All Chapters of 我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚: Chapter 531 - Chapter 540

553 Chapters

第531話

ドアを開けると、すでに身支度を整え、仕立てのいいスーツを身につけた充が立っていた。昨夜の酒はすっかり抜けたらしく、いつもの落ち着きを取り戻している。「佳乃、もう用意させてあるから、下で朝食にしよう。食べ終わったら一緒に会社へ行って、提携の具体的な話を詰めたい。役員たちにも会議室で待つよう伝えてあるから」青木グループで失いかけている立場と信用を立て直すために、充にとって、庄野グループとの提携は今どうしても必要だった。そのため朝早くから渉へ連絡し、契約締結に向けた準備と、役員全員への招集を指示していた。さらに麟太郎にも、この話がまとまりそうだと報告している。麟太郎もそれを聞くと、久しぶりに声を和らげた。だが佳乃は、充を睨むように見上げた。「提携の話はまた今度にして。今日はそんな気分じゃないから行かない」そう言って彼女は眉をひそめ、怒気をはらんだ声で続けた。「それより、この家に隠しカメラが仕掛けられてないか、ちゃんと調べたほうがいいわ。さっき奈緒さんから電話が来て、青木グループとの提携をやめて自分たちと組めって脅されたの。それに、昨夜の私たちの映像を持ってるとも言ってた。充、この件はきちんと対処してちょうだい。納得できないなら、提携の話はなしだから」これほど追い詰められては、さすがの佳乃も充への熱が少し冷めていた。心は乱れ、昨夜のことを思い出すたび後悔に苛まれる。もしこれが父にでも知られれば、自分はもう終わりだ。かといって奈緒の要求をのみ、あの小さな組織と組むなど到底受け入れられなかった。資金を用意できるとしても、あれほど大きな利益を奈緒に渡すなんて耐えられない。だが今の佳乃に、主導権はなかった。乱雑に服を整えるとバッグを掴み、充の肩を押しのけるようにして、そのまま振り返りもせず水鏡ヶ丘を出ていった。充はその場に立ち尽くした。佳乃の言葉が、頭の中で大きく響く――隠しカメラ。すぐに人を呼び、家の中を調べさせる。その間にも、会議室では麟太郎と幹部が待っているという渉からの催促が絶え間なく携帯に届いていた。次々と届くメッセージに、充の頭はぐちゃぐちゃになった。頭へ一気に血が上ったかと思うと、視界が暗くなり、充はそのまま力を失って倒れ込んでしまったのだった。……一方、奈緒が身支度を終えた頃
Read more

第532話

仁哉は笑って答えかけたものの、ふと奈緒に目を向けた瞬間、息を呑んだ。言葉が喉につかえ、ただ呆然と立ち尽くす。思わず見とれてしまったのだ。奈緒は出産してからというもの、人前に出る機会を除けば、普段はずっとシンプルな服装で過ごしていて、特に最近はあちこち駆け回っていて、おしゃれに気を遣う余裕などほとんどなかった。だが奈緒は、もともと蘭によく似た華やかな顔立ちをしているため、少しきちんと身なりを整えるだけで、驚くほど印象が変わるタイプだった。仁哉はしばらく目を奪われたままだったが、奈緒が近くまで来てようやく我に返る。自分が見入っていたことに気づき、耳がほんのり赤くなった。だが幸い、奈緒の目はすでにテーブルいっぱいに並んだ朝食に釘づけだった。仁哉はパンだけではなく、そこのパン屋で売られているサラダやスープも全て買ってきていた。しかも、まるで全種類を買ってきたかのような量。テーブルには菓子パン、惣菜パン、フランスパン、クロワッサン……焼きたてでまだ温かいパンたちが所狭しと並んでいる。奈緒はすぐさま席に座ると、パンを手に取って口一杯に頬張った。その瞬間、彼女の顔に満面の笑みが浮かぶ。「こんなに買ってくるって分かってたら、口紅塗らなかったのに。せっかく塗ったのに、もう取れちゃう」奈緒は笑いながら食べつつ、ティッシュでさっさと口紅を拭き取った。どのパンも懐かしい味がする。ここのパン屋のパンを食べたのは、いつぶりだろうか?目の前に並んでいるものを、どれも食べたくて仕方がない。パンを勢いよく頬張り、その合間にスープやサラダを楽しむ。夢中になって食べる奈緒を見て、蘭が呆れたように笑う。「誰も取らないんだから、もう少しゆっくり食べなさい。仁哉くんに笑われるわよ」ところが仁哉は笑うどころか、どこか嬉しそうだった。椅子を引いて腰を下ろし、頬杖をついて奈緒を眺める。「僕が覚えてる奈緒さんはこんな感じでしたよ。子どもの頃も、食べ始めたら夢中になってましたから。だからあの頃は、ふっくらしてたんですよね」奈緒は危うくむせそうになった。驚いて仁哉を見る。「えっ……私が子どもの頃、どうやって食べてたかまで覚えてるの?」仁哉が微笑んだ。「覚えてるよ。蘭さんが仕事で忙しかった頃は、僕とギルがよく君を朝ごはんに連れていってた
Read more

第533話

「蘭さん、安心してください。これからは僕が奈緒さんをちゃんと支えて、子どもの頃みたいにもう少しふっくらするくらい元気にしてあげますから」何それ?どう聞いても、ただの幼なじみが言うには妙に意味深な言葉。奈緒の表情がぎこちなくなる。蘭はそんな二人を見比べ、面白そうに笑った。「それって、お兄ちゃんみたいな立場で面倒を見るってこと?それとも……別の立場で?奈緒はぎょっとした。「お母さん!」ところが仁哉は慌てなかった。奈緒を見つめる眼差しは真っ直ぐで、どこまでも真剣だった。「どちらでも構いません。奈緒さんが必要としてくれるなら、僕はどんな立場でもそばにいたいと思ってます」今度こそ、奈緒は顔全体が真っ赤になった。ここまで言われれば、奈緒でもさすがに分かる。仁哉が何を伝えようとしているのか、分からないふりなどできなかった。奈緒の胸の中が、一気に騒がしくなる。まさか本当に、仁哉ほどの人が自分をそんなふうに見ていたなんて。そんな……頭がうまく働かず、奈緒は何と返せばいいのかも分からなかった。一方、蘭は仁哉の答えが気に入ったらしく、満足そうに頷いた。「仁哉くんがもう少し早く帰ってきて、奈緒と再会してたらよかったのにね。でも、今からだって遅くないわ。縁がある相手なら、結局どこかでまた巡り会うものよ」蘭は昔から遠回しな言い方をしない。だから、二人が曖昧にしていたものを、あっさり言葉にしてしまった。これまで、自分の気持ちを早く知られすぎれば奈緒の負担になるのではないかと気にしていた仁哉は、ずっと胸の奥にしまっていた。だが蘭がこれほど自然に受け入れてくれたことで、その不安が一気に軽くなる。抑え続けてきた想いが今にも溢れそうだったが、それでもどうにか平静を装い、冗談めかして笑う。「そうですね。今からでも遅くないですよね。結局、僕たちは家族になる運命だったのかもしれません。そういえば子どもの頃、僕のお年玉を全部蘭さんに預けて、いつか奈緒さんをお嫁さんにもらうときに使うって言ったことがありました。あの時蘭さんには断られましたけど、あの頃からのお年玉、実は今もちゃんと取ってあるんですよ」蘭はたまらず声を上げて笑った。「あなた、まだ覚えてたの?あの頃なんて7歳か8歳くらいだったでしょ?とっくに忘れてると思ってたわ
Read more

第534話

これまで奈緒が歩んできた道を思うと、仁哉の胸に込み上げるのは、ただ彼女を大切にしたいという気持ちだけだった。奈緒の姿が玄関から消えてしばらく経っても、仁哉はまだその方向を見つめていた。そんな仁哉を見て、蘭は嬉しく思う反面、少し心配にもなった。そっと仁哉の肩を叩く。「仁哉くん。奈緒は一見、気が強くて何でも一人でやれるように見えるけど、本当はすごく素直で優しい子なの。それに、人一倍傷つくのを怖がってる。さっきはあんなふうにからかったけど……あなたが本気であの子のそばにいてくれるなら、お兄ちゃんみたいな存在でも、友達でもそれ以外でも、私は嬉しい。今は奈緒にとって一番つらい時期だから、ここまで支えてくれたことには本当に感謝してる。でもね、これだけは覚えておいて。私はもう、あの子に傷ついてほしくないの。女にとって一番残酷なのは、絶望しているときに希望を与えられて、それを信じたあとで裏切られること。もしまた誰かが奈緒の気持ちを弄んで、あの子を傷だらけにするようなことがあったら……私は何があっても許さない」蘭の最後の言葉には、はっきりとした強さがあった。蘭は確かめたかったのだ。仁哉が今、奈緒にどんな気持ちを抱いているのか、そして、その気持ちにきちんと向き合う覚悟があるのか。蘭は真っ直ぐ仁哉の目を見つめる。だが仁哉は少しも視線を逸らさなかった。むしろ、その眼差しは穏やかで、揺るぎない。「蘭さんの言葉、全部覚えておきます。子どもの頃の気持ちなら、ただの淡い憧れだったと言えるかもしれませんが、僕はもう30です。自分が何をしているのかも、この先何が待っているのかも分かっています。それに、僕も奈緒さんも一度結婚で失敗していますから、人生を無駄に遠回りしている時間はありません。蘭さんがここまではっきり言ってくださったので、僕も隠さずに言いますね。僕は奈緒さんのことが心配というだけじゃなく、一人の女性として好きです。でも、その気持ちで奈緒さんを困らせるつもりはありませんし、何かを求めるつもりもありません。今はただ、あの頃みたいに何も心配せず笑える奈緒さんに戻ってほしい。だから、僕はずっとそばにいます。その先で僕を選ぶかどうかは、彼女自身が決めればいいと思っています」仁哉は自分の気持ちをすべて打ち明けた。その言葉にも眼差しにも、迷いはない。
Read more

第535話

外でしばらく待っていた奈緒だったが、なかなか二人が出てこないのでまた様子を見に戻ってきたのだった。中を覗き込んだ奈緒は、蘭と仁哉の間にどことなく真剣な空気が漂っていることに気づいた。しかし、何を話していたのかまでは分からない。「すぐ行くよ」二人は慌てて答えた。やがて3人は潮咲市へ向かった。仁愛インターナショナル病院に着くと、宗時と琴葉がベビーカーに乗せた黎を連れて病院の前で待っていた。数日会わないうちに、黎は見た目にもふっくらとして、血色も良くなっていた。ぱっちりとした瞳は輝き、いっそう愛らしさが増している。ベビーカーも宗時と琴葉が黎のために用意してくれたもので、中には柔らかなピンク色のマットと薄手のブランケットが敷かれ、周りには赤ちゃん用のおもちゃがいくつもついていた。それだけでなく、琴葉は黎のために可愛らしい服や靴を10数セットも買ってくれていて、どれも上質なものばかりだった。そんな細やかな気遣いに、奈緒は感謝で胸がいっぱいになる。だからこそ、青木家との違いが余計に際立った。どうすれば、あそこまで男尊女卑な考え方になって、何の罪もない赤ん坊に「疫病神」だの「よその男との子ども」だなんて言えるのだろうか?黎は何も悪くないのに。この世に生んだのは自分たち親なのに、どれだけ必死に守ろうとしても守りきれず、この子にこんな思いをさせてしまった。そう考えるだけで、奈緒の胸は締め付けられるように痛んだ。それでも、宗時や琴葉のような温かい人たちに出会えた自分たちは、幸運なのだろう。蘭と宗時、琴葉の三人が黎を囲み、あやしながら「可愛い」「天使みたい」と笑っている。その光景を見ていると、奈緒は鼻の奥がつんとして泣きそうになった。けれど涙を見せたくなくて、何でもない顔をして声をかける。「それじゃ、私たちはサミットに行ってきますね」そのまま外へ向かうと、すぐに仁哉が追いついてきた。奈緒はいつも通りに振る舞い、何も感じていないような顔をしていたが、仁哉には全部分かっているようだった。「奈緒さん。黎ちゃんは幸せな子だよ。僕たちみんな、あの子が大好きだからね。だから君はもう心配しすぎなくていい。これからは、自分がやりたいことにもちゃんと向き合っていいんだよ。父さんと母さんも、黎ちゃんのことが本当に可愛いみ
Read more

第536話

仁哉は興味深そうに聞き入り、促すように笑った。「それで?」奈緒も笑って、続きを話し始める。「お母さんがクラブで働き始めたばかりの頃は、バーテンダーの仕事をしてただけなのに、近所の人たちは濃い化粧をして出勤するのを見て、勝手にホステスだと思い込んでたの。中にはお母さんには直接言えないくせに、子どもの私を捕まえて『水商売の女の娘』みたいに罵る人までいて。私、そのときまだ9歳だったんだけど、頭にきたからランドセルで殴りかかって、大喧嘩したの。で、最後は私が勝った!」得意げに胸を張った奈緒の顔はどこか幼く、目には今でも負けず嫌いな光が宿っていた。仁哉は心から感心したように親指を立てる。「奈緒さんは本当にすごいよ」「理不尽な人や出来事を嫌っていうほど見てきたから、こういうこと、昔から山ほどあったの。それでも、お母さんにはずっと、『やられっぱなしになるな』って教えられてきた。この世は弱く見えたほうが徹底的に踏みつけられる。だから、いじめられたくないなら強くなるしかないって」仁哉は黙って奈緒を見つめた。そんなふうに生きなければならなかった感覚を自分は知らない。流れていく窓の外の景色を見ながら、奈緒は静かに続ける。「お父さんがお兄ちゃんを連れていなくなったあの時から、私の人生はずっと穏やかではなかった。生きていくには争わなきゃいけなかったし、何がなんでも勝たなきゃいけなかった。傷だらけになってでも、自分の居場所は自分で奪い取るしかなかったから。そのあと充と出会って、いろいろあって一緒になったでしょう。私は最初、あの人が責任を取るなんて思ってなかった。でも、結婚しようって言われたとき……私がどんな気持ちだったか分かる?」今の奈緒にはきっと吐き出すことが必要なのだと思ったから、仁哉は何も言わずただ耳を傾けていた。怒って、仕返しをして、それで一時的に気が晴れたとしても、昔についた傷まで消えるわけではない。けれどいつか、誰かに過去の痛みをすべて話せたなら、胸の奥に引っかかったままだったものが、少しずつ外へ出ていくのかもしれない。「あのときはすごく嬉しかった。やっと家族ができる、もうずっと戦い続けなくてもいいんだって思ったから。誰かが私のことを守ってくれて、無理して強がらなくてもよくなる。争わなくても、奪わなくても、私はちゃんとそこにいてい
Read more

第537話

ひどく驚き、どう反応していいか戸惑う奈緒。「何これ?」仁哉は楽しそうに笑った。「ちょっとしたプレゼント。開けてみて」奈緒は言い返した。「今日って何かの日?プレゼントを贈るようなことってあったっけ?」仁哉は笑って返した。「別に何の日でもないよ。ただ、僕が君にプレゼントを贈りたくなっただけ。何でもない日にプレゼントをもらったことなんて無かった?」思い返してみれば、確かに無い気がする。これまでの人生、父や母からですら、何でもない日にプレゼントをもらった事はない。父がいなくなってからは尚更で、借金を返すために毎日働き詰めだった母しかいなかったので、奈緒自身も学校以外の時間は母を手伝っていたから、そんな余裕はなかった。その精巧な箱を受け取り蓋を開けると、中に入っていたのは、プラチナのネックレスで、ペンダントトップには小さな女の子がかたどられていた。ただ、その少女の顔を見ていると、どこかで見覚えがあるような気がした。不思議に思い、そのペンダントをじっと見つめているうちに、奈緒ははっとした……それは髪を編み込んでいた幼い頃の自分。仁哉はわざわざ職人に頼み、奈緒の昔の姿をもとにこのペンダントを作らせたのだ。その心遣いに奈緒の胸が熱くなる。顔を上げた奈緒の瞳には、感動で涙が浮かんでいた。「仁哉さん……私が子どもの頃、どんな顔してたかまで覚えてたの?」仁哉はスマホのアルバムを開いた。「母さんがずっと取っておいてくれてた僕の昔のアルバムに、君とギルと一緒に写ってる写真が何枚かあるんだ。少し前に見返したら、奈緒さんがころころしてて、すごく可愛かったから、これなら似合うかなって思って、作ってもらった」ただし、仁哉には言わなかったことが一つあった。本来、このネックレスはバレンタインデーやホワイトデーなどの、恋人に関する日に奈緒へ渡すつもりだった。多くの女性がプレゼントを期待するように、奈緒も心のどこかで楽しみにしているかもしれないと仁哉は思ったのだ。しかし、そんな特別な日に渡して、奈緒にプレッシャーを感じさせて拒絶されたらと思い、仁哉は結局渡してはいなかった。今の想いを知られること自体は怖くなかった仁哉だが、奈緒がまだ受け止められる状態ではないことは分かっていた。充との結婚で受けた傷から、奈緒はまだ完全には抜け
Read more

第538話

仁哉は奈緒を見て言った。「奈緒さんがあのプロジェクトに興味を持ってるのは分かってるから、君がやってみたいなら僕は賛成さ」奈緒は少し口を引き結んだ。「よかった。相談もせずに勝手に決めて、軽率だと思われるかと思ってたから」仁哉は笑う。「そんなこと思わないよ。君の見る目も、君の力も信じてるから」信じてもらえ、そして任せてもらえることがこんなにも嬉しいなんて、奈緒は改めて知った。胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じ、奈緒は静かに目をつむる。20分後、二人の乗った車は会場に到着し、車を降りた奈緒と仁哉はそのままサミットの会場へ向かった。今は全国各地で開発事業が相次ぎ、建築業界も活況を呈しているため、今回のサミットにも全国から大小さまざまな不動産会社や建築関連企業が集まっていた。仁哉は建築デザインの界隈で非常に高く評価されており、奈緒も以前からヤジン・デザインで実績を残してきた。そのため、二人が会場に姿を見せると、すぐに何社もの不動産会社が声をかけてくる。先日あの3社から契約を切られたことも思ったほど痛手にはなっておらず、むしろ手が空いた分、条件がよく、より挑戦しがいのある仕事を選べるようになったくらいだった。そんな中、二人は美紀の父親である保雄と顔を合わせた。意外にも、以前の横柄な態度はすっかり鳴りを潜めていて、保雄のほうから歩み寄り、二人に握手を求めてくる。美紀が例のパーティー騒動でまた警察沙汰になったことは、すでに業界中に知れ渡っていた。ようやく見つかった実の娘だとあれほど誇らしげにしていた保雄も、今ではすっかり頭を抱えている。以前、美紀のために腹を立てた保雄はほかの2社まで巻き込み、ヤジン・デザインとの契約を打ち切った。ところが実際に別の会社へ切り替えてみて、ヤジン・デザインの実力が業界平均を大きく上回っていたことに、保雄たちは気がついたのだった。その後いくつかのデザイン会社に依頼したものの、どこから上がってくる案も以前ヤジン・デザインが出したものほどしっくりこない。おまけに、契約を切ってからというもの、保雄が進めていた大型案件まで次々と他社へ流れていった。業界内で探りを入れてようやく分かったのだが、どうやら自分は誰かの機嫌を損ねたらしい。それも、かなり影響力のある人物の……長年商売をして
Read more

第539話

充。片手をポケットに入れ、入口の正面にある薄暗い一角に立っている。整った顔の半分は影に隠れ、その目だけがまっすぐ奈緒を追っていた。どう見ても、話しかける機会をずっと窺っていたようにしか見えない。途端に、手にしたティラミスまで不味そうに見えた。食欲が一気に失せた奈緒は、ティラミスを元の場所へ戻すとさっさと背を向けた。ところが充はすぐに追いついてきて奈緒の手首を掴み、開口一番責めるように言った。「水鏡ヶ丘に隠しカメラをつけたのは、いつだ?奈緒、俺はずっとお前はもっと単純な人間だと思ってたけど、まさかこんなことまでしてたとはな」奈緒は眉をひそめ腕を強く引いた。だが充の力は強く、手首が痛むほどで、彼の目にははっきりと怒りが滲んでいた。まるで奈緒がとんでもない裏切りを働いたとでも言いたげな態度だった。あまりの理不尽さに、奈緒は呆れて笑う。「あなたの言う『こんなこと』って、監視カメラをつけてたこと?一応言っておくけど、あれは子どもの様子を確認するためにつけただけで、あなたが女を家に連れ込むところを監視するためじゃないから。それに、設置するときはちゃんとあなたにも話したはずだよ。少しでも家のことに関心があったなら、今さらこんなことで私を責めたりしないと思うけどね」充の目がわずかに揺れた。言われてみれば、確かにそんな話をされた気がする。当時の充は仕事のことしか頭になかったため、家庭の細かなことなどほとんど気にも留めていなかった。だから、完全に忘れていた。充の怒りが少しだけ薄れる。「昨夜のことはお前が思ってるようなことじゃないし、俺と佳乃の間には何もなかった」奈緒は眉を寄せた。「悪いけど、今さらあなたの女関係なんて興味ないから」充の目が暗くなる。それでも手首を放そうとはせず、声に力がこもった。「庄野グループは、今の俺にとって絶対に逃せない相手なんだ。少しでもお前が俺の立場を考えてくれるなら、今どれだけ追い込まれてるか分かるだろ?今回の提携を成功させて、何としても社内での立場を立て直さなきゃならないんだよ」奈緒は何とも言えない顔で充を見た。よくもまあ、そんなことを堂々と言えたものだ。だがその瞬間、納得のいく理由が脳裏をよぎり、奈緒は思わず鼻で笑ってしまった。「なるほどね。だから昨夜は自分
Read more

第540話

「庄野グループとの提携を逃したら、俺は株主から総攻撃を受けて、社長の座を追われるかもしれない。そうなれば青木グループだって危ない」「で?それが私になんの関係があるわけ?」奈緒はまるで興味がなかった。しかし、素早く周囲を見回し、充は声を落とした。「正直に言うけど、今青木グループが銀行から借り入れてる資金の大半は俺個人の名義で、結婚後に組んだ借金だ。もし俺が失脚するか、青木グループが破綻して清算に入れば……離婚のとき、お前まで無関係ではいられない」奈緒の瞳がわずかに見開かれた。胸の奥をいきなり強く掴まれたような感覚が走る。奈緒はすぐにカップを取り熱いコーヒーを注いだ。一口飲んで、湧き上がった感情を無理やり押し込める。「今、銀行にいくら借りてるの?」「400億円くらい」奈緒はゆっくり顔を上げ、そして次の瞬間……手にしていたコーヒーを充の顔へ浴びせた。その表情は冷え切っていた。いや、冷たいのは表情だけではない。全身が氷の中に沈んだようだった。充とは何年も夫婦でいたのだから、彼がどれほどの資産を持っていたか、奈緒だって知っている。ここ最近、青木家が次々と不祥事に見舞われていたとしても、あれほどの資産を持っていた充が、いきなり400億円もの債務を抱えるなど到底信じられない。だったら、考えられることは一つだけ。充は自分と結婚した頃から、自分の資産を守る仕組みを用意していたということ。そして奈緒が離婚を切り出してからさらに何かしら手を入れ、彼自身の財産を表向き減らし、資産だったはずの残高を、いつの間にか多額の債務を抱える口座に変えていたのだろう。抑えきれない怒りが奈緒の胸の中で暴れ回る。充と結婚した時、ようやく安心できる場所を手に入れたのだと信じていたのに、彼は最初から自分を守るどころか、必要なら切り捨てられる相手として扱っていたのだ。ここ最近見せていた未練も、執着も、愛情めいた言葉も……その裏にこんな計算があったと思うだけで、吐き気がする。顔中にコーヒーを浴びたというのに、充は怒らなかった。軽食台から紙ナプキンを取り、顔や服から滴るコーヒーを静かに拭っていく。周囲にいた人たちも異変に気づき近づこうとしたのだが、充があまりに平静なため何が起きているのか分からず、その場で様子を窺っていた。奈緒は激
Read more
PREV
1
...
515253545556
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status