All Chapters of 我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚: Chapter 541 - Chapter 550

553 Chapters

第541話

奈緒はそのまま一気に車へ駆け込み、ドアを閉めた。その瞬間、こみ上げてくる感情を抑えきれず、奈緒は必死に顔を上げる。窓の外から強い日差しが差し込み、まぶしいほど真っ直ぐ顔を照らしていた。頭の中はぐちゃぐちゃで、胸が塞がり、息がしづらい。こんな感覚がたまらなく嫌だった。奈緒は何度も深く息を吸い、この感情に呑まれまいとした。これから先、充のことで一秒だって傷つかないと、もう決めたのだ。何度か呼吸を繰り返し、ようやく少し落ち着いてきた頃、コンコン、と車の窓が軽く叩かれた。奈緒が視線を上げると、潤んだ瞳の先に仁哉の顔が見えた。次の瞬間、助手席のドアが開き、ほのかなウッディ系の香りと外の陽射しの気配をまとった仁哉が乗り込んでくる。「大丈夫?ごめん。さっき取引先に囲まれてて、ようやく抜けて君を探しに行ったら、ちょうど外へ出ていくところが見えたから」仁哉の目が奈緒の顔に止まり、その瞳には隠しきれない心配が滲んでいた。奈緒の唇から、自嘲めいた笑みが零れる。「さっき、充に何を言われたと思う?」仁哉は穏やかな声で、慎重に尋ねる。「何だった?」奈緒の目から光が薄れた。「個人名義で借金が400億円あるんだって。だから庄野グループとの仕事は、絶対に手放せないって言われたの」仁哉の表情が一気に険しくなる。「そんなのおかしい。よほど意図的に資産を動かしてない限り、そんな状態にはならないから」奈緒は薄く笑う。「でしょ?結局、最初から私は他人だったってことなんだよ。結婚したときからずっと、あの人は私に予防線を張ってた。青木家だって同じ。なのに私の前ではずっと愛してるみたいな顔をしてたなんて、本当……馬鹿みたいだよね」仁哉の手に力が入る。「つまり……離婚するなら君に借金まで背負わせるつもりってことか?」その瞬間、奈緒の目に鋭い光が宿った。「でもね、そんなもので私を脅せると思わないでほしい。向こうがそこまでやるなら、私だって容赦しないもの。もう青木家に逃げ道を残すつもりはないよ。私が持ってる青木グループの証拠……全部、出すつもりだから」奈緒は携帯を取り出し、真司に電話をかける。「坂本さん、前に送った青木グループの本当の財務資料、覚えてる?あれ、今すぐ国税局に提出してほしいの」その頃、真司はち
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第542話

奈緒はいつから、青木グループの脱税を裏づける本当の財務資料なんて持っていた?そんなはずはない。まさか奈緒は、まだ自分を心から愛していた頃から、いつかのために逃げ道を用意していたのか?充は足元がふらついた。真夏の日差しが照りつける中、頭の中がぐらぐらと揺れる。そして次の瞬間、また意識を失いその場に倒れ込んだのだった。……仁哉が奈緒を連れてきたのは、思いきり身体を動かしてストレスを発散できる施設だった。二人は動きやすい服に着替え、大きなサンドバッグの前に立つ。すると、仁哉が奈緒にグローブを渡し、サンドバッグを指した。「これを充だと思って、好きなだけ殴ればいいし、言いたいことも全部言えばいい。溜め込むより、そのほうがずっといいから」奈緒は何でもないような顔で答える。「別に発散することなんてないよ。今、何も感じてないし」けれど仁哉の目は、そんな強がりを見透かしているようで、声をやわらげる。「奈緒、僕の前では無理しなくていい。どんな顔してても、どんな気持ちでも、そのままでいいんだ。君が隠そうとしても僕にはだいたい分かるから。この部屋は防音もしっかりしてるし、どれだけ叫んでも外には聞こえない。僕は出ていくから、今日は思いきり吐き出して」奈緒は固まっていた。今、奈緒って呼ばれた?いつもの「奈緒さん」じゃなくて?耳の奥が一気に熱くなる。しかし、そんな奈緒を残し、仁哉はそのまま部屋を出て、静かにドアを閉めた。奈緒は手の中のグローブをぎゅっと握った。乱れていた呼吸が、少しずつ落ち着いていく。自分の中にはもう辛い気持ちなどなく、何をされてももうどうでもいいと思えているつもりだった。けれどグローブをつけ、思いきりサンドバッグを殴った瞬間、抑え込んでいたものが一気に押し寄せてきた。目の前にあるのが本当に充であるかのように、奈緒は何度も拳を叩き込む。叫びながら、サンドバッグを殴り続けた。ずっと胸の奥に押し込めてきた感情。あの頃、飲み込まれてしまいそうだった苦しさ、出産後に先の見えない暗闇の中で過ごした日々、ここまで一人で踏ん張ってきた苦労、悔しさ、悲しさ……全部を拳に込めて、目の前のサンドバッグへ叩きつけていく。堪えてきた涙が、堰を切ったように次々と溢れ出してきた。誰にも言えなかった本音も、初め
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第543話

奈緒は心からの感謝を伝えた。「こういう発散の仕方、悪くないかも。仁哉さん、ありがとう」仁哉は速くなりそうな呼吸を懸命に抑えながら、奈緒の肩を軽く叩いた。二人はほんの少しだけ抱き合い、すぐに自然と離れる。仁哉は腫れた奈緒の目を見ても何も言わなかったが、代わりにポケットから、小さな目薬を取り出して渡す。「これ、目の疲れとか乾燥に結構効くから」奈緒は受け取りながら、少し不思議そうに仁哉を見た。「なんでそんなの持ってるの?まさか、私がこうなるって分かってた?」ここまで細かく気を配ってもらったことなど、今まで一度もなかった。しかし、仁哉は答えずただ笑っただけ。そして軽く奈緒の鼻先を指でなぞると、そのまま自然に肩へ腕を回す。「2時間も泣いたら、お腹も空くんじゃないか?この近くにすき焼きの店があるから、行ってみようか」奈緒は、驚きで目を見開いた。ちょうど最近、動画で話題のすき焼き店を見て、ずっと食べたいと思っていたところだった。どうして仁哉には分かるのだ?まるで自分のことなど全部お見通しみたいだ。本気で、携帯でも覗かれているんじゃないかと思えてくる。しばらく迷った末、奈緒はやはり聞いてしまった。「ねえ、仁哉さん。ちょっと変なこと聞いてもいい?」「何?」「私の携帯の暗証番号、知ってたりする?こっそり中を見たことがあるとか……じゃないと、どうしてそんなに……」そこまで言って、奈緒は口をつぐんだ。さすがに失礼な聞き方だったかもしれないし、全部ただの偶然で、自分が考えすぎているだけなのかもしれないのに。そもそも奈緒は、こんなふうに相手の言動を深読みするほうではなかった。しかし、仁哉は先回りするように笑った。「どうしてそんなに君のことが分かるのか、って?」奈緒は思わず頬が熱くなり、小さく頷く。「携帯を勝手に見たことなんてないし、暗証番号も知らないよ。ただ、君のことをちゃんと見てるだけ」その言葉に、奈緒はまた充を思い出した。「でも私、充と5年も一緒にいたのに。あの人、私がすき焼きが好きなことすら知らなかった」仁哉は穏やかに答える。「僕、君のインスタをフォローしてるんだ。そうしたら、この前話題の店を紹介してる動画をストーリーに載せてたから、好きなのかなって思って。ちょうど潮咲市にも同じ店
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第544話

奈緒は誰よりも分かっていた。自分の心はもう傷だらけで、誰かから優しくされることさえ怖い。なぜなら、恋愛なんてものは、もう自分の中ではとっくに死んでいるのだから。奈緒はその一線を越えるようなことは何も言わなかった。むしろ話題から逃げるように俯き、目の前の料理をひたすら食べ始めた。仁哉はしばらく待っていた。奈緒が何を聞こうとしていたのか、だいたい分かっていたし、答えも心の中では用意していた。けれど奈緒は結局何も聞かず、急に食事へ逃げ込んだ。まるで何年も何も食べていなかった動物のような勢いだった。だから仁哉も何も追及せず、ただ奈緒の好きそうなものを黙って取り分け、そっと器へ入れてやった。……奈緒と仁哉が抱き合っている写真が、誰かの手で充の携帯へ送られてきた。充はまた倒れていた。原因は低血糖と睡眠不足。病院のベッドで点滴を受けながら、ストレス発散施設の前で、奈緒が仁哉の胸に飛び込んでいる写真をじっと見つめる充の目に、冷たい影が落ちた。だから今、奈緒は自分を徹底的に追い詰めようとしているのか?仁哉を好きになったことが理由?充は怒りで拳を握りしめ、そのままベッドへ強く叩きつけた。そばに立ちながら黙ってその様子を見ていた渉は、息を潜めるようにして、先ほど水を入れたばかりのポットを手に取る。もう一度お湯を汲みに行こうとしたそのとき、背後から充の冷え切った声が飛んできた。「宮本、奈緒が前に会社で働いてた頃、会社の本当の帳簿を見たことはあるか?」渉は足を止めた。嫌な予感を覚えながら答える。「あります。当時、社長が手を回せない部分を奥様が確認していましたが……覚えてないんですか?」充は唖然とした。顔からみるみる血の気が引いていく。だとしたら、奈緒は脅しで言っていたわけではなく、本当に自分を潰せるだけの証拠を握っているのか?冷たい汗が一気に噴き出した。もう点滴など受けている場合ではない。充は乱暴に針を抜き、そのままベッドから降りた。渉が慌てて充を押さえる。「社長、まだ休んでてください。何度も倒れてるんですから、一度ちゃんと検査したほうが……」しかし、充は聞く耳を持たなかった。靴を履いて、そのまま病室を飛び出す。「社長、どこに行くんですか!待ってください、運転は私が……」慌てて追いかけた渉はど
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第545話

奈緒と蘭は黎のベビーカーを押し、宗時と琴葉を見送るところだった。仁哉が駐車場に車を取りに行っている間、4人はそのまま入り口で喋りながら待つ。ここ数日ずっと一緒にいたぶん、いざ離れるとなると宗時も琴葉も名残惜しそうだった。特に琴葉は目に涙まで浮かべ、我慢できずに黎をベビーカーから抱き上げると、ぎゅっと抱きしめ、頬を寄せた。そして、縋るような視線を蘭に向ける。「私、本当にこの子が可愛くて仕方ないの。ねえ蘭、もう少しここに残って、黎ちゃんと一緒にいちゃ駄目?」蘭はきっぱり首を振った。「駄目よ。ここまで何日も付き合ってもらっただけでも十分すぎるくらいなんだから、これ以上、時間を取らせるわけにはいかないわ。それに、琴葉はもともと身体も強いほうじゃないでしょ?栗原課長だって今は少し仕事を減らしてるとはいえ、まだいろいろ抱えてるんだから。二人には二人の生活があるのに、いつまでも甘えられないもの折れない蘭に、琴葉は溜め息をついた。「蘭ってば、本当に他人行儀なんだから。私は本気で黎ちゃんが好きなの。それに、もう勝手に孫だと思ってるし、おばあちゃんが孫の面倒を何日か多く見るくらい、何が悪いのよ?こっちは好きでやってるのに」「……」二人がそんなふうに、どちらが黎の面倒を見るかで言い合っている。そばで聞いていた奈緒は、思わず笑ってしまった。それに、呆れるより、嬉しい気持ちのほうがずっと大きい。今や黎は、両家の完全なアイドルだった。宗時と琴葉が可愛がるのはもちろんだが、蘭までここまで甘くなるとは奈緒も思っていなかった。奈緒とギルが子どもの頃、蘭はかなり厳しい母親だった。なのに今は、黎が一度笑いかけるだけで、蘭はもう全部許してしまいそうな顔になる。世界中のものを買ってあげそうな勢いだ。奈緒は笑いながら言った。「琴葉さん、お母さん、もうそのへんで。黎が退院したら、そのときは琴葉さんがうちに泊まりに来てください。部屋なら余ってるので、お母さんに一部屋用意してもらいますよ」琴葉は奈緒の手を握った。「じゃあ決まりね。私たちも家に帰ったら、3部屋くらい空けておくわ。奈緒ちゃんたちがいつでも黎ちゃんを連れて泊まりに来られるように」奈緒は笑った。そして琴葉の耳元へ顔を寄せ、小声で言う。「お願いしますね。なんたって、私たちは『
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第546話

さっき目にした、まるで本当の家族のような光景が、充の胸を容赦なく締め付けていた。こんな短期間に、奈緒は仁哉といつも行動を共にするようになっただけでなく、栗原家ともすっかり家族同然の関係になっている。このまま時が流れれば、黎がもう少し大きくなったとき、父親である自分の存在など忘れ、本気で仁哉が父親だと思い込んでしまうかもしれない。想像しただけで、充は奥歯を噛みしめた。それでも表面上は、どうにか平静を保つ。「お義母さん。奈緒と話さなければならないことがあるから、警備の人に言って、俺たちを中へ入れてもらえないか?」蘭は露骨に嫌そうな顔をした。「お義母さんなんて呼ばないでくれる?あんたにそう呼ばれる筋合いなんてないから。奈緒があんたと話すことなんて離婚以外に何もないんだから、ほかの用なら帰って」身に覚えのない容疑で拘束された一件以来、蘭は充だけでなく、青木家の人間そのものに嫌悪感を抱くようになっていた。だから、もう充の顔を立てる気など一切ない。充は拳を強く握った。目がわずかに暗くなったものの、怒りを見せることなく答える。「わかった。じゃあ、離婚の話をする」蘭は冷たい目を充に向け、そのまま奈緒に視線を移した。奈緒はその意図を察し、静かに口を開く。「お母さん、黎を連れて先に戻ってて。私もすぐ戻るから」蘭は迷わなかった。ベビーカーを押し、そのまま病院の中へ戻っていく。充は黎が遠ざかっていくのを黙って見つめていた。娘はすぐそこにいるのに、たった一枚の扉に阻まれて、顔を見ることすらできない。黎の姿が完全に見えなくなるまで目で追い、ようやく寂しげに視線を戻した。だが奈緒の心は少しも動かなかった。今の充の言動など、もう何一つ信用していない。奈緒は冷たく充を見据える。「それで?何の用?」充は人の出入りが絶えない病院の入口を見回した。さらに、奈緒との間には2メートルほどの距離があり、しかも自動ドアで隔てられている。充は困ったように言った。「奈緒、場所を変えないか?俺、まだ昼飯も食べてないから、何か食べながら話そう。この近くに、うまいすき焼きの店があるんだ。前にお前、俺と一緒に食べに行きたいって何度も言ってただろ。だから……」ここへ来る途中、その店の前を通った時、まだ奈緒が黎を妊娠する前、彼女から何
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第547話

充が振り向くと、ちょうど仁哉がカリナンから降りてくるところだった。充は数秒何も言えなかったが、やがて顔を険しくする。「またお前か、仁哉。毎日毎日、コバエみたいに人の妻に付き纏いやがって」充の顔は恐ろしいほどに暗く沈み、敵意を隠そうともしない。「私から見れば、しつこくまとわりついてるのはあなたのほうだけどね」仁哉が答えるより早く、奈緒が冷たく言い返した。「奈緒!こいつの何が俺よりいいんだ?」「全部」奈緒が迷いなく言い切ったその一言が、何発もの平手打ちのように充を打ちのめす。奈緒の真っ直ぐな言葉に、隣で聞いていた仁哉の口元がわずかに緩んだ。充は何も言わなかったが、次の瞬間、彼の瞳は獲物を喰らう獣のように光り、殺意で埋め尽くされた。とりわけ、仁哉が当然の顔をしてエントランスに入り、奈緒の隣に歩み寄る光景が、自分を追い返す警備員たちの冷酷さと対照的で、余計に鼻についたのだ。その屈辱に、充の中でどうにか抑えていたものが切れた。狂ったように警備員を振り切り、強引にフェンスを飛び越えて奈緒の元へ走り寄った。奈緒は反射的に後ずさる。その瞬間、腰に力強い腕が回った。充の手が触れるよりも早く、奈緒の体は仁哉の大きな腕に包まれ、そのまま強靭で頼もしい胸元へと引き寄せられた。頭の上から冷静で、とても澄んだ声が聞こえてくる。「充、許可もなく勝手に入ってきて、何をするつもりだ?」奈緒の腕を掴もうとした充の手は、むなしく空を切った。目の前で、仁哉が堂々と奈緒を抱きしめ、自分の腕の中に庇っている。その光景に、充は頭に血が上った。「お前……一体どういうつもりだ?これは俺と奈緒、夫婦の問題だ。関係ない人間が首を突っ込むな!」充はそう吐き捨て、再び奈緒に手を伸ばそうとした。だが、かつては自分だけを見ていた奈緒が、今は迷いなく仁哉のそばにいる。それに、二人の身体は近く、奈緒にも離れようとする様子はなかった。「充。話したいなら仁哉さんにも同席してもらう。それが嫌ならもう話はしない。あなたに付き合って、いつまでも押し問答する暇はないから」奈緒は静かに言い切ると、仁哉と一緒に立ち去ろうとした。あの夜、監視カメラ越しに充と渉の電話を聞いて以来、奈緒は充に対する警戒を一段と強めていたため、たとえ離婚の話で
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第548話

充は二人の後を追い、後部座席のドアを開けた。こんな形で仁哉の車に乗ることに、屈辱を感じないわけがない。だが今の自分に選択肢はなかったため、充は感情を押し殺し、後部座席へ乗り込む。車内には何とも言えない空気が流れていた。運転席には仁哉、助手席には奈緒。そして、スピーカーから流れているのは、昔からよく知られた男女デュエットのラブソング。奈緒は車内の乾燥している空気に少し喉を刺激されたのか、軽く咳をした。すると仁哉はすぐに収納スペースからペットボトルを取り出し、奈緒へ差し出す。「ここ数日、喉の調子が悪そうだっただろ?これ、はちみつレモン。飲んでおくと少し楽になると思うよ」奈緒は受け取り、ボトルに触れた瞬間驚いた。「わっ、まだ温かい」「うん。さっき父さんたちを送ったときに買っておいた」仁哉の口調はごく自然だった。奈緒は蓋を開け、少しずつ飲み始める。後部座席に座っていた充の表情は、完全に固まっていた。目の前の二人の間にある、ごく自然な気遣いと息の合った空気……それを見ているだけで、胸の中がざわついて仕方がない。つい、嫌味が口をついた。「はちみつレモンなんて、奈緒が昔はよく俺に作ってくれたな。それだけ俺のことが好きだったってことだろうけど」仁哉は穏やかな声で返した。「いい男なら、大切な女性にそこまで世話を焼かせないと思うけどな。そう考えると、君はあまりいい夫じゃなかったみたいだね」「……少なくとも、女に手料理を作ってもらったこともない奴よりはましだろ」「僕が飲みたいって言えば、奈緒なら作ってくれると思うよ。ね、奈緒?」奈緒も仁哉に答える。「もちろん。でも、もう二度と作ってもらえない人もいるけどね」「でも僕なら、奈緒にそんな面倒なことはさせないよ。その手はもっと大事なことに使ってほしいから。料理やスープ作りは、家の人に任せればいい」充はもう何も言えなかった。二人の息の合ったやり取りを聞いているだけで苛立つ。何のためにこの車に乗ったのか……自分から惨めな思いをしに来ただけではないか!奈緒は振り返らなかったものの、背後から漂ってくる重苦しい空気や、充が今にも怒りを爆発させそうなことを嫌でも感じていた。仁哉は近くのカフェへ車を走らせた。車が止まるなり、充は険しい顔でドアを開け、真っ先に降
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第549話

ついに充が離婚に同意した。その言葉を聞いた瞬間、奈緒の胸に熱いものが走ったが、すぐに冷静さを取り戻し、いつものように皮肉を込めて言う。「それで?今度は何が条件なの?」「庄野グループとの提携から手を引くことと、青木グループに不利な証拠を全部処分すること。それができるなら、離婚の手続きをする」奈緒はしばらく黙ってから、相手の瞳を見つめた。「本当?」「ああ。もちろん、ほかの条件は今まで通りだ。前に話した追加条件も含めてな」奈緒は一瞬、言葉を失った。次の瞬間、立ち上がるとテーブルのコーヒーを掴み、そのまま充へ向かって浴びせる。「よくそんなことが言えるわね!」だが前回コーヒーを浴びた経験が生きたのか、充が素早く身をかわしたため、コーヒーは充にかからず、後ろの壁へ派手に飛び散った。本気で理解できないという顔をする充。「離婚したいんだろ?だから、俺は応じるって言ってるじゃないか。それの何が不満なんだ?」充からすれば、奈緒があれほど離婚を急ぐ理由など一つしかない。それは、仁哉と堂々と一緒になるため。だから離婚に応じると言っている時点で、十分譲歩しているつもりなのだ。奈緒は充を見つめ、笑った。それは、皮肉以外の何ものでもない笑みだった。「満足よ。もちろん……これ以上ないくらい満足してる」「……なら、明日の朝、役所で待ち合わせるか?」奈緒は答えずに、刃物のように冷たい目でただ充を見ていた。彼女が黙ったままだったので、充はさらに続ける。「そんなに待てないなら、今日でもいい。今から行けば、今日中の手続きに間に合うだろ」奈緒はふっと笑った。皮肉の色がますます濃くなる。「ううん……気が変わった」その言葉で、充だけではなく、仁哉まで黙り込んだ。二人の視線が同時に奈緒へ向く。二人の男の瞳には緊張が走っていた。充には、奈緒の言う「気が変わった」の意味が分からない。一方の仁哉には何となく察しがついた。止めたい気持ちはあったが、自分が口を挟むべきことではない。そう思うと何も言えず、内心で気を揉むしかなかった。奈緒は口元をわずかに上げた。「私、急に……離婚したくなくなった」言葉を失う充。仁哉の表情も固まった。奈緒の言葉を聞いた途端、充は目の前が暗くなり、声がひどくかすれた。「奈緒
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第550話

奈緒は、まるで夫婦の間になんのしがらみもなかったかのように、とても穏やかな雰囲気で充に話しかけた。充は明らかに戸惑った。なぜ急に奈緒の態度がここまで柔らかくなったのか、まるで分からない。そんな彼女の態度に、どうしたらいいのか分からなくなった充は、数秒ほど黙り込み、ゆっくりと口を開く。「両方教えてくれ」奈緒は微笑んだ。「じゃあ、まずいい知らせからね。黎の白血病って診断、あれは誤診だったの。実際は類白血病反応。病気ではあるけど治るもので、今はもうほとんど回復してる」その言葉を聞いた瞬間、充の心は激しく高鳴り、自然と声が大きくなった。「奈緒、本当か?黎はもう大丈夫なのか?それは本当によかった!」骨髄の適合検査をどう奈緒に説明するか、ずっと頭を悩ませていたところだったから、黎が白血病でなかったことは嬉しい知らせに他ならない。だが、充の口元に笑みが浮かんだのも束の間、奈緒はバッグから分厚い請求書の束を取り出し、目の前へ差し出した。「これ、黎が入院してから今までにかかった費用。それと、海外から専門医を呼んだ分も入ってるから。うちの家族がずっと付き添って面倒を見てたんだから、費用はあなたが出してね。薬は全部最高ランクの輸入品。病室も医療体制も一番いいものにしたので合計で1億5608万6000円だから、四捨五入して1億6000万円送金しておいて」充の笑顔はそのまま固まっていた。とはいえ、考えてみれば当然の話ではある。充はすぐに携帯を取り出し、何も言わず奈緒の口座へ送金した。「父親として当然だ。黎が無事ならそれでいいからな」振り込みを終えると、すぐ本題へ戻る。「送金したぞ。それで、離婚の話は……」「離婚は別に急がなくていいよ」奈緒は平然と遮った。「黎のここ数か月分の生活費もあとでまとめなきゃいけないし、これまで水鏡ヶ丘で私が負担してきたものも全部整理しておくから、きちんと払っておいてよね」静かにそう言い終えると、ゆっくりと立ち上がった奈緒。その穏やかな笑顔がかえって充には不気味に見えた。「まあ、こんなのは小さいものだけど。一番大事なのは……私、これからいくつか大きな投資をする予定なの。今日、あなたが教えてくれて本当によかった。私、今までちょっと優しすぎたみたいだから。だって、何年もあなたと結婚していて
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