LOGIN若き極道の矜持を貫く京司。香港の闇に育てられた鈴華。 決して交わるはずのなかった二人の人生が、 古都、京都の裏社会で激しく衝突する。 互いの傷を埋めるように惹かれ合う二人を待つのは、過酷な決断だった。 逃れられない過去を抱え、彼らが最後に選ぶ「居場所」とは――。
View More石畳を踏むたび、昼間の喧騒がすっと解けていき、
まるで時間そのものが薄い霧となって漂い始める。
狭い路地では、灯は風に吹かれ古びた壁に映り淡い光を揺らす。
人影はないのに、どこかで誰かが騒いているような、
そんな気配だけが確かに残っている。
繁華街の路地裏。表通りの華やかさが背中に遠のくと、京都の夜はまるで別の顔を見せ始める。
光と影がせめぎ合う細い峡谷の様子を見せ、
ネオンのにじむ光がアスファルトに落ち、
その上を、酔客の笑い声がふわりと漂っていく。
店の暖簾が風に揺れるたび、中から漏れる湯気と出汁の香りが、
夜の空気に小さな温度を灯す。壁に貼られた古びたポスター、閉店したままのスナックの看板、
頭上を複雑に這い回る電線と、古びた木造家屋の軒先。猫がひっそりと横切る影。
つき当たりにポツンと灯る、名前も読めないほど年季の入った小さな看板。
赤紫や深緑の怪しい光を放つその一角だけが、異界への入り口のように口を開けている。
ふと振り返れば、表通りのネオンが遠くに滲み、その光が路地裏に立つ女性をぼんやりと照らしていた。
薄暗い路地裏の湿り気を帯びた空気に、彼女の存在は静かに溶け込んでいた。
まるで数十年前からそこに置かれたままの古い街灯のようにあるいは壁を這う蔦の一部であるかのように、
彼女がそこにいることに一切の「唐突さ」はなかった。
表情を読み取れないその端正な顔は、ただぼんやりと圧迫されたわずかな狭間から見える欠けた月を眺めていた。
唐突に、街灯の光を撥ねつけるような漆黒のボディの高級車が、 音もなく彼女の目前に滑り込む。フルスモークのウィンドウは中の様子を一切伺わせず、ただ路肩に佇む
彼女のすぐ側に吸い込まれるように停車した。「君なんでこない危ないところに一人でおるん?」
車の窓が静かに開き車内の男性が彼女に声をかける。
黒いビジネススーツを完璧に着こなした、隙のない佇まいの男性。
艶のある黒髪は丁寧にバックへ流されているが、数筋の毛束が額に垂れ、
端正な顔立ちに野性味を添えている。鋭い眼差しで目前の女性を虚無的に見つめる男性。
その男は堅気の人間からは遠い存在のように感じた。
「どこ行くんや?送っていくさかい車に乗りぃ」
感情のない言葉で彼女にそう伝え無造作に助手席のドアを乱暴に開け放った。
早緑がどれほど言葉を尽くして否定しようとも、鈴華の心に深く根を下ろした憂いの影を払うことは叶わなかった。香港の三合会から、あたかも“荷”を捌くかのように海を渡らされた日々。ようやく大阪という地に辿り着き、微かな安息の予感に身を寄せようとしたのも束の間、奈良への“預かり”という名の追放が、その淡い期待を無惨に打ち砕いた。今の彼女を支配しているのは、行き場を失った絶望と、逃れられぬ流転の定めに打ちひしがれた深い喪失感だけだった。---二人を迎え入れた奈良吉野の秋は、燃えるような琥珀と朱色に塗り替えられていた。宿場の面影を色濃く残す吉野の街並みは、秋の陽光を受けて、しっとりと落ち着いた木肌の輝きを放っている。長年風雨に晒されて黒ずんだ格子戸や、朱色が微かに剥げかけた古い看板。軒先に吊るされた干し柿や、道端に置かれた木彫りの仏像…どれも鈴華が初めて目にするものばかりだった。石畳の隙間には、赤く色づいた桜の落ち葉が数枚、模様を描くように張り付いている。街並みを少し抜けると、吉野川のせせらぎの響きが耳に届き始めた。「なんて透き通って綺麗な川…」鈴華が息を呑むように呟いた。「道頓堀川とは大違いやな」視線が重なり、どちらからともなく二人は笑いあった。細い路地の奥、時の流れから取り残されたかのような空間に、その屋敷は佇んでいた。墨色に沈む瓦の連なりと、鮮やかな白磁の壁。歴史の重みを湛えたその門構えに辿り着いた早緑と鈴華の視線の先には、“神野”と記された古びた表札が、静かに家系の誇りを掲げていた。「えらい広いお屋敷やなぁ…」思わずこぼれた感嘆とともに、早緑は視線を屋敷の奥へと滑らせた。庭の木々は力強く、散り急いだ紅葉が血の色のような鮮やかさで地面を覆い尽くしている。カサ、カサ、と規則正しく響く音の主は、風景に溶け込むほど小さな老人だった。竹ぼうきで丁寧に掃き集めるその横顔に向かって、早緑は挨拶を投げかけた。
国道308号線——。酷道とも称されるその険路を、鈴華と早緑を乗せた車は奈良へ向けて這うように進んでいた。日本屈指の“ 酷道”として知られるその道は、二人の間に流れる空気そのもののように、ひどく険しく、余裕を許さない。いつもなら車内を快活に流れる曲に合わせて鼻歌を歌うはずの早緑も、今日は固く口を結び、前方の一点を見据えたままハンドルを握っている。助手席の鈴華は、窓の外を流れる暗い木々を眺めるでもなく、ただ膝の上で指を絡めていた。早緑は時折、意識の端で鈴華の様子を窺うが、沈黙を破るための適切な語彙が見つからない。喉元まで出かかった言葉は、エンジンの苦しげな回転音に掻き消されるようにして、何度も飲み込まれていった。「お嬢、知ってますか?奈良には“大仏プリン”ちゅうのがあるんやて」「ふふっ。知らないわ。面白そうな名前ね」「瓶の蓋に大仏さんが書いてあるらしいですわ。奈良に着いたら、ぜひ食べてみてな」「奈良へ着いたら…ね」その言葉が耳をかすめると、鈴華の肩がわずかに震えた。彼女は答えを濁すように、「……そうね」とだけ呟く。車窓の向こう、遠ざかる大阪の街並みは午後の光に溶け、まるでおぼろげな記憶の断片のようだ。彼女は眩しさを堪えるように、あるいは溢れそうになる何かを閉じ込めるように、細めた瞳で過ぎ去る大阪の景色をいつまでも追い続けていた。「“預かり”言うても、そんなに長い期間ちゃいますよ。きっと」「…私がいなくなったら……お兄ぃをお願いね。早緑さん」「それは大変なお願いやなぁ…あの人、お嬢おらんかったら機嫌めっちゃ悪なんねん」視線が絡み合い、どちらからともなく微かな笑いが零れる。綻んだ彼女の表情を、早緑は祈るような心地で見つめていた。「私……捨てられちゃったのかな」鈴華がこぼしたその呟きは、ひどく場違いなほどに頼りなく、密室の空気に触れた瞬間に溶けて消えそうなほど儚いものだった。「……っ!」その声が鼓膜を震わせた刹那、早緑の身体が目に見えて硬直する。ハンドルを握る指先が白く浮き上がるほどに強張り、車体がわずかに震えた。前方を見据えていた視線を強引に引き剥がし、隣の座席へと身体ごと向き直る。「そんなこと、絶対にあれへんわ!」車内の静寂を、剥き出しの怒号が叩き割った。普段の彼からは想像もつかないほど、低く、切実な叫び。
早緑の連絡を契機として、槇村は事務的に沙汰を下した。六穣会として九条組と同額の賠償、そして宏一にもまた、京司と同じ空白の時間——“謹慎”が割り当てられた。しかし、宏一の神経を逆撫でしたのは、奪われた自由への不満ではない。彼を絶望にも似た焦燥へ突き落としたのは、鈴華という存在が、己の手の届かぬ場所へと移らんとする残酷な計らいであった。---海を越えて届く槇村の声は、デジタル信号特有の冷たさを帯びていた。受話器の向こう側、異国の乾いた風の音が微かに混じる。「鈴華、君に落ち度はない。それは、僕もみんなも分かってる。でも、少し大阪を離れた方がいい。宏一のやつ、完全に熱くなってる。あいつの頭を冷やすには、君の姿が視界に入らない場所へ行くのが一番なんだ」そう告げられた彼女は、大阪の喧騒を背に奈良の地へと送られることとなった。槇村と古くから縁のある、奈良の神野一家。露天商の矜持を継ぐその的屋系組織に、彼女は束の間の“預かり身”として身を寄せることになる。※的屋…縁日や祭りなどで露店を営む商人「……分かりました。そのように」喉の奥で、苦い鉄の味がした。「……オヤジ。結局、泥を被ることもできず……お役に立てませんでした。申し訳ありません」「鈴華のせいじゃないよ。…あまり、自分を責めないで」槇村の声は、驚くほど静かだった。それは、幾多の抗争を勝ち抜き、組織の頂点に君臨する男が放つ“威圧”とは無縁のものだった。喉の奥に鋭い棘を隠したような普段の喋り方は影を潜め、今はただ、ひび割れた心を繋ぎ止めようとする一人の父親の、頼りなくも温かい響きだけがそこにある。組織を束ねる重責も、血塗られた過去も、その瞬間だけはどこか遠い世界の出来事のように思えた。---古都・奈良の土を踏みしめ、幾多の年月。神野一家は、祭礼の賑わいに紛れて露店を連ねる、古風な“的屋”の系譜を継ぐ組織である。その歩みは、修羅の道に血を流す抗争ではない。彼らが守ってきたのは、刃の鋭さではなく、軒を並べる商売人の矜持と、伝統という名の見えない根。静謐な古都の空気に溶け込むように、その勢力はしなやかに、かつ深く大地に張られている。組織の頂点に立つ戸塚幸次郎と、伝説的な足跡を残す槇村。親子ほども歳は離れているが、互いの腹の底までを知り尽くした間柄だ。古い馴染みという言葉だけ
事務所の静寂は、乱暴に叩きつけられたドアの衝撃音によって無惨に砕かれた。戻ってきた槇村宏一の背中には、隠しきれない苛立ちがどす黒い磁場のように張り付いている。彼は逃げ場のない憤りをドアへと叩きつける。乾いた音を立てて倒れ、床を滑る椅子――その無機質な音さえも、今の彼の神経を逆撫でする。「ど、どないしたんです? カシラ⁉」凍りついた空気を切り裂くように、早緑が驚愕の表情で声を上げた。その瞳には、荒れ狂う嵐を間近に見た時のような、本能的な畏怖が浮かんでいた。「どうもこうもねぇ! あの下衆のせいで、箸尾の老いぼれに特大の貸しを作らされちまった!」宏一の背を追うようにして、鈴華が事務所の敷居を跨いだ。「お嬢……一体、何がありましたんや?」「早緑さん…」その声に、鈴華は迷うように視線を泳がせる。喉元まで出かかった言葉を飲み込み、逡巡の末、彼女はあの場での騒動を静かに吐露し始めた。鈴華の言葉を聞いた瞬間、早緑の顔からすうっと血の気が引いていった。見る間に青ざめていくその表情には、隠しようのない動揺が浮かんでいる。「……よりによって、義理事の場でなんちゅうことを……」早緑はこめかみを押さえ、逃げ場のない現実に頭を抱えた。奔放な宏一が撒き散らした不始末を片付けるのは、もはや彼にとって日常の一部だ。だが、今回ばかりは話が違った。若頭補佐という今の彼の立場では、この事態を収拾するにはあまりに荷が重すぎた。「先にアヤつけてきたのは、あいつの方なんだよ!」※アヤをつける…因縁をつける宏一の吐き捨てるような怒声が、重苦しく淀んだ空気を切り裂いた。「……あいつ?」困惑する早緑の耳元で、鈴華が氷のような事実をささやく。その男——京司の正体は、泣く子も黙る九条組の若頭であると。その瞬間、早緑の顔からさらに血の気が引いた。もともと蒼白だった顔色は、いまや命の灯火を失った石膏像のように白磁化し、ただならぬ戦慄を物語っている。「あかん……。すぐ、会長に連絡入れんと……」糸の切れた人形のように足取りを乱しながら、早緑は這々の体で部屋を後にした。