだけは「物分かりのいい、自立した妻」であることを求めているのだ。 だから、奈緒は耐えかねて周囲を顧みず叫んだ。「離婚よ!この5年間、もう我慢の限界!」 だが充は冷たく笑うだけ。「お前もつまらない女になったもんだ。何かあればすぐに離婚だなんて」 しかし奈緒が本当に姿を消したとき、充は初めて彼女なしでは、何もかもうまくいかない、平穏の暮らしが崩壊したことに気づくのだ。 3年後、国際会議で再会した奈緒は、世界的な建築家として、会場の視線を独り占めしていた。 すると充は人々の注目の中ひざまずいてやり直したいと懇願するのだったが、奈緒は、隣にいる男性に寄り添い、微笑んでそばを通り過ぎていった。 やがて充の元に一通の豪華な招待状が届く。封を切ると、そこには純白のドレスをまとった奈緒が、彼の親友の腕に寄り添って幸せそうに微笑む「前撮り」のフォトカードが添えられていた。 それを目にした充は涙で目を真っ赤にしながら式場に乗り込む。だが、そこで奈緒に淡々と一言告げられるだけだった。 「充、物分かりのいい妻を演じるのには、もう疲れたの。これからは、自分のために生きていくわ」
View More電話をかけてきた相手は佳乃だった。奈緒はそのまま電話に出る。「もしもし」耳に飛び込んできたのは、相変わらず甲高く高圧的な声だった。「今どこにいるの?庄野グループと提携の話をしたいんでしょ?父にはもう話を通して、潮咲市の時雨庵で待ってるから、早く来なさい」佳乃は相変わらず、有無を言わせない、完全な命令口調。そして、奈緒の返事すら待たず、佳乃は彼女が必ず来ると決めつけたように一方的に電話を切った。車内が静かだったこともあり、仁哉にも会話はほとんど聞こえていた。彼は自然と奈緒に視線を向けた。「庄野さん?」奈緒は頷いた。「うん。あの口ぶりだと、もう庄野社長を説得したみたいだから、私が来るのを待ち構えてるんだと思う」仁哉は軽く微笑んだ。「じゃあ行ってみようか。どんな罠を用意して待ってるのか、見せてもらおう」奈緒も同じことを考えていた。「うん。仁哉さんが一緒なら、どこだって怖くない」あまりにも自然に口から出た言葉だった。ここ最近、奈緒はいつの間にか仁哉を一番信頼できるパートナーとして頼るようになっていた。しかし、そう言ってから、はっとする。今の言い方、ちょっと変だったかな?だから、仁哉が何か言うより先に、奈緒は慌てて付け足した。「今のは仕事でってことで、ほかに変な意味はないから。仁哉さん、勘違いしないでよ」仁哉の目に笑みが浮かぶ。「もう誤解しちゃったんだけど、どうしよう?」奈緒の顔が一気に赤くなった。返す言葉も見つからず、仁哉の顔を見ることさえできない。このところ仁哉が目にしてきた奈緒は、決断が早く、行動力があり、相手が誰であろうと一歩も引かない女性だった。だが近くで接するほど、その内面は意外なほど慎重で、控えめなところがあると分かってきた。特に人との距離感には敏感だった。まだ書類上は既婚者である以上、仁哉との間にも無意識に一線を引き、自分なりのけじめを守っている。仁哉は赤くなった奈緒を数秒見つめた。普段との落差があまりにも可愛くて、つい少しだけ困らせたくなる。声をわずかに落とした。「一つだけ、ちょっと子どもっぽいこと聞いてもいい?」「何?」「充と離婚したあと、もしまた誰かと恋愛する気になったら、僕に一番に立候補する権利をくれないかな?」この質問は……奈緒
一つの恋が、最後の最後でここまで惨めな形になるということが、どれほど苦しいか仁哉にも想像できた。仁哉自身、美紀を愛していたわけではないが、それでも離婚と裏切りは深い傷を残した。今でも夜、一人になると心が乱れることがある。まして奈緒は本気で充を愛し、何もかも捧げていたのだ。仁哉は溜息をついた。奈緒が目を閉じているのを見て、後部座席から柔らかなブランケットを取り、そっと身体に掛ける。いつの間にか、奈緒は眠っていた。ただ、頭を預ける場所がうまく定まらないらしく、何度か無意識に姿勢を変え、そのたびに眉間へ皺を寄せている。仁哉は車を路肩へ寄せて停めた。そして右手を伸ばし、奈緒の頭をそっと支える。安定した場所を見つけた途端、奈緒の眉間からすっと力が抜けた。眠ったまま、ほんのりと笑みまで浮かべるその表情には、幼い頃の無邪気で愛らしい面影が残っていた。仁哉は思わず携帯を取り出し、奈緒の寝顔をそっと一枚だけ撮った。そして、その写真をギルへ送る。【見て。寝顔は今でも子どもの頃と変わらなくて可愛い】ギルからはほとんど間を置かずに返事が来た。【惚れた?】仁哉は少し固まり、【……】とだけ返信をする。するとすぐに、今度は音声メッセージが届いた。「最近、A国の金融市場が不安定だろ。でも、国内のほうは投資先として悪くなさそうだから、向こうに置いてる資金を少しずつ戻そうと思ってる。何か面白そうな案件があったら探しておいてくれ」仁哉は少し考え、文字を打った。【総事業費が数千億円を超えるリゾート開発プロジェクトは?】「悪くない」仁哉は口元を緩め、隣で眠る奈緒へ目を向けた。頭の中で、一つの考えがはっきりと形になっていく。【了解。詳しく決まったら連絡する】……甘いものを食べたせいか、それとも最近の疲れが溜まっていたのか、奈緒は1時間ほどぐっすり眠った。目を覚まして初めて、自分が仁哉の腕を枕にしていたことに気づく。一気に顔が熱くなり、慌てて身体を起こした。「えっ、私ずっと仁哉さんの腕で寝てたの?ご、ごめん……痛くなかった?」仁哉は慌てる奈緒を見て笑った。「かなり痺れてる。肩も結構きつい」奈緒は気まずそうにぺろりと舌を出す。「どうしよう……」仁哉は眉を上げ、冗談めかして言う。「もう動かないから、揉んでくれる?
充の顔が一気に険しくなった。「……」奈緒はそんな充をまっすぐ見つめる。「引き延ばすのが好きなんでしょ?だったら付き合ってあげるから、どっちが先に根を上げるか、最後までやってみようよ。充、あなたが400億円の借金を作るなら、私は800億円作ってもいい。どっちが最後に相手を巻き込むか、勝負しよう。だって、あなたに向ける情けは、もう全部使い果たしたから」それだけ告げると、奈緒は席を立ち、そのまま店を出ていった。充は呆然と取り残された。奈緒の言葉の意味が分かったような、分からないような……頭の中では耳鳴りが続き、胸には言いようのない息苦しさが広がっていく。仁哉もすぐに立ち上がった。店を出る直前、一度だけ足を止めて充を振り返る。何か言いかけたものの、結局は小さく首を振っただけで、そのまま外へ出た。もう仁哉でさえ、充に何を言っても無駄だと思っていた。まして奈緒なら、なおさらだった。奈緒は振り返ることなく、足早に店を離れた。あと少しでもこの場所にいたら、息ができなくなってしまう気がする。仁哉は奈緒に追いつくと、先回りして助手席のドアを開けた。奈緒が腰をかがめて乗り込む時には、とても自然な流れで、彼女が頭をぶつけないように、ドアの上へ手を添えた。車はいつの間にか遠隔でエンジンがかけられていたらしい。車内に満ちた冷房の涼しさが、奈緒の中に残っていた熱を少しずつ冷ましていく。奈緒は柔らかなシートへ深く身体を沈め、長く息を吐いた。仁哉も乗り込むと、車載冷蔵庫から小さなマンゴームースを取り出して奈緒へ差し出した。「気分が落ちてるときは、甘いものを食べると少し楽になるよ」奈緒は少し呆気に取られ、驚いた顔で仁哉を見つめる。「仁哉さんって、マジシャン?」仁哉は笑い、優しく奈緒の頭を撫でた。「ギルの代わりに面倒を見てるって思ってくれればいいから。ギルはしょっちゅう電話してきて、君がどうしてるかって僕に聞くんだ。だから、ちゃんと面倒見てないと、あとで僕が怒られるだろ?」仁哉は、またしても奈緒が断りにくい、もっともらしい理由をつけてくる。奈緒はムースを受け取り、一口すくって口へ運んだ。甘さが舌に広がり、そのまま全身に染み渡っていく。さっきまで胸の中に残っていた冷たいものが、少しずつ溶けていくようだっ
奈緒は、まるで夫婦の間になんのしがらみもなかったかのように、とても穏やかな雰囲気で充に話しかけた。充は明らかに戸惑った。なぜ急に奈緒の態度がここまで柔らかくなったのか、まるで分からない。そんな彼女の態度に、どうしたらいいのか分からなくなった充は、数秒ほど黙り込み、ゆっくりと口を開く。「両方教えてくれ」奈緒は微笑んだ。「じゃあ、まずいい知らせからね。黎の白血病って診断、あれは誤診だったの。実際は類白血病反応。病気ではあるけど治るもので、今はもうほとんど回復してる」その言葉を聞いた瞬間、充の心は激しく高鳴り、自然と声が大きくなった。「奈緒、本当か?黎はもう大丈夫なのか?それは本当によかった!」骨髄の適合検査をどう奈緒に説明するか、ずっと頭を悩ませていたところだったから、黎が白血病でなかったことは嬉しい知らせに他ならない。だが、充の口元に笑みが浮かんだのも束の間、奈緒はバッグから分厚い請求書の束を取り出し、目の前へ差し出した。「これ、黎が入院してから今までにかかった費用。それと、海外から専門医を呼んだ分も入ってるから。うちの家族がずっと付き添って面倒を見てたんだから、費用はあなたが出してね。薬は全部最高ランクの輸入品。病室も医療体制も一番いいものにしたので合計で1億5608万6000円だから、四捨五入して1億6000万円送金しておいて」充の笑顔はそのまま固まっていた。とはいえ、考えてみれば当然の話ではある。充はすぐに携帯を取り出し、何も言わず奈緒の口座へ送金した。「父親として当然だ。黎が無事ならそれでいいからな」振り込みを終えると、すぐ本題へ戻る。「送金したぞ。それで、離婚の話は……」「離婚は別に急がなくていいよ」奈緒は平然と遮った。「黎のここ数か月分の生活費もあとでまとめなきゃいけないし、これまで水鏡ヶ丘で私が負担してきたものも全部整理しておくから、きちんと払っておいてよね」静かにそう言い終えると、ゆっくりと立ち上がった奈緒。その穏やかな笑顔がかえって充には不気味に見えた。「まあ、こんなのは小さいものだけど。一番大事なのは……私、これからいくつか大きな投資をする予定なの。今日、あなたが教えてくれて本当によかった。私、今までちょっと優しすぎたみたいだから。だって、何年もあなたと結婚していて
「充、今日で赤ちゃんが産まれてから1ヶ月経つの。私たちを迎えに来てくれない?」青木奈緒(あおき なお)は、おくるみに包まれた娘を抱きながら、期待を押し殺した落ち着いた声で言った。しかし電話の向こう、夫の青木充(あおき みつる)は感情の起伏がなく、平坦な声で言った。「すまない、急に予定が入った。運転手にお前たちを迎えに行かせるよ」出産も、産後の大事な時期も、充はずっと仕事で忙しいと言ってそばにいなかった。今日は赤ちゃんと一緒に産後ケアの施設から帰る、記念すべき日なのに、やっぱり彼は来てくれない。奈緒は切なくなったが、それでもこぼれ落ちそうになる涙を必死にこらえた。「…
一方、荒れ果てたリビングを眺めながら、充は力なくソファに腰掛け、タバコに火をつけ、胸が締め付けられるように苦しかった。「井上、俺は奈緒に優しくしてこなかったかな?あそこまで怒ることないだろう?」恵は、床を掃きながら、そっと声をかけた。「旦那様は奥様にとてもよくしてらっしゃいますよ。ご結婚されてから5年、お二人が言い争うのを見たことがありません。ですが、子供を産んだ後の女性は気持ちが不安定になりやすいんです。産後うつにもなりやすいですし、旦那様の支えがもっと必要なんですよ」充は眉をひそめた。「産後うつだって言うのか?でも、他の女は子供を産んだって、こんなに変わったりしない。今
それから、蛍は奈緒が傷つくのを心配して、充から返信ひとつないことは、結局言い出せなかった。そして、奈緒が退院するまで、充は結局、姿を見せなかった。退院後、二人は黎と香織を連れて、碧瀾郷へと引っ越した。そこは、奈緒が半年前に入手した、リノベーション済みのマンションの一室だった。蛍の家はその真向かいの部屋で、隣同士に住むのは大学時代からの二人の夢だったのだ。だから半年前、蛍の向かいの部屋が売りに出されたと聞いて、奈緒は迷わず購入した。部屋には家具や家電が揃っていたが、まだどこか殺風景だった。蛍はすぐに自分の家から布団やポットなどの日用品を運んできた。奈緒は買い物リストを
「産後の回復がかなり遅れていますね。出産時に出血が多かったですし、低血糖で倒れやすい状態です。しっかり栄養をとって、気持ちをあまり高ぶらせないようにしてください」診察が終わっても、奈緒はまだ眠ったままだった。医師は病室で蛍に病状を説明した。隣で聞いていた香織が、ため息をついた。「奥様は産後の肥立ちが悪くて……最初の2週間はお乳が張って痛くて食事が喉を通らなかったんです。その後は赤ちゃんが夜泣き続きで……それでも奥様は自分で母乳をあげていたから、夜もまとまって眠れていませんでした。昼間は仕事もしていて、体が回復する暇もなかったんですよ」それを聞いて、蛍は怒り心頭になりそうだった。
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