裏切りの代償〜風に消えた愛と、流れる雲〜 のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

12 チャプター

第1話

誰よりも私・九条莉乃(くじょう りの)を愛してくれているはずの夫、九条柊吾(くじょう しゅうご)。妊娠を告げれば、きっと涙を流して喜んでくれる――そう信じて疑わなかった。なのに彼は、どこか申し訳なさそうな顔でこう言った。「ごめん、莉乃。俺、まだ父親になる覚悟ができてないんだ。子供はもう少し先延ばしにしないか?」身を切られるような思いだったけれど、私は彼の言葉を信じて、お腹の小さな命を諦めた。それから3年後。私は偶然、柊吾が見知らぬ女と手を繋ぎ、幼稚園の門から出てきた小さな女の子を迎えに行く姿を目撃してしまう。彼は満面の笑みでその子を抱き上げると、甘い声で囁いた。「結(ゆい)、今日は三歳の誕生日だね。パパから、グループの唯一の後継者の座をプレゼントしようか」仲睦まじく歩き去る「家族三人」の後ろ姿を見つめながら、私は全身の血が凍りつくのを感じた。――父親になる覚悟がなかったわけじゃない。彼はただ、私との子供が欲しくなかっただけなのだ。……夜、夫の柊吾が帰宅した。私の泣き腫らした目を見るなり、彼はスリッパに履き替えるのも忘れて大股で歩み寄り、私をきつく抱きしめた。その声には、痛いほどの思いやりが滲んでいた。「どうした?誰か莉乃に嫌なことでも言ったのか?教えてくれ、俺がそいつを許さないから」ようやく落ち着きかけていた私の心は、その甘い言葉のせいで再び激しく波立ち、堪えきれなくなった涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。九条グループの社長である柊吾が、筋金入りの愛妻家であることは業界でも有名な話だ。私と結婚してすぐ、彼は自分の秘書やアシスタントを全員男性に入れ替えた。夜の接待があれば必ずビデオ通話で報告してくるし、長年の友人が彼に女性をあてがおうとした時など、一切の躊躇なく縁を切ったほどだ。彼がどれほど私を愛しているか、誰の目にも明らかだった。とめどなく涙を流す私を見て、柊吾は苦しげに眉をひそめ、そっと指先で私の涙を拭った。「莉乃、一体どうしたんだい?お願いだから話して。君がそんな風に泣き続けていたら、俺まで胸が張り裂けそうだよ」心底心配そうに覗き込んでくる彼の瞳を見つめ返しながら、私は喉まで出かかった問い詰めの言葉をぐっと飲み込んだ。そして、小さく首を横に振ると、ゆっくりと口を開いた。「……う
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第2話

どれくらい時間が経っただろうか。スマートフォンが震え、柊吾からのメッセージを知らせた。【莉乃、会社のトラブルが長引きそうで、今夜は帰れそうにない。俺のことは待たなくていいからね】【君の好きなお店で夕飯をデリバリーしておいたから、ちゃんと食べて、今日はもう早めに休んで】画面の文字を呆然と何度も読み返すが、ただただ息が苦しかった。柊吾は私を一人置き去りにして、あの女と子供のもとへ行ったのだ。あんなにも私を溺愛してくれていたはずの彼が、裏では心変わりをして、別の家庭を築いていたなんて。心臓を刃物でえぐられるような痛みに耐えながら、私は震える指でスマートフォンを操作し、母に電話をかけた。「お母さん……D国支社に行く話、引き受けるわ」母は昔から、結婚を機に私が家庭に入ることに反対していて、D国支社の経営を任せたいと何度も打診してきていた。けれど、当時の私は柊吾が囁く愛の嘘にすっかり溺れきっていた。彼との甘い生活が一生続くと信じて疑わず、少しでも離ればなれになることなど考えられなくて、母の提案を一秒の迷いもなく断ってしまったのだ。それがまさか、結婚からたった三年で、すべての幸せが泡と消えるなんて。――それならもういい。柊吾、私にはもうあなたは必要ない。結局、柊吾はその夜、帰ってこなかった。私は抜け殻のように座ったまま夜明けを迎え、そのままビザの手続きへと向かった。ビザが下りるまでには五日かかる。手続きを終えた後、D国の気候を思い出し、赴任に向けて服でも買っておこうと近くのショッピングモールに立ち寄った。ところが、モールに足を踏み入れた私の目に飛び込んできたのは、あまりにも見慣れた姿だった。柊吾が腰をかがめ、優しい手つきで小さな女の子に靴を試着させている。そして、彼の傍らに寄り添うように立っている女は、まさしく昨日の午後、幼稚園の前で見かけたあの女だった。視線がぶつかった瞬間、柊吾の瞳に明らかな動揺が走った。子供の足に添えていた手が、宙で不自然に止まる。だが、それもわずか数秒のことだった。彼はすぐにいつもの穏やかな表情を取り戻すと、私の方へ歩み寄ってきた。「莉乃、奇遇だね。買い物かい?」彼はさりげなく女との間に距離を置くと、紹介するかのように彼女を指した。「こちらは、秘書の逢坂澪(おうさか みお)
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第3話

その言葉を聞いて、私は思わず柊吾に目を向けた。案の定、彼の瞳には隠しきれない罪悪感が滲んでいる。「莉乃、子供のささやかな願いなんだ。少し付き合ってくるだけだから。……変に深読みしないでくれよ」柊吾は言い訳を並べるようにそう告げると、慣れた手つきで結を抱き上げた。「よし、イチゴのくまさん、獲りに行こうか」隣を歩く澪が、去り際、私にだけ分かるような含みのある視線を送ってきた。遠ざかっていく三人の後ろ姿は、どこからどう見ても睦まじい「幸せな家族」そのものだった。それまで傍観していた奥様たちは、決まり悪そうに薄笑いを浮かべて立ち去っていく。去り際に向けられた彼女たちの視線は、それまでの羨望から、あからさまな同情と嘲笑へと変わっていた。この瞬間、柊吾の「狂おしいほどの愛妻家」という看板は、この街で一番の笑い草になったのだ。私は奥歯を噛み締め、震える腕で自分を抱きしめた。心臓をずたずたに引き裂かれたような激痛が、体の隅々にまで突き刺さっていた。帰り道、車内の重苦しい沈黙に耐えかねたのか、柊吾が顔色を窺うようにして口を開いた。「逢坂さんのことだけど……彼女、シングルマザーで一人で子供を育てているから苦労も多いんだ。雇い主として、少しでも力になってあげたくてね。秘書なら手当も厚いし、あの子を養っていくのにも都合がいいだろう」必死に慈悲深い上司を演じる夫は、私をなだめるように続けた。「莉乃が嫌だと言うなら、すぐにでも彼女を別の部署へ異動させるよ。いいかな?」私は返事をする代わりに、窓の外を流れていく夜景を見つめた。不意に、心の奥に刺さっていた問いが口をついて出る。「ねえ柊吾、結婚式の時に交わした誓い、覚えてる?」「……誓い?」「嘘をついたら、誰にも看取られず孤独に一生を終えるって……あの誓いよ」柊吾の顔に一瞬だけ動揺が走ったが、彼はすぐに柔らかな笑みを浮かべると、私の手を優しく包み込んだ。「もちろん覚えているよ。安心して。莉乃、俺はあの誓いを今も守り続けている。嘘なんて、つくはずがないだろう」その深々とした慈しみのこもった声が、今はただ、ひどく虚しく響いた。私は無言でその手を振りほどき、そっと目を閉じる。「……疲れたわ」もう、いい。あなたの白々しいお芝居に付き合うのは、もう限界なの。家に戻った
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第4話

柊吾の目が、哀れみと慈しみを湛えて澪に向けられる。その視線の意味を痛いほど知っている私は、胸を無数の針で刺されたような感覚に陥った。これ以上、この空間に耐えられず、私は逃げるように庭のテラスへと向かった。ブランコに腰を下ろし、冷え切った空気を吸い込む。背後からほどなくして足音が近づいてきた。「莉乃さん。もう、気づいているんでしょう?結が柊吾さんの子だってこと」隣に立った澪の顔から、先ほどまでの卑屈な笑みは消えていた。そこにあるのは、勝者の余裕に満ちた、残酷なまでの勝ち誇った顔だった。振り返ると、柊吾は大きな窓のそばで電話に集中しており、こちらには視線すら向けていなかった。だからこそ、澪はこれほどまでに不敵な態度で私を挑発できるのだ。私は彼女の言葉を無視し、手にしていた離婚届を静かに差し出した。「私より、あなたの方が彼にサインさせるいい方法を知っているでしょう?」澪は一瞬、耳を疑ったように目を丸くした。「……離婚するつもり?」「ええ。不誠実なパートナーなんて、私の人生には必要ないわ」短く答えると、澪は呆然と立ち尽くしたが、やがて口元に冷酷な笑みを浮かべた。「へえ、自分から身を引くんだ。でも、ごめんなさい。万が一ってこともあるから、私のやり方でトドメを刺させてもらうわね」彼女が何を言っているのか理解する間もなかった。直後、背後で凄まじい水音が響き渡った。さっきまでリビングで遊んでいたはずの結が、庭の深いプールに落ち、必死に手足をバタつかせていた。「助けて! 誰か、私の結を助けて!」澪の悲鳴が響き渡る。リビングにいた柊吾は、呼応するようにスマホを投げ出し、迷うことなくプールへと飛び込んだ。数分後、水を飲んでぐったりとした結を抱き上げ、彼は岸へと這い上がった。澪が泣き叫びながら結を抱きしめる。激しく咳き込んでいた結は、震える指先で私を指さし、泣きじゃくりながら声を上げた。「……あの人が、結を突き落としたの!」柊吾が弾かれたように振り返る。その瞳は、これまでに見たことがないほどの激しい怒りに燃えていた。「莉乃、君がこれほど残酷な人間だったなんて。たった三歳の子に、なんてことを……!」「違うわ、私はやってない!」慌てて首を振ったが、彼は聞く耳を持たなかった。「
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第5話

あの暗闇の中で凍りついた孤独や絶望は、後付けの「すまない」の一言で溶かせるほど、安っぽいものではない。私の冷淡な視線に、柊吾はあからさまに動揺した。それからの半日間、彼は一歩もそばを離れようとはしなかった。水を飲ませ、甲斐甲斐しく手を拭き、媚びるような視線を私に送り続ける。だが午後、そんな歪な静寂を破るように、彼のスマートフォンが鳴った。通話ボタンを押すと、静かな病室に、澪の悲鳴のような泣き声が響き渡った。「柊吾さん!結が……結が車に撥ねられたの!運転していたのは……莉乃さんの専属のボディーガードよ!」柊吾が私を射貫くように見つめた。その瞳にあったはずの柔らかな光は、一瞬にして刺すような憤怒へと塗り替えられた。通話を終えるなり、彼は私の手首を乱暴に掴み上げた。みしりと骨が軋むほどの力に、私は思わず息を呑む。「莉乃、結はまだたったの三歳なんだぞ。どうして、どうしてこれほどまでにあの子を執拗に傷つけるんだ!」突き飛ばすようにその手を振りほどき、私はただ、絶望の淵から彼を見つめ返した。「……あなたの目には、私がそんな人間に見えているの?」柊吾は何かを言いかけ、しかし再び鳴り響いた着信音にそれを飲み込んだ。電話を切った彼の顔は、先ほどよりもさらに険しくなっていた。彼は私の腕を掴み、無理やり廊下へと引きずり出す。「……結はRhマイナスという、ごく稀な血液型なんだ。病院の在庫が足りない。お前も同じ血液型だったはずだ。来い、すぐに輸血する」その口ぶりに、選択の余地などなかった。数日前まで死に物狂いで飢えと恐怖に耐えていた病人に、彼は微塵の思いやりも見せなかった。今の私にとって、彼は夫でも愛する人でもない。ただ私を「便利な血液パック」としか見ていない、血の通わない怪物だった。なりふり構わず連れて行かれたのは、無機質な採血室だった。刺された針から、鮮紅色の血がチューブを伝って不気味な音を立てて流れ出していく。ただでさえ衰弱しきっていた体から、じわじわと生命力が吸い取られていくのが分かった。意識は遠のき、目の前の景色が粉雪でも舞ったかのように、白く霞んでいく。柊吾の瞳に、一瞬だけ躊躇いがよぎった。だが、彼はすぐに冷え切った声で言い放った。「……これは、お前が犯した過ちの代償だ。忘れるな、二度目はないぞ。次があれば、
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第6話

手術室の前のベンチに腰を下ろしていた柊吾は、不意に先ほどの採血室での出来事を思い出していた。莉乃の顔色は、病人のそれよりもずっと蒼白だった。彼女は今、どうしているだろうか。彼は何度もスマートフォンの画面を点灯させ、通知を確認した。けれど、莉乃からの連絡は何一つ届かない。その落ち着かない様子を横目で見ていた澪の瞳に、不機嫌そうな色がよぎった。彼女はわざとらしく、独り言のように声を漏らす。「ねえ柊吾さん。莉乃さんは、どうしてあんなに結を傷つけるのかしら。……もしかして、結があなたの子だって、気づいているの?」柊吾の肩が、びくりと跳ねた。「……そんなはずはない!」彼は声を荒らげ、鋭い視線で澪を射抜いた。「いいか、前に言ったはずだ。お前と結には、不自由のない暮らしも、グループの跡取りとしての地位も、望むものすべてを与えると。だが――それだけは、絶対に莉乃に知られてはならない。もし莉乃に余計なことを言ってみろ。その時は、お前たちをどうするか分かっているな?」柊吾の冷徹な脅しに、澪は一瞬ひるんだように首を縮めた。けれど、彼女の唇には、彼には見えない狡猾な笑みが浮かんでいた。澪は唇を噛んで小さく頷くと、いかにも心細げな声を出した。「もちろん、私の口から莉乃さんにバラすような真似はしないわ。でも……結があんなに何度も怖い目に遭わされるなんて。母親として、どうしても不安で堪らないの」柊吾は苦しげに眉間を揉んだ。莉乃の最近の過激な振る舞いを思い返すと、抑えがたい苛立ちが込み上げてくる。「……莉乃が退院したら、そのまま海外の拠点に移らせるつもりだ。向こうで静かに暮らさせよう。それでいいな?」その言葉に、澪は満足げに頷いた。すでに離婚届は莉乃の手に渡っている。だが澪が恐れていたのは、莉乃が土壇場で未練を見せ、離婚を白紙に戻すことだった。だからこそ、柊吾の口から「追放」の言葉を引き出し、物理的に引き離してしまいたかったのだ。手術室のランプが消え、医師がマスクを外して姿を現した。「幸い処置が早かった。手術は成功です、後遺症の心配もまずないでしょう」柊吾は深く安堵の息を吐き、莉乃の病室へ戻ろうと踵を返した。だが、その袖を澪の指先が引き止める。「柊吾さん、お願い……行かないで。あんな大きな手術をしたんだもの、結が目
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第7話

柊吾はよろめき、思わず後ずさった。見えない手に心臓を鷲掴みにされたような息苦しさが襲う。一昨日に退院した?つまり、あの採血のあと、すぐに病院を出て行ったということか?莉乃は……怒っているのか?ふと、血を抜かれた直後の、あの酷く冷え切った眼差しが脳裏をよぎった。途端に保っていた理性がガラガラと崩れ去り、底知れぬパニックだけが押し寄せてくる。彼は病院の出口へと走り出しながら、狂ったように莉乃のスマホに電話をかけ続けた。――プルルル。出ない。何度かけても、無機質な呼び出し音が響くばかりだ。柊吾は半狂乱で車に飛び乗り、自宅へと急いだ。道中、いくつもの赤信号を無視してアクセルを踏み込み続けた。邸宅は深い闇に包まれていた。まるで大きな口を開けて待ち構える化け物のように見え、柊吾は思わず足を踏み入れるのをためらった。ふと、昔の光景が脳裏をよぎった。接待で帰りが遅くなった夜、リビングにはいつも彼を待つ明かりが灯っていた。ドアを開けると、ソファでうとうとしていた莉乃が跳ね起き、眠そうな顔を一瞬でぱっと輝かせて出迎えてくれたものだ。「柊吾、おかえりなさい!」彼女はすぐにキッチンへ向かい、シェフが用意していた夕食を温め直してくれた。その日あった出来事を楽しそうに話し、仕事の愚痴や悩みにも優しい声で耳を傾けてくれた。一体いつから、あんな穏やかな日々が崩れ去ってしまったのだろう。結がプールに落ちた日のことが蘇る。莉乃は「私じゃない」と必死に首を振っていたのに、彼は聞く耳を持たず、閉所恐怖症の彼女を暗い納戸に三日間も閉じ込め、水も食事も与えなかった。病院での出来事も思い出した。結を何度も傷つけたと一方的に責め立てた彼に対し、彼女は深い失望を浮かべて言った。「あなたの目には、私がそんな人間に見えているの?」急に全身から力が抜け落ちた。心臓を丸ごとくり抜かれたような喪失感に襲われ、焦燥感はいつしか底なしの虚無へと変わっていた。「莉乃」カラカラに渇いた喉から、掠れた声が漏れた。ただ寝ているだけかもしれない。今日帰ってくるとは知らなかったから、明かりをつけて待っていなかっただけだ。そう必死に自分に言い聞かせる。「莉乃……!」震える手でリビングの照明をつけた瞬間――もぬけの殻となった冷え切った空間が照らし出さ
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第8話

『不誠実なパートナーなんて、私の人生には必要ないわ』頭を力いっぱい殴りつけられたような衝撃だった。莉乃は、結が俺の子であることをとっくに知っていたのだ!突然、車の中でのやり取りが蘇った。莉乃はあの時、真っ直ぐな瞳で結婚式の誓いを覚えているかと尋ねてきた。『嘘をついたら、誰にも看取られず孤独に一生を終えるって……あの誓いよ』そうか。あの時から彼女は俺の嘘をすべて見抜き、とっくに俺のもとを去る覚悟を決めていたのだ。激しい後悔と絶望で心が軋み、これ以上見ていられず映像を止めさせようとした。だが次の瞬間、画面の中で信じられないことが起きた。結が、なんの躊躇いもなく自らプールへと飛び込んだのだ。柊吾は大きく目を見開き、息を呑んだ。呆然とする彼に、執事が静かに告げた。「莉乃様が暗い納戸に閉じ込められた直後、私もこの映像に気づき、すぐにお電話でお知らせしようとしました。ですが……電話に出た逢坂秘書に、一方的に切られてしまったのです」納戸に閉じ込めた時の、あの深く傷ついた莉乃の瞳が脳裏に蘇る。柊吾の胸の奥で、得体の知れない悪寒が走った。もし結がプールに落ちた件が莉乃を陥れるための罠だったとすれば、あの交通事故は……?彼はすぐさま部下に電話をかけた。「結の交通事故について、今すぐ徹底的に洗い直せ」指示を受けた部下から、詳細な調査データが送られてくるまでにそう時間はかからなかった。画面の文字を追ううちに、スマホを持つ手が小刻みに震えだした。結の交通事故すらも、でっち上げだった。なにもかもが嘘。すべてが澪の仕組んだ悪質な茶番だったのだ。それなのに俺は、まともに話すら聞かず、頭ごなしに莉乃を責め立てた。閉所恐怖症の彼女をあの暗い納戸に閉じ込め、三日間も飲まず食わずで放置した。そのうえ、衰弱しきった彼女から無理やり血を奪い、あろうことか「すべて君のためを思ってやったことだ」などと恩着せがましく言い放ったのだ。彼女が絶望するのも当然だ。俺を見限るのも無理はない。他でもないこの俺が、彼女の心を何度も、何度も残酷にえぐり続けてきたのだから。血の気が引き、土気色になった顔で立ち尽くす柊吾のスマホが、不意に着信を知らせた。澪からだった。「柊吾さん、莉乃さんのお見舞い、まだ終わらないの?結が目を覚まし
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第9話

莉乃も同じ、Rhマイナスだったからだ。彼女が最近、どれほど子供を欲しがっていたかも痛いほど知っていた。彼はたまらず、その血液型での中絶や出産にどんなリスクがあるのかと澪を問い詰めた。そして、もし出産時に大出血を起こせば、母親が助かる見込みはほぼないのだと知らされた。最悪のケースを想像した時、彼の脳裏を支配したのは、愛する莉乃がもし妊娠し、同じように死の縁に立たされたらどうしようかという、激しい恐怖だった。考えれば考えるほど、冷静ではいられなかった。「二、三日待て。答えは後で出す」柊吾はそれだけを言い捨てて、逃げるように家へと戻った。ところが家に帰ると、予想外の言葉が待っていた。莉乃から、妊娠二ヶ月だと告げられたのだ。手放しで喜ぶ彼女の笑顔を見つめながらも、柊吾の頭の中では澪の言葉が不吉なサイレンのように鳴り響いていた。「Rhマイナスの妊婦が大出血を起こせば、救命できる確率は絶望的に低い」――莉乃を失うわけにはいかない。絶対に。その瞬間、彼はある身勝手な決断を下した。莉乃を命の危険に晒すくらいなら、この子は諦めさせるしかない。もし彼女がどうしても子供を望むなら、澪が産んだ子を引き取って育てさせればいい。そう考えた彼は、どこか申し訳なさそうな顔を取り繕ってこう言ったのだ。「ごめん、莉乃。俺、まだ父親になる覚悟ができてないんだ。子供はもう少し先延ばしにしないか?」莉乃は深く傷つきながらも、彼のために身を切る思いで我が子を諦めてくれた。すべては計画通りに進むはずだった。澪の出産後、その子を莉乃の腕に抱かせるつもりだったのだ。だが、実際に澪が結を産み落とし、慈愛に満ちた顔で赤子を抱く姿を目の当たりにした時、母親から子を奪うという残酷な真似が急にできなくなってしまった。結局、彼は結を澪の手元に残した。その代わり、彼女が望むものはすべて与え、九条グループの後継者の座すら結に約束したのだ。ただし、一つの絶対条件をつけて。「絶対に、莉乃の視界に入らないこと」。澪は素直に頷き、その約束を忠実に守り続けていた。だからこそ、柊吾は澪を「控えめで従順な女」だとすっかり信じ込んでいた。あの日、自分が酒に飲まれて過ちを犯したせいで、父親の名すら明かせないシングルマザーにならざるを得なかった哀れな女だと。その強い罪悪感から
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第10話

完全に追い詰められた澪は、焦燥感に駆られて病室の中をウロウロと歩き回った。その異様な気配を感じ取った結が、小さな手にりんごを持ってそっと近づいてきた。「ママ、りんご、たべる……?」しかし、差し出されたその手ごと、澪は思い切りりんごを払い落とした。「食べるわけないでしょ!そもそも、あんたがパパの心をちゃんと掴んでおかないからこんなことになったのよ!あーあ、パパに見捨てられちゃった。これで私たちはお払い箱、あとは路頭に迷うだけね!」床に転がったりんごを見て、結はワッと泣き出した。「うわぁぁぁん……!結、いい子にする!ママの言うこと、ちゃんときくからぁ……っ。びょうきのフリも、もっとじょうずにやるから!だから、パパとママ、結をすてないでぇ……!」澪が何か言い返そうとしたその時、不意に病室のドアが押し開けられた。入ってきたのは柊吾の部下だった。彼は冷ややかな笑みを浮かべて言った。「なるほど。逢坂さんは普段、こんな風にお子さんを教育されていたのですね」見知った顔に一瞬すがりつくような希望の光を宿した澪だったが、その侮蔑に満ちた言葉を聞いて表情を強張らせた。部下は澪など歯牙にもかけず、後ろに控えていたボディガードたちに顎で合図を送った。「結ちゃんをお連れしろ」澪は慌てて彼らの前に立ちはだかったが、女の力で屈強な男たちに敵うはずもない。なす術もなく取り押さえられ、泣き叫ぶ結が抱き上げられていくのをただ見ているしかなかった。「ママぁ!ママぁぁっ!」結の悲痛な泣き声が廊下の奥へと遠ざかっていく。澪は絶望のあまり、力なくその場にへたり込んだ。結を奪い取られたということは、柊吾から完全に切り捨てられたという揺るぎない証拠だ。血の気が引き、真っ白になった彼女の胸の奥底で、今度は柊吾に対するどす黒い憎悪がじわじわと膨らみ始めていた。一方その頃、柊吾はすでに莉乃がD国へ飛び立ったという搭乗記録を突き止めていた。彼はすぐさま最短のフライトを手配し、ボディガードが結を連れ帰ってくるや否や、有無を言わさず娘を連れてD国行きの飛行機に飛び乗った。柊吾たちがD国支社の前に辿り着いた頃には、すっかり日が落ちていた。ビルからは退勤する現地スタッフたちが次々と姿を現す。その中に混じって歩いてくる莉乃の姿は、ひときわ目を引いた。
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