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《洛陽夜曲》全部章節:第 91 章 - 第 100 章

100 章節

同胞

「鈴華(リンファ)……ちょっといいか」雑踏に混じって届いたのは、聞き慣れた母国の発音だった。声をかけてきたのは許(ホイ)。この街の六穣会の縄張りで、小さな中華料理店を実直に切り盛りしている男だ。同じ中国出身という縁もあり、彼は何かと鈴華のことを気にかけてくれていた。許は警戒するように一度あたりに視線を走らせると、足早に距離を詰め、声をひそめた。「ちょっと相談があるんだ。……今、少しだけ時間をもらえるか?」その硬い表情と、湿り気を帯びた低い声。ただごとではない気配が、夜の空気を通じて鈴華に伝わってきた。「えっ……? ええ、構わないけれど。何か、トラブルでも?」六穣会の無機質な縄張りの中にあって、同郷という見えない絆に頼る、同胞たちが鈴華のもとへ救いを求めてやってくるのは、もはや日常の風景といっていい。けれども今日の様子はいつもと異なっていた。「……ここでは何だ。店へ行こう」男は短く応じ、自身の営む小ぶりな中華料理店へと彼女を促した。暖簾をくぐれば、使い込まれた煮炊きの匂いが鼻腔をくすぐる。「何か飲むか? それとも、腹に溜まるものでも作ろうか」「いいえ、お気遣いなく。……それで、本題は何?」鈴華の促しに、男はカウンターの向こう側から這い出すようにして彼女の隣へと腰を下ろした。肺の奥に溜まった澱みをすべて吐き出すかのような、重苦しい溜息。次の瞬間、彼は岩が崩れるように深く頭を垂れた。「……俺の友人を、助けてやってほしいんだ」その声は、湿った夜の底に響く祈りのようでもあった。「同胞、なの?」「いや……違う。日本人だが、ガキの頃からの腐れ縁でね。今は、京都で極道に身を置いている」「京都……」その地名が唇から零れた瞬間、鈴華の瞳の奥で微かな火花が散った。過去の断片が意識の表層を掠めたのかもしれない。だが、それも一瞬のこと。彼女は即座に感情のさざ波を押し殺し、いつもの硬質な仮面を被り直した。「その人、……何かマズいことでも抱え込んでるの?」「うん、まあね。先日襲撃されたらしくて、今ある場所に身を隠しているんだ」「抗争……? もしそうなら、私が首を突っ込むわけにはいかないわ。組織の垣根を越えるのは、この世界の禁忌なんだから」「いや……そういうのじゃないらしいんだが…。身内――それも、組長に直接消され
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山城の行方

鈴華の心に影を落としていた不安は、許が告げた別人の名によって、霧散していった。京司ではない…。その事実だけで、彼女の表情が和らいだ。「それで、相談というのがな……」許は苦い薬を飲み込むような顔で、言葉を継いだ。「山城の奴が、どうしても九条組の若頭に繋ぎたいと言って聞かないんだ。だが、あの組織の連中を毛ほども信用しちゃいない。かと言って、俺のような堅気がのこのこ出向いたところで、門前払いが関の山だろう…どうしたもんかと思ってなぁ…」彼はやるせなさを振り払うように、コップに満ちたビールを煽った。喉を鳴らして落ちていく液体が、重苦しい沈黙をいっそう際立たせた。(あの人が身内を背中から撃つようなまねをするはずがないわ)「…山城さんの件、若頭は無関係なのね」鈴華の呟きに、許は短く肯定を返した。「ああ、間違いない。山城は若頭の直命で動いていたんだ。それに、山城が組織で唯一、全幅の信頼を置いている相手だからな」許の言葉を聞き、鈴華はしばし、隣で思考の海に沈んだ。彼女の横顔には、納得と、拭いきれぬ一抹の不安が、淡い影を落としていた。(もし組織ぐるみで動いているとしたら…京司さんも既に監視下に置かれていてもおかしくないわ。山城さんを直接合わせるのはリスクが大きすぎる…)「……山城さんと、直接。お話しさせていただけないかしら」鈴華の瞳に宿る決意の光に、許は呑みかけの息を止めた。数秒の長い逡巡の後、彼は重い口をゆっくりと開く。「……お前が裏切るとは思っちゃいない。だが山城と会って一体どうするつもりだ?」「……私が若頭に会いに行くわ」その一言が、静止した空気を切り裂いた。許の手から滑り落ちかけた硝子のコップが、彼の動揺を饒舌に物語る。「馬鹿なことを言うな!俺は、お前をそんな火中の栗を拾わせるために頼ったんじゃねぇ!」許の声には、焦燥と、それ以上に重い「恐怖」が滲んでいた。「それにお前の身に万が一のことがあれば、俺は…宏一さんに殺されちまうよ。冗談はやめてくれ、鈴華」「そんなに怯えないで。責めてるわけじゃないのよ。……若頭にどう通すかはこっちで考えるから、とりあえず山城さんに会わせて。傷は…酷いの?」「まあな。今は知り合いの闇医者のところで、なんとか息を吹き返して療養中だよ」納得のいかない様子ながらも、許は渋々山城の
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山城と鈴華

下町の湿った空気を切り裂くように、許と鈴華は古びた雑居ビルの群れへと足を踏み入れた。そこは、看板の類が一切削ぎ落とされた無機質なコンクリートの壁。唯一、剥げかかった壁に貼り付いた求人広告だけが、生々しい中国語の筆致で何事かを叫んでいる。重い扉を抜けると、外界の喧騒は嘘のように消え失せた。静寂が支配する吹き抜けに、鈴華の打つヒールの音だけが、まるで冷徹なメトロノームのように鋭く、高く、孤独に響き渡っていた。四階の突き当たり、澱んだ空気の底にある扉を、許の拳が激しく打ち据えた。「老师!你在这里吧?是我(先生!居るんだろう?俺だ)」荒々しい中国語が静かな廊下の壁を震わせ、波紋のように広がっていく。しばしの死したような沈黙。やがて、拒絶を諦めたかのように、扉が音もなくその口を開いた。開いた隙間から、無精髭を蓄えた初老の男が顔を覗かせた。その吐息には、古びた酒の匂いがまとわりついている。「你吗……那个不肯死的家伙,还是那么坚强地呼吸着(お前か……。あのくたばり損ないなら、しぶとく息を繋いでるよ)」男は二人を室内の闇へと招き入れると、外の世界を拒絶するように執拗に周囲を確かめ、重々しい金属音を立てて再び錠を下ろした。「おう相棒! まだ死神に見放されているようだな」許の快活な声が、静まり返った病室の空気を震わせた。横たわる山城の姿は痛々しい。雪のような包帯と、重々しいギブス。這い回る管の群れが、彼の命の拍動を機械的に刻んでいる。「……勝手に弔うな。それより許、その連れは?」首を動かす自由さえ奪われた山城は、しかしその視線だけを動かし、影のように寄り添う鈴華を捉えた。「はじめまして、山城補佐。六穣会に籍を置いています、槇村鈴華です」その名前が耳に届いた瞬間、感覚を失っていた山城の指先が、痙攣するように床を叩いた。断線したはずの神経が、無理やり電気信号を通そうとして火花を散らす。「六穣会……槇村……。じゃあ、あんたが、槇村会長の……」「動かないで。身分を明かしたのは、あなたに隠し事をしたくないからです。今はただの、許さんの友人としてここにいます」彼女の声には、拒絶を許さない独特の静けさが宿っていた。「事情を話してくれませんか。私が力になれる部分は、少なくないはずです」山城は苦虫を噛み潰したような顔で、重苦しい沈黙
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許の後悔

鈴華のまっすぐな視線の奥に、京司という男と積み上げてきた、誰にも踏み込めない絆を見た。山城はその揺るぎない光に圧されるようにして、一度視線を落とした。部屋を支配する重苦しい沈黙。壁の時計が刻む音さえもが、今の彼にはひどく残酷な催促に聞こえた。やがて山城は、喉の奥に固まった言葉を絞り出すようにして口を開いた。「許……悪いが、鈴華さんと二人だけで話をさせてくれ」許は何も言わなかった。山城の声色に含まれた、後戻りのできない覚悟を察したのだろう。彼は背を向けたまま、ひらひらと一度だけ手を振ると、静かにドアを閉めて去っていった。その荒廃した空間を“病院”と呼ぶには、あまりに不釣り合いな空間だった。湿った沈黙の漂う待合室で、許は骨董品じみた椅子の軋みに身を預け、安煙草の紫煙を吐き出している。「ここが禁煙だという言葉は、貴様の耳を素通りして消えるのか?」奥から現れた医者は、手入れの行き届かない無精髭をいまいましげに撫でつけ、濁った眼光で彼を射抜いた。しかし、許は薄汚れ、変色した天井を見上げたまま、鼻で笑って応える。「へっ、笑わせるな。命のやり取りを値切るような闇医者の門を叩く連中が、今更毒煙ごときに気にするかよ」吐き捨てられた言葉は、肺から漏れ出た灰色の煙とともに淀んだ空気の中へ溶けていく。彼は挑発するように、さらに深く、指先の火種を燃え上がらせた。「鈴華を頼っちまったのは、間違いだったかもしれない……」許の胸を去来したのは、苦い後悔だった。鈴華という女は、己の身を削ってでも他者の重荷を独りで引き受けてしまう、危ういほどの潔癖さを持っている。それを知りながら、裏社会という濁流に身を置く知己が他にいないという身勝手な理屈で、彼女をこの深淵へと誘い入れてしまった。自嘲の念が、じわりと毒のように腹の底に広がる。差し伸べたはずの手が、彼女を泥濘へと引きずり込む共犯者の手に見えて仕方がなかった。許は、己の無力さと狡猾さが綯い交ぜになったその感情に、激しい嫌悪を覚えていた。山城の病室から鈴華が姿を現した瞬間、許は弾かれたように立ち上がった。その双眸に宿る焦燥をなだめるように、鈴華は静謐な声を響かせる。「山城さんのことは、もう案じなくていいわ。九条組との橋渡しは、私が引き受けるから」「……あいつは、大丈夫なのか」許
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京都へ

ダークブルーの闇を身に纏ったかのような、愛車の重厚なセダンへと手をかけた鈴華。その背を追うように、許の切迫した声が静寂を切り裂いた。「鈴華! どこへ行くつもりだ? まさか……独りで京都へ乗り込もうというのか!」その悲鳴に近い問いかけを、彼女は柔らかな沈黙で受け止めた。振り返った鈴華の唇には、春の夜風に揺れる花びらのような、淡く、それでいてどこか悟りすました微笑がたたえられている。それは肯定でも否定でもなく、ただ運命を受け入れた者だけが宿し得る、静謐なまでの光を放っていた。「そんなに心配しないで。これでも私、三合会の『紅棍』を張ってたんだから。忘れたわけじゃないでしょ?」※紅棍は、香港の犯罪組織三合会において、武闘派の実戦部隊。鈴華の声音には、隠しきれない鋭利な自信が混じっていた。許は言葉を詰まらせる。「知ってるさ。その辺のゴロツキじゃ、お前の足元にも及ばないことくらい。……けどな」許の湿った言葉を振り切るように、ドアが硬質な音を立てて閉まる。直後、アスファルトを震わせてエンジンの咆哮が響いた。鈴華を乗せた車は、拒絶するように滑り出していった。「リンファ!!」背後に置き去りにした許の絶叫は、形を失った空虚な残響となって、無人の舗装路に吸い込まれていく。一方で、鈴華の車内は、静寂に支配されていた。ステアリングを握り締める指先は白く強張り、アクセルを深く踏み込む足先には、断ち切れない執着を振り払うかのような力がこもる。逃れるように速度を上げた機械の塊は、古都・京都を目指して滑らかに、しかし冷徹に遠ざかっていった。 一方で京司の視界は、厚い雲に覆われていた。消えた山城、雲を掴むような薬物の捜査。そこに自身の自由を奪う結婚という名の現実が、容赦なく突き刺さる。手がかりは枯渇し、逃げ道は断たれた。世界は彼に対して、完璧なまでの沈黙を貫いていた。出口のない迷宮で、彼はただ己の無力さを噛み締めるしかなかった。 婚約者である梨花との会食。シェフが心血を注いだはずの極彩色なフレンチも、今の京司にとっては、ただ無機質な砂を噛み砕く作業に等しかった。皿の上に横たわる贅を尽くした食材は、彼の舌を通り過ぎるだけの無意味な記号と化し、食事という行為は、ただ生命を繋ぐための単調で空虚な反復運動に成り下がっていた。
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虚無

洗練されたフレンチの門を後にした二人の間には、埋めようのない温度差が横たわっていた。梨花は、まるで当然の権利を行使するかのように、しどけなく京司の腕に自らのそれを絡ませた。「まあまあの店だったわね」彼女の言葉は、充足感に甘くふやけ、夜の空気に溶けていく。弾むような足取り、艶然とした横顔。そこには、選ばれた者だけが享受できる女の傲慢なまでの上機嫌があった。しかし、隣を歩く京司の胸中に去来していたのは、静かな、それでいて逃れがたい拒絶の情であった。鼻腔を執拗に衝く、重苦しく甘ったるい香水の残香。そして、衣服越しに伝わってくる梨花の湿り気を帯びた体温と、絡みつく蔦のような腕の感触。それらすべてが、今の彼には生理的な嫌悪を呼び起こす毒素でしかなかった。親密さを演じるためのその接触が深まれば深まるほど、彼の精神は逆に頑ななまでに透明な壁を築き、彼女から遠ざかろうと身を固くしていた。京司の脳裏に、不意に鈴華の残り香が立ち上がった。それは人工的な香水などではなく、雨上がりの森で若葉が放つ、新緑の芳香に似ていた。肺の最奥まで満たしたくなるような、生命の純粋さを形にしたようなその香りは、彼の意識を甘やかな追憶へと引きずり込む。 だが、色鮮やかなネオンが無慈悲に彼を呼び戻す。思考を支配していた幻影が霧散し、視界が今の景色へと収束していく。京司は、今なお彼女の気配を追い求めている己の執着を自嘲するように、乾いた笑みをこぼした。「ねえ……これから京司さんのお部屋にお邪魔してもいいかしら」梨花の瞳は、熱を孕んだ湿り気を帯び、逃れがたい執着を湛えて京司を射すくめていた。その視線は、まるで彼の輪郭をなぞり、皮膚の奥へと侵食してゆくような重苦しさを伴っている。京司は、その粘りつくような熱視線を断ち切るべく、無造作に煙草を指に挟んだ。カチリ、と硬質な音を立てて灯された小さな火影が、二人の間に漂う不穏な沈黙を束の間弾き飛ばす。彼は深く肺に煙を吸い込み、境界線を引くように紫煙を吐き出した。揺らめく煙の帳が、梨花の湿った眼差しを遮る薄絹となり、彼を再び孤独な静寂の中へと引き戻していく。「すまんが、これから事務所に戻らなあかんのや」京司は梨花へ視線を向けることすらせず、まるで事務書類を読み上げるような無機質な声を落とした。
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牽制

事務所の目前、京司の視界に入ってきたのは、見覚えのない大阪ナンバーの一台であった。アスファルトに影を落とし、異質な静寂を纏って佇むその鉄塊に、彼は直感的な危うさを嗅ぎ取る。「……何や、あの車」低く漏れた独白と同時に、全身の筋肉が瞬時に硬化し、防衛本能が鋭い警告を鳴らした。張り詰めた空気の中、均衡を破るように運転席のドアが緩やかに、しかし拒絶しがたい重みを持って開かれる。その隙間から、一人の女性がしなやかな輪郭を現した。「……鈴華っ! 君、なんで京都におるんや」京司の言葉が、凍てついた空気を切り裂く。彼の視線が鋭い矢となって自分へと向けられた瞬間、鈴華の時は止まった。しかし、その視線の先に映り込んだのは、京司の傍らにしなだれかかる梨花の姿。二人の残像が、網膜に焼き付いて離れない。心臓を直に抉られるような鋭利な痛みが走り、膝は頼りなく震え、指先からは体温が失われていく。己の内で何かが崩落していく音を、鈴華は確かに聞いた。だが、彼女は逃げなかった。込み上げる動揺を力任せにねじ伏せるように、薄い唇を強く噛みしめる。滲む鉄の味を覚悟に変え、震える足で一歩、また一歩と、執着と意地が混ざり合う足取りで京司のもとへと歩み寄った。(――しっかりしなきゃ。私情を挟んでいる場合ではないでしょう?)胸中に渦巻く動揺を鋼の意志でねじ伏せ、鈴華は京司の前に歩み出た。しなやかな腰を折り、深く、恭しく頭を垂れる。その所作は、張り詰めた糸のような緊張感を孕んでいた。「烏丸の若頭。突然の訪問の非礼、何卒ご容赦ください。至急、耳に入れておきたい義がございます。……しばし、お時間を頂けないでしょうか」潤んだ瞳を隠し、凛とした声を絞り出す。だが、京司がその重い唇を開くより早く、傍らの梨花が鋭い言葉の礫を放った。「プライベートな刻を邪魔立てしているのが、貴女には見えないのかしら?」梨花の視線は、冷徹な氷刃となって鈴華を射抜く。「京司さんに御用があるのなら、しかるべき場所を通しなさい。ここは、貴女のような者が土足で踏み込んでいい領域ではないわ」その眼差しに宿るのは、抜き身の刀のような剥き出しの敵意。梨花の瞳は、鈴華を射抜く氷晶のように冷徹であった。京司の腕に縋りついていた彼女の指先は、温もりを拒絶するように無慈悲に振り払われる。
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密謀

「いい加減にせぇっ」京司の喉から放たれた言葉は、研ぎ澄まされた刃のように鋭く、そして濡れた鉄のように重くその場に突き刺さった。「組の問題や。お前が口出す事やない。わきまえや」「で、でも……」梨花の唇が小さく震える。突如として目の前に現れた鈴華という存在が、彼女の足下を底なしの沼のように揺るがしていた。しかし、京司の冷徹な眼差しのなかに、もはや狼狽える梨花の姿は映っていない。彼の視線はただ、まっすぐに鈴華だけを射抜いていた。「わかった。なら話、聞こか」京司の声音から、ふっと険が消える。彼は鈴華の華奢な背にそっと掌を添えた。その手のひらの熱を伝えるようにして、二人は静かに歩みを進め始める。残された梨花の立ち尽くす影を、冷ややかな夜気が包み込んでいった。「ごめんなさい。邪魔をするつもりは……」「……君には俺が楽しげに時を潰しているように、見えたんか?」低く、温度のない声が返ってきた。鈴華は喉の奥が凍りついたように言葉を失う。京司はその気まずい沈黙を、吐き出す煙のように無造作に振り払う。「それで、話というのは?」「……山城若頭補佐の件です」その名が告げられた瞬間、辺りの空気が目に見えて変わった。「なんで君が山城のことを……」問い詰める京司の視線を真っ向から受け止め、鈴華は声を潜めて言った。「山城補佐は今、六穣会のシマに潜伏しています。裏の医者の元です」「……生きてたか、山城」京司の口から、張り詰めていた糸が切れたような安堵の溜息が漏れる。だが、すぐに怪訝そうに眉をひそめた。「だが、なんであいつは、わざわざ大阪の地に潜伏しとるんや?」「……九条組から、命を狙われているからです」鈴華のその一言が、室内の空気を一瞬で氷結させた。京司の顔からさっきまでの安堵が綺麗に消え失せ、ナイフのように鋭く、険しい表情へと一変した。「そんな事あるはずないやろっ!」京司の怒号が、狭い部屋の空気を震わせた。彼は鈴華の華奢な肩を、骨がきしむほど強く掴み、その顔を覗き込む。狂気すら孕んだその瞳は、何か縋るべき嘘を求めているようでもあった。しかし、対峙する鈴華の瞳には、冷徹なまでの静寂が宿っていた。取り乱す男を前に、彼女はただ、残酷なまでに無色透明な真実だけを口にする。「事実です。……連絡を断ったのも、組の人間の中で信用に
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吐露

じわり、と京司の額を伝う汗が、室内の重苦しい空気を物語っていた。鈴華の言葉を疑うわけではない。ただ、目の前の現実があまりに早く回りすぎて、思考の歯車が追いつかないのだ。「……山城の身は、本当に安全なんか?」「六穣会の支配下の、中国系の闇医者です。九条組の威光を以てしても、そう簡単には抉り出せぬ場所です」「そうか……。だが、なぜ君の耳にそんな話が届く。山城と面識があるんか?」「山城補佐の古参の友人が、私の知る人物でして。私の耳まで届いたに過ぎません」山城の身の安全の知らせに、京司の胸を焦がしていた焦燥が、凪いだ海のように引いていくのを感じた。彼は胸ポケットから手慣れた手つきで煙草を抜き出し、ライターの火を滑らせる。小さな焔が彼の顔に陰影を深く刻み、紫煙が夜の闇へと溶けていった。煙の向こうを見つめながら、京司は低く、吐き出すように呟く。「俺や山城の耳には絶対に入れられんような歪みが、九条組の底で始まりつつある、いうわけか……」立ち上る紫煙の淡い揺らめきに、京司はハッと我に返った。「すまん。この車、禁煙やったか?」車内に満ちゆく不調法な煙をあわてて遮ろうとする彼に、「構いませんよ」鈴華が応える。その唇から零れたのは、凍てついた空気を溶かすような、フッと柔らかい微笑みだった。いつから、彼女のこんな表情を見ていなかっただろう。久方ぶりに向けられたその温もりに、限界まで張り詰め、凝り固まっていた京司の神経が、ほどけるように和らいでいく。彼はもう一度煙草を深く吸い込み、肺を満たす紫煙の苦味とともに、胸に染み渡る確かな心地よさを噛み締めていた。 紫煙が車内の澱んだ空気に溶けては消え、沈黙だけが重く二人を支配していた。その張り詰めた糸を断ち切ったのは、京司の唇から零れ落ちた、自嘲を孕んだ呟きだった。「あんなひどい別れ方したんに、わざわざ知らせに赴いてくれたんかいな」鈴華の唇から、かすかな溜息とともに苦い笑みがこぼれ落ちた。フロントガラスの向こう、遠ざかる夜景を見つめたまま、彼女はぽつりと呟く。「……貴方の身に危険が及ぶかもしれない。そう思った瞬間、理屈よりも先に、身体が動いていました。気がつけば…京都へ向けて車を走らせていたんです」鈴華の紡ぐ言葉は、まるで肉体を冷たく締め上げる鎖のように、京司の胸の奥深
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黒幕

車内を支配する重苦しい沈黙を切り裂くように、京司の唇から言葉が零れ落ちた。地を這うような低い声音が、狭い空間にじっとりと染み込んでいく。「……山城を襲った犯人。わかっとるんやろ?」  鈴華との密会から、わずか数時間後のことである。京司の胸中でトグロを巻く怒りは、容赦なくその歩を速めさせ、彼を組長宅へと突き動かしていた。そこに聳え立つのは、外界を峻拒するように高く、重厚な門扉に閉ざされた邸宅である。昏い情念を宿した指先で、京司は門前のインターフォンを鋭く押し込んだ。 「……カシラ!? どうされたんですか、一体。こんな時間に、前触れもなしに」スピーカーから漏れ出たのは、組長の身辺を預かる若衆の、動転を隠せない声だった。無機質な機械越しでさえ、彼の困惑と、京司から放たれるただならぬ気配への戦慄が、ありありと伝わってきた。 「オヤジに至急話があるんや。取り次いでくれへんか」低く地を這うような京司の声には、一切の反論を許さない絶対的な威圧が宿っていた。「し、少々お待ちください……!」若衆の怯えを含んだ上擦った声が途切れると、しばしの沈黙が邸宅を支配した。やがて、その静寂を切り裂くように、鋼製の重々しいシャッターが轟然たる音を立ててせり上がっていく。まるで巨大な怪物がその顎を開くかのように、暗澹とした空間が姿を現し、京司の身体を深く、静かに呑み込んでいった。静寂が支配する客間の和室に、その厳かな空気を踏みにじるような荒々しい足音が、一歩、また一歩と近づいてくる。障子が無造作に引き開けられ、不機嫌の影を露骨に顔に張り付かせた組長・宇治宮が、ぬうっと姿を現した。「なんや京司。こんな夜更けに、無断で押し入るようにやってくるとは、一体どういう風の吹き回しや」迎え撃つ京司は、ただ平伏し、低く、しかし芯のある声を畳に染み込ませるように返した。「夜分に突如として押し掛けました非礼、どうかお許しください。ですが、どうしてもオヤジの口から直接、一刻も早く確かめねばならへん義理が生じました。何卒、お耳をお貸しいただけまへんでしょうか」「なんや? あらたまって」宇治宮は吐き捨てるように言うと、乱暴に座布団へと巨躯を沈めた。懐から取り出した煙草に火を点けると、ちろちろと揺れる焔の向こうから、怪訝そうな、あるいは品定
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