LOGIN誰よりも私・九条莉乃(くじょう りの)を愛してくれているはずの夫、九条柊吾(くじょう しゅうご)。妊娠を告げれば、きっと涙を流して喜んでくれる――そう信じて疑わなかった。 なのに彼は、どこか申し訳なさそうな顔でこう言った。 「ごめん、莉乃。俺、まだ父親になる覚悟ができてないんだ。子供はもう少し先延ばしにしないか?」 身を切られるような思いだったけれど、私は彼の言葉を信じて、お腹の小さな命を諦めた。 それから3年後。 私は偶然、柊吾が見知らぬ女と手を繋ぎ、幼稚園の門から出てきた小さな女の子を迎えに行く姿を目撃してしまう。 彼は満面の笑みでその子を抱き上げると、甘い声で囁いた。 「結(ゆい)、今日は三歳の誕生日だね。パパから、グループの唯一の後継者の座をプレゼントしようか」 仲睦まじく歩き去る「家族三人」の後ろ姿を見つめながら、私は全身の血が凍りつくのを感じた。 ――父親になる覚悟がなかったわけじゃない。 彼はただ、私との子供が欲しくなかっただけなのだ。
View More電話の向こうで、しばしの重い沈黙が落ちた。やがて、諦めたような低い声が響いた。「……帰国するよ」彼が語った事情によると、私が去ってからの短い間に、柊吾は澪に与えていた特権をすべて剥奪したらしい。元のどん底の生活に逆戻りすることに耐えられなかった澪は、ついに自暴自棄になって暴挙に出た。彼女は九条グループの脱税疑惑を公に告発し、さらに動画サイトで柊吾との親密な関係を裏付ける証拠を次々と暴露したのだ。愛妻家として知られていた柊吾の評判は、業界内だけでなくネット上でも「理想の夫」として持て囃されていた。それが一転、裏切られたと感じた大衆からの凄まじい逆風に晒されることになった。世論は燃え上がり、関係当局への徹底調査を求める声が殺到した。事態を重く見た当局から呼び出しを受け、柊吾はどうしても帰国せざるを得なくなったのだ。もっとも、彼と澪の間で繰り広げられている醜い泥仕合など、私には欠片ほどの興味もなかった。彼から一通り事情を聞き終えると、他人事のように淡々と問いかけた。「九条社長、お話はそれだけかしら?用が済んだなら切るわよ」電話の向こうで、柊吾の息が止まる気配がした。これだけ言葉を尽くしても、私の反応があまりに冷ややかなことに、彼は打ちのめされていた。心配の一言どころか、激しい罵倒すら今の私からは返ってこない。もし責めてくれるのなら、まだ自分に未練があるのだと自分に言い聞かせることもできただろう。だが、今の私の態度は、まるで無関係な出来事を耳にしたかのように静かだった。彼という存在は、もはや執拗にまとわりついてくるだけの「赤の他人」でしかないのだ。柊吾は、魂と肉体が引き剥がされるような激痛に耐えながら、辛うじて言葉を絞り出した。「……いや、もう何もない」私はその言葉を聞き届けると同時に、通話を切断した。それからの日々は、波のない穏やかな日常へと戻っていった。私はプロジェクトチームを率いて、立て続けにいくつかの大型案件を成功に導いた。すぐにD国支社の同僚たちからも実力を認められ、異国の地で確固たる足盤を固めることができた。母から電話があった時、その声には深い安堵と喜びが滲んでいた。「これなら私も、近いうちに安心して本社社長の座をあなたに譲って引退できそうね」「ええ、任せて」私は謙遜することなく
「だけど、いざ澪が産んだ赤ん坊を見たら、実の母親から引き離すのがどうしても不憫になってしまって……」身勝手極まりない言い訳を並べ立てた後、彼はまるで素晴らしい解決策でも見つけたかのように、すがりつくような目で言葉を続けた。「でも莉乃、俺は自分の間違いに気づいたんだ。今日、結を連れてきたのは、この子に君を『母親』として認めさせるためだ。君はずっと子供を欲しがっていただろう?結は、俺からの償いだ。これからは親子三人で、また一からやり直そう。な?」そう言うと、彼はひどく不機嫌な結の背中を押し、無理やり私の前へと引きずり出した。「結、ほら、早く『ママ』って呼ぶんだ!」「やだ!この人、ママじゃないもん!!」結は憎悪に満ちた目で私を睨みつけると、突然奇声を発して飛びかかってきた。小さな体でありったけの力を込め、私を力いっぱい突き飛ばす。まったくの無防備だった私はバランスを崩し、冷たい地面の上に無様に倒れ込んだ。柊吾は慌てて駆け寄り、私を抱き起こそうと手を伸ばしてきたが、私はその手を冷たく払いのけた。地面に手をついて自力で立ち上がり、滑稽なものを見るような目で彼を見据えた。「つまり、私に自分の子を中絶させたのは、すべて私のタメを思ってのことだったとでも言いたいの?自分の隠し子を私に育てさせて、それでこれからも家族三人、仲良く暮らしていけると本気で思っているの?柊吾、あなたってどうしてそこまでおめでたい頭をしているのかしら。結婚する前に言ったはずよ。私は一切の裏切りも嘘も許さない。それが守れないなら離婚するって。もう私たちは完全に他人なんだから、これ以上まとわりつくのはやめてちょうだい」そう言い捨てて、私は一度も振り返ることなくその場を立ち去った。背後から、「莉乃、俺が悪かった!絶対に償うから!」という柊吾の悲痛な叫び声が響いた。それからの日々、柊吾は言葉通り「償い」とやらを押し付けてくるようになった。毎日欠かさず見事な花束を贈りつけ、会社の受付にプレゼントを預けては私のデスクまで届けさせようとした。さらには、私が一口でも手をつけるかもしれないというだけの理由で、全社員分の豪華なランチを手配してくる始末だった。正直言って、鬱陶しいことこの上ない。私の中では、彼はとうに「過去の遺物」として処理されている。それなの
完全に追い詰められた澪は、焦燥感に駆られて病室の中をウロウロと歩き回った。その異様な気配を感じ取った結が、小さな手にりんごを持ってそっと近づいてきた。「ママ、りんご、たべる……?」しかし、差し出されたその手ごと、澪は思い切りりんごを払い落とした。「食べるわけないでしょ!そもそも、あんたがパパの心をちゃんと掴んでおかないからこんなことになったのよ!あーあ、パパに見捨てられちゃった。これで私たちはお払い箱、あとは路頭に迷うだけね!」床に転がったりんごを見て、結はワッと泣き出した。「うわぁぁぁん……!結、いい子にする!ママの言うこと、ちゃんときくからぁ……っ。びょうきのフリも、もっとじょうずにやるから!だから、パパとママ、結をすてないでぇ……!」澪が何か言い返そうとしたその時、不意に病室のドアが押し開けられた。入ってきたのは柊吾の部下だった。彼は冷ややかな笑みを浮かべて言った。「なるほど。逢坂さんは普段、こんな風にお子さんを教育されていたのですね」見知った顔に一瞬すがりつくような希望の光を宿した澪だったが、その侮蔑に満ちた言葉を聞いて表情を強張らせた。部下は澪など歯牙にもかけず、後ろに控えていたボディガードたちに顎で合図を送った。「結ちゃんをお連れしろ」澪は慌てて彼らの前に立ちはだかったが、女の力で屈強な男たちに敵うはずもない。なす術もなく取り押さえられ、泣き叫ぶ結が抱き上げられていくのをただ見ているしかなかった。「ママぁ!ママぁぁっ!」結の悲痛な泣き声が廊下の奥へと遠ざかっていく。澪は絶望のあまり、力なくその場にへたり込んだ。結を奪い取られたということは、柊吾から完全に切り捨てられたという揺るぎない証拠だ。血の気が引き、真っ白になった彼女の胸の奥底で、今度は柊吾に対するどす黒い憎悪がじわじわと膨らみ始めていた。一方その頃、柊吾はすでに莉乃がD国へ飛び立ったという搭乗記録を突き止めていた。彼はすぐさま最短のフライトを手配し、ボディガードが結を連れ帰ってくるや否や、有無を言わさず娘を連れてD国行きの飛行機に飛び乗った。柊吾たちがD国支社の前に辿り着いた頃には、すっかり日が落ちていた。ビルからは退勤する現地スタッフたちが次々と姿を現す。その中に混じって歩いてくる莉乃の姿は、ひときわ目を引いた。
莉乃も同じ、Rhマイナスだったからだ。彼女が最近、どれほど子供を欲しがっていたかも痛いほど知っていた。彼はたまらず、その血液型での中絶や出産にどんなリスクがあるのかと澪を問い詰めた。そして、もし出産時に大出血を起こせば、母親が助かる見込みはほぼないのだと知らされた。最悪のケースを想像した時、彼の脳裏を支配したのは、愛する莉乃がもし妊娠し、同じように死の縁に立たされたらどうしようかという、激しい恐怖だった。考えれば考えるほど、冷静ではいられなかった。「二、三日待て。答えは後で出す」柊吾はそれだけを言い捨てて、逃げるように家へと戻った。ところが家に帰ると、予想外の言葉が待っていた。莉乃から、妊娠二ヶ月だと告げられたのだ。手放しで喜ぶ彼女の笑顔を見つめながらも、柊吾の頭の中では澪の言葉が不吉なサイレンのように鳴り響いていた。「Rhマイナスの妊婦が大出血を起こせば、救命できる確率は絶望的に低い」――莉乃を失うわけにはいかない。絶対に。その瞬間、彼はある身勝手な決断を下した。莉乃を命の危険に晒すくらいなら、この子は諦めさせるしかない。もし彼女がどうしても子供を望むなら、澪が産んだ子を引き取って育てさせればいい。そう考えた彼は、どこか申し訳なさそうな顔を取り繕ってこう言ったのだ。「ごめん、莉乃。俺、まだ父親になる覚悟ができてないんだ。子供はもう少し先延ばしにしないか?」莉乃は深く傷つきながらも、彼のために身を切る思いで我が子を諦めてくれた。すべては計画通りに進むはずだった。澪の出産後、その子を莉乃の腕に抱かせるつもりだったのだ。だが、実際に澪が結を産み落とし、慈愛に満ちた顔で赤子を抱く姿を目の当たりにした時、母親から子を奪うという残酷な真似が急にできなくなってしまった。結局、彼は結を澪の手元に残した。その代わり、彼女が望むものはすべて与え、九条グループの後継者の座すら結に約束したのだ。ただし、一つの絶対条件をつけて。「絶対に、莉乃の視界に入らないこと」。澪は素直に頷き、その約束を忠実に守り続けていた。だからこそ、柊吾は澪を「控えめで従順な女」だとすっかり信じ込んでいた。あの日、自分が酒に飲まれて過ちを犯したせいで、父親の名すら明かせないシングルマザーにならざるを得なかった哀れな女だと。その強い罪悪感から