LOGIN「青木家の理想の妻」として5年間を過ごしてきた青木奈緒(あおき なお)は娘の出産祝いのパーティーの日にようやく気が付いたのだった。 夫の青木充(あおき みつる)は、初恋の人にはありったけの愛を捧げてきた。なのに、自分にだけは「物分かりのいい、自立した妻」であることを求めているのだ。 だから、奈緒は耐えかねて周囲を顧みず叫んだ。「離婚よ!この5年間、もう我慢の限界!」 だが充は冷たく笑うだけ。「お前もつまらない女になったもんだ。何かあればすぐに離婚だなんて」 しかし奈緒が本当に姿を消したとき、充は初めて彼女なしでは、何もかもうまくいかない、平穏の暮らしが崩壊したことに気づくのだ。 3年後、国際会議で再会した奈緒は、世界的な建築家として、会場の視線を独り占めしていた。 すると充は人々の注目の中ひざまずいてやり直したいと懇願するのだったが、奈緒は、隣にいる男性に寄り添い、微笑んでそばを通り過ぎていった。 やがて充の元に一通の豪華な招待状が届く。封を切ると、そこには純白のドレスをまとった奈緒が、彼の親友の腕に寄り添って幸せそうに微笑む「前撮り」のフォトカードが添えられていた。 それを目にした充は涙で目を真っ赤にしながら式場に乗り込む。だが、そこで奈緒に淡々と一言告げられるだけだった。 「充、物分かりのいい妻を演じるのには、もう疲れたの。これからは、自分のために生きていくわ」
View More奈緒はその場で固まった。頭が完全に停止し、数秒ほど経ってからようやく声が出る。「えっ?仁哉さん、栗原課長とは……」仁哉は意味ありげに微笑むと、すぐそばの宗時の肩へ気安く腕を回した。まるで親しい友人を紹介するような軽い調子だった。「紹介するよ。この人は栗原宗時、文化財課の課長で、骨董品や古建築の専門家、書道家……あと、常盤グループの実質的なオーナーでもある。そして、僕の父」仁哉が矢継ぎ早に並べる肩書きに、奈緒はめまいがしそうだった。極めつけの「僕の父」という言葉は青天の霹靂で、自分の耳を疑う。「この馬鹿息子が!セイフウさんの前で、そんな取るに足らない肩書きを並べてどうする!」宗時はわざと厳しい顔を作り、仁哉の後頭部をぱしんと叩いた。仁哉は素早く頭を押さえ、大げさに叫ぶ。「父さん、頭は叩くなよ。馬鹿になったらどうするんだ」宗時は目を見開き、今度は仁哉の腕を叩こうとした。「セイフウさんの前で親に向かってその口の利き方は何だ!しつけがなっていないなら、今からでも叩き直してやる!」仁哉はひらりと身をかわす。そのまま宗時の腕の下をくぐり抜け、手首を逆に取った。力の流れを利用して宗時を押し引きすると、流れるような動きで、60歳近い宗時をあっさり脇へ転がした。あまりの展開に、奈緒は言葉を失った。これは本当に親子なのだろうか?それとも……昔からの宿敵?仁哉と父親の関係は、想像以上に砕けたもので、そして妙に荒々しい。仁哉は得意そうに鼻を擦り、少年のような屈託のない笑みを浮かべる。「父さん、もう認めたら?今じゃ僕には勝てないよ。今日は腕を怪我して力が入らないからこれで済んだけど、本調子ならもっと派手に転がってたからね」宗時も怒る様子はなく、笑いながら服の埃を払って立ち上がった。「この親不孝者め!覚えてろよ。家に帰ったら母さんにたっぷり叱ってもらうからな!」隣では妙子がすでに腹を抱えるほど笑っていた。どうやらこの賑やかな親子のやり取りは、いつものことらしい。妙子は笑いながら手を振った。「はいはい、二人とも文化財課の前で大騒ぎして。人に見られたら笑われるわよ。仁哉、ここはあなたのお父さんの職場なんだから、少しは顔を立ててあげなさい。奈緒ちゃん、この二人は放っておいて、うちで夕食を食べましょう」
奈緒は会場を見渡し、落ち着いた声で続けた。「この構造の目的は、単純に塔を支えることではなく、『力の流れを導く』ことです。塔身にかかる応力を改めて分散させる。たとえるなら、猫背の人の骨を折って直すのではなく、矯正具を装着して正しい姿勢へ導くようなものですね。職人の方々がこの案に沿って施工すれば、風鳴塔を再生させることは十分可能です」奈緒が説明を終えると、会場は水を打ったように静まり返った。宗時をはじめ、その場にいた専門家たちは、まるで神業でも目の当たりにしたかのような眼差しで奈緒を見つめていた。人々の中に静かに座り、彼女から目を離せずにいた仁哉。まるで一筋の光が奈緒だけを照らしているかのようで、その姿はきらきらと輝き、普段とはまた違う、唯一無二の魅力を放っている。奈緒の美しさは外見などではない。魂の奥から自然にあふれ出す光こそが、彼女の本当の美しさだった。まるで原石のように、最初は目立たなくとも、知れば知るほど希少で、特別な存在になっていく。そして、次第に目を離せなくなり――ますます心が惹かれていくのだ。「権威ある専門誌で連載を持ち、鋭い論調から『建築界の裁判官』と呼ばれているセイフウさんは、てっきりもっと年配の方かと思っていましたが、まさか……こんなにお若い方だとは!」「そう言えば、2年前に私が古塔を修復していた際、オンラインで意見をもらったことがあります。あの時いただいた助言も、今日と同じように目から鱗が落ちるものでした。自分の未熟さを思い知らされましたよ」「まさに後生畏るべしだな。私たちは人生の半分以上を研究に費やしてきたというのに、こんな若い女性に及ばないとは……」「……」会場のあちこちから、感嘆と称賛の声が上がる。プライドから納得できない者が少しは残っていたものの、奈緒の提案が専門的で実行可能なのは明らかだった。議論が止まらない様子を見て、宗時は採決を促した。奈緒の意見を採用して修復を試すか?それとも建て替えるか?最終的に、国宝級の古建築を守ることに人生を捧げてきた専門家たちは、満場一致で奈緒の案を採用することに決めた。その後も、奈緒の提案を基にして細部の調整と修正が続けられた。ようやく会議が終わった時には、すでに夕方の5時を回っていた。奈緒と仁哉が妙子と共に会議室を出ようとしたとき、宗時が
風鳴塔は800年ほど前に作られてから、幾度の修復を経てその姿をとどめてきた。しかし、先の大雨が原因で限界を迎えてしまい、塔は激しく傾き、中心を支える柱が腐食して、倒壊寸前の状態だった。第一回の専門家会議では、全員一致で「修復不可能」という結論が出されている。現地で解体し、新たに建て直すしかない――それが専門家たちの総意だった。だが、妙子だけが強く反論し、再度の審議を求めたため、今回は国内の古建築修復の第一人者たちが一堂に会していた。奈緒と仁哉は妙子を挟むように左右に座る。ほどなくして会議が始まった。スクリーンには最新の調査映像が映し出され、損傷箇所が細部まで映されていく。専門家たちが口を揃えて出した結論は一つだった。骨組みが腐り切っているため、もはや修復は不可能。それを聞いた文化財課の課長・栗原宗時(くりはら むねじ)は、苦しげに妙子を見た。「墨谷会長……安全面を考えるなら、やはり解体して建て直すしかありません。もう限界でしょう」その時、妙子の傍らから、涼やかで力強い声が上がった。「栗原課長、皆さん、私はその結論を出すのは、まだ早すぎるかと思います。風鳴塔は壊さずとも、修復できます」そう言ったのは奈緒だった。仁哉は思わず彼女を見つめる。奈緒は会議中、ずっと静かに話を聞きながらペンを走らせていた。仁哉が何度か横目で覗き見ると、奈緒が描いているのは、風鳴塔の精巧な構造図だった。そんな彼女が今、専門家全員の結論を真っ向から覆した。国内でも権威とされる古建築学の大家が顔を真っ赤にして怒鳴る。「何も知らんくせに大口を叩くな!我々は古建築を何十年も研究してきた。社会に出たばかりの若造が、我々以上だとでも言うのか?」他の専門家たちも次々と奈緒を笑った。宗時も困り果てたように溜息をつく。「申し訳ありませんが、建設的な意見がないなら、会議の進行を妨げないでください」そこで妙子が手を上げ、ゆっくりと立ち上がり、会場を見渡した。「若い人を侮ってはいけません。頭の柔らかさでは、皆さんより優れていることだってあるんです」妙子は隣に座る奈緒を指した。「彼女こそ、これまで数々の古建築修復で決定的な助言をしてきた人物――セイフウです。栗原課長、その名前には聞き覚えがあるんじゃないでしょうか?」「
優秀な女性ほど、結婚すると家庭という現実に足を取られ、自分の歩みを遅らせてしまう。それでも、奈緒はあきらめずに建築の仕事を続けていた。それは、妙子にとって何より嬉しいことだった。妙子は朗らかに笑う。「もう大丈夫よ。あれはちょっとした事故だっただけだから、少し静養すれば十分だったの。実はもう全国を飛び回ってるのよ。家族が心配するから、まだ療養所にいるって嘘をついてるだけ。だから奈緒ちゃんが来なくて正解。来ても私はそこにはいなかったから。明日午後の2時、私のオフィスに来て。奈緒ちゃんの意見をぜひ聞かせてほしいの」奈緒は二つ返事で答えた。「はい。では明日また」電話を切ったあと、奈緒は先日の旧市街での出来事を思い出した。割れてしまった湯飲みは修復師に頼んで直してもらったものの、元通りとはいかなかった。早く妙子に話したかったけれど、どこから説明すればいいか分からなかった。妙子にはきちんと謝りたいと思っていたのだが、仁哉と知り合った経緯そのものが偶然の連続で、何から話せばいいのか分からなかったのだ。翌日の午後2時。奈緒が時間通りに妙子のオフィスを訪ねると、そこには、仁哉と妙子が並んで立っていた。妙子は奈緒の記憶のままの姿だった。真っ白な髪をきっちり後ろでまとめ、流行に左右されない白いブラウスに黒いパンツ姿。背筋はまっすぐ伸び、その佇まいは歳月を重ねてもなお力強く凛としている。一方、仁哉はライトグレーのポロシャツにカーキ色のスラックスというシンプルな装い。顔にはまだ殴られた痣が残っていたが、それでも彼特有の品の良さと端正な雰囲気は少しも損なわれていなかった。奈緒と仁哉はそれぞれ用事があると言って、さっきヤジン・デザインから別々に出たはずだ。それが30分後、こんなところで再会するとは思わなかった。互いの顔に、同じ驚きが浮かぶ。先に口を開いたのは仁哉で、その顔には隠しきれない喜びが広がった。「つまり、祖母が言ってた『古建築修復の天才』って、奈緒さんだったってこと?」奈緒も目を輝かせる。「まさか、仁哉さんもこの分野に興味あったの?現代建築だけでも十分すごいのに、古建築まで?」仁哉は慌てて手を振る。「いや、僕はむしろこの分野が苦手なんだ。だから勉強しようと思って来たんだよ。帰国してから古建築修
一方、奈緒は会場を出るとアクセルを踏み込み、二人の新居である水鏡ヶ丘の家へと車を走らせた。そして、ドアを開けると、昔からいる使用人の井上恵(いのうえ めぐみ)と、奈緒が雇ったベビーシッターの黒崎香織(くろさき かおり)が、一緒になって赤ちゃんをあやしていた。二人は、奈緒の顔が真っ青なのを見て、ぎょっとした。「奥様、どうかなさいましたか?」そう言われ奈緒は、なんとか笑顔を作って答えた。「なんでもないの。お腹が空いちゃって。温かいうどんかなんかを作ってくれる?」そして、香織から赤ちゃんを受け取ると、奈緒の荒れ果てた心は、そのあどけない寝顔を見てようやく落ち着きを取り戻した。
パーティー会場のなか。奈緒は、充から目を離さずにいた。彼は上機嫌な様子で、グラスを片手に美紀を連れて、各テーブルに挨拶回りしている。「仁哉は今、大事な仕事で海外なんだ。戻ってくるのに1年はかかりそうだから、今日は、彼の代わりに、俺が皆の相手をするよ。それに美紀は産後でまだ本調子じゃないし、お酒とかは控えた方がいいだろうから、彼女の分も、俺が飲むよ」……一方、それを聞いた奈緒は、口にしたオレンジジュースが、やけに冷たく、苦く感じた。そして、その冷たさは胸の奥まで、染み渡っていくようだ。二人は長年一緒に仕事をしてきたが、どんな付き合いの場でも、充は彼女のことを酒豪だと言って
「充、今日で赤ちゃんが産まれてから1ヶ月経つの。私たちを迎えに来てくれない?」青木奈緒(あおき なお)は、おくるみに包まれた娘を抱きながら、期待を押し殺した落ち着いた声で言った。しかし電話の向こう、夫の青木充(あおき みつる)は感情の起伏がなく、平坦な声で言った。「すまない、急に予定が入った。運転手にお前たちを迎えに行かせるよ」出産も、産後の大事な時期も、充はずっと仕事で忙しいと言ってそばにいなかった。今日は赤ちゃんと一緒に産後ケアの施設から帰る、記念すべき日なのに、やっぱり彼は来てくれない。奈緒は切なくなったが、それでもこぼれ落ちそうになる涙を必死にこらえた。「…
一方、荒れ果てたリビングを眺めながら、充は力なくソファに腰掛け、タバコに火をつけ、胸が締め付けられるように苦しかった。「井上、俺は奈緒に優しくしてこなかったかな?あそこまで怒ることないだろう?」恵は、床を掃きながら、そっと声をかけた。「旦那様は奥様にとてもよくしてらっしゃいますよ。ご結婚されてから5年、お二人が言い争うのを見たことがありません。ですが、子供を産んだ後の女性は気持ちが不安定になりやすいんです。産後うつにもなりやすいですし、旦那様の支えがもっと必要なんですよ」充は眉をひそめた。「産後うつだって言うのか?でも、他の女は子供を産んだって、こんなに変わったりしない。今
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